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質問に答えて   セヤドー・ウジョティカ

 質問:

 私は、アートとか文学とかが好きなのですが、西洋の心理学や哲学も好きです。そういうのは、テーラワーダの仏教徒にはふさわしくないのかなと思って、ちょっと気後れするところがあったのですが、セヤドーの「snow in the summer」(夏の雪)を読んで、そういう人たちの引用がたくさんあったのでホッとしました。

 そういうアートを楽しんだり、西洋の心理学や哲学を学ぶのは、テーラワーダの仏教徒として恥ずべきことではないというか、そんな後ろめたいことはないと考えてよろしいでしょうか。

セヤドー:

 今日の私たちは、世界や人生全体を分割して部分にしてしまいがちです。私は日本人であるとか、私はビルマ人、私はアメリカ人というように。しかし人類は人類であり、人間は人間です。何々人であるということの奥に私たちは人間であるということがあります。あなたも私も人間です。アメリカ人や西洋人に会うとき、私は彼らに人間を見ます。

 あなたは私をテーラワーダの僧と言うでしょう。そして(そばの人を指して)あなたは大乗の僧である、と言うように。しかし私にとってそれは、名前であるに過ぎません。あまり重要なことではありません。

 私たちは心の深いところで、真理というものを求めています。それで私たちはいろいろな角度から真理に迫ろうとします。科学もまた真理を探究する道です。ですから私は物理学や化学や生物学を学びました。また文化について学びました。

 私は日本の文化にとても興味があります。若いときから日本に関する本をいろいろ読んできました。日本人も同じ人間で、私の知らない多くの学ぶべきことを知っているからです。私は日本に学びたいと思っています。同じように私はアメリカ人の書いた本、イギリス人、ドイツ人、ロシア人の書いた本を読んできました。

 私は多くの人たちから学びたいのです。心の深くで、私は哲学者であり、心理学者であり、また宗教者でもあります。科学者であり、文化人類学者であり、化学者であり、生物学者であり、歴史家であり・・・その他諸々です。みんなです。私は自分を分割することができません。ですからこの世界も分割することができません。

 私はすべての人類はつながっているし、関係し合っていると思います。違った見方があるかもしれません。しかし互いに理解し合えるだろうし、互いに学びあうことができると思います。

 あなたがた皆が哲学者です。それを認めているか否かに係わらず、皆人生に対する自分なりの見方を持っています。

 皆さんはすべて心理学者です。時に、「私はなぜ怒っているのか、なぜ不幸せなのか」と思ったり「愛とは何か」と考えるでしょう。それが哲学であり、心理学です。

 同時に哲学であり心理学なのです。私は「どうしたら幸せになれるか」と問います。私はすべての国の人々に答えを求めます。その中にはブッダの教えも含まれます。

私は幸せになりたいからです。それゆえに私は、西洋の文学者を尊敬しますし、東洋の文学者を尊敬します。日本の文学や日本文化もです。学ぶべき何かを知っている人がいます。私はその人から学びたいと思います。彼らはすべてに答えてはくれないでしょう。すべてを知っているわけではないでしょう。しかし答えを見つけようと努めます。

 私はソクラテスについてたくさんの本を読みました。皆さんはソクラテスについてご存知ですか。彼が言ったとても有名な言葉があります。知っていますか。

(参加者)「汝自身を知れ」ですか。

それが一つです。もう一つあります。それは、

「私は“自分が何も知らない”と言うことだけは知っている」という言葉です。

それで私はすべてを知っているとは思っていません。ほんの少しのことしか知りません。

だから私は学びたいし、いまだに学んでいるのです。私はまだ59歳に過ぎないし、これからも学び続けます。あらゆるものから学びたいのです。

 私は、仏教僧が西洋哲学について学ぶべきでないとは思いません。また西洋心理学について学ぶべきでないとは思いません。今、アメリカ人たちは仏教や瞑想を学んでいます。彼らは同じく西洋哲学や心理学について学んでいます。それで私はこれらの考えを一つの全体に矛盾なくまとめたいと思います。

 科学と宗教は争い合うものだという人がいます。私はそうは思いません。もし真理が知りたいと思ったら、誰が語っているかは問題ではありません。物理学者は自然について研究します。原子や、素粒子などです。それらの素粒子はとても速いスピードで現れては消えていきます。それらは瞬時に現れ、消えていきます。これは無常です。アニッチャーです。物理学者たちはこれらのことを知っています。

 そして西洋心理学を深く学ぶと、心理学者たちは「心は自分ではない」ということを理解しています。彼らは長い研究の末にここまで来ました。私たちは別の方向から来ました。この二つは出会うでしょう。

 私は、東洋の人間です。でも私の心の深いところでは、東洋でも西洋でもありません。私は世界市民です。世界が私の家です。私は世界から学びます。

 お医者さんで、心理療法家をやっているマーク・エプシュタインと言う人がいて、大学時代からヴィパッサナー瞑想をしていました。彼は、「Thoughts without a thinker」という本を書きました。

 デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。思考は自分であるということです。しかし、マーク・エプシュタインは「考えるという行為はあるけれども、考える人はいない」と言っています。これは、「自分というものはない」つまり無我(アナッター)であるということです。それはブッダの教えです。

 もう一つ例をあげます。「私が話している」、「あなたが話している」とそういう風に見たら、私とあなたがあります。「私が話している」、「雨が降っている」では文章の構成は同じです。しかし「雨が降っている」というのは主体がありません。自然です。雨が降っているというのは自然なのです。同じように「思考がある」ということも自然です。私という主体はないのです。

質問:

 それは、自然そのものが思考を持っているということですか。「私が」とか、「あなたが」とか、思考を持っているということなのだけれど、「It’s rainingというのは、思考がないですね、自然で、我というものがないですね。

セヤドー:

 思考は思考です。それは、自然なことです。そこには主体がありません。誰かが作ったのではない、ただのプロセス(過程)と働きがあるだけです。

質問:

 仏教の言葉で、無我という言葉があります。無我という言葉にそれは相当するのでしょうか。

セヤドー:

まさにそうです。アナッター(無我)です。

質問:

縁起はなんと言うのですか。

セヤドー:

英語では dependent originationパーリ語では“パティッチャサムッパダ”といいます。

 すべて物事が、原因が結果となって、その結果が次の原因になって、結果を生じるという連鎖になっています。原因と結果というのは、知識としては簡単ですけれど、智慧になるには難しいのです。智慧になるためには、瞑想しなくてはなりません。

 縁起の話はとても深いですから、1時間くらいで話すことはできません。1ヶ月でもできないでしょう。ゆっくり話し、瞑想し、両方しなければならないのです。

 お釈迦様の教えでは三種類の智慧というのがあります。一つは、読んだり聞いたりして得られる知識です。二番目は、自分で考えて得る知識です。三番目の智慧は本当の智慧ですね。それは、一番目の読んだり聞いたりして得る知識ではなく、二番目の考えて得る知識でもない。それは、よく見て、よく気付いて得る知識です。三種類とも得なければならないものです。西洋哲学というのは、一番目の知識があります。二番目の知識もあります。三番目の修行して、気付いて得る知識は入っていません。

 それをよく知っている西洋人とかそういう人たちは、ミャンマーに来て、実際に瞑想をしています。最近では、日本人も増えてきました。

質問:

 最近の日本のニュースなんか見ていると、家族の中での争いとかがあるのですが、1つの原因として、人間が孤独になっている、バラバラになっているというのがあると思うのです。セヤドーの本の中でsolitude(孤独)という章があって、瞑想は離れたところで一人でやりなさいということですけれど、その孤独というのと、日本の中の家族とか人々が孤立しちゃっているのと、その関連性はどうなのでしょうか。

セヤドー:

 寂しいと思ったら楽しくないですね。誰かと一緒にいたいと思います。自分のことを考えてくれたり心配してくれる人と一緒にいたいと思います。誰かと一緒にいるときには、与えたりもらったりがあります。

 瞑想するときには、自分のことをよく見つめます。瞑想すると、自分の心は穏やかで安らかになります。そういう気持ちで他の人と関係したら、自然に思いやりの心が出てきます。ほんとの親切と心遣いを与えることができます。関係は良くなります。

 寂しさがあるときは、相手が自分を寂しさから解放してほしいと思います。寂しいときは、心の中が乾いて空っぽです。瞑想すれば、心が満たされるから、それを分けてあげられます。

 孤独な人が二人集まったからといって、寂しさを乗り越えることはできません。その解決法は、瞑想するしかありません。

 寂しいときにはテレビを見ます。でも、寂しさはなくなりません。あるいは、他の人とお話をします。でも、理解が得られないなら、まだ寂しいのです。自分で自分のことを深く理解できれば、寂しいとは思わなくなります。

 ですから、すべての人々が瞑想するようになれば、ほんとの友達になることができるし、自分について理解し、相手のことも理解できて、寂しさは少なくなっていくでしょう。

 一緒にいて食べたり、飲んだり、話ししたりしても、互いに本当に理解し合うというのは難しいものです。互いへの理解がないと、寂しさを感じます。誰も私のことを理解してくれない、両親も、夫も、妻も、子供も、兄弟も、姉妹も・・・。それが深い寂しさをもたらします。

質問:

 もし瞑想するという習慣があれば、その寂しいということにも気がついているということですか。

セヤドー:

 もし、自分のことを深く理解できないと、寂しさを感じます。孤独を越えていくには第一に自分を理解することです。自分自身を愛することができて他人を愛することができます。自分を愛することができなければ、他の人を愛することはできません。

 自分自身への愛や自分自身の理解がなければ、他者への愛や理解もないでしょう。自分自身の行為に気づき、理解することによってのみ、他の人々に貢献することができます。それができて始めて、貢献することができます。

 瞑想すると自分の心が静かになって安らかになります。平安と幸福です。気づきと平安な心です。自分の心が平安で、しかもマインドフルである場合に自分の愛を人々に分けることができます。マインドフルと平安があるとき、他の人と話していても、全ての注意力をその人に向けることができます。

 マインドフルで平安な人は、より賢くなり、いろんな方法で人々を助けることができます。

平安でマインドフルな心を持っていれば、相手の人が何を言おうとしているかが分かります。それで、「この人は私のことを理解してくれる」ということが分かれば、孤独感から救われます。自分自身について理解するようになると、他人についても理解するようになります。二人の人が、そのようにお互いに理解を持っていれば、それが本当の出会いということです。

質問:

 ヴィパッサナーをすると、ものすごく体の細かいいろんな循環、いろんな細かいところとか感じることができると思うのですけれど、どこまで細かいことを感じることができるのですか。

セヤドー:

 どこまで細かいところかというと話しにくいのですけれど、とても細かいところまで見ることができます。体の細かいところだけではなく、心の細かいことも見られるようにしなければなりません。とても細かいところまでというのは、今の段階で話すのは難しいのですが、「A Map of the Journey」という本を英語で書いてあります。英語で読めるなら、それを読んで分かるかなと思います。

 とても細かいことについては、一歩ずつゆっくり話した方が良い。今すぐに全部のことを話すことはできないと思います。日本に来た一つの目的は、「A Map of the Journey」を皆さんに配布することです(*註)。私は22冊の本を書きました。それを多くの人が読んでくれて、心の中の問題に答えていくということがありました。

質問:

 慈悲の瞑想を、お坊さんがどのようにやっているか教えてくれますか。

セヤドー:

 お坊さんが慈悲の瞑想をするときには、最初に自分自身が幸せであるように、自分を愛するようにと瞑想します。自分自身を愛して、自分が幸せでありますようにと瞑想し、それから皆に対してやることが大事です。最初に自分自身を愛するようにしないと、皆に幸せにとは言えないということです。

 慈悲の瞑想をもっと上手くやりたければ、気づきの瞑想をしてからだと、上手くできると思います。なぜなら、自分の悪い性格が少なくなり、もっと質が良くなるので、その時に慈悲というのは自然に現れてくるのです。

 ヴィパッサナー瞑想をすると、慈悲の冥想をしなくても、自然に欲とかがなくなって、慈悲が自然に出てきます。だから、最初に気づきの瞑想をしないで、慈悲の瞑想だけしても、欲望とか怒りとか、そういうものが心にあったりすると、他の人が良くなるようにと言っても、あまり慈悲にならないのです。気づきの瞑想をしたら自然に出てくるということです。

参加者の発言:

 私もそれをよく感じます。自分の心の中で、何回も「みんなが幸せでありますように」と言っても、自分の心の中に自分でよく分からない欲望があったりすると、自分を愛せないで、自分を幸せにできないので、相手に幸せになってというのは難しいかな、と感じます。

セヤドー:

 気づき(マインドフル)の瞑想をしてない人の慈悲と、気づきの瞑想をしている人の慈悲というのは違います。慈教(Metta Sutta)に、「母親が子供を愛するような慈悲」ということが書いてあります。しかし、お母さんが自分を愛してなかったら、自分が幸せでなく、子供を本当に愛することはできません。

 それは一つの例で、お母さんが子供を愛するようにというのは、お母さんが自分を愛していて、本当に幸せになっている時、子供に本当の愛とか幸せを与えることができるのです。それは、日本でもミャンマーでも同じことです。

 お母さんが子供を殺すというのは、自分が幸せでないから、自分を愛してないから、子供に幸せをあげられないで殺してしまうという、本当に悪い方向に行っているのです。お母さんが精神的に苦しんでいて、幸せでなかったら、子供に慈悲を与えられないのです。

 本当に他の人に慈悲を与えたかったら、最初は自分が幸せでありますようにと、自分を愛するようにしなければならないのです。それは、哲学で言うと、とても深い哲学です。

質問:

 私は仏教の勉強をしていて、「ヴィパッサナー瞑想は一番良いのですが、ヴィパッサナーができない人は、慈悲の瞑想をしてください」ということを本の中で読んだことがあります。私はヴィパッサナーがそんなにできないので、慈悲の瞑想をやっているのですけれど、それはどうでしょうか。

セヤドー:

 それは、慈悲の瞑想はできますが、本当の慈悲の瞑想にはならないのです。みんないつでも幸せということではないですよね。それで、ヴィパッサナーができなくて慈悲の瞑想をやるのはどうですかと言うことですね。

 それは、「私は今幸せでないので、他の人は私のように不幸せにはならないように」という瞑想になります。私も人間ですから、いつも幸せというわけではないですから、それは、慈しみの瞑想にならないで、カルナー(悲)の瞑想になります。

 自分が今幸せでないから、他の人がそうならないようにという心は、慈しみまではいかないけれど、カルナー(悲)ということになります。でも、ヴィパッサナー瞑想をして、自分でも幸せになって、他の人が幸せになるようにというのは、もっと良い影響を与えます。もっとやりやすいと言うことです。

 自分が苦しんでいるから、他の人が苦しまないようにというのは、カルナー(悲)ですね。他の人が本当に幸せになるように、というのは、自分が幸せになっていないとできないのです。いま自分が本当に幸せだから、他の人も幸せになるように、平安になるようにというのは、もっと高いレベルの慈しみになります。

質問:

 いま自分が幸せになっているから、他の人も幸せになるのですね。私の場合は、あまり幸せになっていないので、私のようにならないようにと、まだレベルが低いということですね。(笑)

セヤドー:

 レベルが高い方は、カルナー(悲)とメッター(慈)の両方入っています。「幸せになるように」とあと、「不幸にならないように」も入っています。はじめの方は「不幸にならないように」だけですね。自分が幸せでないから入っていないのです。瞑想して自分が幸せになるときには、両方入っていますから、「不幸にならないように、もっと本当の幸せになるように」というのも入っています。あとは、相手が良くなったことに対して、喜ぶというムディター(喜)も入っています。それから、相手に良くなってほしいけれど、全然良くならない、自分の話も聞かないという時にも、自分には悪い影響を与えないという、もっと高いレベル(捨)も入っています。

質問:

 どうやって、相手に慈悲の瞑想を教えたらいいでしょうか。

セヤドー:

 最初は相手に慈悲を与えるようにしなければなりません。自分が相手に慈悲を与えて、その慈悲を分かってもらう。相手が慈悲について分かるようになっていたら、教えやすいのです。お母さんでも子供に慈悲をあげられない人がいます。それは、お母さんが子供のときに慈悲を感じなかったからです。子供の頃、親からつらい扱いをされて、慈悲というものが分からないと、相手に慈悲を与えるのは難しい場合があります。

 自分が子供のときに幸せでないと、慈悲とか愛とかが何だか分からなくて、お母さんになってから子供に愛情を与えるのが難しくなります。ですから、自分が慈悲について分かった上で、他の人に教えると言うことです。自分が分かってないと、他の人に教えられません。

 今の時代は、世界的に見て子供が親から愛情をもらえなくなっている状況があります。自分が親になっても、子供に愛情を与えられないということです。子供は親から愛情をもらえないと、精神的にも落ち着かない。精神的にも優しさがなくなるということがあります。親も自分を愛していなかったら、他の人を愛するということも、難しいのです。

 今の時代は、親は忙しくて、時間がないということで、子供に時間を与えられない。時間を与えられないというのは、とても怖い状況になっています。親になっても、たくさんの人に、愛情と慈悲をあげられるというのは、社会が良くなる方向でいい影響を与えます。ですから、自分から皆さんに慈悲を与えて下さい。親でも、親でなくても、誰でも愛情を与えて下さい。

 慈悲というのは、条件なしの慈悲と、「相手が自分を愛していたら、自分も愛する」という条件的な慈悲とがあります。もし相手が条件に合わなかったら、ここに行ってしまう場合もあります。本当の慈悲というのは、条件付きではないのです。制限なしで、無条件なのです。

 本当の慈悲をあげられるように努めてください。条件付きの慈悲だと、心配があります。自分を愛してくれたら慈悲をあげると言うなら、「愛してくれるかな」という心配があります。お釈迦様の慈悲は全然限界がありません。

 相手が美しかったら愛して、相手が美しくなかったら愛さない。条件付きだと、条件に合えば愛するけれど、それが変わったら愛さない。無条件の愛は、条件がないので長く続く。お釈迦様の愛は、そういった条件がないのです。

 今の時代は、条件なしの慈悲はとても少ないから、ある日私を嫌いになるかも知れないという心配があります。それでは安心できないのです。「愛している」と言われても、本当に落ち着いていることはできません。条件が付いているから、安心できない。その条件が変わったら、変わるかもしれないので、心配しながら、その愛をもらっているのです。

参加者の発言:

 私も実際にそれを感じました。彼女ができて、結婚して、条件付きの愛を感じました。もし、相手の条件が変わったら、どうでしょうかと。実際そうなって、それを見れば見るほど、条件なしの愛ということをよく思いました。相手には条件があっても、自分はないようにと思いました。もっとも、今思うのは、条件付きの愛はしたくないということです(笑)。

セヤドー:

 愛情というのは言葉で言うのは簡単です。「I love you」というのはすぐ言える。歌でもたくさんあります。でも、本当の深い慈悲というのはとても難しいことです。精神的に自分の心をもっときれいにして、もっとレベルが高くなるように頑張れば、本当の慈悲の愛というのが現れます。

 すぐにはできないけれど、ゆっくり頑張れば、もっと高くなります。とても意味が深いことだから、ゆっくり話し合って、ゆっくり考えてやった方がいいでしょう。実はこういうお話を週1回に4ヶ月位やったらいいと思います。

質問:

 幸せについてなんですけれど、インドの本で、修行である段階までいくと、満たされて幸せでしょうがないレベルに行く。あまりにも気持ちがいいので、その上の解脱までいこうとしなくなる。そこまで探求するという気持ちがなくなって、幸せなレベルに留まってしまう人がたくさんいるということ読んだんですけれど。

セヤドー:

 そういう状況になっている段階を見つめるようになれば、それを超えます。心の自然というのは、その幸せを見つめるようになれば、もっと高いところにいくのが自然です。悪い心の影響が見えたら、良い方向に行きます。その良い心が見えるようになったら、もっと高い良い方向に行きます。もっと高いレベルまで行きたかったら、自分が今あるレベルをよく見つめるようにしてください。それはとても深い心の自然です。

 ある状況を超えたかったら、それをよく見つめます。よく見つめられるようになったら、それを超えることができます。分からなかったら、そのままの状況に留まります。それだけを楽しんだりします。よく見つめるようになれば、それより高い段階に行きます。

質問:

 お釈迦様はインドに生まれましたが、ヴィパッサナーというのはインドでは全然流行ってなかったわけですよね。そういう素晴らしい方法をインドの人たちは実践できなかった。その理由というのはどういうことなんでしょう。

セヤドー:

 お釈迦様は、悟る前は、インドではヒンズーの教え、サマタの修行がありました。そして、お釈迦様は悟りました。悟ってからは、ヴィパッサナーの修行はしましたけれど、お釈迦様がなくなってから時間が経過し、前のヒンズー教の影響とサマタの影響が元に戻って、ヴィパッサナーの修行の仕方が弱くなってきました。

 ミャンマーでは、ヴィパッサナーがなぜ強くなったかというと、その以前のミャンマーには、強い宗教の影響が何もなかったからです。例えて言えば、白い画面の上に書いたら、何でもたくさん書けます。でも、インドだったら、すでに色がある上に書いているので、またその色に戻ってしまうということです。それは自然ですね。

質問:

 ヴィパッサナー瞑想が難しいから、サマタ瞑想が主流になってきたのでしょうか。

セヤドー:

 ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想は、どちらが難しい、どちらが易しいということではなくて、ヴィパッサナー瞑想の方は、もっと智慧を、もっと自分の力を使わなければならないのです。サマタ瞑想は、自分の力をそんなに使わなくてもいいということですね。どちらが難しい易しいということはないですね。自分の力を、どっちがもっと頭を使うかがポイントになっていますね。

 勉強するときに、覚えることはもっと簡単です。その意味を分かるというのは、もっと難しいです。覚えるというのは、子供でも意味が分からず、覚えることはできます。でも、意味が分かるようにというのは、もっと難しい。

 意味を理解したら、暗記しなくても分かります。サマタの方は、頭を使わなくてもできるんですけれど、ヴィパッサナーの方は頭を使わないといけないということで、難しいのではなく、みんな頭を使わずにやっているから、難しいと思っているだけです。

質問:

 仏教の英訳の本を読んでいると、気づきに対して、awarenessとmindfulnessという訳があります。先ほどお話の中でmindfulnessという言い方をされたんですけれど、それはどのように違うのでしょうか。日常の中で実践をするとしたら、awarenessとmindfulnessというのはどのように違うのでしょうか。どういう“気づき”なのでしょうか。

セヤドー:

 日常生活では、最初mindfulnessで、何が起こっているかというのをよく分かるようにします。よく分かれば分かるほど智慧になります。ですから、お釈迦様の教えで何をやっても気付くようにというのは、座っても座っているのを気付くようにと、居ても居ることを気付くように、寝ても寝ているのを気付くように、トイレ行ってもそれを気付くようにと細かく言ったらたくさんあります。

 全部まとめていうと、自分がやっていることに気付くということがとても大切です。瞑想する時だけ気付くということではなくて、できるだけ日常生活で気付くようにしなければならないのです。本当に頑張ってみたら、精神的に良いなと感じます。

質問:

 アーナパーナサティもヴィパッサナーの瞑想として考えてもよろしいでしょうか。なぜなら、私は仕事とかしていて、毎日忙しいときに、ちょっとの時間でも息を吐いたり吸ったりとか、できるだけ気づけるようにしているのです。

セヤドー:

 アーナパーナの一部はヴィパッサナーですが、すべてがヴィパッサナーではありません。その一部の中にヴィパッサナーを含んでいますから、息を吸ったり吐いたりするのを気づくことも大切なことです。

 あなたにとって、それはどのように役に立っているのですか。

質問者:

 悪いことを言われても、あまり腹が立たなくなりました。

セヤドー:

 それはいい結果が出ていますね。

参加者の発言:

 仕事の合間に慈悲の瞑想をしています。仕事をしていると、自分がやったことで他の人が批判したりします。マハシの瞑想を今しているので、精神的に安定しています。

セヤドー:

 それは正しいことです。

参加者:

 むしろ、歩み寄ることで心が安定すると、その人に対して歩み寄りたいという気持ちが湧いてきて、その人のことをより理解すると、その人も心を開いてくれます。

セヤドー:

 心に影響を与えるものに三種類あります。1つはアクション(行為)、1つはリアクション(反応)、1つはレスポンス(返事)。そういう三種類です。まず、アクション(行為)とリアクション(反応)ですね。相手からの行為に自分が返す。アクション(行為)がなくても、相手に返すレスポンス(返事)というものがあります。

 リアクション(反応)というのは智慧がついていないということですね。すぐ返す。相手から悪いものが来たら、悪いものをすぐ返すということになります。アクション(行為)というのは他の人とあまり関係ないですね。自分は何をやりたいかと考えて、やりたいことをやります。

 レスポンス(返事)というのは、自分の出合った状況が良いか悪いかにかかわらず、智慧でもってよく考えて、良くなるようにという気持ちでやることです。気づきの瞑想をする人は、リアクション(反応)という、悪いことがあったら悪いことをすぐ返す、というのは、少なくなるようです。

 リアクション(反応)というのは智慧が全然ついていないので、来たらすぐ返すということになってしまいます。それは習慣とか性格とかにも出ています。リアクション(反応)には自由というものがないのです。もっと気付くようになったら、リアクション(反応)が減って、自由が増えることになります。

 気付くというのは、ヴィパッサナーというのは、もっと自由な方向に行くということです。ですから、気付いているということは、精神的にとても感じが良いことです。レスポンス(返事)というのは、智慧がついていますから、一番良い返事を返すということです。相手に悪くされても、それに気付いて、良いことを返すということです。

質問:

 日本では、瞑想の先生があまりいないから、自分自身でやらないといけないというのは、危険なことでしょうか。

セヤドー:

 基本的なことができれば、自分でも分かります。その基本的なことは何かというと、自分の心の状況をよく知ることです。それをよく理解できればできます。でも、目的を間違っていたら、例えば、サイキックパワーのためとか、占いのためとか、そういうことのためにやっていたら、危ないことはあります。そのサイキックパワーというのは、「自分、自分」ということと、何かを得たいという目的ですから、そういうのが入っていたら危ないことがあります。

 エゴ(atta)と貪欲が入っていなかったら、間違えることにはなりません。例えば、サイキックパワーがあったらお金がたくさんもらえるとか、そういう目的がなかったら大丈夫です。オウム真理教というのは、その目的が間違っていたから、とてもおかしなことになりました。

質問:

 パソコンを仕事でよく使っていますが、パソコンをやっていると非常に刺激的なので、思考の方にどうも入っていってしまいます。そういうことを少なくするには、どうしたらいいでしょうか。

セヤドー:

 今の時代は、どうしてもパソコンを使わなければならないので、どうしてもそうなってしまいます。そういう時に、思考が起こるのは自然なことなので、そういう時には1分くらい止めるというか、瞑想してください。自分が今やっていることを気付くようにしてください。

 1分間瞑想です。要するに、刺激的なものを見ていると、心が興奮してしまうことがあるから、そういうときは一旦止めて、自分の心に気付くようにします。

 今起こっていることは真実です。それで今起こっていることに気づくようにします。興奮している、怒っている、疲れている、動揺している・・・。気付いていれば、止めることができます。気づきが大事です。気づきには、バランスを取る力と、心を浄化する力があります。

質問:

 そういうときには、体の感覚のどこかを見るのですか。

セヤドー:

呼吸とか、何でも良いです。一つ面白い例を教えましょう。皆さんは笑うかもしれません。(ピアノを弾くように指を動かす)。これが瞑想の一つです。

 その感覚によく気付くようにしていたら、それも瞑想です。体と心の感覚に気付くようにしていたら、それは瞑想です。パソコンを使うと指が疲れるから、こういうふうに練習したら、指にとって良い体操になります。あるいは歩きます。あるいは背中を伸ばします。自然にします。自然であることです。

質問:

 瞑想で自分の感情に気付いていたら、恐怖が出てきて、一人家で瞑想したりというのが怖くてできなくなりました。自分の悪いこととか、自己愛というか、自分を守るというか、そういうものに気付いてしまうので、自己嫌悪に陥ってしまいます。そういうのが出てきた時に自分が間違った方向に瞑想をしてしまうんじゃないかという恐怖で続けられないのです。お寺とかへ行くと、お坊様とかお釈迦様の像とかで安心できます。
そういう心理状態のときは、やはり家ではやらない方が良いのでしょうか。

セヤドー:

 その恐怖は、思っていることですか、実際前にあったことですか。

質問者:

 例えば、自分が何かとんでもないことをしてしまうのではないかとか、自分の考えているところから出てきたことに対して、自分がそんなことを思っていたんだ、というような自分に対する恐怖です。

セヤドー:

 想像しなければ恐怖というのは出ることはないですね。瞑想することによって、そういう恐怖をコントロールすることはできません。良くなるようにもできません。瞑想によってできるのは、距離を離して見ることです。

 とても怖いと思ったら、誰かいた方が良いですね。瞑想すればするほど、もっとレベルが高くなり、怖いという気持ちがなくなりますから、森の中で1人で瞑想しても大丈夫になります。

 家で瞑想するときに、そういう恐怖があって怖いと思ったら、怖くないところに行って瞑想した方がいいでしょう。お寺とか、いい友達がいるところとか、お坊さんがいるところとか、そういうところで最初は瞑想した方がいいでしょう。

 みんな座って瞑想しているのを瞑想だと思っていることが多いですね。でも、日常生活で、例えばお皿を洗ったり、いろいろしたり、それを気付くようにすることも瞑想です。掃除するときにも掃除の瞑想とか、お皿を洗うときにも皿洗いの瞑想とかをすれば良いのです。

質問:

 気付いていれば良いのですか。

セヤドー:

 そうです。そういうことです。

日常生活で、洗っている、掃除していると気付いていることが瞑想です。ずっと座っていることだけが瞑想ではないのです。

質問:

 テーラワーダのお坊さんの中にも、テーラワーダだけが正当で、他はちょっと、という方もおられます。みんなそれぞれ存在理由があると思うんですけれど、チベット仏教とか禅とかどこが良いところでしょうか。テーラワーダの仏教徒として、そこからどういうことを学んだら良いのか、教えて頂きたいのですが。

セヤドー:

 お釈迦様が教えを説いた時には、名前を付けてはいませんでした。テーラワーダとか、チベット仏教とか、禅とかの名前は付いていませんでした。自然そのものだけを教えました。本当に自然であれば受け入れられるということです。私はとても簡素なことが大好きです。瞑想するときにもいちばん簡素な方法で瞑想します。

 気づきの瞑想というのは、実際自分がやっていることを気付くということで、とても簡素です。何も心で作るということはないのです。考えることもないのです。気づきの瞑想はいちばん簡素です。ナチュラル(自然)でシンプル(簡素)です。いい影響を与えます。とてもいい結果があるというのは、何日かの間にも分かると思います。

質問:

 チベット仏教では、マントラを唱えることが中心だと思うんですが、それについてはどう思われますか。

セヤドー:

 マントラを唱えるというのは、心には忙しくて複雑な仕事だと思います。私は、何もマントラを唱えません。自分で気付いているので、それで十分だと思います。

セヤドーのしめくくり:

 今日はたくさんの質問が出て、良い会になりました。必要なことは何だろうと皆さんで考えて、よく理解するようにしてください。



*註:セヤドーの「A Map of the Journey」は次のサイトに載っています。http://www.dhammaweb.net/books/map_of_journey.pdf




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