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夏の雪 (1)

 セヤドーに、「夏の雪」を翻訳したいのですがと話すと、「(夏の雪)は、私と海外にいる友人達との書簡から抜粋したものです。ですから、全部を翻訳する必要はないでしょう。面白いところだけを選んで訳してください」とおっしゃっいました。
この本はかなり長いので、手始めに、各章の初めの部分を訳してみました。

夏の雪 序文・第1章(前半)
夏の雪 第1章(後半)


夏の雪 (目次 全章の概要)  セヤドー・ウジョティカ

目次

伝記的な序文

1、心、マインドフル、瞑想

2、孤独

3、親の愛と指導

4、人生、生と死

5、学ぶこと、教えること

6、価値と哲学

7、友情、関係と慈悲

伝記的な序文

表現するという必要性はとても強いものです。

それは私たちの成長のためにとても重要です。

もしあなたが表現する機会を持たないなら、独創的な考えを失うでしょう。

まあ、それはもう一つの執着です。

それを手放すことを自らに強いることができません。

何度も書こうとしてペンを取り、そして何度も置きました。

言葉にするのに困難な何かが私の心にあります。

私が説教していると思わないでください。

私には真実に思われる個人的な見解(感じ、観察)を表現します。


第1章 心、マインドフル、瞑想

 私が理解するところでは、どんな瞑想も(静寂、集中あるいは洞察)何かを作るということはありません。

むしろそれは非常に単純な方法で瞬間に起きていることはっきりと見ることです。

静寂や洞察を作り出すのを目指すのは、「こうあるべき」というところから始めようとすることです。

それで私たちはいつも、今いるところに戻ってきてしまいます。なぜなら私たちは、今あるところから出発していないからです。

もう一つ言われているのは:瞑想はまったく内的なコミュニケーションであり、あるいは深く理解された人生(問題)が瞑想です。

それゆえに、自らの問題(それが神経的なものにせよ、ないにせよ)の中身をほどいていくことと、瞑想の間には違いがないはずです。それは同じプロセスの全体の一部分です。

私にとって、カウンセリングをすることと、瞑想の指導を与えることはそんなに異なっていません。

それで人々を理解しておらず、多くの本から得た知識を持っている人は、瞑想教師(あるいはカウンセラー)ではありません。学者です。

定式によって教えたり、導く人は人々に教えるべきではありません。


第2章 孤独

精神の孤独と同様、身体的な孤独も成長させるべきです。

身体的な孤独とは一人でいることです。

人々と会うのを避けるべきだと言うつもりはありません。

そうではなく、自分の時間を過ごすべきであるということです。

精神的な孤独とは、あれやこれやについて考えないで、しかし注意深く、気付いていることを意味します。

何についても考えていないとき、それは深く眠っているか、あるいは退屈して眠いに違いないと信じている人々がいます。

人々は孤独の重要性を理解していません。

いくらかの楽しみを与えるてくれるか、刺激してくれる誰かと一緒であることを望みます。刺激に対する切望。

刺激が何も無いと、退屈になります。

身体的に一人であるときでさえ、本を読むか、TVを見たり、ラジオやカセットを聞きます。あるいは、したこと、これからすることについて考えます。

一人でいることや、読んだり、TVを見たり、ラジオやカセットを聞いたりせず、そして何も考えないことを、決して生産的であると考たことがありません。


智慧は孤独の果実

孤独とは再充電すること

私の心の深い静寂から流れ出す人生

それは限定することのできぬもの

他はすべて付随的なこと

     ( Sayadaw U Jotika )


私は、今Mにいます。1週間前にここに着きました。

すてきな、そして静で、簡素なところです。

ここには大きな施主はいません。ただ村の農民だけです。

簡素な土地と、簡素な人々。

私の心だけが複雑です。

たくさんの鳥がいて、私は好んで耳をかたむけます。

吹いてくる風は木によって、静まり、和らぎます。

忙しい、騒々しい都会となんと違うことでしょう。

まったく異なった世界。

大きい都会と重要な人々はとても不安をかかえているようです。

ここで瞑想することはずっと容易です。

私は大きな野心を持っていません。

簡素に生き、明晰に見ます。

私には世界を変えることはできません。誰も変えることができません。私自身さえ。しかし、私は見守ることができます。

もし私が賢明なら、誰も、何についても怒らないで、ただ見守るでしょう。

肩の上に世界をのせて運んでいる私とは誰なのか ?

時々、一緒に心から話をすることができる友人を持っていたら良いのにと思います。

多くの人々が私のところへ来たがります。

私が行くところはどこでも会いに来る人々がいます。

多分彼らは、刺激され、勇気付けられ、気づき(マインドフル)を練習するよう奮い立たせられます。あるいは少なくとも一時的な単調さから解放され、挑発的で、急進的で、そして挑戦的な誰かに耳をかたむけて安心します。

あれやこれやを提供して、私のために走り回っている多くの人々がいます。しかしここには私が一緒に本当に有意義なことを共有することができる人が誰もいません。

少なくとも私は自分の考えを内に保って、そして平和に生きることを学びました。

はい、世界はばかげています、しかし私はそれについて何をすることができるでしょう?

何もできません。

それについて怒って時とエネルギーを浪費しなくてはならないでしょうか。

雨がゆっくりと降っています。

風はありません。

私は冷静さを感じます。

木は去年よりずっと高くなりました。

少し経てばここは良い森林になるでしょう。

営林署は私におよそ8エーカーの土地を与えました。

暑季を除くと、良い湧き水と良い天気。

たいてい菜食の、質の良い食物も十分に。

私に必要なすべてのものがあります。

多くの孤独な時間。

人々はやって来て私を悩ますことがありません。

時々幾人かが僧院の土地をきれいにするために来ます。

網戸の窓、蚊を通さない部屋、ベッドと簡易椅子、本、薬、用紙とペンがあります。

私に何の不服があるでしょうか。

美しいグラスで良質のお茶をポット一杯飲みます。

素晴らしい香りと味がします。

私を蘇らせ、注意深くさせます。

一人でお茶会を開いています。

雨はさらに激しくなりました。


第3章 親の愛と指導

私は昨日娘のところから戻って来ました。

彼らと一緒に16日を過ごしました。

何年も会わなかった後に会うのは本当に大きな喜びでした。

彼らの私にたいする愛は驚くようです。

私は本当にオープンな私たちの関係について大いに喜んでいます。

これは本当の慈悲です。

私は密かに望んでいました。しかし決して可能であると考えてはいませんでした。

前の義理の父や、前の妻と私との関係は同じくとても友好的です。

私たちは大いに人生と ダンマ について話をしました、そして娘の教育について話ました。

彼らに真の教育が私に何を意味するかを語りました。

娘が人生ついて学ぶのを手伝うことができて、私はうれしいです。


第4章 人生、生と死

 この人生で最も重要なものは何でしょうか?

人生全体を考えることで、自らを悩ますべきではない。

降りかかってくるであろうと予想されるもの、すべての問題を一度に抱え込まないことである。

どんな時でも自らに問うべきだ。「この中に耐え難いもの、そして過去に耐えたものがあるだろうか?」

なぜなら告白するのを恥ずかしく思うだろうから。

    (マルクス・アウレリウス)


人生は困難でいっぱいです。

けれども人生を嫌悪しないでください。

人間の人生とは学び、成長する機会です。

学んで、あなたの智慧を発展させるために授業を受けます。

もし深く学ばなかったら、学ぶために再び戻って来なければなりません。

正しい態度と適切な展望を持っているなら、あなたが体験しているすべての困難はとても意味を持ちます。

あなたは他の人たちが有意義な人生を送るのを手伝わなくてはなりません。そしてあなたを助けてくれる他の人たちがいます。

私たちは少しばかりのカルマ的なつながりを持つべきでしょう。

私たちはお互いに手を貸しあうでしょう。

ですから、どうかこれらすべての困難が無意味であると思わないでください。

私たちは歩き回ることができません;私たちは通り抜けて行かなければりません。


第5章 学ぶことと、教えること

関係への切望、財政的な安定、私の世話をしてくれる人、誰かに望まれることがあなたを盲目にします。

あなたを疲れさせるのはあなたの反応です。

よく見て、そして手放してください。

反応しなかったため、人生において物事はより良くなりました。

私はとても辛抱強くしてきました。

結果を得ようと過度に急ぐことによって、進歩のプロセスに干渉するようになります。

正しいことをして、そして根気よく待ってください。

私は今年とても異なっていると言いました;それは私がもう結果に関してそれほど真剣ではないと思うからです。

私たちが一人であるということを受け入れることができるまで、そして自分の足で立つことができるまで、私たちは人々との健康な、意味ある関係を持つことができません。

依存したり、搾取したり、操ったりという関係は有意義ではなく、長続きしません。

良い関係というのは、家族メンバーの間でさえ、非常にまれです。

第6章 価値と哲学

「人はどこでも、いつでも、誰であったとしても、彼が選んだように行動をすることを好みます。そして少しも彼の理由としてではなく、利点が必要とされます」

それはドストエフスキーが「地下生活者の手記」で語っていることです。

あなたは何と言うでしょう。

私の友、ヘンリー・デイビッド・ソーロー、が言いました:「正気の人はしばしば社会の最も神聖な法律であるとみなされるものに対し、さらにいっそう神聖な法律への服従を通して公式的に反対のところに自らがいるのを見いだすでしょう。それで道を外すことなしに彼の解決を試みたことでしょう」

私については、争いをすることがもう嫌になっています。

私は人生をとても穏やかに送ることを望みます。

ばかげた世界と同意することなしに、そしてこの世界と衝突することもせずに、生きる方法を見いだすことを望みます。

この世界がばかげたやり方で行くのに任せて下さい。

私は脇に立っています。


第7章 友情、関係と慈悲

人々の心の鍵とは何でしょうか?(理解)

人生の中で最も高価なものとは関係(友情)です。

もし関係が本当のものでないなら、人生は本当のものにはなりません。

関係は神聖です。

あなたに与えることができる最良のものとは私の友情です。

関係は最も大きい喜びと最も大きい精神的苦しみの源です。

人生の質は私たちと周りの人々との関係の質に依ります。

良い友人たちを持つことは素晴らしいことです。

人生は 善友(気高い 、精神的な友人たち)なしでは退屈なものでしょう。

友を持つことは何とまれなことでしょう。

親愛なる友よ、私にはそれほど多くの友が残っていません。

それで私には今ある友人たちが価値あるものに思えます。

友を持つことは人生の最も素晴らしい経験の一つです。

自分自身と世界に対する理解を、もっともっと深く発展させることはとても素晴らしいことです。

私にとって人生の中で最も満足を得るものは、理解することです。

私たちの友情には時間と空間の限界がありません。

係わることのできた人たちと、たくさんの新しい友人になりました。私は彼らに何かを期待することをしません。ただ心を開いて、流れるままのコミュニケーションにまかせます。

私は同じく「ある種の誠実な仲間に対する、より深い切望」を持っています。

あなたと私の関係や、彼との関係、私の娘との関係、私の前の妻との関係が、慈愛に満ちた、育てあう関係であることを望みます。

人々との関係はほとんどの場合本当に信頼できません。

たいていの関係はただゲームです。   

正直で、開かれていて、誠実で、本物で、操ろうとしない、横柄でない関係。そこには相互の敬意、信頼があり、そして非現実的な期待を持っていない。このような関係は可能でしょうか。

C、ロジャーの「学ぶ自由」から引用したいと思います。

        (省略)

誰かや何かに対する執着を手放す前に、心の中の執着を良く見てください。

執着を理解することはとても重要です。

ただ執着への深い理解だけが心をそこから自由にします。

実際にその本性を心の中に見ないで、強いて執着を手放そうとしても、それはすぐに戻って来るでしょう。

しっかり見て、深く理解することが執着を克服する唯一の方法です。

強制的に離れようとしても、そこから真に離れることはできません。

たいていの人々が傷つくことから自分を守るために、目に見えない、入り込めない殻を周囲に作り、主に金での満足、地位、感覚の喜び、薬、アルコールやセックスを求めます。それは、彼らを愛し、さらに深く理解してくれる人がいないためです。

開放的で弱さをさらけ出すことにはとても臆病です。

強いられた(人工的な)愛、思いやり、満足、謙虚さなどがあり得ます。

強いられた愛や謙虚さの背後には(ほとんどの場合がそうですが)嫌悪、恐れと高慢があります。

嫌悪、貪欲、高慢などを見ることはいっそう重要です。

完全に見ることは完全に切れることを意味します。

人々と関係を持つことにおいて、私は同じような困難に遭います。

私はたいていの人々がとても表面的であるのを見てしまいます。

私は僧であるために、大目に見ることのできない人々を避けることができます。しかし私たちは人間(社会的動物)です。私たちは単独で生きることができません。いくらかの人間との交流を必要とします。そして私たちは、たいていの人々が、とても無頓着で、利己的で、思いやりがなくて、愚かで、得意で、嫉妬深い世界に生きています。

それで繊細で知的な人は、人々との接触において必然的に苦しまなくてはなりません。

人々への寛容と深い理解はとても重要です。

ときどき仏陀が言ったことを思い出すべきでしょう:「 Puthujjano ummattako 」(愚かな俗人たち)。

あなたは愚かな人々と対応しています。

人は歳を取りますが、大人になりきるわけではありません。

それであなたは大きくなりすぎた子供たちを扱っています。

しかし人々から逃げ出すことはできないので、賢明さと親切さで人々とつきあう方法を見つけてください。

他の人と共通のものを何も持っていないとき、あなたは彼や彼女と何も共有することができません。あなたは異邦人のように感じます。

もしあなたが友人を望むなら、あなたが持っているものと共通の何かがあるかどうか見るようにしましょう。

もしあなたが彼らに興味を持っているなら、彼らに親しみを感じるでしょう。

判断しないで、人々に耳をかたむけることを学んでください。

彼らの問題を解決する必要はありません。

心を開いて、親切にしてください。

人々と対立することは疲れます。

人々からの尊敬、評価、好意は監獄のようなものです。

もしできるなら、愚か者( bala )と交際するのを避けましょう。もしできなければ、彼らの間違ったアドバイスには従わず、しかし彼らとの対立状態にはならないよう気をつけましょう。

私たちは愚か者の世界に住んでいます。

もし愚か者と交際するなら、遅かれ早かれ困難に陥るでしょう。

たいていの人々は、決して間違った助言を与えなかったブッダをまともに受け取っていません。

asevana ca balanam (愚か者と交際しない)ことです。

彼らを見分け、避けましょう。しかし、そのことであれこれ悩んであなた自身を不幸にしないでください。

あなたが毒ヘビを避けるのとまったく同じように、愚か者を避けるのです。

けれども何が人を愚か者にするのでしょう。

もしあなたが良い友を見い出すことができるなら、一緒に生きてください。もしそうでなければ、独りで生きてください。

愚か者は友情をもっていません。

少年のころから、私は人々がたいてい偽善者であることに気付いていました。

私が人々を信じるのは難しかったのです(今もそうです)。しかしそれは私が好むと好まざるとにかかわらずそういうものです。

それを取るか、あるいは放っておくかです。

時たまあなたは偽善者ではない、誠実な人を見つけます。そういう人はとても珍しいから、貴重です。

たいていの人々が金、名声、地位、喜びなどを追い求めます。僧でさえそうです。

真実と平安を真剣に探す人々は極めて少数です。

ある人々は麻酔薬の代わりとして瞑想を用います。

そのことをあなたは心配しますか。

そうするとあなたは残りの一生をずっと心配していなくてはなりません。

まだ正直で、誠実な人々が幾らかいることが私にはうれしいのです。

人々の明るい面を見ようとしてください。

彼らは、そうなったであろう程悪くはありません。彼らはもっと悪くもなり得ました。

すべての人は良くありません。

私たちがそれを受け入れた後、人々の中にいくらかでも良いものを見出すとき、私たちは本当にありがたく思うことができます。

私にはあなたが、心理的に、同じ年齢のたいていの人々よりずっと年上のように思われます。

それであなたは同年代の人々と合いません。

高い知的な人々は標準的な人々と同じことをするのに苦労することを知っていますか。

あなたの価値観が、周りにいるほとんどの人たちの価値観と異なっているから、彼らと対立してしまいます。それはとても自然なことです。

まず第一に問題の性質を理解しようとしてください。

往々にして、問題を理解することは問題の半分を解決します。

あなたの心、特に心配と気がかりついて何でも話せる信頼できる人が必要でしょう。

私は、時々あなたが混み合う都会で孤独を感じるだろうと思います。

あなたは独りで、家族からも離れて住んでいます。自分の努力と痛みを理解してくれる、あなたを利用しない人と親しくする必要を時々は感じるべきです。

今日、あなたの家族以外の誰かを信頼することは難しいでしょう。

けれども世界中どこにでも良い人々がいると思います。

あなたはまさにそういう人を見つけ出さなくてはなりません。

親切で、そして徳が高い人があなたの周囲に誰かいませんか。

私はあなたと似た経験を持っているので、何を体験しているか理解できます。

最も困難な部分は決定です。

痛みはしばらくすると癒されます。

私は何年もの間、多くの恐れ、痛みと罪悪感を甘んじて受け入れました。しかし今それらはただの思い出です。

いつかあなたに私の物語を話しましょう。

関係があなたの心にもたらした傷から回復するために、若干の時間がかかるでしょう。

よりマインドフルに、そしていっそうリラックスしてください。

あなたの心は長い間フラストレーションに反応してきたので、行動と、反応の古い方法を忘れるためには多くのマインドフルと忍耐を必要とするでしょう。

どんなに長くかかろうとも、あなた自身に辛抱強く、そして親切でいてください。

変化は強いることができません。それは望んでするものです。

あなたの性格は変化するでしょう。

人に起こる最悪なことは自尊心を失うことです。

あなたは、「すべての良い僧と人々がミャンマーにいるのに、独りこのひどい場所に置き去りにされるとは、どういうカルマなのだろう」と言いました。

別の観点から見るとあなたは、「ミャンマーの善友たちと同じように、多くの良い友人たちと良い僧(気高い、 精神的な友人たち)を持っているとはなんと素晴らしいカルマだろう」と、言うことができるでしょう。

ほとんどの人は世界中でただ一人の友も持っていません。

無条件に愛されること、それは私たちが本当に求めるものです、しかし私たちは無条件に自分自身を愛することができますか。

誰かの人生のなかで重要であるために。

違いを作ることができるために。

しかし私はどうでしょう。

無条件に自分を愛していない人、そして心理的に独立していない人は本当に誰も愛することをしませんし、できません。

愛することが可能であるために、私たちは自由でなくてはなりません。

私は本当に誰かを愛するでしょうか。

ほとんどの場合、私たちはほんとに孤独だから、人を愛します。

本当に誰かを愛するなら、そして誰かが本当に私を愛することができるなら、孤独を克服できるであろうことを求めているのです。

自らの孤独を受け入れても、他人の孤独を受け入れることができないなら、私たちは本当にお互いに出会うことができません。

私たちのそれぞれはまったく孤独です。

私たちの孤独を受け入れて、それを隠したり、そこから逃げ出そうとしないようにしましょう。それを克服する方法を見いだすようにしましょう。

私たちは常に孤独でしょう。

私たちが自分を忘れている短い瞬間だけ、私たちは孤独から一時的に逃れることができます。しかしそれは確実に戻って来ます。

私は孤独です。

私は以前よりも孤独です。

私はさらにさらに、この孤独を見ています。

私たちと近づき、そして私たちを理解することができる人は極めて少数しかいません。

それぞれの人の間には、誤解という大きい深い割れ目があります。

私を愛し、尊敬する友人たちがいます。しかし彼らは私が誰であるかを知りませんし、あるいは人間としての私を理解しません。

彼らは知ることができません。

私が誰であるかを知らないからといって、彼らを非難しません。

彼らは私がこんな人だろうと考える、投影を愛します。それは虚偽のイメージです。

けれども私は自分が誰であるか知っているでしょうか。

私が自分はこういうものだと思うのは、同じく私の心の投影です。

これらの疑問への答えを見い出そうとせずに、瞬間から瞬間へマインドフルであることが良いでしょう。

マインドフルは私の唯一の避難所です。

私は人々がどれぐらい孤独であるか知っています。あなたがどれぐらい孤独であるか知っています。なぜなら自分がどれぐらい孤独であるかを知っているからです。

私は、静かに、平安に、そして独りで私の人生を送ることを学びました。しかし私は人々との、腹を割った真のつながりも正当に評価します。

私は大いに苦しみました。そして私は僧になります。

私はさらに苦しみました。そして私は人間になります。

友を持つことは、なんと難しいことでしょう。

友とはあなたを操らない人。聞いて、そして理解する人。話に割り込んだり、あるいは気を散らさずに、聞く時間を持っている人。そして注意深く、繊細に聞く人です。

たいていの人は気が散って、気づきがなく無頓着で、そして不幸です。彼らは自分自身の問題に夢中になっています。

もしあなたに平安がないとしたら、どのように聞くことができるでしょうか。

私はとても親密な多くの人々を知っています。彼らは人生について、そして一度も他人に話したことがない彼らの感情について話しました。そしてあるときには、彼らがかつて意識的に考えたことなどなかったであろう話をしました。

私が若干の点を明確にするために、さらに多くの質問をした時にだけ、彼らは自らの心と感情を深く見つめ始めました。そして驚いたことに、彼らは以前に一度も見たことがないものを見始めました。

私たちは本当に上手く自分を隠すことができます。

たいていの人々が分裂しています。彼らは全体ではありません。

もしあなたが全体でないなら、あなたは成長することができません。

全体であることによって、それらがどれほど受け入れ難いものであるかにかかわらず、何ものであれ、いかなる考えや感覚や理想であれ、否定したり拒絶したりすることはないでしょう。

それで人々との経験から言うと、人々は孤独であることを知っています。たとえ、家族とともに暮らしていても、あるいは、大家族と一緒にいても。

誰かの周りにいることによって、孤独は消え失せません。深い理解と受容がないとき、孤独があります。

家族の仲間でさえお互いを理解して、そして受け入れることがありません。

家族の間でさえ判断したり誤解があります。

問題の原因は、自分自身を深く知るか、あるいは理解しておらず、自分を受け入れないところにあります。

私たちはいつも自分のある部分を拒絶しています。

私たちは無条件に自分を愛して、そして尊敬することができるでしょうか。

深く自身について知らないかぎり、(それは容易ではありませんが)この問題を解決する方法はありません。

私たちはたいてい孤独を感じるために、“関係”を欲します。

「孤独を克服することへの手段」としての“関係”は機能しません。

それぞれは、誰かが私たちを孤独ではなく感じさせることができると思っています。

孤独を終わらせる手段としての“関係”は常に失望に終わります。

孤独からの逃走。

それは私たちほとんどの人がいつもすることです。

私たちは他人のための時間を持っていません。

あなた自身と深く触れた途端に、あなたの人生は変わり始めます。それは深く自身と触れている良い友人を必要とします。

自分についてOKと感じている人。物事をありのままに見ることを恐れない人。たいていの人々が、「そこに無いという振りをしているもの」を見ることに慣れているでしょうか。

それは海中深くダイビングするようなものです。あなたは一度も想像したことがないものを見ます。ありそうもない形と色。美しいものと、とても醜いもの。

ルビーを探している人はダイヤモンドを見ません。ダイヤモンドは自身の色を持っていないからです。

ダイヤモンドは無色ですが、輝きがあります。

(人工ダイヤモンドには色がありますが)

これだけはできるという最小限で、人々に手を貸すことが良いでしょう。なぜなら、多くの時間と努力なしにできますから。それで疲れたり、燃え尽きてしまうことはありません。あなたができるなら、時々(いつもでなく)もう少ししてやれば良いのです。

できる最大限のことをすると、すぐにもうこれ以上やり続けることができないと感じるはずです。

余りにも過度になってしまいます。

あなたは言いました。「 セヤドー 、人々は変わっています。親切にすると、それを当然のことと考えます。彼らに対して意地悪でなくてはなりません」

いいえ、彼らに対して意地悪でなくてもよいのです。

あなたが何をすることができるか、どれだけすることができるかについて、明確な限界が必要なのです。

彼らにあなたの限度と、どのように1日を過ごしたいかを話さなければなりません。

話さなければ、彼らはいかにして知ることができるでしょうか。

話すことなしに、あなたは何が必要であるかを知っていることを期待できますか。

彼らは、あなたが欲するものではなく、彼らが欲するものについて一層係わってきます。

それであなたは彼らに知らせ、要求しなければなりません。

もし彼らにあなたの限度を話さなければ、彼らはあなたに「もっと、もっと」と頼むでしょう。そして結局あなたは利用されたと感じます。そしてあなたはフラストレーションで反応し、人々との関係を害することになるでしょう。

それが ダンマに関することであっても、私は常に人々に私の限度について話します。

それであなたが別の場所に行ったら、まさに始めから限界を設定し、厳密なスケジュールを立ててください。

良くし過ぎると、とても苦い結果になります。

あなたは過度に便宜を図った人たちを憎むことになります。

家族の仲間を含めて、皆が私たちからあまりに多くを期待します。そして彼らはそれを当然のことと考えます。

あなたが力を与えない限り、誰もあなたの上に力を持つことはできません。

あなたは人々があなたの心に影響を与えることを許します(力づけます)。

あなたが彼らによって影響を受けることを望まなければ、彼らは無力であり、あなたの上に力を持ちません。

彼らは強力で、そして強いとあなたが思う限り、彼らはあなたの上に力を持ちます。

彼らがどれぐらい怖がりで、無力で、そして依存的か見ませんでしたか。

もし王座の上に彼らを置けば、彼らはキングとクイーンのように振る舞うでしょう。しかし地面の上に彼らを下ろせば、彼らが他の人たちとまったく同じようであることに気付くでしょう。 無力で、弱くて、怖がりで、依存していて、そして孤独で。

私たちが自己イメージを手放したとき、私たちの見張り(自己防衛)を取り除いたとき、私たちが本当に誰であるかを見ます。

私はあなたと多く異なってはいません。

真の力は自分自身を理解することから来ます。

「力の本当の現われとは抑制である」(アリストテレス)

人々は大統領にある権限を与えます。

それで大統領は力を持ちます。

人々にあなたを利用させないようにしてください。

あなたが利用されていると思うとき、自分自身に言ってください。これは、これからも人が私を利用しているかどうかを見極めるために支払う授業料であると。

そうでなかったら、どのようにして利用されていると見極めることができるでしょう。

竹は強い風が来ると波うち、曲がります。

誰が悪いのでしょうか。

風でしょうか、竹でしょうか。

私は良い本を読んで、私の友人たちに手紙を書いて、そしてマインドフルでいようとしています。

私は、静かで、穏やかなここにいることを楽しんでいます。美しい青い空と、廻る白い雲。木々と鳥たち。

私は不幸ではありません。しかし娘がいないのをとても淋しく思います。彼女は私の人生の焦点になりました。

それで、いいですか、常に一つのものか、あるいは別のもの(あるいは誰か)があります。

ただ自分自身のために生きるのは難しいことです。

私たちはそのために生きる理想とか、誰かを必要とします。

世捨て人でさえ、そのために生きるべき理想を持っています。

親愛なる友よ、私はいつかあなたにお会いしたいのです。

それがいつであろうか知ろうとしないでください。

あなたは変わっていきます、そして私も変わっていきます。

それで、私たちが互いに異なっていることを見いだしても、失望しないようにしましょう。

あなたが真の自己である限り、私はそれで良しと感じます。そしてあなたも私について同じように感じるでしょう。

確実な一つのこと。私は誰も変える力を持っていません。私はそうすることに興味を持っていません。

私は決してグル(師匠)にはならないでしょう。

もし私が何かになるとすれば、私はとても簡素な人間になるでしょう、そしてまた謙虚な人間になりたいと思います。

私たちの友情をとても価値あるものと思います。

それは私が手放すことが難しいものです。

私は慈悲を持ち続け、執着を手放すように努めます。

あなたは私の友です。

それは私の最も深い感情をあなたと共有する十分な理由ではありませんか。

どうかあなたはそれに値しないと思わないでください。

あなたが理解してくれることを望みます。

私は十分すぎるほど長い間あなたと共に生きてきました。そして私は人間と関係を持つことについての長い経験から、人々について何かしらを知っていると思います。

私はあなたを知っているし、そして幾分なりともあなたを理解していると思います。

(それがまったく間違っているということはないでしょう)

どうかあなたを信頼し、尊敬し、理解する友人がいることを理解してください。

もしあなたとの間で問題がないなら、私は最も深い感情についてあなたに話し続けるでしょう。

もし私が何かしら特別であるなら、あなたもまた私の友人であるということにおいて、やはり少々特別であるに違いありません。


* * * * *

私の心にあこがれと熱望があります。

私はあなたに手を伸ばします。

あなたが私に手を伸ばしていることを知っています。

しかし私の手はあなたにとどきません。

何かが私たちを遠ざけます。

それは何でしょうか。

私の心に真空があるように感じます。

私は生きています。しかし本当に生きているという感覚がありません。

それなくして、どのように生きていると感じることができるでしょうか。

それなくして、どのようにあなたとつながることができるでしょうか。

それなくして、どのようにあなたは私とつながることができるでしょうか。

私たちは離れているでしょうか。

けれども私たちは知りません。

何が本当に私たちを離れ離れにしているのか。

ただ最近私は“それ”を持っていないことが分かりました。

かつては“それ”を持っていました。

そして“それ”を失いました。

“それ”を失ってしまったことを知りませんでした。

けれども私はいつも何かが欠けていることを知っています。

私の人生には生活がありません。

私は死んでいるように感じます。

なんとしてでも、私は再び“それ”をとり戻さなくてはなりません。

“それ”なくして人生は生きる価値を持っていません。

私が“それ”を無視し、心と体を、そんな特別のものに向けてしまったとは、何と分別がなかったことでしょう。

今私の心は泣いています。

何という嘘を生きてきたことでしょう。

このように生きてきたとは何という浪費だったことでしょう。

なんという無意味。

悪い条件付けを克服することができるでしょうか。

この嘘を克服する十分な勇気を持っているでしょうか。

健全な、有意義な生活を送ることができるでしょうか。

再び本当に健康になるための健康さをもっているでしょうか。

再び本当の全体になるために、そして完全な人間になるために。

              (セヤドー・ウジョティカ)

*******

私の理解と価値観が変化したために、かつて私は友人たちを失うことを恐れました。

けれども、今ゆっくりと、私はそれを受け入れることができます。

私自身に忠実でなくてはなりません。

今それは日常の仕事になりました。

もう強い興味はなくなりました。

私はどんな風であったか覚えています。

不確実でした。

希望がありました。

私には来ないのではないかという心配がありました。

大いなる悲しみがありました。

人生はそれほど強烈なものでした。

心の中の激しい痛み、刺し通すような、押しつぶすような痛みでさえ、それほど有意義でした。

少なくともそれは私の人生にいくらかの意味を与えていました。

すっかり明け渡し、すっかり与え、完全に理解して、完全に受け入れる。

二つが一つに融合することを熱望しました。

計画されていない、計算されていない、自発的なもの。

私がそれを得たとき、何かが欠けているように感じます。

欠けているものとは何でしょう。

私は知っています。

けれども定義することができません。

それは私たちがただ夢のなかで見ることができるものでしょうか。

手の届かないものであったとき、それは完成されたものに見えました。

私の手の中にあるとき、何かが失われてしまいます。

眼の錯覚です。




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