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芭蕉とマインドフル   セヤドー・ウジョティカ
  

芭蕉の句
参加者:セヤドーの「夏の雪」はとても面白い本なので、翻訳しようと考えています。

セヤドー:「夏の雪」は、私と海外にいる友人達との書簡から抜粋したものです。ですから、全部を翻訳する必要はないでしょう。面白いところだけを選んで翻訳すれば良いでしょう。私の本を訳してくれるとは嬉しいことです。というのも私は、日本の作家から少しばかり学んでいるからです。私は俳句が好きです。去年本を出版したのですが、タイトルは、「From beuty toward truth」(美から真理へ)というもので、ビルマ語にするととても美しい題です。

 これは、美から真理へ行くということです。真理に到達したかったら、まず美に至らなくてはなりません。美とは何かを知らなくてはなりません。それから、真理とは何かを学びます。真理もまた美だからです。その本の中で私は芭蕉の句について書きました。

「何と可憐だろう、山の峠にスミレの花が咲いていた」
(訳注:「山路来て何やらゆかしすみれ草」)
この句にはとても深いものがあります。山の峠にスミレ草が咲いている―これだけでは何の意味もないように思えます。しかしそれを良く見てみるとそこには深いものがあります。それでその話を本に載せました。芭蕉にいろいろ質問したくなります。「なぜスミレ草を見てそんなに幸せを感じたのか」と。
山の峠にスミレ草が咲いているのは特別なことだったのでしょうか。
答えは、「別に特別なことではない」ということです。

 簡素(シンプル)なものに感謝(訳注:元の英語、apriciateには、感謝と鑑賞の意味があります)します。感謝することを学びます。簡素で純粋なものを見たら、すべての簡素なものに感謝するようになります。
 人々はたくさんの心配事や悩みや願望という荷物をを抱えています。真実を見ません、真実を聞きません。何か美しいものを見ても、イメージを見ているだけで、ほんとうに鑑賞することがありません。なぜなら心が既に一杯だからです。何かを鑑賞するためには心が空(から)でなくてはなりません。一杯でなく、空でマインドフル(気付いている)でいることです。

 心がマインドフルで、空であるとき、そこにすべてに対しての空間があります。心が一杯だともうそれ以上受け入れることができません。芭蕉の心は空(から)でした。それで彼は、見て、鑑賞して、愛でることができたのです。誰かを愛するためには心が空でなくてはなりません。心がすべての悪や自分のことで一杯の時は、他の誰をも受け入れる余地がありません。

 もう一つのポイントは、人はほとんど過去について考えているということです。昨日、一昨日、去年、昔のことなど。現在にはいません。何かを鑑賞する時、心は現在にいなくてはなりません。過去ではなく、未来でもありません。ですから、今にいるときに注意深くあることができます。過去を考えている時は現在への注意がありません。心は今に居ないからです。

 そしてまた、芭蕉はすみれの花を愛でましたが、彼はそれを持って行きませんでした。それを持って行きたいと思う時、ほんとに鑑賞していることにはなりません。所有したいのです。それは、花についても、人についても当てはまります。所有したいと思う時、ほんとに鑑賞していません。

 もう一つのポイントは、芭蕉はスミレ草を他の花と比較しないということです。すみれ草をバラやジャスミンや他の花と比較しません。何かを鑑賞する時、他のものと比較しないのです。それは純粋で高い心の状態です。鑑賞することを好んでいた。それが幸せなことです。

俳句と瞑想
 この俳句につなげて瞑想の話をすることができます。私は俳句を詠みます。英語でです。俳句スタイルの英語です。とても短くてとても簡潔(シンプル)です。しかし理解するのはとても難しいのです。そこにはヒントしか書いてありません。なぜならそこではすべてを説明していないからです。ヒントしかありません。僅かな言葉しかありません。詩を詠む時は、詩人でなくてはなりません。詩を詠む時は詩人にならなくてはなりません。好きであろうと嫌いであろうと、詩を理解しようとするなら、それを見て理解する方法に従わなくてはなりません。

 それである人が言いました。「詩を詠むことは、書くこと同じくらい難しい」。それは洗練された表現の形です。ブッダの教えでも、いろいろな所で、簡素化し、洗練した形で教えを説いています。例えばブッダは、「見る時には、ただ見なさい」と言います。これは簡素で洗練された形の教えです。簡単に覚えられます。しかしその意味をほんとに理解するまでには長い時間が必要です。
「ただ見る」、これはどういう意味でしょう。

(近くの花を指差して)この花は何ですか。
(参加者:バラです。)
もしあなたが「ただ見る」を実践するなら、名前のことは考えたりしません。なぜなら、名前というのは過去の経験から来ているからです。
「ただ見る」だけの時、そこには過去がありません。
「ただ見る」だけの時、「これは昔見たことがある」という考えもありません。
「ただ見る」だけの時、瞑想とは何なのかが分かります。
「ただ見る」だけの時、判断はありません。比較もありません。「それが欲しい」ということもありません。
「ただ見る」だけの時、「私」というものはありません。
「ただ見る」だけの時、それを見ている「私」はありません。ここが難しいところです。しかし、「ただ見る」といった時、そこにはとても深い意味があります。これは、俳句に似ています。俳句も「ただ見る」だけです。だからブッダは俳句の名人であったわけです。(笑)

 ですから「ただ見る」時はそれを欲しがらず、憎まず、ただ見ているだけです。とても単純です。しかし難しいのです。
 同じようにブッダは、聞く時は「ただ聞きなさい」、嗅ぐ時は、「ただ嗅ぎなさい」、味わう時は、「ただ味わいなさい」、触れるときは「ただ触れなさい」、知るときは「ただ知りなさい」とおっしゃいました。そこに「私」はありません。
 ブッダの言わんとしたことを知れば、瞑想とは何かということが分かります。こんな風に話せば日本人には分かりやすいのではないかと思い話しました。皆さんは俳句には親しみがあるでしょうから。

感謝の気持ち
 幸せでありたければ、感謝の気持ちが大切です。西洋の作家で名前を忘れてしまいましたが500年前の人が言っています。
「感謝は天国と同じである。感謝したら天国にいる」
心がより清らかになり慈しみと感謝の気持ちで満たされれば、ダンマをいたるところに見ることができます。真にダンマを見るとき、それは仏教であるとか名づけることはできません。すべてに名前をつけることはできません。ブッダは、ダンマ知るものには“~イズム”はありませんと言っています。

 パーリ語でasankhiye(アサンキエ)―名前をつけられないもの、それを越えたところにあるものと言う意味です。名前、区分け、区分を超えたもの。評価、判断(例えば博士、先生、僧侶であるとかいう)を越えたもの。
 真にダンマを理解する時、それらは重要なものではないことが分かります。人々は「私は、博士で、技術者で、僧侶で」ということを誇りにしますが、真のダンマはそれを越えた所にあります。誇るべきものは何もありません。

 すべてのものを越えた所に何があるでしょうか。私が若い頃歌が好きでした。ルイ・アームストロングの歌です。皆さんルイ・アームストロングを知っていますか。
(参加者:ジャズ・プレイヤーの。)
そうです、ミュージシャンの。私もまたミュージシャンでした。バイオリンを弾きました。さて、彼の作った曲を私は好きでした。題名は「What a wonderful world」(この素晴らしき世界)というものです。

(訳注:
I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world
緑の樹や赤いバラを見る
私やあなたのために咲くのを見る
そして心の中で「なんて素晴らしい世界だろう」と思う
I see skies of blue and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world
青い空や白い雲を見る
祝福された明るい日中、聖なる暗い夜
そして心の中で「なんて素晴らしい世界だろう」と思う
The colours of the rainbow, so pretty in the sky
Are also on the faces of people going by
I see friends shakin' hands, sayin' "How do you do?"
They're really saying "I love you"
虹の色はあんなにもきれいに空にかかる
そして通り過ぎていく人々の顔も
友達同士は握手し、「やあ、どうだい」と言い
「君のことが好きだ」と言う
I hear babies cryin', I watch them grow
They'll learn much more than I'll ever know
And I think to myself, what a wonderful world
Yes, I think to myself, what a wonderful world
Oh yeah
赤ん坊が泣くのを聞き、育つのを見る
私が知っていることよりさらに多くのことを学ぶだろう
そして心の中で「なんて素晴らしい世界だろう」と思う
そう、心の中で「なんて素晴らしい世界だろう」と思うんだ
オー・イェー)

 彼はその中で、樹について、バラについて語っています。でもそこに留まりません。すべての自然について語っています。友達同志が会って握手し、「やあどうだい」とたずねます。そして愛を表します。人々は挨拶で慈悲を表現します。空は青く、雲は白く、日中は明るく、夜は暗い。何と素晴らしい世界か、と。しかし人々は夜の暗さを見ますが、「何と素晴らしい夜の闇か」とは思いません。「何と恐ろしい闇」と思います。夜の闇も素晴らしいのです。それがあって美しい星が見えるわけです。

 貪欲、欲望、怒り、フラストレーションという荷物を軽くすれば、それらのもの、自然の素晴らしさに、感謝するようになります。貪欲、怒り、プライド、嫉妬、欲を持つ人は花を見ても「やあ、これはいくら位だ」とか思います。「私はもっと高いものを持っている」とか思って比較します。欲が無ければ、「緑の葉は何と美しいのだろう」、「輝くような黄色の花だ」、「これは自然の奇跡だ」と思います。私たちがそれを愛し、感謝すると、欲、怒り、高慢、嫉妬、を乗り越えることができます。それで私たちは、「ありがとう、とても美しい可愛い花よ」と言うでしょう。

質問:
 私はキリスト教会に通っていました。今でも友達にミサに誘われるのですが、仏教を学んでいるから、行くのがはばかられる、良くないと思ってしまいます。今のお話を聞いていて、ダンマは名前を越えた所にあるのなら、仏教徒であってもキリスト教の教会へ行くのはかまわないのでしょうか。

答:
 友達と一緒に楽しめば良いでしょう。行く時は宗教ということで行くのではなく友達と一緒だから行くということです。仏教であるとか、キリスト教であるとかなしに楽しんでくれば良いでしょう。
 大事なことは、心が善であるか、不善であるかということです。これが最も重要です。クーサラかアクサラかです。ダンマを理解する人は、因果を理解します。原因も自然で、結果も自然です。すべて自然です。これはとても深い真理です。何かが欲しい時、「これを下さい」と言ってもダメです。そのために働かなくてはなりません。ダンマを知らない人たちは「これを下さい、下さい」と言うだけです。しかしそれを得るには、どのようにしたら自然に得られるかを知らなくてはなりません。自然の法則に従うなら、悪いことをすれば、悪い結果を得ます。そういう時は間違いを正します。

 火に触れば、熱い。それが自然の法則です。火に「燃えないで下さい」と言ってもそれは無理です。氷に触れば冷たい。それはその人が何を信じようと同じです。それで子どもが火に触ると熱いので、「これは熱いものだ」と学びます。次の時は気をつけるようになります。同じように、悪いことをすると悪い結果が現れます。それで注意深くなります。自然の法則は「私ならできて、彼にはできない」と言う風な、えこ贔屓がありません。

質問:
 キリスト教を勉強していて、慈悲の部分はキリスト教も仏教も似ているような感じですが、天国とニッバーナの世界とはずいぶん違うような気がしますが。

答え:
 仏教とキリスト教。この二つには似た所があります。慈悲と言うのは宗教を選びません。慈悲はヒューマニズム(人間性)です。それはどの宗教にもあります。ブッダの教えは、ヒューマニズムとナチュラリズム(自然性)です。ヒューマニズムと言う時、多くの意味があります。いろいろな人がいろいろな定義をしますが、私はこう思います。人間には、人間的問題があって、人間のみがそれを解決できます。それがヒューマニズムの一つです。

 その意味は、幸せになりたければ、私たちは自らの智慧を信頼しなくてはなりません。誰か他の人が幸せにしてくれるわけではありません。
 もう一つの、天国は、いろいろの宗教で言っています。天国は人々の行きたい所です。しかし、ニッバーナ(涅槃)は人々の行きたい所ではありません。ニッバーナを得たとき、何もありません。何もないところです。ですから、何かを求めている人々は、ニッバーナへ行こうとは思わないでしょう。このことについては、もっと話したいのですが、時間がありません。

 基本的に自分の心を深く見つめれば、欲望と言うものは絶対に満たされると言うことがありません。天国へ行ってもそうでしょう。何かを得ると、さらにもっと得たくなります。何かを得れば、もっともっと・・・です。ですから、何かを求めて生きる生き方は子供のようなものです。それゆえに私たちは、成熟した、自由な心を持つべきです。「足ること」を知って「もうこれ以上はいらない」という心です。ニッバーナを得る事は、「これで充分だ、もうこれ以上何もいらない」という道です。ですから真にそこへ行きたいと、行く人はとても少ないのです。

質問:
 日常生活で仏教徒として気をつけた方がいい心の使い方があれば教えて下さい。

答:
 それはとても簡単です。現在に気付いていて、マインドフルであることです。マインドフルであれば、他のことは全てOKです。

質問:
 その気付きに気をつけていれば、先ほど仰った感謝とか純粋さとか慈悲とかが自然と出てくるのでしょうか。

答え:
 それに従って出て来ます。気付きがあれば、戒も付いてくるし、サマーディも付いてくるし、慈悲もついて来ます。マインドフルがいちばん要点になります。

今日はありがとうございました。芭蕉についてお話くださったので大変興味深かったです。




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