ホームへ



夏の雪 (2)

 第1章は瞑想とマインドフル(気付き)について論じており、もっとも興味深い章です。
あるソーシャルネットワーキングサイトにT.Sさんが「夏の雪」第1章を訳されているのですが、会員でないと見られないので、こちらに転載できないだろうかと申し出たところ、快く了解してくださいました。ここに掲載させていただきます。かなり長い章なので二つに分割しました。


夏の雪 目次 全章の概要
夏の雪 第1章(後半)



夏の雪  序文・第1章(前半)サヤドー・ウジョティカ


序文  自己紹介:サヤドー・ウ・ジョティカ(自伝的に)

表現する必要をとても感じます。これは私たちの成長にとても大事なことです。もし、書き留めておく機会がなかったなら、あなたの創造的な思考もどこかへ行ってしまうでしょう。そう…、これはまた別の意味で執着でもあるのです。私はその執着を手放すことができません。

 何回も書こうと思ってペンをとり、また何回もそのまま置いてしまいました。言葉にするのがとても難しいものが、自分の胸のうちにあるのです。私が説教しているなどとは思わないでください。私は自分にとって本当と思える個人的な観点(感じ方や観察)について語りたいと思っているだけのことなのです。

 自分が言ったことは、かなり多く、簡単に誤解されるでしょう。誰かが私の言ったことの揚げ足を取って、私に反論する可能性もあります。手紙という形で、私の伝えたいことを分かりやすく書くのは本当はムリなことです。話して伝えることでさえ、とても難しいことです。とはいえ、私の観点を伝えてみようと思います。

 私が言うことは、偉大な著作の内容とは一致しないかもしれません。あなたに賛同者になってほしい、という訳でもありません。それは普遍的な真実というわけではないのですから。1986年10月時点の私の意見というだけです。私は、他のすべての存在と同じように、変わりゆくものです。

 私が間違ったことを言っていたら、許してください。私はいつも混乱している人間です、信じられるかどうかは別にして。いつか私は幸福になることでしょう。私のことを少し言っておくと…、私はモスリム[イスラム教徒]の家に1947年8月5日に生まれました。ローマン・カトリックの学校で教育を受けました。

私はこの世のいろいろなことについて、本で知りました。若いときは、ちゃんと組織だった宗教を信じなかったので、共産主義者と呼ばれました。今は、組織的な宗教を信じているかっていうと?ウーン、何ともいえないですね。

 私は19歳の時からビク(僧侶)になることを考えていましたが、その代わりに大学に行きました、それで、そこでの教育にとても不満足感を覚えました。そういうものならばと、独学で勉強しました。ほとんどすべての人が、地位や金銭、快楽などを求めて、学ぶものだというのを知りました。とても浅はかなことに。なので、教育というのはトラブルに巻き込まれるだけのものだ、と結論付けました。人生の残りをそんな風に過ごすわけにはいかなかったのです。

 私は娘をとても愛してはいたのですが、家族のもとを去りました。この競争的な社会のなかには、私の居場所はありません。ビクになって森の中で暮らすことが私にとって最善の生活です。それは私の気質も合っているのですから。そう、私の祖母はシャン族(Shan)でした。彼女は長く平和なおだやかな生活を送り、80歳ぐらいに亡くなりました。私はその時14歳でした。祖母とはとても親(ちか)しかったのです。私は日頃よくお祖母さんのことを思い出しました。

 私はシャン族の人々が好きです。彼らはとても人当たりがよいのです。メイミョー(Maymyo)のあたりには、シャン族の人たちがたくさんいます。あるものは、私たちと同じイェー・チァン・オー村(Ye Chan Oh Village)に住んでいました。他にはイェングウェーと呼ばれるシャン族が大半を占める村があって、そこでは彼らはシャン語を話します。シャン族の高齢の婦人には、私の祖母に似ている人がいます。--静かで、穏やかで、愛情豊かで、簡素で、忍耐強く、足るを知っていて、押し付けがましくなく、とても人懐こい。

 近代の都市の人たちとは、どんなにか違うことでしょう。お金持ちの人たちというのは、とても疑い深く、みんな自分の金を目当てにしていると思っていたりします。私と家族の関係について、あなた方から尋ねられたことがありました。決していいものではありませんでした。私の家族の中で好きなのは、姉だけです。彼女も私のことを愛してくれています、理解はできませんでしたが。

 そう。「自分はあの家族の一員だと感じたことはありません」。自分は家族の中では、異邦人のようでした。たぶんいつか私は姉に会いに行くでしょう。私と両親の関係は、愛と憎しみの関係でした[love-hate relationship](両親とも今は亡くなってしまいましたが)。私は家ではとても孤独でした。あなたが自分の家族とどういう関係なのかは知っています[文脈から、同様にあまりよくないと思われる]。

 それでもいいでしょう。私たちは愛や理解を別のところで見出だすのです。あなたが何をしようと、何が起ころうと、私はいつもあなたの父であり、兄弟であり、友人であり、カウンセラー、その他いろいろであり続けるでしょう。

 私は2つの文化の狭間に生きてきました。--東洋と西洋という。ビルマ(ミャンマー)に生まれながら、西洋風の学校で教育を受けました。いろんな種類の宗教に触れてきました--仏教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、イスラム教--そして、哲学を通じて唯物主義にまで。私はそのどれかを真面目に信仰することにはなりませんでした。

 西洋の心理学--フロイト、ユング、アドラー、ロジャース、レーン[R.D.Laing]、ウィリアム・ジェイムス、そして他の多くの人たち…。西洋哲学--ソークラテース、プラトーン、アリストテレース、ヘーゲル、カント、ニーチェ、キェルケゴール、バートランド・ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、ベルクソン、など。--もう、これだけいろいろあるので、結局は、とっても混乱しました。

 私は電気工学を勉強し、最近の科学理論、ブラックホール理論なども読みました。私は確信を持っている人っていうのは、ほとんどいないのだということがわかりました。もっとも知らなければならない大事なものは、自分のマインド[心, 意識の働き]です。そうなのです、私は自由が欲しいのです。これは最初から分かっていたことなのです。私の自由は売り物じゃないのです[訳者註:別に外をあさって、色々本を読むまでもなかった。売ってないのだから。] 

 同じところに長く住んでいると、自分が牢獄にいるような気になってきます。ビルマの伝統的な言い方だと、私は獅子なのです。獅子のように、山で咆哮したいと本当に感じます。あー、自由よ…私はどんな制限も、束縛も、縛り付けるものには、耐えられない。愛着でさえも私の自由を制限するので、好きなものではないのです。

 人々が私を慕ってくれると、それは自分には自由への脅威とも見えるのです。私は自由を愛し、他の何者にもそれは代えられない。私はマインドの自由も愛する。なので、私は何がマインドを牢獄に閉じ込めているのかを見ていきたい。

 私はピタカ(定義については、「語彙註解」参照)をたくさん読みましたが、自分が何かが分かる(見える)ときには、自分自身で新しい発見をした気になりました。それらのシンプルな真理を自分自身で発見すること。なんて嬉しいことでしょうか!エウレカ![訳者註:やったぞ、見つけた!(アルキメデス)]

 本で読んで知っただけなのに、自分が知っているかのように話す人たちを見ているのは、私には耐えられないのです。でも時々自分がそういうことをしているのに気付くこともあります、今となってはだんだんそういうことは減ってきていますが。山に住む獅子なのです、私は。私は独りですが、もはや寂しいということはありません。

 私は一人で生きていくことを学びました。時々、自分の深く理解したところを話したくなりますが、それを聴く聴き方を知っていたり、理解したり、喜んでくれるような人を探すのは難しいのです。ほとんどの場合、私は聴くほうの人です。人々は私に話したがります。私は自分が独立して自由でありたいと望んでいます(精神的なことも去ることながら、肉体的にも)。これは私の一番強い願いなのです。

 自由の形や段階にはいろいろあります。何があろうと、私は自分の命ずるところに従うつもりです。もしかしたら、私の友達をがっかりさせることとなるかも知れません。かなり沢山の人たちから頼られているところがありますので。とても期待にはこたえられそうにはありません。私は、人に合わせて行くことでなく、自分の自由というものに向かっています。

 私は『思い出、夢、思想』[英訳では "Memories, Dreams, Reflections"]というユングの著作を読んでいました。(*1)

 私は彼のアイデアのいくつかをとても面白く感じました。彼が自分について言ったことは、私自身についても当てはまるようなのです。なので、そのなかから引用して、あなたに伝えます。

「子ども時代、自分は一人なんだと思った。そしていまもそうである。というのは、他の人たちが明らかには知らないことがらについて、また大多数が知ろうとも欲しないことがらについて、知っていて、またほのめかすようなところがあるので。」

 孤独というのは誰も周りにいないから起こるのではなくて、自分が大事だと思うことについて、他の人とうまく理解し合うことができないとか、他の人が認めてくれないような観点を、自分が持っていることから生まれてくるものです。もし、誰かある人が、他の人々よりももっとものが分かってしまったならば、彼自身は孤独になるのです。

 しかし、孤独というのは仲間であることに決して邪魔になるものではないのです。というのは、孤独な人というのは、仲間という考え方にとても敏感で、また、個々人が自分の個性を心に留めていて、他の人たちが同じ考えであるような錯覚をしないときだけ、仲間は成長するからです。(*3)

 私は自分に課せられた内的な法則に常に従わねばならず、選択の自由が残されていなかった。もちろん、私は常にそれに従ったわけではない。いったい誰が矛盾なしに生き得られるだろうか。([ユング]「輪廻転生について語るなら、私の場合は、私に生をもたらしたものは、根本的には、理解することに対する情熱的な欲求であったに違いない。というのは、これが私の性質のなかで最も強いものであるから。」)

 「私はまた、人は自分自身のなかに生じた考えを、価値判断の彼岸で、真実存在するものとして受け入れねばならないと、はっきり覚った。もちろん、真偽という評価の範疇はつねに存在しているが、しかしそれらには拘束力はなく、副次的なものである。 

 したがって思惟の存在が、われわれの主観的判断よりも重大である。しかしこれらの判断も決して抑圧されてはならないのであって、判断もまたわれわれの全体性の現われに属している。[ユングが病床での経験を綴った「幻像」という章の最後の文章]」(そう、だから、すべてに気付いていなさい)。(*2)

 情欲(パッション)の地獄を経なかったものは、また情欲を克服することもない。情欲が隣に住んでいても、いつなんどき炎が燃え広がり、自分の家に火の手があがるかもしれない。われわれが見棄て、置き残し、忘れ去ったときには決まって、なおざりにしたはずのものが、力を増して舞いもどってくる危険がある。(自分の情欲の上にあぐらをかかないで。それに気付いていなさい。私にとっては"やり過ごす"というのは"行動に移す"ことを意味しません。「それらに気付いている」という意味です、それを心全体で経験しなさい)

 「われわれは進歩という奔流に身を投じたが、その進歩のわれわれを未来へと流しさる力が狂暴であればあるほど、われわれをますます根こそぎにしてしまう。…前進による改善、つまり新しい方式や工夫による改革は、もちろんはじめは感心させるものであるが、時の経つとともに、それらは疑わしくなり、いずれにしても高価につく。

 それらは決して、全体としては人々の満足や幸福をたかめるものではない。たいていは、人間存在のはかない甘味料である。それはたとえば、不快な、ただ生活のテンポを速めるだけの、そしてわれわれに昔と比べて時間のゆとりをもたせない、迅速な報道機関のようなものである。」(なので、できる限りシンプルに暮らすこと)

 「私は電気を使わず、炉やかまどを自分で燃やし、夕方になると古いランプに灯をともした。水道はなく、私は井戸から水をくみ、薪を割り、食べ物を作った。このような単純な仕事は人間を単純化するものだが、それにしても単純になるということはなんと困難なことであろう。 」

 「ボーリンゲン[スイス・チューリッヒ湖畔の地名]の塔のなかでは、幾世紀かを同時的に生きているようであった。その塔は私よりも生き延びるであろうし、位置とか様式とかでは、塔はずっと昔の過去を示している。現在を思わせるものはなにもない。もし16世紀の人間がこの塔に入ってくるとしたら、彼にとって新しいのは石油ランプとマッチだけであろう。その他のものについては、難なくよく心得ているであろう。

電灯とか電話など、死者を煩わすものはなにもない。」(カール・ユング)

 まだまだ、書き足りないですが、ここで止めておきましょう。死にそうに退屈してしまったでしょう。私はいくつかの意味で反逆者なのだと思う。人生を通じて反逆者でした。私の幻想…山の奥深くに住み、人々から遠くはなれ、また騒音は最低限必要なだけにして、静かに平和に暮らしていたい。私にも泣くことがあるかって?そうだねぇ、私のような老僧にも、まだ泣くための涙が残っているなんて誰が信じるでしょう。

 私の性質はゆっくりと燃える燃えさしの薪みたいなものです。君には炎は見えないかもしれないが、でもなんにせよ、それは燃えているのです。私は批判して欲しくありません、私は理解して欲しいのです。私もまた完全ではない者だから。

 私はさらにもっと不完全になってきています。だから批判的な精神を持っている人たちは怖いです。一人にしておいてほしいのです。彼らは、「僧というものは誰にも何にも執着してはいけない」という。でも、私にはそういうことはできないのです。

 私はただの僧ではなく、人間でもあるからです。私は誰かになろうとはしません。ただ私はベストを尽くして理解したいだけなのです。自分の生活で、自分の精神で、自分の心で、何が起こっているか理解したいだけなのです。名声も名が知れ渡ることも不要です。私がいなくなったら、何も残らないで欲しい。

*** 訳者註 ***

(*1)ユングの著作『思い出、夢、思想』からの引用については、『ユング自伝 2--思い出・夢・思想--』(ヤッフェ編 河合隼雄・藤縄 昭・出井淑子訳 みすず書房)を参考とさせていただいた。

(*2)「情欲の地獄を~力を増して舞いもどってくる危険がある」までは、(*1)に挙げたユングの著作にもそのままの形で存在する。引用符が必要とも思えるが、英文原文のままにしてある。

(*3)「私は自分に課せられた内的な法則に~生き得られるだろうか。」も、ユングの著作にそのまま同様の記述が見られる。著者がそのまま肉声として語りたかったとも解釈できる。



パーリ(Pali/Pa.li)語 語彙註解

[カタカナの見出し語に続く括弧( )内の表記はパーリ語の表記です。]

アビダンマ(Abhidhamma) ---仏典,三蔵の3番目の部分(戒、経、論のうちの「論」)。仏教徒の心理学、哲学の論述を含む。

アクサラ(akusala)---不善であること(心の状態)

アナーガーミー(anagami)---悟りへの第3番目の段階を成し遂げた者、[不還果]

アナッター(anatta)---自分というものがないこと、無我、没我

アナッタァラッカナ・スッタ(Anattalakkha.na Sutta)---無我の特徴についての経 (「無我相経」)

アニッチャ(anicca)---無常

アッパキッチョ(appakicco)---義務や責任がほとんどないこと

アラハト/アラハン/阿羅漢(arahat)---悟りの最終段階を実現した人

アッター(atta)---人

アヴィッジャー・パッチャヤー・サンカーラー(avijjapaccayasankhara)---無明に縁って行が生じる

バーラ(bala)(バーラー(bala))---愚者(愚者たち)

バラーナン(balana.m)---愚者たちと

ビク(bhikkhu)---僧

ブラーフマー(brahma)---最高の天界の神的存在

チェータシカ(cetasika)---心に伴い起こる物[心所、心の成分]

チッタン(citta.m)---心[英文原語は mind]

チッターヌパッサナー(cittanupassana)---心随観[英文原語は contemplation] (一般的に「心随観」と言うようです)

ダーヤカ(dayaka)---布施をする人、支える人、サポーター

ダンマ(Dhamma/dhamma)---真理、仏陀の教え、現象、性質、道徳、法

デーヴァローカ(devaloka)---天の王国

ダンマチャッカパヴァッタナ・スッタ(Dhammacakkapavattana Sutta)---法の輪をまわす経(「転法輪経」)

ディッティ(di.t.thi)---邪見、間違った見解

ドーサ(dosa)---嫌悪、反感、[貪瞋痴の「瞋」]

ドゥッカ(dukkha)---苦しみ、抑圧、憂鬱

ホーティ(hoti)---あること[英文原語は to be]

イッサー(issa)---妬み、嫉み

カリャーナ(kalya.na)---魅力ある、良い、徳のある

カリャーナミッター(kalya.namitta)---聖なる、高貴な、徳のある友達

カンマ(kamma)---行為

カルナー(karu.na)---哀れみ、同情、[慈悲喜捨の「悲」]

キレーサ(kilesa)---穢れ、煩悩[英文原語は defilement]

クックッチャ(kukkucca)---心配、罪悪感

クサラ(kusala)---健全な(心の状態)

クティ(ku.ti)---小屋

ローバ(lobha)---貪欲、[貪瞋痴の「貪」]

マッチャリヤ(macchariya)---けちな、心の貧しい、貪欲

マハーサティパッターナ・スッタ(Mahasatipa.t.thana Sutta)---マインドフルであることの基礎となる大いなる経(「大念住経」)

マーナ(mana)---自惚れ、自らを他者と比較すること、高慢

メッター(metta)---慈愛、[慈悲喜捨の「慈」]

モーハ(moha)---無知、惑わし、思い違い、妄想、[貪瞋痴の「痴」]

ムディター(mudita)---共感、[慈悲喜捨の「喜」]

ナーマ(nama)---心の現象

ニッジヴァ(nijjiva)---生命のない
ニッサッタ(nissatta)---存在がないもの[原語はbeing-less]

パジャーナーティ(pajanati)---はっきりと知る

パーリ(Pa.li)---仏典に使用されたインドの言語

パンチャヴァッギ(Pancavaggi)---仏陀が悟ってからまもなく彼と会った5人の苦行者

パンニャー(Panna)---智慧

パパンチャ(Papanca)---妄想、(精神的成長にとって)邪魔なもの、幻覚、精神の拡散

パリヤッティ(pariyatti)---ダンマについての理論的な知識、かかれた物

ピタカ(Pi.taka)---「三蔵」、規則、より高い真理[英文原語は Higher Truth]
ルーパ(rupa)---物質的現象

サッダー(saddha)---信、確信

サドーサン(sadosa.m)---怒り(dosa)を持って

サラフカヴッティー(sallahukavutti)---シンプルな生活を送る人

サマーディ(samadhi)---集中

サンマー・ディッティ・ヴァーディー(samma-di.t.thi-vadi)---正しい見解を持つ人

サンパジャーナカーリー(sampajanakari)---思慮深い人

サンサーラ(sa.msara)---生と死の循環、輪廻

サムダヤ(samudaya)---2番目の聖なる真理。「集諦」。

サンヴァラ(sa.mvara)---抑制, 拘束、防護

サラーガン(saraga.m)---情欲を持って

サーサナ(sasana)---教え、教条、規則[英文原語は dispensation]

サティ(sati)---マインドフルネス、気付き

シーラ(sila)---道徳、戒律

シーマー(sima)---僧の会議する場所、戒壇 [英文原語は boundary, chapter house]

ソターパンナ(sotapanna)---悟りの第1番目の段階を成し遂げた者、[預流果]

ソターパッティ(sotapatti)---悟りの第1番目の段階

ソターパッティ・マッガパラ(sotapatti maggaphala)---悟りの第1番目の段階の道と果実

スカン(sukha.m)---幸福

スッタ(sutta)---経

タンハー(ta.nha)---貪欲、渇愛

ウペッカー(upekkha)---平静さ、[慈悲喜捨の「捨」]

ヴェーダナン(vedana.m)---感じ、感覚、感受。感覚と感受の違い;感覚は色・声・香・味・触・法ですが、感受は、感覚についての「好ましい」「嫌い」「好きでも嫌いでもない」という感じ。

ヴェーダヤマーノー(vedayamano)---経験すること(不特定のある感覚)

ヴェーダヤーミーティ(vedayami'ti)---「私は感じる」

ヴィチャーラ(vicara)---保留中の考え、調査、「伺」(サマーディの要素、尋・伺・喜・楽・一境性の一つ)

ヴィナヤ(vinaya)---式や規律についての王国のルール

ヴィタッカ(vitakka)---最初に浮かぶ考え、熟考(心を一つのものに向かわせる働き、「尋」)

ヨーニソ・マナシカーラ(yoniso manasikara)---賢くよく考え抜かれたこと、正しい思考、正しい注意、「如理作意」




< *** 第1章 精神、マインドフルネス、瞑想 ***

 瞑想は、私の理解では、(穏やかさ、集中、洞察などの)何かを生み出すことというよりは、何でもこの瞬間に起こっていることを、とても単純なやり方で、はっきりと見ることなのです。心に穏やかさや洞察を生み出したり、それを狙いとすることは、われわれの「いるべき場所」から、スタートしていることになります。

 そうなると、自分のスタート地点に戻ってきてしまいます、スタート地点である「今いる場所」からスタートしなかったからです。これは他の言い方をするなら、瞑想とは、完全に内的なコミュニケーションであり、深く理解された人生(問題)のことだと言えます。

 その人自身の「悩み事」の内容を紐解(ひもと)いていくのと、様々な問題(神経的なものなど)を扱うのと、瞑想との間には、何も違いがないはずです。それはすべて同じプロセスの一部分なのです。 

 私にとっては、瞑想についてのカウンセリングをするのも、指導をするのもあまり違ったことではないのです。たくさん本を読んで知識があっても人々について理解していなければ、瞑想の教師(カウンセラー)とはいえず、学者なのです。公式に当てはめて、人に教えたり、導いたりする人は、教える資格がありません!

 欧米人は、大半が、悩み事を紐解くための助けを多く必要とします。こういった理由で、世間を知っている教師というのは、とても役に立つものです。

…私はずっと前にこのことが分かったので、より深く世間的なことを知るようにしています。アメリカ合衆国においても、人々と関わるために、まず、彼らの生活、悩み事、問題を理解し、どこで引っかかっているかを知るようにしました。彼らが、自分の問題をクリアに見ることができるよう助けること。瞑想のポイントはすべてといっていいほど、--内部・外部のもつれ--混乱をほどくことにあるのです。

 なので、万人に通用するような近道はないし、つまらない教科書的なやり方ではうまく行かないでしょう。一人一人がユニークだからです。そこには柔軟性がなければならない。仏陀ご自身も人を見て法を説いたではないですか。

 私の理解では、瞑想の教師はとても感性が豊かであるべきだと思います。彼(または彼女)は自分自身のことを本当に深く理解している必要があります。自分のもつれ/混乱にも気付いているべきです。人と関わるのにとても創造的であるべきです。

 個人個人をもっと深く理解することです。指導するにあたっては、やさしくしかも忍耐強くあるべきです。押し付けがましかったり、進歩しろと要請することもなく。

 この進歩という尺度は、自分には向いていないなどの落ちこぼれ感、不幸な感じにつながってしまいます。彼は学生がどの段階にいるかを理解しなければならないのです。当たり前のことですが、われわれは、いま「いる場所」からスタートしなければならず、われわれが「いるべき場所」からはスタートできないのです。なので、教師は学生がいる位置を把握し、まさにその位置からスタートできるように誘導してやる必要があります。 

 瞑想が、多くの人たち向けに教えられ、修練されるようになってくると、そこに限界が出てきます。というのは、的確に理解されず、自分の生活と別物のようにやってみたりするからです。

 本当の気付きの瞑想[mindfulness meditation]は、すべてを包括する[all-inclusive]ものなのです。われわれの精神的・肉体的な生活のどんな部分であっても、気付きの対象外ではありません。生活の全ての側面がよく理解されるべきなのです。

 本当の実践とは、自然であり、動きがあり、生活感があり、限られたものではなく、時と場所を選ばずに、実践されるべきものです。特化した、断片的なアプローチは、私は受け入れません。私は、ある特化した、標準化されたアプローチは害があるように感じ始めています。(そういったアプローチに自分自身を従わせることは、ずっとできなかった)。瞑想は私にとって何ら特別なことではないのです。

 全てのことが私には些細な[trivial]ことのように思えます。狂気じみたゲーム。意味もない「急いで、ほら急いで」。なぜそんなにすることがあるのでしょう。

 私にとって、自分のためにできる最もよいことは、マインドフルであること[mindfulness]です。あなたの心(生活)を覗き込んで、どのようにあなたが他の人々や書物に依存しているか、見てみてください。また、どんなに簡単に退屈になるか。その退屈な状態をそのままにして、気付く以外は何もしてはいけないとしたら、生きていけますか?

 何もしないというのは、実際、たやすいことではないのです。あなた自身の経験から分かると思います。自分が何もしていない時に、何が心に浮かんできますか? 注意深くそれを見つめてみたことがありますか? 

 退屈というのは、耐え難いものです。だからわれわれは、退屈から逃げ出すために、何かすることを探します。2,3日間でもなにもせずにいることにチャレンジしてみてください。

「何もしない」ことは易しいことではありません。「何もしない」でいようとする時、すでにそういうことをしています。何かを達成しようとする時、何かをしています。自我(エゴ)というものは大変強力です。何もしていないと、自分を無意味で空っぽなものと感じてしまいます。 

 「しない」というのはエゴから自由な心の状態のことです。反応することなしに行うこと、これは、人が行うのではないのです。そして、もっとも重要なのは、善行為を何も見返りを期待せずにするということです。[訳者註:マインドフル、気付いている瞑想=Insight Meditation/Mindful Meditation/Vipassana Bhavanaは善行為でもある]

 理解[智慧]というのは、理解することにあくせくしていない人たちのもとを訪れます。理解というのは、果樹のようです。それが熟した果実を実らせるには時間が必要です。誰もそれが実るのをせっつくことはできません。

 退屈から逃げ出す代わりに、もしそれに付き合い続けるなら、ある種の目覚めた感覚、気付いていること、命、明晰さというものを、得るでしょう。それから、精神はよく活動できるようになります。

 大概、われわれは譲って折れてしまって、忙しい、忙しいとなってしまう。われわれが忙しいと感じるときには、役立っているとか重要だと感じるものです。われわれが何もしていないとき、無用な人だとか、恥ずかしいとか思うのです。忙しいということに自尊心を持っている人たちもいます。

 常にあるものですが、マインドはある種の倦怠感を持っています。我々は何かエキサイティングなこと、ある種刺激的なこと、話したり、読んだり、旅行をしたり…、といったことで、マインドを目覚めさせています。そうでもしないと、半分起きたような、ぼうっとした状態なのです。

 もし、マインドを、何も刺激なしに、いつも目覚めている状態に保っておけるようにトレーニングするなら、新しい種類のエネルギーを発見することでしょう。絶えずマインドフルであることによってのみ、あなたはそこに到達することができます。

 あなたがリトリート中かどうかに関係なく、マインドフルであることは、いつも重要です。リトリートに参加することは有益です。でも、明晰さを保つために、自分で実践を続けることはとても重要なことです。そうでなければ、また心の状態は下がってしまいます。それは流れに逆らって泳ぐようなものです。というのは、継続して努力をしなければ、下流に流されてしまうからです。[リトリート=瞑想合宿]

 瞑想における努力というのは、自転車に乗れるようになるときの努力みたいなものです。はじめは、とっても頑張る、そして、転んでしまう。それから、何回も試してみて、自分が自転車に乗っているために、ちょうど必要な分だけの努力をして、あと今度は、前に進むために努力を振り向けるようになります。自転車に乗ること自体によって学ぶのです。もっとも重要な点だ、と私が思うのは、継続することです。

 あなたはマインドフルであることがどういうものか分かったとします。そうしたら、もっともっとマインドフルであってください。マインドフルであることによって、あなたはリラックスした感じで、しかもマインドフルであるというやり方を学んでいきます。

 もし、もっと力を入れることが必要だと思うなら、そうしてみて、それがどんな感じにあなたのマインド(マインドフルであること)に影響してくるかを見ればいいだろうし。そうやって、マインドフルであるための方法を学んでいくわけです。あなたは自分がマインドフルでないときには、なんか落ち着かない感じを覚えるまでになるでしょう。

 私は自由でかつ平穏でありたいのです。肉体的にも精神的にも。そこで私は何がゆえに、人は自由でなくなったり、平穏でなくなったりするのかということを知ろうとしました。私を縛り付けているものを見ればみるほどに、自由になるためのチャンスが増えて来ました。

 答えはとてもシンプルです。執着と慢心。けれども、それらがまさしくいま動いているときに観るのが大切なのです、それらについてただ考えてみるとかいうのではなくて。

 私は忙しくなりたくありません。忙しいということは生きるうえでムダの多い生き方です。あなたが忙しいというときは、あるものごとにとても関わりあって、巻き込まれていて、自分のマインドで何が起こっているか見えないのです。マインドフルではなくなります。なので、私は忙しい教師にはなりたくないのです。絶対に。何度も言ってきたことではありますが。

 もし、瞑想からもっとも実り多いものとしたければ、それを全身全霊で行なうことです。あたかも人生でほかにしたいことがまったくないかのように。娯楽には注意してください!

 泳ぎを覚えるのならば、水に入らなければなりません。土手に座っていて、泳ぎ方を教えてくれと頼むのは、まったくナンセンスです。最小限の教示により、水の中に入って自分で泳ぎを覚えることができます。自分自身に合った1つの対象(あるいは2つ)を選び、それらにずっと気付いていなさい。

「ずっと」継続するということが最も大事な点です。考えることはマインドを幸せにできません。コントロールしようとせずに、自分の考えを観察するのです。あなたがそれをクリアに見たときに、それらは止まるでしょう。考えるということは、とても大きな負担なのです。

 もっとも大事なことは自分自身のマインドに気付いていることです。あなたが何かをするときの動機についても。ほとんどの場合、人々は話したりしたり行うことの動機に気付いていないです。また、動機に気付いた場合は、ほとんどの場合、それを正当化するのです。

 マインドフルネスの実践(瞑想)とは、六感に起こるすべてのことについて、常に、気付いていることです。それは朝起きたときから、眠ってしまう直前の瞬間までのことです。ただ座っているときだけのことではありません。

 それよりずっと重要なのは、あなたが執着している幻想、考え、不平不満、孤独感、他の感じなどについて、それらが弱いものでも強いものでも、マインドフルで(気付いて)いることです。

 もし何かがあなたの役に立つなら(ノーティングのように[動作、状態などを心の中で言葉で表すこと。(腹部が)「膨らむ、縮む」など])、それをすることです。それを長く行い、よく行なって、それの利点と不利な点をすべて知るように。

 瞑想はもっともよい善行[kusala]です。

 あなたが、マインドフルであって賢いならば、失敗することはないでしょう。

 理想は、いつもマインドフルであることです。

 私は一人でいるときに幸せです。話すことは退屈です。私はあなたに宇宙へ飛んでいって、ただよっているような私の感覚について話しました。物事(人物もです)が私に影響を及ぼせなくなっていきます。この感覚について話すのは難しいのです。私の心はずっと軽やかな感じがするのです。

 情動や[心の]騒音、興奮を深刻に受け止めないように。そして、それ(情動)を正当化しようとしないでください。あなたは自分の人生を生きていて、自分にこの瞬間大事だと思われることは、何でもする権利があるのです。もし間違いを犯したなら、そこから学ぶことです。

 もし、間違いを犯して、困った状況になったときには、(自分や他者について)不平をいったり、非難したり、逃げ出したりするのではなく、その困った状況を見てみてください。そのことについて、自己正当化するのでもなく、頭に来てしまうこともなしに。もし、それを抵抗なく見ることができれば、あなたはそれを非常にすばやく簡単に乗り越える(それにより成長する)ことができます。私もそれがどんどんうまくなってきています。今もそうです。

 [人間]関係というのはわずらわしいものです。わたしは孤独になってきている、とあなたに何度も話しました。なので、私にはあなたが言ったことがよく理解できます。「私は自分のなかに避難する(I retreat within myself)」と。

 もし、自分のマインドをすぐ近くで観るなら--違うものになろうとか欲することなく--、それにより、あなたの難問は解かれるでしょう。ただし、問題を解こうとして、ただそれだけのために、自分のマインドを見つめないように。そうすると、矛盾が起こるでしょう。マインドの中にアナッター(無我)を見るようになさい。

 いつかどこかへ行ってしまって、一人で住むだろうと思います。宗教には飽きてきています。いま、その心の準備をしているところです。

 この前の月、私はいつもよりもっと瞑想していました。一人でいることはとてもすばらしい。読むのも次第に減らしたい。そして、いまは自分のマインドをもっと読みたい。私は本からは何も深くは学んでいません。ただ、自分の生活(マインド)をはっきりと観るときにのみ、何かを深く学ぶことができます。

 一般的な人間の本性を理解し、また、各々の心が持つ特殊な部分を理解するのは、人間にとってとても実り多いものです。

 私がここでしていること(自分のマインドを覗き込むこと)は、とても自分にとって重要なので、いい理由がない限り中断したくはないです。実は、私はもっと人里はなれたところに行きたいし、そして一人きりで住んで、ずっと瞑想していたい、中断することなく。何事も私を煩わすことはできません。

 私たちは、本を読みました。話をしてきました。議論もしました。そしていろいろ考えました。その結果、まだ混乱しています。そんなことはもう沢山なのです。

 こういうことが明らかになったので、マインドはとても執着がなくなりました。私のマインドはいまはずっと解放されて、澄んでいます。気を紛らわせるようなものは不要です。あなたは自分が混乱しているという事実に、困惑しませんか?自分が混乱していることも知らない人々がいます。

 彼らはとっても忙しく、狂ったようなので、混乱しているということを考えることさえできないのです。私があなたに伝えられるのは、あまり考えることなく、マインドフルでいてください、ということです。あまり考えすぎると、もっと混乱するものだということは、ご存じでしょう。

 もし具合が悪いときでも、マインドフルでいるならば、とても深い意味あることを学べます。自分がどれだけ孤独な存在か、またすべてがどれだけ意味のないことか見えてくるでしょう。ほんとにひどい最悪の時には、われわれは本当にひとりぼっちでしょう。

 私にはこの種の孤独が次第に大きく見えてきています。われわれについてきたり、理解する人々はほとんどいません。個人個人の間には誤解という大きな溝が横たわっているのです。

 マインドフルネスはわれわれの性質です。そう努力することなく養うことができます。
 ある人に、自分の思考と感覚に気付いているにはどうするか説明できますか? コントロールするのではなく。ほんとに簡単なことです。ただ、マインドに気付いていること。おしゃべり、独り言、あるいは対話、すべてマインドのなかで行われることです。コメントや判断なども。

 マインドフルネスは人生(生きていくこと)の道です。どこにいても何をしていても、われわれはマインドフルにそれを行うべきです。マインドフルであることにとって、思考は大きな障害です。

 われわれはそれに気付かないといけない。実際に、思考に気付いていることは、とても重要です。あなたのマインドを非難することもなく判断することもなく、ずっと観察しなさい。思考を、あるがままに見るのです。

あなたを見るのではなく。それは、あなたのものではないのです。

 瞑想においては、何気なく、自然に来たものは何でも行いなさい。最も重要な点は、興味深く捉えること、そうすればそれは面白くなるでしょう。それをすることが楽しくなるでしょう。それをするのに何らかの満足感があるでしょう。もしあることが面白くなくなり、退屈となるなら、それをするのに消極的になるでしょう。そんな消極的な態度だと、続けることがかったるくなるでしょう。あなたは「サッダー(
saddha 信)=エネルギー」と言いました。そうです。実践にサッダーを持っているときは、あなたにはそれを行う気力が湧いてきます。

 なので、あなたが「腹の上がり下がり(膨らみ縮み)」のかわりに、自分の精神を見ていることに興味があるのなら、そうすればいいでしょう。マインドというのは人生の中でもっとも興味深いものです。

 もっと歩いて、マインドフルでいましょう。あなたが自分の状況をどう打開しようか、と思うにつれ、あなたはもっと不幸になっていきます。いつも未来のことを夢見て……「あぁ、自分はいい所に住んでいれば、もっと幸せになれるのに」。いつも「もし、こうなら幸せなのに・・・」。「わたしは幸せ…」だと思っていないものです。計画すること、改善することは、十分ではないでしょうか。

 人生では、「何かになる」ということがとても重要とされています。「存在する」ということはないということが見えていません。「存在する」ことがなければ、「何かになる」なんていうことは、有り得ないでしょう。この瞬間に何が起こっているかを、よくしようとか思わないで、ただ観るようにしてください。

 あなたの葛藤や痛みは理解できます。ブッダの良い弟子になろうとあなたが努力していることを知っています。これは難しいことです。五戒を守ることさえ簡単ではありません。そうです。ある人々は、ソーターパッティ・マッガパラ
sotapatti maggaphala(預流果。流れに入ったものの道とその果)はなんでもないことだと思っています。
 
 彼らはわからないのです、邪見を持たない(から逃れている)ということが、どれほど尋常でないことか。また、儀式や迷信の類を乗り込えることが、どれほど尋常でないことか。ダンマの実践がただ唯一の自由、幸福への道だと理解することが、どれほど大変なことかを。

 彼らは、また知らないのです。妬み(ジェラシー)がなく、他の繁栄を喜ぶということ、自分の持てるものを何でも他人と分かち合うということ、そして、実践についてすべての疑い(それがいいか悪いかというような)を捨て去るということが、どれほど大変なことかを。自分の行く道について疑いを持つことがないことが、どれだけの安心感をもたらすかを。

 サティを実践することの難しさは私も理解しています、とても忙しい生活を送っている人には。私も100%マインドフルなわけではないです。不必要な活動を切っていけたら、よくなるでしょう。

 われわれは自分のマインドが言うことを聞いて、やれと命じる物事をやってみたりして、走り回っています。でもそのマインドにずっと近づいて観るならば、自分のマインドが言うことすべてを信じる必要はない、ということが分かります。なので、われわれはマインドがいうことをすべてやるために、気がおかしくなったように走り回る必要はないわけです。

 「何ごとかを達成したい人は、自分というものを抑えることを学ぶべきだ」(ゲーテ)。われわれは、つまらないことで、とても多くの時間を無駄に過ごしてしまいます。仏陀はいいました。アッパキッチョー「義務と責任を少なくすること」。

 自分をもっと注意深く制限すれば、より深い気付きを得るようになるでしょう。日常の生活の中で、マインドフルであることができなかったら、人生の理解力は発達しないでしょう。人生の理解と、ダンマ[法]の理解というのは、一緒に発達します。最初に自分の日常生活というものを意義深く、正気で送ることを学びましょう。

 ダンマについて、あなたのように深く興味を持っている人は、なかなか見つからないのです。大半の人たちは自分がどんな精神の状態であるかさえ気付いていないのです。われわれは、よい(善なる)精神状態だったりするし、悪い(不善なる)精神状態であったりもします。

 その両極の状態に気付くことが、まず初めになすべき最も重要なことです。我々は精神状態について、本当のコントロールはできません。それはアナッター(anatta[無我])だから。これらの悪い精神状態を作っていないか見てみる必要があります。
心の性質を理解すること、
ローバ「貪」むさぼり。感覚器官による情報を好むはたらき
ドーサ「瞋」怒り。感覚器官による情報を拒否するはたらき
モーハ「癡」無知。ものごとの真の側面に気づくことができないこと
マーナ「慢」比較。「私」という概念を規準に、他と比べたり計ったりするはたらき
イッサー「嫉」ねたみ。嫉妬。
マッチャリヤ「慳」物惜しみ。
クックッチャ「悪作」心配。後悔。
などなどの性質を理解すること。そしてまた、サティ「念」マインドフルネス。目覚めていること
サマーディ「定」集中。
(パンニャー「智慧」無常・苦・無我・因縁の法則などの真理を正しく観ることができるはたらき。)
メッター「慈」慈しみ。
カルナー「悲」共感。他の悩み苦しみを助ける
などなどを理解すること。これはある洞察の段階に到達することや、煩悩 から逃れることよりも、重要なことです。理解がまず先にきて、それを克服するのは、そのあと自然に起こってきます。なので、お願いだから、いま何が起きているのかを観察するようにして欲しいのです。

 心の事態の本質をまず見ること。あなたの気が動転しているとしましょう。何からきているのでしょうか、ローバ(貪欲)でしょうか、ドーサ(瞋恚)か、あるいは別の何かなのでしょうか。心が焦っていると、それをはっきりと見ることができないでしょう、その事自体がドーサです。

 それも見てください。ただただ自分のマインドに罪を感じることもなく、それについて何もどうする気もなく、見続けることにより、それがクリアに見えてくることになります。そして、それは外にさらされたがために、あなたに及ぼす力をなくすでしょう。それは透明になってしまったのです。

 どうか貪欲や自尊心、怒りなどを非難しないでやって欲しいのです。それらから、あなたは本当に多くのことを学ぶことができます。あなたがそれをよく知らないことには、成長できないのです。ただ、あなたが澄んだ心でそれを見ることができたときにのみ、それらの本当の本質が分かります。特にそれらのアナッター(それ自体という存在を持たないこと。無我)であることが。

 瞑想において、最初のもっとも重要なステップは、精神(ナーマ)、身体(ルーパ)について、「自分」と同一視しないことです。ナーマルーパの生成過程を、自分と同一視することを超えないことには、何も乗り越えることができないからです。

 なぜ人は気が動転するのでしょうか。ナーマルーパ(心身)を自分と同一視しているからです。なので、貪欲、肉欲、執着、不平、怒り、自尊心などが起こったときに、もっとも重要なのは、それを自分の個人的な何かであるとは取らずに、自然現象を眺めるように見ることです。

 それらを克服しようとしないでください。気が動転するということは、エゴが別の方法で足をすくおうとしているのです。気が動転している人(アッター, 我)が誰か存在するんですか? 気が動転するということは、また別の自然現象に過ぎないのです。気が動転するということは、エゴの膨張(boosting)なのです。

 もしマインドが混乱していないのなら、すなわち観察しているマインド自体を「自分」と同一視していないのなら、それは平静(equanimity 「捨」)ということですが、そうならば、マインドは貪欲などを、面白がって、平静に、はっきりと、観察することができるでしょう。そしてそれをあるがままに、見ることができます。はかない、実体のない、非個人的な、自然現象として。

 煩悩を自分と同一視すると、すべからく力を得てしまいます。自分と同一視しなければ、それはそんなに力を持ちません。ソターパンナ(預流果)はまだ貪欲や怒りなどをもっています。しかし、貪欲や怒りが自分のものであるという同一視がありません。アナーガーミーやアラハンのみが貪欲や欲から解放されているのです。そのうちアラハンだけがマーナ(慢)から解放されています。

 もしあなたが音楽を楽しんでいるその心に、イラついたとしたら、あなたは高く理想を求めすぎている、あるいは多く期待しすぎているのです。そうではなく音楽を楽しんでいるそのマインドを見て、平静に観察するならば、そのときにのみそれを「あるがままに」見ることができるのです。心が混乱すること(これは「怒り、瞋恚」)は貪欲や慢心の仲間です。なぜなら、あなたはこう考えるから心が混乱するのでしょう。私は瞑想者であるから貪欲や慢心はマインドには浮かんでこないはずだと。

 貪欲や、いろいろな楽しみが出てきたら、その代わりにこう言ってみるのです。そこにじっとしていて、いまあなたのことを研究させてください、と。彼らには本当に驚かされます。貪欲は偉大なマジシャンです。それがどのように楽しみの感覚を虚空から生み出すか見て学んでください。マインドが貪欲のトリックにすっかり騙されますと、マジシャンである貪欲は見えなくなります。これ、自分なんだと見るようになるのです。

 マインドというのはトリッキーです。マインドは変化、なんか変わったものを欲しがるのです。それはエンタテインメントや刺激を渇望しています。退屈というのは大きな問題なのです。大半の人々がするのはこういうことです。刺激の後を追いかける、あるときはこんな形、また別の形と姿を変えながら。

 自分は瞑想をしている、仏教を実践している、ダンマを知っているからという理由で私たちは自己正当化をしやすいものです。そこに注意していないと、「自分は何が善で何が悪かを知っている」のだという、またしてもマーナ(慢)が出てきます。

 もし、あなたのマインドにマーナが出てきたなら、それをはっきりと見ようとしてください。それを追い出そうとするのではなく。それをはっきりと見ることは、とても重要なことです。あとの残りは、それ自身に任せればいいのです:後は放っておきましょう[原文は The rest will take care of itself]。

 ただ、アラハンになったときにのみ、完全にマーナから自由となります。謙遜であろうとしないように。それは作られた謙遜さですから。ただ、マーナについてマインドフルであるだけ。もし自分のマインドがはっきり見られるならば、あなたは自然に謙遜になるでしょう。自分が謙遜さを行じているとは思わなくなるでしょう。自分で意識的にプライドを減らそうとすることなしに、プライドが減っていくでしょう。

 善心所、不善心所が、即座に結果につながるということを理解することなしには、ダンマの価値を正しく評価できません。どのような形の宗教的な実践を外面的には行っていようが、それは決して、深い永続的な結果をもたらさないのです。六つの感覚器官の門を通じて入ってくるすべての経験に対して、マインドがどのように反応するかを理解することは、とても重要なのです。特にあるアイデア・思想の影響や、それへの執着について知るということは。

 健全さ=善(クサラ)と不健全さ=不善(アクサラ)という精神状態について理解できました? これは実践上でもっとも根本的なことになると思います。私は、クサラ、アクサラを説明するのに、「良い」「悪い」という言葉を使いたくありません。私が言っているのは、それらを本で読んだり、考えて知ることではないということです。 

 私が言いたいのは、それをじかに見ることによって理解するということです。健全であるときのマインドの質、不健全であるときのマインドの質、その違いを見て、[感じとって/知って]欲しいのです。

 時々、私がこれらをとてもはっきりと見るときに、不健全な状態でいるということは、まったく価値がないことだと理解するに至ります。状況や(周囲の環境)がどんなものであっても、それは関係がありません。難しい事態に対しても、(不健全なマインドに陥ることなく)適切な対処法があるはずです。これが智慧です。

 どんな状況においても、不健全なマインドではなく、生きることは可能であること。その智慧を得るために、まず我々はあらゆる状況においてのマインドの反応にはっきりと気付いていなければなりません。我々が見るものについても、聞くものについても、すべてのことについて。

 マインドに起こっていることをなんでも見ること、それを嫌がったり、違うように変えたい、とか思うことなしに。それが不健全であろうが、喜ばしくなかろうが、美しくなかろうが、望ましくなかろうがです。例えば、怒り、肉欲、疑い、だまし、など。そしてマインドに起こる喜ばしいことであっても、それが続いて欲しいとか手元においておきたいとか思うことなしに、ただ観る。 

 例えば、穏やかさ、波立ってないこと、熱愛、明晰さ、など。これはとても重要です。マインドがその状況に好んで支配されてしまう瞬間(起こっていることについて、反対したり、阻んだり、妨害したりする。あるいは、創造したり、生まれさせたり、もっと長く続いて欲しいと願う)、マインドはバランスを失います。

 反対するのは、怒り(瞋)、しがみつくのは執着(貪)。

 しかし反対しないというのは、それに力付けることではないのです。そして執着しないということは、それの力を弱めさせようということでもないです。ただ、単純に観る、これがマインドフルである、ということなのです。巻き込まれないで、観る。

 我々は何かをしたり何かを作ったりするのに慣れているがゆえに、ただ観るというやり方を知りません。我々は物事をコントロールしようとします。我々は巻き込まれようとします。なので、トラブルに巻き込まれるのです。かと言って、こう言いたいわけではありません。あなたが事態に巻き込まれないように、状況をコントロールしないようにと努力させようと思って、「巻き込まれるな、コントロールするな」と言っているわけではないのです。それはまた状況にコントロールされようとしていることなのです。だから、あなたがコントロールしたいのだったら、ただそれに気付きなさい。

 実際に、マインドフルネスということのない生活は、とても表面的になるだろうことが、私にはよりはっきりと見えてきています。マインドフルであることは生活に深さと意味を与えてくれます。

 次のことは理解し難いことです。人々は幸せになりたいと言います。だけど、それならばなぜ、人は本当にマインドフルであることに興味をいだかないのでしょう。それは、きっと幸福は彼らの外側のどこかにあると思っているからに違いないでしょう。感覚的な喜びだとか、たとえば、自分の欲しいものを得るとか、誰かになるとか、何か重要な役職に就くだとか、何か嬉しいことのなかにあるのだと。

 人々(あなたと私)は、興奮させること、何か面白いこと(私ならば知的なこと)を求める。時々、我々は休みたくなる。刺激のあるものごとに疲れて。そして我々はマインドフルであること、マインドを静かにさせておくことを実践したくなる。時々、私は本当にくたびれて、燃え尽きたようになる、読むこと、話すこと、考えること、計画することに。

 それで、私のマインドはそれらに背を向けてしまう。私は、それらのことがどんなに意味がないか、必要でないかを見ることができる。その瞬間に、ただマインドフルである、ということが、とても簡単になるのです。なので、私はいつも燃え尽きた状態でいたいのです。だから、燃え尽きた感じというのは、いいことなのです。シッダーッタは家を去ったときには燃え尽きていました。

   
翻訳:T.S




ホームへ