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 セヤドー・ウジョティカ(U)とスダンマチャーラー・比丘(S)との対談
  
日本の心

S、セヤドー、日本や日本人の印象はいかがですか。
U、第一印象は、日本人は働く以外の時間を持たないかのようです。常に働いて、働いて・・・。
他に何かする時間が残っていないように思います。家族と過ごすで時間さえ。
S、まったくその通りです。食べるのさえ仕事の合間に取ったりしています。
U、お金を稼いで、お金を使うことにほとんどの時間を当てているようです。
S、一つには景気があまりよくないという事情もあるのでしょう。
U、いろいろな要素があると思います。
中国経済が発展してきて、その影響もあるのでしょう。

ところで私は日本文化にとても興味があるのですが、まだよく理解できているとは思っていません。
今アメリカ人の書いた「日本の心」という本を読んでいます。
「日本の心」、それは私の知りたいことです。
日本の人たちがどう考え、何を幸福と感じているか。
彼らは何を考え、感じ、何が彼らを幸福にさせ、何が彼らを不幸にさせるのか。
そして私は良寛さんがとても好きです。
彼は決して不満を言わない人でした。
これは大変なことです。
もし人が、不満を語りすぎると、精神的には成長しません。
(でも私は未だにいろいろと不満を言いますが)

私は良寛さんに関する本をたくさん読みました。
この人はとても特別な人です。
とても質素(シンプル)で、自らを「大愚」(Big fool)と称していました。
彼は自然に振舞っていました。
とても親切で親しみのある人で、質素で、満たされていました。彼はお酒も飲みましたが、それもOKです。日本の伝統ですから。
この本は現代の日本についての本です。
私は昔の日本についても好きですが、現代の「日本の心」について知りたいのです。
日本人に「日本のこころ」について語ってもらいたいものです。

S、しかし、日本人も「日本の心」について分かっていません。
私たちは混乱しています。昔の日本文化はとても精神的で深いものでした。
しかし、この100年あるいは、第2次大戦後、日本は経済と金、金に傾き、今は混乱しています。
私たちでさえ「日本の心」が何か分からずに混乱しているのです。

U、それは大変難しいことです。
私は日本の若い人たちのことを知りたいのです。
彼らが何をしているのか、どんな風に幸福を見出すのか。何が彼らを幸福にさせるのか、満足に感じさせるのか。
お互いにどのような関係を持つのか。

何もしないことの幸福

U、私は若い頃ほとんど森の中にいました。
とても長い年月を、良寛さんと同じように。
もちろん瞑想していました。
私は森の中の、竹で編んだ小さな庵に一人住んでいました。
そこでは何もすることがありません。
私は、「何もしないこと」の幸福を感じました。
今日において私たちには、「在ること」と「持つこと」があります。
「在ること」はより重要です。
瞑想は何もせず、何も持たず、ただ「在る」だけです。
働く必要がないということではありません。
働くことはとても大切なことです。
しかし同じく、平安、静寂であることを学ぶ必要があります。
注意深く、気づいていることが必要です。

S、しかし日本人はまったく逆です。
人々がなぜ経済的なことに取り付かれているか。
それは何かの対象に執着しているからです。
私たちは、それを得れば幸福と思っています。
でもそれを得ればまた次のものを得ようと思います。
ですから、常に何かを得ようとしています。
幸福はそこにあると。
これはセヤドーのおっしゃった事と正反対です。

U、あなたはビルマに4年もいたのだから、「ビルマの心」についてはどう思いますか。
S、ビルマ人はとても幸福です。
U、幸福?
S、日本のニュースではミヤンマーについての悪いことばかり聞いていました。
私はビルマ人は抑圧されていると思っていました。
しかし反対で、彼らは幸福でした。
U、彼らは余り多くのお金や物を持っていませんから。
では、貧しい人たちはどうですか。あなたはどちらにいましたか。
S、パオの瞑想センターです。
U、村の人々は貧しかったでしょう。

何かを得ようとする

S、村の中に入って行くことがありました。
人々はとても親切で、幸福で、精神的であると思いました。
ビルマ人にとって瞑想は難しいことではないでしょう。
彼らの心は満たされていますから。
パオセヤドーは言われました。
心が満たされていれば、集中力を養うのは容易だ、と。
日本人や西洋人だと、「何かしなければいけない」と思って頑張ってしまうのです。
セヤドーが、集中しなさいというと「ウーン、ウーン」と力が入り過ぎるのです。
何かを得ようとして力み過ぎるのです。

U、緊張してしまうのですね。
S、筋肉が硬くなり、痛みが出、ストレスが増し、結局何も起こらないのです。

U、瞑想するときはストレスとは反対でなくてはいけません。
リラックスし、平和で、幸福で、静かで、楽しく。
何かを得ようとする時は「エゴイスト」になっています。
その後大変ストレスになります。

S、それで何も起きないのです。
それで、まだ努力が足りないと思い、さらに懸命にやろうとします。
そして半年もやっていると挫折してしまいます。
パオセヤドーは禅定に入ることを求めます。
ビルマ人たちは良いのです。心が満たされて平安ですから。
心が静かになればニミッタ(心がつくるイメージ)が自然に現れ、ニミッタに集中すれば禅定は得られるのです。
しかし日本人や西洋人は、パオセヤドーの本を読んで「ニミッタはこうで、第一禅定はこうで、第二禅定は・・・」と考えます。
それでニミッタや禅定が執着の対象となってしまいます。
それで瞑想では、ニミッタや禅定をつかもうとするのです。
森林僧院にいても、しているのは「何かを得よう」とすることで、これは働いていた時と同じことです。

U、同じ態度ですね。
S、この態度を変えなくてはいけないのですが、「何かを得よう」と訓練されてきていますので瞑想でも同じ態度になってしまうのです。
心が静まらないと、ニミッタも現れないし、禅定も得られません。
心が静かである時に、自然にニミッタや禅定が得られるのです。
ですから、ニミッタや禅定が執着の対象になるとまったく反対になってしまいます。
こんな人々をパオで多く見てきました。

U、いくつかの瞑想センターで精神を病んでしまった人がいると聞きます。
S、働いている時と同じ態度を瞑想センターに持ち込むのです。
社会ではそれでOKでしょう。懸命に働いて、懸命にお金を稼いで・・・。
それで瞑想センターでは衣を着て、「瞑想をするのだ」と言うのですが実際はそうではないのです。
それゆえに私たちは自らの態度を変えなくてはならないのですが、これは大変“微妙”なことです。

U、とても“微妙”ですね。
S、とても“微妙”です。私たちが態度を変えるとき、良く観察ができるようになり、瞑想できるようになります。現在において心が満たされると、入息、出息に留まることができ、それで自然にニミッタが現れ、自然に禅定に入れるのです。
U、これらのことを日本人に説明できるのですか。
S、そうしようと思っています。日本人は西洋人と同じ態度の問題を持っていますから。

U、多くの人が「ビルマ人はとても怠け者だ」と思っています。
S、ビルマ人は日本人やアメリカ人ほど過度に仕事はしませんからね。
でも彼らの心は満たされています。
U、ビルマ人は日本人からいかにして働くかを学び、日本人はビルマ人からいかにして瞑想するかを学べば良いと思うのです。
私たちはお互いに学ぶべきものがあるのです。

S、こういった問題はとても微妙です。
日本人はミヤンマーへ行って住み、まずその雰囲気に触れ、それから、次第に多くのことを学んで行くことができます。
U、ビルマ人はとても寛容です。与えることが好きです。
与えるものを持たない貧しい人たちでさえ何かを与えようとします。
S、まったくです。私はとても印象的でした。
とりわけ、僧に対してはそうです。

禅の中にヴィパッサナーを

S、セヤドー、日本の僧たちとは話されたのですか。
U、ほんの僅かの人たちとです。日本には禅の伝統がありますので、瞑想についてお話することができると思います。
日本や日本人に、ヴィパッサナーの実践の方法が禅の中に取り入れられると良いと思います。
S、それはまさに私の関心事でもあります。私は日本の禅僧でした。
そして私は良寛さんと同じ宗派に属していました。
日本の禅には大きく二つの流れがあります。
臨済と曹洞です。曹洞は只管打坐で“只坐る”を実践します。

U、“只坐る”というのは“只見る”ということと組み合わせることができますね。
S、“只坐る”というのは、人工的なものを加えないということです。
“つかまない”ということです。
それで何年も訓練した後に、パオでアーナパーナとヴィパッサナーを学びました。
それで私は禅定に入るのが容易だったのです。
それゆえ私は強くそのことを思うのです。
先ず第一に執着している心の態度を落すこと。
なぜなら日常生活の中で執着を持っていますから。
それで、執着を離れることを学び、それがあって初めてこのような緻密な瞑想法を学ぶことができるわけです。
つまり、テーラワーダの伝統的、サマタ―ヴィパッサナー瞑想です。

U、日本の僧は禅の中にヴィパッサナーを取り入れるべきだと思うのです。
それはとても美しい組み合わせだと思います。とりわけ曹洞においてはです。
S、また坐るときの態度についても、“手放し、手放し”で何もつかまない態度を持つことです。
只こういう心構えの時に入息、出息を見ることができます。
この心構えなく呼吸を見ても、呼吸が執着の対象になってしまいます。
私の見るところそういうことです。

すべてのことをマインドフルに

U、日本の禅の伝統においてはすべてのものを芸術(道)にしています。
このような伝統を基礎に、日本の人々に、すべてのことを“マインドフルに”(*註1)行うことを教えることができると思います。
日本の禅の伝統の中には既にそれがあるのです。

S、セヤドー、問題は日本の禅の人々はその原則を知らないということです。
例えば茶道ですが、茶道は禅と共に発展してきました。
茶道では一つ一つの動作で、茶碗を注意深く扱います。
しかしそれは何のためにでしょう?禅の人はこまごまとした作法の詳細について語ります。
しかし、要点は“マインドフル”を成長させることなのですが。

U、茶道は瞑想法の一つですね。
もちろん茶道は芸術の一つとしてとても洗練されてきました。
しかし日常においても、私たちがすべきことを注意深く(マインドフルに)するならそれは瞑想になるということです。
だから日本の人々には既にそういう基礎があるのです。

S、禅の修行において歯を磨いたり、トイレに行ったりする時、私たちは偈を唱えます。
例えば歯を磨く時は、「口の中を清浄にし、話を清浄にします」と。
そのとき歯を磨くという行為が仏教の修行になります。
トイレに行く時も、顔を洗う時も・・・。
ですから禅の中にはすべてがあるのですが、人々はその要点を知りません。

瞑想を分かりやすいことばで説明

U、人々に思い起こさせなくてはなりません。説明しなくてはなりません。
人々は知らないのです。それで人々は学びたいのです。
私の本が広く読まれているのはそのためです。
人々は学びたがっています。
しかし、誰が教えるかです。
私は多くのビルマ人達が学びたがっているのに驚きました。
外見的には彼らは俗っぽく見えます。若い人々は長髪で、ジーンズをはいて・・・。
しかし彼らは瞑想に興味を持っています。

S、ですから私たちは瞑想を分かりやすいことばで説明しなくてはなりません。
多くのセヤドーたちは清浄道論(Visuddhi Magga)などの伝統的な言葉で語ります。
それでは誰も理解できません。
ですから私たちは分かりやすく「通訳」しなくてはなりません。
“マインドフル”とは何なのかを人々に分かりやすく説明する必要があります。

U、簡単な言葉で、簡明で、楽しくて、分かりやすい言葉で。
そうすれば少しづつ進んで行きます。
S、例えば歯を磨く時に心は先々のことを考えたりします。
しかし心が“今ここ”にあればとても幸福になります。
そしてこのような幸福感を得る時、なぜマインドフルが重要なのかがわかります。
マインドフルが私たちに幸福感をもたらします。
ここが要点です。

U、学生だった時、勉強する前に瞑想をすると勉強が良くできました。
寝る前に瞑想すると良く眠れました。
その後すべてを一瞬一瞬で見る。
私は人々に、電話をするときはマインドフルにしなさいと言います。
今日、人々はしょっちゅう携帯電話をかけますからね。
そして車の運転もです。特にビルマ人は運転する時にいつもカッカしていますから。
S、ビルマの道はカオス状態ですから。運転手はいつも怒ってます。

U、ですから人々に、マインドフルに(心を込めて)やるようにと言います。
日常生活においても。
その後に、より成長するために瞑想センターへ行けば良いのです。
ビルマの若い人々はよく瞑想センターへ通っています。
S、私がビルマで印象的だったのは、在家の人々が数日であっても瞑想センターへやって来て瞑想していたことです。
日本ではこういうことは考えられません。ほんの僅かな人以外は。

日本の人々にはバランスが必要

U、私は日本が好きです。日本の文化、日本の人々。
でも私には日本の言葉が分かりません。
そして私は日本文化を完全には理解していません。
よりよく理解するためには人々と交流する必要があります。
私はビルマの若い人々のことは良く理解できます。
ですから私の話すことに人々は興味を持ちます。
私が書く本を彼らはよく読みます。
ですからまず彼らの気持ちを理解する必要があります。
彼らの抱えている問題について。
彼らにそれを示してあげるのです。
それで日本の人々にはバランスが必要だと思います。
働いて、金を稼いで、感覚的な喜びに浸って・・・。
人々にはそれが必要ですが、時には平和で静かな心も必要です。
ですからいかにこの二つをバランスさせるかです。

S、多くの人々は、幸福というものが“執着するものに在る”と信じています。
アルコールを飲んだり・・・。
だから幸福でありたいと思ったらより懸命に働こうとします。
しかし幸福はそこにはありません。
しかし彼らには、平和で静かな心の経験がないのです。
セヤドーが言われたように、森の中には何もありません。
しかしほとんどの日本人には、幸福は何もないところにある、ということに考えが及びません。
U、条件付けられない(unconditioned)幸福です。

その人その人をよく理解

S、ではセヤドー、何かを得ようとするビルマの若者にはどのように説明しているのですか。
U、ウーン(間)。私は何も教えたりはしません。
私はイギリスの詩人アレキサンダー・ポープの詩から多くを学びました。

人は、教わっていると思わされずに教わるべきである。

これは心理学的にとても深いものがあります。
ですから若い人々に会うと、彼らの生活について尋ね、悩みについて討論します。
彼らは私のことについて、何をしているか知っていますから、私はマインドフルであるよう励まします。
「1時間坐りなさい」とは言いません。
彼らに強いると、学ばなくなります。
ですから私は瞑想のやり方を簡単(シンプル)で自然(ナチュラル)なものにしたいのです。
そのようにすると多くのビルマ人が学ぶようになります。

なぜなら多くの人々は、瞑想というのはとても難しいものだと思っています。
だから、自分でやってみようとは思いません。
しかし私は言います。瞑想は人間の本性(自然)であり、とても簡単なものです。
誰でもできるものです。
5歳の子供にもできるのです。
禅定は無理ですが、“マインドフル”に歩くことを教えることはできます。
人はそれぞれ異なっています。
その人その人をよく理解して、その人がどのようにしたら自然に学ぶことができるかを見ます。
これは学校でも同じで、学生達が興味を持てばよりよく学ぶことができます。
それで私は、人ごとに違った瞑想法を適用しています。

瞑想は人間の“本性”

瞑想は人間の“本性”です。
例えば私が若かった頃、美しい風景を見るのが好きでした。
日の出、夕陽、坐って山を眺めること。木々、空、小川、岩、小鳥のさえずり、・・・それらがとても好きでした。
それが私の瞑想に繋がります。
音楽も同じです。私は音楽をやっていました。
始めは耳で聞きます。後に、音が体の外からやってくるのを感じます。
それで私たちは“自然”に瞑想することを学んでいくように思えます。
そしてそれを基礎にして、“自然”に瞑想することを学ぶことができます。
面白いことに私は、日本の文学に関して沢山の本を書いています。
日本の詩を基にして、ヴィパッサナーの本を書いているのです。
S、ほぉー(笑)

U、私は既に和歌、俳句を基にして三冊のヴィパッサナーの本を書きました。
あなたもそうしてみてはいかがでしょうか。
それは人生のアート(技術)です。そしてそれらはベストセラーになっています。
ですから日本の人々はとても素晴らしい文化的な基盤を持っています。
とても幸福でとても豊かなものです。
人々が求めているものを教えるべきです。

人々の話を良く聞く

U、私はビルマで人々から学ぶように努めています。
人々の話を良く聞きます。
「それで、それで」と耳を傾けます。
それから彼らが求めているものを与えます。
気分の悪い人がいます。そんなときは医者へ行きます。
「先生、気分が悪いのです」
「どうしました?」
「よく分かりません」
人々は自分の病についてよく分かりません。
「私は疲れて、病んでいるようです」

私はビルマでアルコール依存症の医者を知っています。
私は若い頃車酔いがひどいものでした。
それで列車で旅をしていると気分が悪くなりました。
友人達は心配してくれました。
私は、「大丈夫、少し寝れば直ります」と言いました。
友人は心配して医者を呼んできました。
他の医者はとても忙しかったのですが、この先生はアルコール依存症なので患者が来なかったのです。
彼は何もすることがなかったのでやってきました。
注射してビタミンをくれました。私は言いました。
「先生はお忙しいのでしょう」
「いいえ、日に5、6人の患者が来るだけです。忙しくありません」

それから先生は、次第に瞑想に興味を持ち始めました。
医者は瞑想について私にたずね、彼は朝夕瞑想するようになりました。
彼は次第に酒を飲まなくなりました。
そして2年後にはまったく止めてしまいました。
10年にもわたって飲み続け、止めることのできなかったものが、2年で止めてしまったのです。
タバコも止めました。

彼は患者の話を注意深く聞くようになりました。
「家族のことを聞かせて下さい」
「私は農民で、5人の子供がいて・・・」
そして彼は患者の仕事や生活の問題を聞き、言います。
「あなたの問題は家族にありますね。
あなたは家族と良い関係を作る必要があります。
そうすれば、病気になる原因を取り去ることができます」
病は症状であり、真の原因は・・・。

一番の問題は家族

S、真の原因はそこにあります。
セヤドー、日本でも一番の問題は家族にあると思います。
私たちは互いに親しくすべきです。
家族は愛の場であるべきなのですが、今日の日本の家族は争いをかかえています。
ビルマの人たちの家族でも同じことが起こっていいるのかもしれません。
そんなときどんな助言をなさるのでしょうか。

U、病気は体の問題だけではなく、心からも来ています。
患者を治療するには、彼の人生を理解しなくてはなりません。
同じように、瞑想の先生も医者です。
心の先生です。
その人について理解するほど、彼が自然であるためには何が適しているかを教えることができます。
“自然に”が必要です。
ですから日本の人々も、手遅れになれない前に、何かが必要でしょう。
あなたのような人がそれをすべきです。私には私の国の人たちがいます。

お年寄りの孤独

S、先ず手始めに自分の家族の面倒を見なくてはなりません。
それから他の家族です。
今日本では高齢化が進んでいます。
孤独なお年寄りが問題になっています。
日本の老人達は幸せではありません。
U、誰も面倒を見ようとしないのですか。
誰も話す人がいなくなって、ただ一人座って・・・。
孤独というのがとてもよくないのです。

S、それでお年寄りは心の健康を損ねてしまいます。
ビルマのお年寄りは家族と共に暮らしています。
ビルマはまだ大家族制が残っています。
日本では違います。お年寄りと若い人とは別々です。
それで多くのお年寄りが孤独で、刺激もなく、苦の中にいるのです。
U、意気消沈しているのですね。
多分日本のお年寄りは老いることを恐れているのでしょう。

S、そうなのです。
私たち仏教徒であれば、老いと死は自然なのですが。
私たちは修行として老いと死を受け入れ、老いと死に対して肯定的な心構えを持ちます。
しかし日本のお年寄りは自らの人生に対し、そのような心構えを持ったことがありません。
とりわけ死についてまったく考えてこなかったのです。
それで彼らはもう考えたくないのです。
考えたくないからスイッチを切ってしまうのです。
U、スイッチオフですね。

S、まさにスイッチオフです。それが私の印象です。
でもこれは恐るべきことです。
私たちは日本のお年寄りに何と言ってやれば良いのでしょう。
死についてどう向き合うか、きわめて難しいことです。
なぜなら今までまったくしてこなかったのですから。
ずっと考えていないのです。
U、調査することが必要です。
お年寄り、若い人、結婚している人、離婚した夫、妻・・・。
話を聞いて如何にしたらより良い人生を送れるかを話してやることです。

日本の物語

私は日本やアメリカに関する本を読んできました。
そして、世界中を旅行してきました。
それで、問題と言うのは世界中どこにでもあります。
人間世界ですから。ですから、いかにして彼らを理解するかに努めます。
そして、それらの問題に対し「簡単に、自然に」できることを見つけるようにします。
それで私が読んだ限りでは、日本の伝等の中に素晴らしいものがたくさんあります。
死に関してもです。

例えば、こんな話があります。
禅の老師が死を迎えつつありました。
弟子達は老師の周りに集まり、最後の言葉を待っていました。
弟子の一人が、最後のダンゴを差し上げました。
老師は一口食べました。
やがて、弟子が聞きました。
「老師、最後のお言葉を」
「ウーム、ダンゴが旨かった」(笑)

これはどういう意味でしょう。
“何も特別なことはない”ということです。
死は特別なことではありません。自然なことです。
ブッダはとても大事な言葉を残しました。
「マインドフルにしなさい」
こういう話を人々に語ることができます。
物語りを学んで、物語りを語ります。
より深い、実際的なものにします。

なぜなら、日本の中にも物語りはあります。
それは日本の文化です。日本の心です。
それを使うのです。物語りを語ることは、文化の基礎です。
教育の基礎です。宗教の基礎です。歴史の基礎です。
物語りは重要です。もし、人々に、何かを教えたかったら、物語りを語るのです。
「清浄道論」を語ってはいけません(笑)。
それは後の話です。
「清浄道論」は僧のためのもので、在家の人々のためのものではありません。
私は、日本の物語りがとても好きで、それをビルマの人々に語って聞かせます。
彼らは日本の話をとても愛しています。

S、皮肉なもので、欧米では良寛さんに関する本は沢山出ていますが、日本においては本はたくさんあっても日常生活の文脈で、誰も良寛さんをとりあげません。
U、私はいつも娘に良寛さんの話をしています。
「良寛さんはこう言った・・・」と。
ですから、日本の人々に良寛さんのことを教えてあげてください。
既にこのような偉大な人がいたのです。
日本文化はとても洗練されています。
S、かつてはそうでした。
U、それを取り戻せば良いのです。
ビルマ人は、良寛さんの筍の話がとても好きです。
(床の下から筍が伸びてきたので、床に穴を開けた話)

ある種の攻撃性が今の日本に

S、ビルマの人々は他人の面倒を見るのが好きです。
日本人もかつてはそうでした。でも今はどうでしょう。
ある種の攻撃性というような雰囲気が今の日本にはあるような気がします。
何かとてもイライラして、不満で一杯のような。
それで何かを攻撃すると言うことに。

U、それは今の話ですか、それとも以前の話ですか。
S、私は5年間日本を離れていましたからはっきりとは言えないのですが、帰ってきて家族や友人と話し、電車に乗り、その中で先ず日本人は幸福ではない、と思いました。
それは幸福について根本的な思い違いをしているからです。
どこに幸福を見出すことができるでしょう。
人々は間違った所に見出そうとしています。
この思い違いをどのように変えることができるでしょうか。

U、それには長い時間が必要です。
智慧と、親切さと、優しさで人々に教えることができます。
彼らを助けてあげなさい。彼らは病人なのです。
あなたは、日本人は厳しく、イライラして攻撃的だといいましたが・・・。
S、帰ってきてから、何かしらそのように感じるのです。
U、以前よりもですか。
私が言うのは、症状が重くなっているのかと言うことです。
これは社会的な病です。
どのようにして彼らを助けることができるでしょうか。
もし私が日本人なら、質素で自然な生活に興味を持つように、本を書きます。

一生懸命働く。それはOKです。
一生懸命勉強する。それもOKです。
でも静かで平和な時間を持ちなさい。
お互いに楽しむ時間も持ちなさい。
親切に、そしてマインドフル(心をこめて、注意深く)にしなさい。
マインドフルにすると自然に他の人々のことも理解できるようになります。
15年もするとまったく違った人間になります。
彼らは已然として一生懸命働き、一生懸命勉強しますが、“物質主義者”ではなくなります。
外でいやなことがあっても、家の門をくぐると手放します。
そして瞑想します。「何事もそんなに重要なことではない」。

良く働いてお金を稼ぐ―それは良いことです。
問題はバランスです。働き勉強する時間、父や母、子供たちと過ごす時間、友人たちと過ごす時間。お互いの生活から学びます。
それが重要なことです。
1000年前には車も飛行機もありませんでした。
しかし一緒に働き、食べ、寝ていました。でも今は別々、別々です。

S、ミヤンマーでは人々は今でも一緒に暮らしています。
私は、ほんとにビルマ人の家族が好きです。
若い人々はお祖父さんお祖母さんや親の面倒を良く見ます。
これはとても大切なことです。
しかし日本ではどうでしょう。
お年寄りは尊敬されていません。ここが問題です。
ここがビルマの家族と違う所です。
日本のお年寄りが不幸なのはそこにあります。
それでスイッチを切ってしまうのです。

U、彼らはもう何も考えたくないのですね。
でも、若い人々はお年寄りを見て、「いつか自分も同じようになる」と思うでしょう。
S、お年寄りは、「自分には価値がない」と思うのです。
U、どうしたら良いのでしょう。
私には分かりません。
まず、若い人々とお年寄りたちの問題から始めることです。
S、私にとって、若い人々とお年寄りはこれから取り組んで行きたい二つの課題です。
U、お年寄り達が元気を回復するような特別な何かを始めることです。
そして、若い人々が元気を回復するような特別な何かを始めることです。
彼らは幸せになるでしょう。
多くの人が興味を持つでしょう。
それを理解して、心から慈しみの心でするなら、多くの人々が幸福になるでしょう。
日本の人々のためにそれをしてください。

瞑想センターができれば

S、ビルマのお寺で印象的だったのは、老若男女、いろいろな人たちが集まっていると言うことです。
しかし日本では特別の人以外は瞑想センターに行きません。
U、多くの日本人がミヤンマーへ瞑想に来ます。
シンガポールやマレーシアや西洋からも。
でも日本に瞑想センターができれば、そちらへ行く人もいるでしょう。
ですから瞑想センターを作ることも必要です。
多くの人々と話してみてください。
喜んでダーナ(布施)する人も出てくるでしょう。土地やお金や家を。
日本人はお金持ちですから。

S、自分のためにお金は使っても瞑想センターに使う人はあまりいないようです。
U、いろいろな人がいますからね。
自分のためにしかお金を出さない人。意味のあることにお金を出そうとする人。
これは社会的な福祉のためのセンターです。文化的なセンターです。
禅の瞑想とマインドフルの瞑想が一緒になれば良いのですが。
S、とても興味があるものです。
U、私はミヤンマーの僧も日本の瞑想センターで禅を学べたら良いと思います。
互いに学ぶことができます。双方向です。

仏教はナチュラリズムとヒューマニズム

S、とても元気付けられるお話です。それはできるでしょう。
セヤドーの瞑想は堅苦しくなく、“自然に”ということを言っているのですね。
U、私はナチュラリストです。
私はナチュラリズムとヒューマニズムが好きです。(*註2)
仏教はナチュラリズムでヒューマニズムだと思っています。
日本の文化には、ナチュラリズムはあります。
でもヒューマニズムはどうでしょう。そこが弱いようです。
そこが弱いとすれば、危険な兆候です。
人間存在はもっとも大事です。自然も大事です。
ヒューマニズム、ナチュラリズム、仏教、禅、それらが一緒になることが必要です。
そうすれば素晴らしいものになります。

S、セヤドーのような方と日本の仏教の人々が交流すればより建設的なものになると思います。
双方向です。
今回は時間がありませんが、次回は是非設定したいと思います。
U、それはとても喜ばしいことです。
多くの人々が幸せになるでしょう。
S、私は、「大乗仏教はこうである。テーラワーダはこうである。自分のところだけが正しい」と思うのは良いとは思いません。
U、まずマインドフルに、です。
他のものは後からついてきます。
そしてより親切にすべきです。

「親切に」が必要

S、すべての仏教の先生方は、一言「親切に」と語ります。ダライ・ラマもそうです。
なぜかというと、今余りにも「親切さ」が欠けているからです。
互いに親切にすることが必要だと思います。
日本では家族の中でも人々が殺しあっています。
互いに憎しみあっています。
U、悪いことがあったとしても、良いことをすることによってバランスを取ることができます。
カウンターバランスです。

S、21世紀においては絶対に必要なことです。
U、ですからあなたのような禅で学び、テーラワーダで学び、ミヤンマーやスリランカを見てきた人は、違いを知っているから良い考えが浮かぶと思います。
友人達と話し合ってみてください。
100人の人と話してください。失望しないでください。
人々に話せば喜ぶでしょう。
マザー・テレサのことを知っていますか。

S、ええ、マザー・テレサですね。
U、マザー・テレサが若い頃、カルカッタで人々を助けホームに連れてきました。
彼らには食べるものがありませんでした。
それで人々に、「何かを下さい」と頼みました。
人々は怒って、お金を投げつけ、「あっちへ行け、もう二度と来るな」と怒鳴りました。
彼女は「ありがとうございます。ありがとうございます」と言いました。
後に人々は彼女がとても親切で、慈しみの人であることを知りました。
そして、世界中が彼女のことを知るようになりました。
あなたもまず“与えること”から始める事ができると思います。
S、セヤドー、今日はとても建設的なお話で楽しかったです。
U、お会いでき、お話できてとても幸せでした。

註1:“マインドフル”は“サティ”の英訳で、日本語としては「念、気づき」と訳されることが多い。しかし解説によるとこの言葉には「気づき、注意深さ、熱心さ」の意味が込められているという。これを一つにして言い表す適切な言葉が見つからないので“マインドフル”のままにしておいた。

註2:“ナチュラリズム、ヒューマニズム”も同じように、「自然主義、人間主義」とするとセヤドーの言っているニュアンスからずれてしまいそうなのでそのままにしておいた。



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