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夏の雪 (3)

夏の雪 目次・全章の概要
夏の雪 序章・第1章(前半)


夏の雪   第1章(後半) セヤドー・ウジョティカ

本当に多くのつまらない企みが世の中あります。

「我々の崇高な洞察が、ばかげたことのように、当然なのだが、聴こえざるを得ない。そして、時にそれは犯罪のようにさえ思われてしまう。それらのために備えられた、定められた人々が聞くのでなければ」(ニーチェ)

 体とこころの状態をよくしておくことはとても重要です。車やラジオをチューニングしておくように。いい状態の時にのみ、感受性するどく、波長をちゃんと合わせられるし、振動も、信号も分かる。

 だから、ものがどのように我々の体と精神に作用するかを知っておくことはとても重要です。食べもの、天気、運動、話すこと、読書、感覚的な楽しみ。すべてが身体と精神に影響を及ぼします。あと、瞑想も。瞑想はマインドをより敏感にしてくれます。

 マインドは過去や未来に住んでいるのが好きなのです。それは現在というものに申し訳程度にたまに訪れるのです。で、留まっていようとはしない。いつも気晴らしを探しています。テレビを見ること、ラジオやカセットを聴くこと、食べること、話すこと、タバコを吸うこと、読書(そう、それを忘れていた…読書)、などなど。我々は本当にマインドフルでありたいのか。そうねー、まぁ、そう。でもねぇ…、ハハハ。疑いなく、われわれは皮相的です。

 我々は痛みを癒すときに、マインドフルであるという手段を使うのです。ただ、人生がつらくて痛くてどうしようもないというときにのみ、静かな場所にいって、物思いにふける。そうでなければ、我々は気晴らしがあればそれで満足なのだから。

 怒りから完全に自由な人などいません。いつも十分な理由があって、怒りというのは来るものです。できるのは、ただそこに怒りがあるということを見ることです。それを観ることができるのなら、人々の悩みというのが分かるでしょう。

 心が混乱したときに、どんなに自分を傷つけているか観てみなさい。どんなことも怒るに足りない。マインドフルでいなさい。怒りをただ怒りとして見るのです。「私の怒り」だとか見るのではなく。

 怒ってはいけない、などと言わないでください。現実的であることがとても重要です。我々は理想を持ちますが、その理想には決して到達することはないでしょう。だからといって、理想をもつべきではないという意味ではなくて、自分の度量といったものを勘定に入れるべきだということ。だから、自分の心に上がり下がりがあったとしても、自信をなくすことはないのです。できるだけマインドフルであるようにしなさい。ベストを尽くして。

 私は間違い(完璧でなかったこと)を犯したということを悪い(恥ずかしい)と思ったものです。ある場合には、それは他の人々が私に投影した非現実的な願いでありました。私はそうと知らずに、その役割にすっぽり嵌ってしまっていました。それは不可能であり、危険なことでさえあります。それにより、私は自分が不適応者だと感じました。でも今は自分自身であることを学びました。

 時にはきつい時もあるだろうけど、そんな時でも、マインドフルであってください。マインドフルであるのは不可能だと思うとき、その時が、マインドフルであることが一番重要な時なのです。
 休みがないときが、一番瞑想するには重要なときなのです。自分の精神がおかしくなっているから、瞑想するのなんてムリだ、と思うとき--それがもっとも瞑想するのに大切な時間なのです。

 マハーサティパッターナ・スッタ(『大念住経』)で、仏陀は言いました。「ヴィッキタン・ヴァー・チッタン。ヴィキッタン・チッタン・パジャーナーティ」(心に休みがないとき、休みがないと知る。)あなたは、それ以上は求められていないのです。

 仏陀は、あなたが貪欲や怒りの状態であるときに、罪深く感じなさいとは言いませんでした。あなたは何が起こっているか知っているのです。自分をあざむかないでください。それがあなたにできる全てです。なので、ただマインドフルでいてください、自分を叱らないように。受け入れることと正直であることはとても大切なことです。

 マインドがどんな状態にあるか知るだけで十分なのです。もし、それ以上、そのことについて何かしようとするなら、もっとイライラする結果に終わるでしょう。そこには、コントロールなどないのです。そしてそれがアナッターの意味することです。

「サラーガン・ヴァー・チッタン。サラーガン・チッタンティ・パジャーナーティ」(もし、心が貪欲に囚われたら、貪欲に囚われていると知ること)…。パジャーナーティ(はっきりと知ること)、それがすべてです。それ以上はありません。毎日、多くの人々と接する人にとって、いつも穏やかで平和なマインドでいるというのは不可能です

 ダンマについての本を読んだり、テープを聴くと、自分のことを罪深く感じてしまうようになるのは、分かります。理想が高すぎるのです。そこには届きません。誰かを傷つけない限り、感覚的な楽しみに罪を感じる必要はありません。感覚的な楽しみとは何なのかを、見るようにしてください。

 「スカン・ヴァー・ヴェーダナン・ヴェーダヤマーノー・スカン・ヴェーダナン・ヴェーダヤーミーイ・パジャーナーティ」(好ましい感覚を楽しんでいるとき、好ましい感覚を楽しんでいると知ること)。どこに罪の入る込む余地がありますか。

 われわれが生活を楽しんでいるときに、誰が罪深く感じるようにと教えるのでしょう。そんなことはもう沢山です! マインドフルであることが、自分にとって一番良いことだと知っていながらも、気晴らしをしょっちゅう求めてしまうのです。われわれは刺激を欲しがるものなのです。
 
 あなたのマインドを見て、それが何をしているのか見てみなさい。自分のマインドを理解するなら、問題はほとんど解消してしまうでしょう。というのはほとんどの問題は、あなたのマインドによって作られているものだから。その問題は、あなたのマインドの外側では、リアルではないのです。

 あなたができる最も良いことは、認識すること、気付いていること、あなたのマインドがどんな状態にあるか、知っていることです。自分を非難するのではなく、正当化することもせずに。もっと違っていたらいいなとか、逃げ出したりするのではなくて。罪を感じるのでもなく、恥ずかしいとも思わずに。

 あなたのマインドをただ「マインド」だと見ること。「私のマインド」じゃないんです。それが「よい」ものでも「悪い」ものでも関係なく、アナッター(無我)なのです。それが起こるのは起こるにふさわしい条件が整えられたからであり、それ自身が起きてきたのではないのです。存在ではないのです、私ではないのです、私のものでもないのです。キレーサ(煩悩)というのはとても興味深いものです。

 期待というのは、失望の源であります。それ自身の本質として、マインドを落ち着かなくさえします。

 時々、私が思うのは、穏やかさ、平和、そして明るくしている、という理想が、人をもっと不満に満ちたものにしているのではないか、ということです。

 世間を離れた生活を送る人は、平穏でいることができるかも知れません(私は違いますが)。あなたが人(思慮に欠け、自己中心的な、自分を利用しようとする)と接触を持ったとたん、平穏さを保つのが難しくなります。

 穏やかでいることは、洞察を育むのに必要なことです。それは追い立てられることとは反対のことです。穏やかであることは、全然間違ったことではありません、ただ、穏やかさへの執着には気をつけて--その執着は危険ですから。穏やかさは心をクリアにします。それは心を清新にして、マインドフルであることの助けになります。

 ヨーニソ・マナシカーラ(正しい思考)は、大体、クサラ(マインドの健全な状態)の原因となります。ヨーニソ・マナシカーラなしで、クサラはありえません。アヨーニソ・マナシカーラ(正しくない思考)は、アクサラ(マインドの不健全な状態)の原因になります。

 われわれは毎日、自動的に連想を行っています、でもほとんどの人はそのことを知りません。そのいくつかは積極的なものであり、もちろん、いくつかは、消極的なものです。連想というのは、態度と非常に似通っています。

 知る対象としてもっとも重要なものは、自分自身のマインドです。

 あなたはマインドだけを直接的に経験できます。マインドがあなたの思考や、感覚や、態度、その他を含んでいます。残りのすべては推論なのです。あなたが自分の手を見て、その形と色が見えると思うことにさえも、そこには多くの段階があるのです。どうやって形と色が見えますか?形とは何ですか。そして色とは。

 ある友達が私に打ち明けてくれたのですが、彼は瞑想していて音に気付くとき、最初はそれが遠いところにあるような気がするそうです。それからもっとマインドフルになってくると、音を耳の中で経験する、耳の中の出来事だ、となります。そして、彼がさらにもっとマインドフルになってくると、音はマインドの中で起こってくるのです。マインドなしには音は有り得ないのです。

 マインドフルであることの代わりになるような良い手段はありません。君は言いました、「この実践を続けたなら自分の問題の大半が消えうせるだろうことが分かっていました」。われわれはよくいう、「もし、もし…なら」。実際にそれをしてみることから遠ざけていることは、なんなのでしょう。

 なんで、「もし」? まるで自分の問題を消し去りたくないように見えます。あるいは、そんなことができるとは本当には信じていないか。だから、「もし」といってるほうがいいんでしょうね。これは希望を残してくれますから。

 もし本当にやってみて、うまくいかなかったら、何にも希望はなくなってしまうから。なので、本気でそれに首をつっこまないほうがいいのかも。ただ、希望を持つだけで。もし本当にはしたくないんだったら、あなたはいつも、「私は…できる」と言えるでしょう。これがマインドがトリックにかけるやり方なのです。マインドは希望のない状態を感じたくないものだから、何事も真剣にやろうとしないのです。

 なぜ、我々は他人を説得するのに骨折らないといけないのでしょうか。

 私がアメリカから帰ってきたときに、多くの人々から、合衆国では仏教を信じている人は多いのか、と聞かれました。彼らは、西洋の人たちが仏陀の教えを実践しているのだと、とても喜びます。でも、彼ら自身は本当には実践していないのに。なんで、西洋の人が実践したり、仏教徒になったりすると、嬉しいのでしょうか。なんであなた方は、他の人が自分の信じているのと同じことを信じると嬉しいのでしょうか。

  人間はとてもおもしろい。
  われわれは何も確かには知らないのに、
  自分が困っていることは知っている。
  われわれは、追い立てられたりしなければ、
  答えを見つけるでしょう。

  答えを持っているという自負により、
  私はものが見えなくなってしまった(サヤドー・ウ・ジョティカ)

 あなたがやりたいことを何でもやったらよろしい。瞑想するもよし、出家するもよし、苦行するもよし。自分で何が最善か知っているでしょう。もし、敢えてなにかあなたにアドバイスするなら、こういいましょう「マインドフルであること」

 リラックスのための瞑想を実践してみること。とても簡単です。楽な姿勢で座るか、可能であれば横たわるのです。自分の全身を、額からはじめて、緊張のあるところや、鈍い痛みのあるところをチェックしていきながら、ずっと移っていきます。不快な感じに気付けば気付くほど、筋肉や緊張をリラックスさせることができ、緊張や痛みはしだいに薄らいでいきます。

 体のどの部分も例外なくやってみるのです。体の中身についても。とてもゆっくり注意深くやること。あなたの指先や足先、前面や背面についても。それを一度行なったら、もう一度やってみるのです。

 私は僧になる前に瞑想についてたくさんの本を読んできました。なので、それについてすべてのことを知っていると思っていました。僧になって1年ほど経ったころ、私は思いました。「今になってやっと瞑想がどういうものか分かった」。そして、僧になってから3年後、私は思いました。「まさに今になってやっと『本当に』瞑想がどういうものかが分かった」。こんなふうに続いていくのです。

 若いころは探検家についての本をたくさん読み、前人未踏の地というものが残されていないことに、深く失望しました。心理学の世界を見つけてからは、これが多くの人に探検されてきた荒野の世界であることを知りました。多くの人々が適切な道具も持たずに、この世界を旅して戻ってきたり、迷ったりします。私は一番良い道具を持っています--マインドフルネスという。

 敬虔に信仰する多くの人々がマインドフルネスについて、一番簡単なことさえ知らないことに、私は時々驚きます。いつどこで何をしていても、マインドフルである実践ができるという話を聞いたのは初めてのことだ、という人がいます。多くの人々が瞑想は座っているときにのみ実践するものだというように考えていました。

 そして、瞑想している間は何もしてはいけないものだと。人間関係のなかで、自分のマインドを見たくないようなときに[目をそらすために]のみ、瞑想するものだと。
[最後の一文の原文は、They think that is the only time to meditate which means they are not willing to watch their mind when they are relating to people.]

 毎日の生活の中で、多くの人々が多くの時間を座る瞑想実践に充てていますが、自分の貪欲、欲望、怒り、憎しみ、高慢、妬み、嫉妬は見ていないのです。多くの瞑想者は日常生活において、人々と交流し合う時や人と話をする時、自然に立ち上がる煩悩を正直に見ることの重要さを理解していません。

 話すときにマインドフルであることを、私は強調します--もっともマインドフルでなくなっている時だからです。大半の瞑想者は瞑想時間を決めて、瞑想します。彼らは改まった座り方をして、ある対象を選びます。息や、腹部の上がり下がり、触れていることや、感覚などの対象です。彼らは瞑想の対象の選択肢があります(最初はそれで問題ないです)。

 選択するということは、選択しない[のける exclusion]ということでもあります(何かをのけるわけです)。瞑想は包括的[inclusion]なものであるべきです。[何かをよけて選り好みするというのではなく、すべてをカバーすることだという意味に取れます。つまりは、特定の時間、ものごとを対象とするのではなく。] 私が理解にするにいたったのは、最初に自らの煩悩に気付くことを試してみるべきだということです。

 ブハーシテー・サムパジャーナカーリー・ホーティ(マインドフルであることを実践する人は、マインドフルに話す)。話すことはわれわれの生活の大きな部分です。話しているときにマインドフルであることを養うのは、とても益が多いものです。それは簡単ではありませんが、不可能でもありません。あなたが話そうとすることについてマインドフルであること。そして、話しているときには、唇が動く、声の音色や大きさ、話すことに関係することには何であろうと、マインドフルであることです。

 人生の中でもっとも痛みを伴う経験は、人間関係のなかから出てきます。そういうわけで、人と関わるときにマインドフルであることは、とても重要です。われわれは関係する人々に対する自分の態度にも気付いているべきです。何にせよ、あることに対しての自分の態度に気付いているということはとても重要です。もし正しい態度がないのなら、われわれは多く問題を作ってしまうことになるでしょう。自分の[心理的]態度を見ることができない多くの瞑想者は、多くの問題を作ってしまうことになります。

 私は、車に乗っているときも、人と話しているときも、物事をするときには、マインドフルであろうと努めます。人がマインドフルであることを実践するのによい機会は、その人が忙しいときです。私の教えたことを実践してみてください。

 マインドフルであることは、私が自分のためにできる最も善いことです。もし、あなたがマインドフルであることだけのために、マインドフルであることを実践するなら、もっとそれを良く理解することになるでしょう。

 人々は葛藤を引き起こす願いやら欲望でいっぱいです。大体の人々は自分が本当は何をしたいのか知りません。マインドはあちこちいったりきたりします。うろうろするということがルールになっています。マインドは葛藤でいっぱいです。

 樹々の影が長いです。太陽が沈もうとしています。夕方のそよ風は涼しく、ここはなんて静かで平和に満ちているのでしょう。梵天の世界のようです。単純さ、満足、自制(サンヴァーラ)、マインドフル、思慮深さ、忍耐、慈愛、共感、そしてマインドと体への理解が、ここでの生活をこうも平和にしています。私は退屈を感じることがありません。私は平和に暮らして、平和に森の中で死にたいと希望します。

 私はマインドを観察します。ものごとは来ては去っていきます。何も永遠に続きはしません。最悪のものでさえ、長くは続きません。なので、それらが訪れたとき、私は知っています、次の瞬間には去っていってしまうことを。それらが消えるようにと何かをする必要はないのです。とても興味あるものを顕微鏡で見るかのように、私はそれらを、見たいのです。でも、何にせよ起こったものにマインドの焦点を合わせたその瞬間に見えるのは、それらの消え行く姿です。そして、去ってしまいます。

 私はこう言いたい。「じっとしていて。よく見せてください。なんといっても、旧知の仲じゃないですか。」しかし、それらは近くに寄って研究されることは恐れます。そんなわけで、マインドフルネスが私のいつもの仲間です。私はマインドフルであることを観察します。マインドフルであることにマインドフルなのです。気付いているということへの気付き。

 もっとも重要なことはマインドフルであることです。とてもマインドフルであれば、思考は止まって、生きることのすべて、問題が起こる起源を見ることになります。あなたの問題はあなたのマインドから来ているのです。

「あなたの問題はあなたのマインドから来ている」と言っても、何のことか理解できないでしょう。でも、あなたがマインドを本当に深く理解することができたなら、その時、あなたは分かるでしょう。私は自分のマインドを深く理解しているので、平和に暮らしています。智慧はカンマ[カルマ 業]を乗り越えます。

 マインドフルであることについて、ずっと前に気付いたもう1つのことは、継続的に行わなければならないということです。戒を守るのと同じことです、僧としても、あるいは在家であろうとも。

 あなたがリトリートの間は、戒を守り、マインドフルであるようにすると言っても、リトリートが終わってからベストを尽くさないようだと、あなたはダンマ[ダルマ 法]に対して真実ではないでしょう。(それは結婚しているのに、他の女性と浮気をするようなことです。--おかしな例えですか?) 関係がウソになってしまうのです。本当の喜びは得られないのです。本当に真面目にさえなれないでしょう。

 うーむ、私にはそういう風に見えます。人は自分のしていること(戒、マインドフル)について、いつも真実(信頼を持っている、浮気じゃなく)でないといけません。そうでないと、あなたは自分がしていることに対して自信が持てず、自分自身も尊敬できないのです。そして、その尊敬なくしては、あなたの行動も喜びを生む、満たされた、実りあるものでなくなってしまいます。

 マインドフルであることは、何の動機も態度も持ちません。それはものごとをクリアに見るだけのことです、判断無しに、こんな風であって欲しいとか思わずに。そのまま見ることで、マインドフルを実践しましょう[Practise mindfulness to see what is]。それがすべてです。

 われわれはマインドと呼んでいるところのプロセスの大きな部分に気付いていません。そしてわれわれの過去の経験や感情、決心の大部分を忘れてしまったりします(過去生についても同様)。

 とはいえ、それらはわれわれの感じ方や考え方に大きな影響を持っているのです。われわれがあまり気付いていない、あるいは忘れてしまった、でもわれわれのマインドの一部であるそういった部分を、もっと良い呼び方をするために、潜在意識[unconscious mind]と呼びましょう。

 私はマインドの暗い側面に、より多く気付くようになってきています。そしてそれをより多く受け入れるようになってくるほど、それは多く顕われてきて、私はもっと楽になります。

 われわれはコミュニケートするときに言葉を使いますが、言葉は意味範囲がすごく広くあいまいです。

 多くの物事が私にとって重要でなくなってしまいました。私はほとんど物事を心配することがなくなりました。そうすると、私のマインドや生活で何が起こっているか、またマインドが何を本当はしているのかを見る余裕がより大きくなりました。私は瞑想に深く興味を抱いています。

 われわれの悩みごとの多くは、自分で作っていることです。マインドは偉大なマジシャンです。悩みを作っては自分で悩むのです。楽しみを作っては、自分で楽しむのです。マインドは自分が作った蛇に噛まれ、その毒によって苦しみます。もし、マインドが知っていて、そんな多くの悩みを作らなかったら、精神的な痛みの90%はそこに存在しないでしょう。

 私は、もっと自分のマインドと心[感情の座]に深く入れる時間を多くしようとここに来ました。私はもっと私自身と友達になりたいのです。--隠れた葛藤を起こす動機やら、欲望やら、願い、考えがマインドや心の中にあります、それをすべて見てみたいのです。私のマインドの暗がりのあらゆる隠れ家、すべてのうごめくクモやサソリ、毒蛇やら、すべてのライオンや鷲、などなど。追い出したいからではないです。

 ただ、自分のマインドと親友になりたいだけです、やさしくて理解ある友人に。もし私が彼らをよく知らないのなら、彼らは私を平和に眠らせてはくれないでしょう。人々とどのように関わっていけばよいか、はっきりした考えを得たいのです。

 私自身が実際は違うタイプの人間なのに、あるタイプと誤解して考えている人々を、私は好きではありません。でも、それは避けられないことなのです。世界の皆が、誤解されています。また、もし彼らが私のことを正しく理解したら、それでもイラついているでしょう。私の動機がクリアになっている限りは、それはOKです。あなたがどこに暮らすか、そして誰と関係していくかはとても重要なことです。

 ある場所と人々は、あなたのマインドを不快なムードにさせるでしょう。そしていつも不快なムードになっていれば、本当にあなたのマインドはダメージを受けてしまいます。われわれは周りの人々から非常に微妙な影響を受けます。私は人々と組織から次第に離れてきています。人々は人々を、援助するという名目で、自己肥大化のために使います。「怪物と戦うものは誰でも、その過程で自分自身が怪物になってしまわないか、よく見ているべきだ」(ニーチェ)

 私はこれまで何年も自分のマインドを見続けてきました。なので、自分のマインドにとてもよく気付いています。なんてお粗末な、愚にもつかない、馬鹿げた、うそっぱちのことをマインドがする可能性があるか知っています。でも、私がマインドに気付いているから、私をそんな方へ持っていってしまうことはできません。

 私は、本で学んだことをほとんど忘れてしまいました。私はそんなに多くのことを覚えていたくはありません。でも自分自身のことについてはたくさん知っています、私のマインド、自分の精神状態、私に関するすべての悪い、馬鹿げたことも。そんなことは恥ずべきことだ、そんな考えを抱いているなんて罪深いと感じなさい、と人から教えられてきました。私は彼らを信じるのを拒みました。私はわれわれすべてがそんな考えを持っているのに、大半の人がそれを無視していることを知っています。

 私は自分のことについてすべてを人に話すつもりはありません。私は自分についてのことはすべて受け入れます(抵抗しないという意味で)。「われわれは受け入れることなしには、何も変えられない」(カール・ユング)。私自身を理解すること、受け入れることは、マインドの平和と安楽を与えてくれます。私は自分のあり方でOKです。拒否することも、判断することも、抗うことも、否定することもなく、私のマインドを見続けていきます。私が本当によく知りたい人といえば、私自身なのです[One person I really want to know well is myself]。

 私はマインドが空っぽで、クリアで明るく、教養とかで重荷にならないでいるほうが望ましいです。証明したり、守ったり、広めたりするものは何もありません。

 私は若い頃いろいろ馬鹿げたことをしました。(まだたまに馬鹿なことをします)。それについては話すことさえできませんが、忘れないでいようと思います。私のしたことの記憶がマインドに上ってきても、私は抵抗はしません。痛みを感じたとしても、あまりイラついたりはしません。

 誰でも間違いを犯すものです。私は人が間違いを犯すときにマインドで起こることから多くのことを学びました。--マインドがどのように罪で燃えるか。どのようにマインドが過去のことを(誤って)忘れたがるか、特にそのことがもとで、人が、人生の中でよいこと(愛、尊敬、献身、名誉などといったこと)を価値あるものとみなすことができなくなってしまう仕組みなどを。私は自分を許します。環境も考慮に入れると、どうやって私がそれらのことを避けられたでしょう。しかし、私は残りの人生を罪深く感じながら送る必要があるのでしょうか。いいえ。私は間違いから学び、それを繰り返さないようにベストを尽くしていきます。それ以上何ができます? 何もないです。

 真実を受け入れることは、マインドを自由にします。

 私は全き賢人ではありません。時々、とてもバカみたいです。私のマインドについてマインドフルであることは、私の羅針盤です。私が過ちを犯したとき、自分のマインドについてマインドフルであることが、自分がトラブルを起こしたことを教えてくれます。

 われわれがやっているようなやり方で深く自分自身を理解することなしには、本当のスピリチュアルな成長はありえません。一時的な平和や喜悦にはとても励まされますが、それだけでは、変容はもたらされません。

 賛成する意見は、安心感をもたらします。そう、心を開いてくれない人々に対して怒り続けることはできますが、そんなことはこれ以上したくありません。私は彼らを変えられません。私には責任のないことです。もしできるなら、助けます。

 大半の人々が彼らのマインド、生活の中で何が起こっているか知りません。大半の人々はとても重症[heavily conditioned]です。その状況を超えるためには、あなたは膨大な気付きと誠実さが必要です。あなたも条件付けられていて、私もまた条件付けられています。われわれは、われわれが条件付けられていることを知っているのでしょうか。[パブロフの犬の実験に代表される条件反射付けと見て差し支えなさそうです]。われわれの思考や反応のほとんどが条件付けされた反射なのです。

 だから、われわれ自身が最初です。われわれが条件反射から自由になったときに、他の人をその条件付けから解放するような何かができます。われわれが怒っている限り、助けるという名目で、他人を傷つけることになるでしょう。自己欺瞞。時には、それはとても完璧なので、知ることさえないのです。自分を守ることは、あなたを盲目にして、自身の弱点(自己欺瞞)に気付かなくさせます。われわれは幸せであると自分自身を騙します。自分の弱点を見るのが苦痛なときに。

 過去の記憶のすべてや未来の心配のすべてをマインドで抱えていないように。一つ一つのこの瞬間をマインドフルに生きるのです。未来のことは未来に任せなさい。

 われわれは学んでいくと、執着や欲望、夢、希望などから卒業していきます。幻想から覚めるのは初めのうちは痛みを伴うでしょう、失望と結びついているから。でも後には、それはマインドを自由にします。それは人をもっと現実的にします。人生はおとぎ話ではないのです。「彼らはその後永遠に楽しく暮らしましたとさ」は、ないのです。真実であるために、われわれは変わらなければなりません。

 きつくなったからということで、皮を脱ぐ蛇のように、われわれも大事にしてきた夢を脱がなくてはなりません。きつすぎて息もできないくらいとか文句を言うのではなくて、われわれは古い皮を脱ぎ捨てて、もっと息がしやすいように、新しい皮にしたらよいでしょう。しかし、われわれは覚えていなければなりません、時がくればこれもまた脱ぐ、躊躇(ちゅうちょ)するべきではないです。古い皮を脱ぎ捨てるのはいつも痛いものです。人は非常に傷つきやすく、過敏になったりします。なぜなら新しい皮は、外界とやっていくほどには、まだ強くないからです。

 私は心理的にはどんどん依存しなくなってきています。私は孤独だとは感じません。

 「どのように精神状態について深くマインドフルでいられるのでしょう?」 あなたは感覚を感じるでしょう。感覚にマインドフルであって、忍耐強く直面してくることを待つのです。強いてはいけません。マインドは柔軟に保ってください。

 幸福は、静かなマインドを持っていること、そして完全にマインドフルであること、思考がなく、私という感覚がないぐらいにマインドフルであること。この幸福は、過去についても未来についても思考がまったく起こらないときに訪れます。--「私」がない、昨日がない、明日がない、計画がない。その時間のない瞬間に喜悦を感じる「私」がないのです。ただ幸福があるだけです。

 本当の幸福は理由などありません。あなたが(「私」という感覚なしに)本当に楽しいとき、こう言えないのです、「私は幸せです、なぜなら…」。もしあなたが幸せになろうと懸命に努力するなら、きっと失敗するでしょう。本当の幸せは招待していないのに、訪れるものです。

 あなたは自分のマインドにずっと近付いていって、思考が止まるポイントまで見ていることができますか? マインドは思考がなく、ただあるがままに気付いているときに平和になります。思考はマインドを平和にすることはできません。解けない問題があります。

 そうしたら、そういう問題を扱うのに一番良い方法は、それについて考えないことです。考えをいろいろと巡らせることは、単にあなたを疲れさせます。われわれのように教育を受けた人々は、多く考え過ぎます。われわれはそれを認識しなければなりません。われわれは考えすぎに巻き込まれないように、見張っていないといけません。

 読むこと、話すこと、その他すべての気晴らしは人を忘れやすくします。これらのことをし過ぎる人は、それをしていない時には、空虚で落ち着かなく、退屈に感じます。つまり、これらの刺激なしではマインドがとても鈍くなってしまう。

 どんな考えもマインドを疲れさせ、迷わせ[tears]ます。考えることは重荷であり、拷問なのです。あなたはそれについて考えることで、自分を幸せにするやり方が見つかると思いますか? どんなに長い間そうやって自分を騙してきたのですか? そしてどれだけ長い間、これからも騙し続けていこうとしていますか? 考えるのはもう十分! ただ、考えないで何が起こっているのか見るだけです。

 多くのことが私にとって、重要でなくなってしまいました。そのおかげで、私に自分のマインドや人生の中で何が進行しているのかを知る余裕ができます。

 思考するマインドは見ることができません。考えることは盲目だからです。見るマインドは考えません。見るということは考えることを排斥します。本当に見るということは、ノーティングと同じものではありません。あなたが考えれば考えるほど、もっとぐるぐると回ってしまうのです。もし、あなたが考えることを本当にクリアに見るならば、それは止まってしまうはずです。

 私は考えていません。思考はそれ自身で進行していきます。それらは自分で自分を生み出しています[self-perpetuating]。

 考え過ぎないように、また、し過ぎないように。瞑想が可能であるためには、このようであるべきです。忙しくないように。多くしゃべりすぎないように、睡眠に巻き込まれないように、孤独で喜んでいるように、感覚の六門に気付いているように、食事はほどほどにするように。

 この頃のあなたの瞑想はいかがですか? あなたが考えるのを止めたとき、ノーティングさえも止めてしまったとき、あなたのマインドが完全な静寂に行き着いたとき、しかも、目覚めて気付いていて。その時、あなたは漂う本質を見るでしょう。ものごとの、夢に似た性質を。

 箱の中には、古い新聞があります。私はそれを読み始めました。そして私はマインドを見ました。気晴らし! 楽しみ。時間の無駄。無益。

 人々は娯楽や情報に浸かっています。人生の真実であり大事な事がらからマインドを背けて。あなた自身のマインドとあなた自身の生活を研究するほうがずっと誉むべき[rewarding]ことです。しかし大半の人々はそれをするのを嫌がります。その代わりに彼らは自分を忘れたいのです。彼らは自分自身から逃げています。自分自身に向き合うだけの勇気がないのです。

 あるいは、彼らは恐れています。自分自身のことについて考えすぎると頭が狂ってしまうのではないかと。しかし、私は考えることについて話してはいません。私は観察することについて話しているのです。そう、もしあなたが自分自身のことを考えすぎたら、あなたは狂ってしまうでしょう。

 人々はからっぽで役に立たないと感じています。それを覆うために、彼らは自分自身を忙しくします。彼らは忙しいと感じているときに、重要だと感じます。

 誰があなたにこれをしろと命令できるでしょう。私ではありません。グルでもなければ、心理療法者でもありません。あなたは自分自身で見つけなければなりません。私が言えるのはこういうことだけです。マインドフルであって、シンプルな生活を送りなさい、あなたはそのようにしていると思いますが。われわれはすべてを持つことはできません。われわれは選んで、その他は放っておくのです。

 欲望が少なければ、重荷も少なくなります。

 私は、渇愛や執着、肉欲、貪欲がドゥッカ(dukkha 苦)の源泉だということに疑いを持っていません。そして、そこから卒業する唯一の道は、見て、見通すことです。抑圧も表現することも、どちらもあまり価値を持ちません。深く理解することが、意味のあることです。

 どれだけ説明したからといって、あなたに貪欲がどういうものか分かってもらうことはできません。もし、あなたがそれがマインドでまさしく働いているときに見るのでなければ。それはスパイのようです。それはたくさんの顔を持ち、騙します。あなたは貪欲に騙されてきています。

 タンハー(tanhâ 渇愛、貪欲)、マーナ(mâna プライド、高慢、自慢、我)、ディッティ(di.t.thi 邪見、間違った見解)、はパパンチャ(papañca スピリチュアルな進歩の障害、幻想、進歩を遅らせるもの、妄想)です。それらは不必要なとても多くの活動を生み出します。サンサーラ(sa.msâra 輪廻)を長引かせます。

そして、人々の実践を遅らせ、自由になるのを遅らせます。パパンチャは、精神的・肉体的な現象を拡大し、人々を忙しく、気晴らしを求めるようにさせておきます。

 ヴィタッカ(vitakka 尋。初めの印象、反射)は、初期には対象にマインドを置く(向ける)はたらきです。つまり、対象を最初にマインドに取り入れるはたらきです。それに対して、ヴィチャーラ(vicâra 伺)は持続的に同じ対象にマインドを保持するはたらきです。ヴィチャーラとヴィタッカは、瞑想の最初の段階では共にはたらきます。なぜならマインドは瞑想の対象から滑り落ちてしまうからです。

 何度も何度も押し戻して、対象のところに留まらせるようにします。いくらか練習した後には、マインドはそう簡単にはすべり落ちなくなります。でも今度は対象に留まる努力が必要となります。多くの練習の後、それは対象上に留まるようになります。両方[ヴィタッカとヴィチャーラ]とも、心所(チェータシカ)のひとつです。

 私はヴィマラ・タカールの記事「瞑想、人生の方法」を読みました。ここには私がそのなかから本当に好きな箇所を書き出します。

 …見つけ出そうとする生得の情熱がないならば、自分自身で発見する気がないならば、人は瞑想の方法で生きるようにはならないだろう。瞑想は生活の総合的な道である。部分的だったり断片的だったりする活動ではない…生活には洋の東西もない…真実なる探求者においては、興奮は何もなく、深い強靭さがあるのである、熱狂的な興奮といった浅薄さではなく

 …そうして、観察のあの状態が、目を覚ましている時間にも広がってくる。料理をしているとき、事務所に行くとき、あるいは話をしているとき、観察の状態が目を覚ましている時間のあらゆる活動に影響を及ぼし始める…観察の状態が続くとき、感受性は高まり、朝から晩まで、あなたは以前よりずっと多く気付いていられるようになる

 …マインドの活動にあなたの注意を集中することは、残りの時間に集中しないで過ごすようであっては、役に立つものにならない。瞑想は、存在全体、人生全体に適用されるものである。あなたはその中で生きるか、生きないかのどちらかである。言葉を変えていえば、それは肉体的、精神的なすべてのことに関わるものである

 …このようであるから、精神的な活動の小さな領域から、われわれは意識の広大なフィールドへ瞑想を持ち込んできた。そこではあなたが座ったり、立ったりする方法、あなたが身振りで表現したり、言葉で表したり、その日にするすべてのことに関係する。あなたがそれを欲しようと欲しまいと、あなたの存在の内的な状態は、あなたの行動に現われる

 …この瞑想と生活全体の相互関係は、全人的な変容の道程のうち、最初に要求されるものである…絶え間ない言語化というのは、瞑想の道のなかで最大の障害のひとつであるということを、われわれのうちでもほとんどが理解していない…生活は一体であり全体であり、あなたはそれをばらばらにすることは決してできない…寸断やギャップに気付くことはそれ自身、ある種の観察である。(ヴィマラ・タカール)

 人生への断片的な特化したアプローチは機能しません。人は全体的な理解を必要とします。体でいえば、すべての部分は他のすべての部分と関わっています。なので、人生では次のようになります。あなたの人生のすべての側面は他のすべての側面と関わっています。

 経済的、性的、情動的、知的、社会的、霊的なあなたの人生の側面は、すべてが関係しています。あなたはそれらを分けておくことはできません。もし、それらを分けておこうとするなら、あなたの人生は満たされず、不調和なものになるでしょう。そこには葛藤、断絶、麻痺が起こるでしょう


 仏陀が足と手と鉢を非常に気を付けて洗われたのを、あなたは読んだことがあるでしょうか。仏陀がなさったことはすべて[心がこめられ]霊化されていました。それが本当のスピリチュアリティ[霊性]です。それはあなたの人生のあらゆる側面に関係します。だから、あなたの話し方、着衣の仕方、他人との関係、食べる、眠る、笑うこと--すべてあなたがすることは、あなたのマインドを映し出すのです。

 人々が「とても深い瞑想体験」というときは、何を意味するのでしょうか。

 流れに入ったもの[預流果]とは何なのでしょう。ある人が預流果であるか否かを、誰が見分けることができるのでしょうか。預流果と他の普通の世界の人々と違いがあるのでしょうか。違いはなんでしょうか。

 自分で答えてください。私に言わないでもいいです。

 どのようにして深く考えることができるのか。あなたは、静かなマインドフルなマインドを必要とします。疲れもせず、焦りもせず、はっきりと見ることができるマインドです。クリアに見るということが大事です。

 われわれすべてが持つ葛藤。内的、外的両方とも。ただ、クリアな気付きと智慧が助けになります。ニッサッタ(nissatta 存在しないこと)、ニッジヴァ(nijjiva 魂がないこと)![葛藤の対象が実在ではないことに気付くよう促しているようだ]

 より積極的な思考で考えるようにしてみましょう。思考はとても力があります。そして自分がもっと陽気になるようなものを自分の周りに集めましょう。自分のマインドを落ち着けるような、静謐となるような、陽気にさせるような本を読みましょう。本の中には気落ちさせるものもあります。そして、自分自身にも他人にもあまり期待し過ぎないようにしましょう。

 2年間、マインドフルネス瞑想をしてから、私はマハシ・セヤドーのマインドフルネス実践についての本を読んで、私の経験してきたことが、彼が本の中で言っていることと一致していることを見つけました(驚いたことに、また嬉しいことに)。

 十分長く実践してから「ニャンジン」(洞察の段階/進歩)についての本を読むと良いでしょう。しかし、「ニャンジン」は帽子に付ける羽ではありません。預流果は五戒を破らないでしょう。それは仏陀が繰り返しおっしゃったことです。

 仏陀の教えについての基礎知識はいくらか必要です。ダンマ[法]についてよい先生から聞くことなしに実践することは不可能です。どれくらいのパリヤッティ(pariyatti ダンマについての理論的な知識)が必要なのでしょう。それが問題です。

 パンチャヴァッギ(pañcavaggi)--5人の僧の一団は、「法の輪をまわす経」「非我(無我)の特徴についての経」を聞いて、彼らにはそれで(悟りに達するに)十分でした。シーラ(sîla 戒律)は必要です、それなしには自分自身が平和であることができません。戒律は瞑想を支え、瞑想は戒律を支えます。

 その国[文脈からするとアメリカのようです]では、あなたはいろいろな種類の人々がいるのが分かるでしょう。あるものは誠実で、あるものはダンマを理解している、しかし多くは完全に迷っていてごちゃまぜになっている。

 ヒンズー、禅、チベット、テーラワーダ、西洋心理学。誰かが、アメリカはヒンレイオー(具の多いビルマカレー)だと言いました。いろんな種類のものが混ざって、煮られていると。どこにも完全なものがない。もしあなたがダンマについて何も知らないなら、もっと混乱するでしょう。

 訪ねて行って、見てください。人生は実験の連続です。あなたがそこで幸福になるか、そうでないか、誰にも告げられないのです。だけど、きっとあなたは多くの自由を見つけることでしょう。自分のやり方で自分の人生を生きる自由を。他人が他人自身の人生を生きているのについて、誰が何か言えるでしょう。それは、彼らの人生です。皆、多かれ少なかれ、バーラ(bâla 愚者)なのです。あなたがダンマを理解し、実践することが、唯一のあなたの防御です。

 そう、人はマインドフルになるほどに、ソフトになります。人はもっと感受性が強くなります。痛みに対する感受性も、不幸に対する感受性も、意味がないと感じる感受性も。人は意味がないことに対して、簡単にイラついてしまいます。

 マインドが不善の状態にありながら、それにも気付いてさえいない人々が世界中にあふれているのを見て、あなたは怒りを感じるかも知れません。そして、彼らは、自分たちの生き方(方針)と同じように、あなたにもして欲しいと思ってさえいるのです。

 人々がダンマを良く思わないだけでなく、それを実践する人を笑いさえすることに、あなたは時々とても不幸を感じることがあるかも知れません。時々、彼らは意図的に嫌がらせさえするのです。これらのことは、僧の間でさえ起こります。なので、人々を理解して、許してあげるのです。ウペッカー(upekkhâ 捨。聖なる無関心)はとても平和です。

 時に、私に尋ねる人々がいます。自分は人付き合いのときに、なぜ簡単にイラついたり(怒ったり)してしまうのだろうと。答えは、もうナンセンスには耐えられなくなっているからです。この質問をする人々は、おしゃべりや、うわさ話をすることに多くの時間を費やしたくないと思っていますから。以前には、彼らもおしゃべり、うわさ話、時間つぶし、政治の話を楽しんでいました。今となっては、ほんの少しでもやっと耐えられるようなことになっています。

 自分が話していることにマインドフルになっているとき、[話題が]まずくて口に合わなくなっていることを感じるのです。他の人がその自分の様子が分からないと、侮辱されたと思ったり、怒ったりすることになります。もしかしたら、礼儀知らずになってしまうかも知れません。なので、この種のマインドの状態にはよくマインドフルである必要があります。人々を理解して、許してあげることです。

 「私が瞑想を重ね、サティ(マインドフルネス)がついてくると、このおかしい、おかしな世界から逃げ出したくなります」。そうできるのだったら、それもいいでしょうね。でも、あなたが変わるまでは、忍耐強く努めて、ウペッカーを育ててください。そうでなければ、自分自身の身を焼いてしまうことになるでしょう。

 「あなたはいつもわれわれを助けようと、理解しようとしてくださいますが、あなたは他人に自分が理解される必要はないのですか?」はい。他人に理解してもらう必要はありませんが、もし理解してくれるのなら嬉しいことです。誰かを理解するというのは、そう簡単ではありません。私は他の人たちを本当に理解してはいないでしょうが、理解しようと努めてはいます。

 自分自身を理解するのも、十分難しい。もし、あなたが自分自身を理解できないなら、どうやって他の人を理解することができますか。そして、自分自身を理解するためには、自分自身について、非常に正直でなければなりません。

 自分自身に正直であるというのは、本当に難しいことです。われわれはいつだって自分自身にウソをついています。私は偽善者です。それを見るのは痛みを伴います。

 たぶん、あなたは、私も人間であり馬鹿げたことをやるものだということを忘れているのではないでしょうか。私は自分が完璧になれるとは思わないし、完璧になりたくもない。私が望むのはただ、私のなかの真実を見ることです。私の間違いを見るときでさえも、私は興奮したり怒ったりはしない。私はそれを急いで取り除こうとはしない。私には取り除けないのです。

 私にできるのは、それをあるがままに見ようと望むことだけです。そして大体の場合、私がそれを見ることができたと思ったときでさえ、それを歪めてしまっています。マインドはものごとをゆがめるのがとても上手いのです。自己欺瞞。

 私はほとんど自分を欺いています。私は自己欺瞞を見ることを次第に学んできました。自己欺瞞を見たとしても本当に頭に来たりはしません。もしマインドフルネスなしでは、私の人生は悪いジョークのようだったでしょう。

 避けられないものを受け入れることは、マインドの平和のために、とても重要です。

 本当のアニッチャ(anicca 無常)は、お話レベルのものではありません。新聞で何かを読んで、アニッチャを理解するのは、知的なレベルのことです。あなたが本当にアニッチャを見るのは、まさに今それを経験しているということなのです。思考はそこにはありません。手紙ですべてを書き表すのは難しいです。言うことがたくさんありますが、そのためには紙面が少な過ぎます。

 結局、私が言ったことは、本当に重要なことではないのです。大したことはありません。もしかしたら、まったく役に立たないかもしれません。私が言わなかったこと、私が言うことができなかったこと、それがもっと重要なことにも見えます。藪の周りを叩きまわっているようなものです[核心の周りをつついているような感じという意味の言い回しでしょう]。

 私のマインドが静かなとき、私には書くことはないです。

  もし真実が欲しいなら
  私が真実を告げよう
  友よ、聴いてください、
  私の愛する神は内にいます。(カビール)

 人々はアイデアを生み出します。そしてそれらのアイデアは牢獄となります。しかし、壁を見通すことができる人は抜け出すことができるでしょう。

 もし瞑想がうまくできるなら、どんな種類の衣服を着ても問題になりません。ブランドも、何のためなのかあなたが知っていれば、あまり重要ではないです。ですが、人々はブランドやパッケージに執着します。あなたがどれだけ多くの戒を守りたいかは、あなた自身で決めてください。

 あなたに合った対象を1つ2つ自分で選んで、それについてマインドフルであり続けてください。継続することがもっとも大切な点です。思考はマインドを幸福にすることはできません。コントロールしたいという欲望なしに、あなたの思考をみるのです。あなたがそれらをはっきりと見ることができると、それらは止まるでしょう。

 私はもっと本格的に瞑想をするつもりです。私のマインドは世事で満杯になっています。私は旅をしたり、話したり、たくさんし過ぎました。いま、私はまた静かにしていたくなりました。思考はそれほどの重荷なのです。私は、大洋に浮かぶボートに乗っている人です。ひとりで、連絡を取るラジオもなく、でも、私には私の羅針盤(マインドフルネス)があります。

 あなたの思考がラジカル[根源的]になって、誤解されたくないと思うなら、沈黙を守るようになるか、もしくは別に言いたくもないようなことを言うようになるでしょう。あなたの言いたいことを言おうと、ものをしゃべりながらも、結局は人々が理解できないような話し方で、話すでしょう。

 時々は、彼らがあなたの言っていることを理解しないのが、幸福だったりします。なぜ、あなたは自分の考えを表現したいのですか? それはまた別の執着です。もしその執着を行かせてしまえば、静寂と平和が残るでしょう。

 いつも人々や状況に対して抗うならば、わずかではあれ、精神的な負荷が生じます。それは、長い間には疲弊をもたらすでしょう。あなたのマインドを観察して、どれだけの反応が、現実の状況、想像上の状況に対してなされているか、見てみてください。精神的な負荷を見てください。

 始終、抵抗したり反応したりする必要がないような場所に住んだほうがいいです。独り離れて住むようになるかも知れません(もし孤独に耐えられれば)。

  「より深く感じるなら、その感じについては、より沈黙を守らなくてはならない」
  「言葉にならないことについては、沈黙を守るほかない」(ヴィトゲンシュタイン)

 私はできれば沈黙する仏陀でありたいです。誤解されるのは、非常に不満がたまることです。大概の人は真実を見る=受け入れる勇気が十分にありません。彼らは、幸せにさせてくれる何かを欲しがります。真実は時には恐ろしいものです。本当に。

 幻想から覚めていることは怖いのです。何もつかまるものがないのです。ダンマ[法]でさえも。(ところで、ダンマとは何なのでしょう?)ただあるのは、見ること、理解すること。

 大概の人々が何かつかまることができるものを探しています。--セットになった思想[ideals]、目的、メソッド、仲間たち、分派、規律、自分と同一化できるものなら何でも。あなたが孤独を抱かないことには、友情というものの本当の意味を理解することはないでしょう。

 大概の人々にとって、友情とは孤独を超えるための手段です。孤独を育くみなさい。できるだけ独りで生活して、それで自分がOKと感じるか見てみなさい。

 孤独を本当に扱うことがあなたにできるのなら、そんな場所に住むのも素晴らしいでしょう。もし、その平和な場所を分け合えるよい友人が一緒にいるなら、もっと良いでしょう。でも、それは高くつくと思いますよ。

 あなたが今はより幸福になっていることを希望します。あなたが好むことをしながら。マインドフルネスをいつも実践していますか?

(第1章 終わり)

翻訳:T.S




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