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       はじめに

 この法話は、インターネット上に載ったT.Sさんによる翻訳、「沢山あるなかの1つの道具」の転載です。転載を快く了承してくださったT.Sさんには改めて感謝したいと思います。
 瞑想修行者にとって、サマタ、ヴィパッサナー、気付き、集中、という言葉はキーポイントになるものですが、それらの関係は必ずしもよく理解されているとは思えません。タニッサロ・ビクのこの法話は、サマタとヴィパッサナーの関係について、よく整理して示してあり、必読文献であると思います。また、同じ著者の「集中と気付きへの道」と一緒に読んでいただくと一層良く理解できると思います。

なお翻訳者のT.Sさんは、タイ上座部仏教の長老たちの法話サイトCulaWikiを開いています。

 文中ニ引用した経典の略語は次のとおりです。
 AN:アングッタラ・二カーヤ 増支部経典
 MN:マッジマー・ニカーヤ 中部経典
 SN:サンニュッタ・二カーヤ 相応部経典
 
                            菩提樹文庫管理人




沢山あるなかの1つの道具: 仏道におけるヴィパッサナー(観)の位置付け 
  タニッサロ・ビク  翻訳:T.S 



 ヴィパッサナーとは正確にはどういうことなのでしょうか。初期仏教の瞑想に関するどんな本を見ても、仏陀は2つのタイプの瞑想を教えられたとされています。サマタとヴィパッサナーです。サマタは静寂を意味しますが、これはジャーナと呼ばれる精神の没我状態を作り出す方法といわれています。ヴィパッサナー ― 文字通りには「はっきりと見ること」ですが、洞察瞑想と訳されることが多い ― は、少しの静寂を使い、出来事が無常であることを現時点において直接経験することのできる、瞬間瞬間の気付きを生み出す方法だといわれています。

 この気付きに満ちた状態により、すべてのことについて諦観が生まれ、この諦観は、心が苦から解放されるように導きます。これらの2つの方法はまったく異なっているものと教えられ、その2つのうち、ヴィパッサナーこそが、瞑想科学に対して、仏教だけが貢献するところだとされています。仏陀以前の他の実践システムもサマタを教えていますが、仏陀がはじめてヴィパッサナーを発見し、教えたのです。仏教の瞑想者は、ヴィパッサナーへ進む前にサマタ瞑想を行うこともありますが、サマタの実践は悟りへ到達するには、本当には必要なものではない。瞑想のツールとしては、ヴィパッサナーの方法は目的を達成するに十分なものだ。と、こう我々は教えられてきました。

 しかし、直接パーリ経典 ― 仏陀の教えを知るための最古の現存する情報源 ―を見ると、サマタという言葉が静寂を意味し、ヴィパッサナーは明晰に見るということを意味するように遣われているにも関わらず、これらの用語について、公式的な説明がなされていません。
 ごく稀にヴィパッサナーという単語が使われます。ジャーナという単語がよく使用されるのと非常に対照を成しています。仏陀が弟子たちに瞑想しなさいという場面を描くのに、「行ってヴィパッサナーをしなさい」と仰ったとは決して書かずに、いつも「行ってジャーナをしなさい」と仰ったように書いています。

 そしてヴィパッサナーという単語を、ほかのマインドフルの技術と同じものとしては使っていません。ヴィパッサナーについて述べているいくつかの箇所では、経典の編纂者はほとんどいつも、サマタと対(つい)にして述べています。 ― 2つの代替的な方法としてではなく、人が獲得したり、備えたりする2つの精神の質として、またそれらは一緒に開発されるべきものとして述べられています。

 1つの例えとしては、SN 35.204「迷宮の樹」(Kimsuka Sutta)が挙げられます。ここでは、サマタとヴィパッサナーが、体という城砦に入ってくる、「素早い2人の伝令」として例えられています。彼らは聖なる8つの道を通り、正確な報告 ― 悟り、ニッバーナ ― を城砦の指揮官である「意識」に届けます。また別の句 AN 10.71「願い」(Akankha Sutta)では、誰でも煩悩を終わらせたいと願うものは、倫理的な行いの原則をしっかり守ることと、世俗より離れることに加え、サマタを修し、ヴィパッサナーも修めるようにと勧めています。

 この最後の文章はそれだけでは気付きにくいのですが、同じ経典で、ジャーナをマスターしたいものに対しても、同じアドバイスをしています。サマタを修し、ヴィパッサナーも修めるようにと。

 このことは、パーリ経典を編纂した人々が、サマタ、ジャーナ、ヴィパッサナーを、すべて1つの道の部分として見ていたことを示唆します。サマタとヴィパッサナーはジャーナをマスターするために、ともに使われ、それから今度はジャーナを基礎として、より深めていき、煩悩の終焉と苦からの解放をもたらすまで高められます。これは他の経典にも同じように当てはまる見方です。

 悟りの智慧に達するために、サマタとヴィパッサナーが共に作動する、3つの可能性について、語られている句があります。サマタからヴィパッサナーへ移るか、ヴィパッサナーからサマタへ移るか、あるいはサマタとヴィパッサナーが同時平行で育まれるかです(AN 4.170 「両方ともに」(Yuganaddha Sutta))。この言い方は2頭の牡牛が荷車を引く様子を彷彿とさせます。1頭が前に、もう1頭が後になるか、あるいは、両脇に並ぶようにつながれるかという様子です。

 もう1つの句(AN 4.94「禅定(静寂と洞察)」(Samadhi Sutta))は、サマタがヴィパッサナーに先行したり、ヴィパッサナーがサマタに先行したりした場合には、実践のバランスが取れていない状態であり、修正されるべきであることを示しています。サマタの修練が進んでいるが、「高められた見解に基づく現象へのヴィパッサナー(アディパンニャー・ダンマ・ヴィパッサナー)」がない人は、ヴィパッサナーで進歩を遂げた友人の瞑想者に尋ねるべきです。「どのようにして形成(サンカーラ)が見られるか。どのようにしてそれらは探索されるか。どのようにしてそれらは洞察されるか」。そして、その人の指示のもとにヴィパッサナーを育むことができるでしょう。

 これらの質問における動詞 ― 「見る」、「探索する」、「洞察する」が示すのは、ヴィパッサナーを発達させる過程には、単なる「気付きに満ちている」ためのテクニックより多くのものがあるということです。事実、我々が次に見るように、これらの動詞は、熟練した探索の過程「根源的に意を注ぐこと」についても使われています。

 反対の場合には ― 高められた見解に基づく現象へのヴィパッサナーに熟練しているが、サマタはそうでない瞑想者の場合は、サマタで進歩を遂げた誰かに尋ねるべきです。「心はどのようにして留められるか。それはどのようにして固定されるか。それはどのようにして統一されるか。それはどのようにして集中されるか」と。そして、その人の指示によりサマタを育むべきです。ここで使われている動詞を見ると、この文脈での「サマタ」は、ジャーナを意味しているように見えます。ジャーナはこの動詞表現―「心が定まり、固定され、統一されていき、集中する」― で表されます。

 この表現は、ジャーナの達成を述べるときに、パーリ経典で何度も用いられるものです。その(表現で言われる)レベルがジャーナだということを気に留めて、パーリ経典を読んでいくならば、その表現は、洞察につながるために必要とされている精神集中のレベルについて、明言するときに遣われるのだ、という印象がより確かなものとなるでしょう。

 瞑想者がサマタとヴィパッサナーに熟練したなら、彼(女)は「漏煩悩(アーサヴァ…感覚への熱情、存在している状態、[訳注:誤った]見解、無知)の終焉に至るまで、それらの熟練度をより高める」べきです。これは、サマタとヴィパッサナーを同時並行で発達させる道を示しています。MN 149「6つの感覚器官に関する偉大な経-大六処経」(Maha-salayatanika Sutta)にある句は、これがどのように起こり得るかを説明しています。6つの感覚器官(5つの感覚と知性)と、それぞれの器官の対象、それぞれの器官での意識、それぞれの器官での接触、そして接触を縁として起こる、快・不快・快でも不快でもない感受、以上これらを、実際にあるがままに知り、見ることです。

 この気付きを維持し、それら[訳注:気付きの対象]のどんなものにも、耽溺せず、執着せず、混乱させられず、それらの欠点を見て、それらへの渇望を捨て去ります。これがヴィパッサナーと見なされます。
 と同時に ― 肉体的・精神的な穢れ、激痛、鬱々とした状態を捨て去り、人は肉体と精神において安楽を経験します。これはサマタと見なされます。この実践は、サマタとヴィパッサナーを両方同時に育むだけでなく、「悟りへ飛翔する37の支分(三十七品菩提分法)」(ジャーナの達成も含む)をも、もたらします。
※「37の方法」にしてしまうと、道がいろいろあるような意味とも取れるので、七覚支などで遣われる「支分」にしてみました。

 そういうわけで、ヴィパッサナーとサマタのバランスがとれた状態にあるのが適切な道です。それぞれがもう一方を支え、チェックの機能も果たします。ヴィパッサナーは、静寂(サマタ)の行き詰まり感や、ぼんやりした感じになるのを避けてくれます。サマタは、心が、思うにまかせず、現在という瞬間に閉じ込められてしまったときに表れる瞋り ― 船酔い、めまい、方向を見失ったり、果ては真っ白になってしまうこと ― に陥ることから遠ざけてくれます。

 これらの記述から明らかになるのは、サマタとヴィパッサナーは、実践の上では、分かれた道ではなく、現在という瞬間において、相互に関係し、補完し合う道であることです。サマタは、現時点に安楽をもたらします。 ヴィパッサナーは、起こっている出来事の事実そのままを見ることのできる、すっきりとした見解をもたらします。

 もうひとつはっきりしてきたのは、ジャーナをマスターするのに2つの面が協調して働くことが、なぜ必要であるかです。息の瞑想についての標準的な教え(MN 118「出入息観」(Anapanasati Sutta))が示すように、それをマスターするにあたり、3つのことが出てきます。喜悦、集中、精神の解放です。「喜悦」は現在において、新鮮な心で満足していることを意味します。「集中」は、精神を対象に留めておくことを意味し、一方で「解放」は、低い段階の集中を作り上げている粗雑な要素から精神を自由にし、より高い段階に到達させることです。

 初めの2つの活動はサマタの機能であり、最後のはヴィパッサナーの機能です。3つとも一緒に働く必要があります。これらの記述から明らかになるのは、サマタとヴィパッサナーは、実践の上では、分かれた道ではなく、現在という瞬間において、相互に関係し、補完し合う道であることです。サマタは、現時点に安楽をもたらします。ヴィパッサナーは、起こっている出来事の事実そのままを見ることのできる、すっきりとした見解をもたらします。

 もうひとつはっきりしてきたのは、ジャーナをマスターするのに2つの面が協調して働くことが、なぜ必要であるかです。息の瞑想についての標準的な教え(MN 118「出入息観」(Anapanasati Sutta))が示すように、それをマスターするにあたり、3つのことが出てきます。喜悦、集中、精神の解放です。「喜悦」は現在において、新鮮な心で満足していることを意味します。「集中」は、精神を対象に留めておくことを意味し、一方で「解放」は、低い段階の集中を作り上げている粗雑な要素から精神を自由にし、より高い段階に到達させることです。
 初めの2つの活動はサマタの機能であり、最後のはヴィパッサナーの機能です。3つとも一緒に働く必要があります。

 もし、たとえば、「集中」と「喜悦」のみがあり、そこに「手放す」ということがなければ、精神の集中が精妙になることができないでしょう。マインドを"x"の段階から"y"の段階へ上げるために捨て去る要素は、最初に"x"の段階にマインドを至らせた要素のうちにあります(AN 9.34「涅槃」(Nibbana Sutta)。

 今の心に起きる事柄をはっきり見る能力なしには、心を低い状態につなぎとめて、より高い段階への障壁となっている要素から、心を解放することができません。
 逆に、もし、ただそれらの要素を「手放す」だけのことをしていたら、つまり、吟味したり、持続する静寂さに留まることなく、ただ手放すだけであれば、マインドはジャーナ自体にも留まっていられないでしょう。このようにサマタとヴィパッサナーはともに働き、熟練したやりかたで、精神が正しい集中をできるようにします。

 ここで疑問が湧き上がります。ヴィパッサナーがジャーナに熟練するために欠かせずに、ジャーナは仏教独自のものではないとするならば、ヴィパッサナーのどこが仏教的といえるのでしょうか? 答えは、ヴィパッサナー「それ自体」は仏教だけのものではないということです。仏教的な点として際立っているのは、(1)サマタとヴィパッサナーの双方が育成されるべきという点、(2)それらが育成される方法 ― 例えばそれらを育むための一連の探索の方法、そして(3)それらが瞑想の道具としてセットで、精神を完全なる解放に導くものだという点です。

 MN 73で、仏陀はジャーナをマスターした比丘に、より深くサマタとヴィパッサナーを修習し、6つの智慧の技術をマスターするように教えました。そのなかで最も大切なものは、「煩悩の漏出を消滅し尽くして、煩悩の漏出のない、心の解脱と智慧による解脱を現世においてみずから知り、体現し、到達する」こと。これは仏陀の教えに従うものの終着地を描写しています。注釈のなかには、ここにいう解脱について、すべてヴィパッサナーの機能であると説明しているものもありますが、別のことを示す経典もあります。

 解脱には2つの側面があることを気に留めてください。心の解脱と智慧による解脱です。心の解脱は、瞑想者が熱情/執着から、まったく離れてしまうことにより、訪れます。これはサマタの究極的な働きです。智慧による解脱は、無知から離れることにより訪れます。これはヴィパッサナーの究極的な働きです(AN 2.30「明知を構成するもの」(Vijja-bhagiya Sutta))。このように、サマタとヴィパッサナーは解脱の2通りの性質に関係しています。

 MN 2「一切漏経」(Sabbasava Sutta)は、ただ「根源的に意を注ぐ」こと(ヨーニソ・マナシカーラ、如理作意)により、知り、見ることのできたときにのみ、「漏煩悩を消滅し尽くす」解脱となると述べています。経典の示すように、「根源的に意を注ぐ」とは、現象について適切な問いを投げかけることを意味します。自分か他者か、存在か非存在か、といった問いかけではなく、四聖諦における問いかけです。言葉を替えていえば、「私は存在するか、存在しないのか、私とは何か」と問う代わりに、経験について「これは苦か。苦の起源か。苦の止滅か。苦の止滅へと導く道か。」と問いかけることです。なぜなら、これらの問いの範疇[訳者註:苦・集・滅・道]は、義務と不可分だからです。これらの問いへの答えは、どのように行為するかを決めるものです。苦は理解されるべきですし、その起源は切り捨てられるべきで、その止滅は実現されるべきで、その止滅への道は修習されるべきです。

 サマタとヴィパッサナーは道の範疇に属し、それゆえ、それらは修習されるべきです。それらを修習するのであれば、ストレス[苦]を理解するために、根源的に意を注がなければなりません。ストレスは五蘊から成っています。物質・感覚・知覚・心の作り話・意識[色受想行識]といったものにしがみ付くことです。これらの塊(かたまり)に根源的に意を注ぐという意味は、それらの欠点について、「常でなく、ストレスに満ち、病であり、ガンであり、矢であり、痛いものであり、悩みであり、異様なものであり、消滅するものであり、虚無であり、我でない」(SN 22.122「有徳な者」(Silavant Sutta))ものと見ることを意味します。

 ブッダ特有な質問のリストは、先に述べたアプローチに導くものです。「この塊は常なるものであるか、無常なるものか」「そして、無常なるものはすべて安らぎとなるものか、苦となるものか」「そして、無常であり、苦を与え、変化するものは、『これは私のものである。これが私自身である。これが私というものである』とみなすのにふさわしいものであろうか」(SN 22.59「無我相経」(Anatta-lakkhana Sutta))。これらの質問は、五蘊のすべてについて問われるべきものです。「過去や未来や現在。内的や外的に。粗雑であれ精妙であれ。普通でも素晴らしくても。遠くにも近くにも」。別の言い方をすれば、瞑想者はこれらの質問を、6つの感覚器官の世界での、すべての経験について問うのです。

 この一連の問いは、「ものごとをあるがままに知り、見ること(ヤター・ブータ・ニャーナ・ダッサナ)」と呼ばれるレベルの智慧へと導くやり方の一部となります。その智慧で、ものごとは「5通りの方法」で理解されます。それらの生起、消滅、欠点、長所、それらからの脱却。ここでいう脱却とは、とらわれないことです。

 注釈者が説くには、実践において、ただ今の瞬間にこれらの五蘊が生起・消滅するさまに集中するだけで、この「5通りの方法」での見方が得られ、その集中がたゆみなくなったときに、自然にその欠点と長所と脱却の智慧が生まれ、完全なる悟りに至るものだ、ということです。

 しかしながら、経典のテクストはそのようには読めず、実際の経験もこれを裏づけするものではありません。MN101が示すように、個々の瞑想者には、ある場合には、苦の原因をとらわれなく観察するだけで、そこから脱却する心が養われるでしょう。しかし、別の場合には、脱却する心を養うために、意識的な努力をする必要が出てきます。どちらのアプローチがどういう場合に適用されるかについては、経典は、おそらく意図的にでしょうが、あいまいです。これは瞑想者が各々自分で試してみるところです。

「一切漏経」は、この点について、脱却のために7つの方法論を展開しています。ヴィパッサナーは、心の要素としては、この7つ全てに関係はしているものの、直接的には最初の「見る」ことに関係しています。ものごとを四聖諦の見方で、またそれに伴う行為との関連で見ることです。残りの6つの方法論は、四聖諦に基づく行為を支えるものです。
 (2)不善心所を生み出すような感覚へ集中してしまうことを避ける(防護)
 (3)衣食住薬を使用するにあたり、適切な理由について思うこと(受用)
 (4)痛みの感覚に耐えること(忍受)
 (5)明らかな危険と不適切な関係を避けること(回避)
 (6)感官の欲望の思い、良からぬ意図、害のあるような、あるいは他の不善心所に至る考えを打ち砕くこと(除去)
 (7)そして、七覚支を養成すること(修習)
 七覚支は、念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支からなります。

 これらの方法論の各々は、またその下に多くの方法論を含んでいます。例えば、「除去」であれば、不善心所を善心所と取り替えることによって無くしてもよいし、不善心所の欠点について焦点を当ててもよいし、注意をそれから逸らしてしまってもよいし、不善心所を紡ぎだす思考の漏煩悩を解きほぐしてしまってもよいし、自分の意思の猛々しい力でそれを抑えてしまってもよいのです(MN 20「考想息止経」(Vitakkasanthana Sutta))

 似たような例が他の経典からも引き出せるでしょう。概していえる点は、マインドが行く道というのは、多様であり、複雑なものであるということです。さまざまな漏煩悩が、またさまざまな外見で浮き上がってきて、それらにはまた別々の方法論が適用できたりします。瞑想者としての熟練度は、さまざまな方法論に習熟することや、どの方法論が状況にぴったりと当てはまるかの感受性を養うことにあります。

 より基本的なことを言えば、むしろ、一番初めの段階でこれらの技術[訳注:7つの方法論など]を学ぶ動機を強く持つことが必要です。なぜなら、「正しい問い掛け=根源的に意を注ぐこと」を手にするためには、全ての人々に共通の思考パターンの基本を成す、対極的な相容れない考え方 ― 「実在/非実在」そして「私/私以外」― を捨てる必要があるからです。
 瞑想者は「正しい問い掛け」を採用するように分別をよく働かせる必要があります。[原文:Meditators need strong reasons for adopting it.]

 このことゆえに、「一切漏経」は、「正しい問い掛け」を育もうと努めるものは誰でも、まず初めに、尊い方々(ここではブッダと覚醒した弟子たち)を高く尊敬するように諭します。別の言い方をすれば、道に従い行った人々を、本当に申し分なく善き人々と見なければなりません。彼らの教えや規律についても、詳しくなっている必要があります。

 MN 117「優れた四十の効果-聖道経」(Maha-cattarisaka Sutta) によれば、「教えに親しんでいる」とは、まず、カルマと再生の教えについて確信を抱くことから始まります。そのことにより、知的にも情動的にも、四聖諦を経験の基本的な範疇として、受け入れることができる素地が準備されます。尊い方々の規律に親しんでいるとは、戒を遵守するのに加え、上に述べた漏煩悩を避けるための7つの方法論についても、いくらかは親しんでいることです。

 このような背景[訳注:四聖諦など]なしでは、瞑想者は、現在における生滅を見る実践について、誤った態度や問い掛けをもつことになるでしょう。
 例えば、「真我」を探して、ついには ― 意識的にせよ無意識的にせよ ― 辿り着いたと思うでしょう。すべての変化するものを包み、すべてがそこから生まれ、すべてがそこへと還っていく、とてつもなく大きな開かれた意識という感覚が、その「真我」だと思ったりするでしょう。

 あるいは宇宙に起こるとてつもなく沢山の相互作用と繋がっている感覚を手に入れたい人は、こう確信するでしょう ― すべてのものごとが変化する中で ― 不変を望むのは、おかしいことで、生命というものを否定することだ、と。

 どちらの結論を持つ人も、現時点のものごとの生成・止滅を経験することによって、あるがままに見る5通りの智慧[訳注:生起、消滅、欠点、長所、脱却]へと到達することはないでしょう。
 彼らは、自分が固執している考えが、見解の漏煩悩であるということや、それらの結論が正当であるように見せている静穏な経験が、単に存在の漏煩悩に過ぎないということを認めるのに抵抗するでしょう。結果として、四聖諦をその考えや体験に適用しようとはしなくなります。

 ただ、漏煩悩を、あるがままの姿で見ようとして、それらを超える必要を確信した人のみが、「正しい問い掛け」の原則を適用することになり、それらを超える立場に立てるでしょう。
 ここで最初の問いに答えてみましょう。ヴィパッサナーは瞑想の技術ではないのです。それは
 精神の質 ― ものごとを現在の瞬間ではっきりと見る能力ということなのです。

 マインドフルネス=気付きを満たすことは、ヴィパッサナーを育むには助けになりますが、完全なる悟りへ至るまでにヴィパッサナーを開発するには、それだけでは十分ではありません。他のテクニックや方法論も同じように必要なのです。特に、ヴィパッサナーはサマタ ― 現在にマインドを楽に留めていられる能力 ― と組み合わせる必要があります。そのようにして、強力な没我状態、ジャーナの達成に熟練できるわけです。

 このように修習されたならば、サマタとヴィパッサナーは、問い掛けの熟練したプログラム「正しい問い掛け」に使うことができるようになり、それはすべての経験に向けられます。
 ものごとを私か私以外か、存在か非存在かなどと探索するのではなく、四聖諦で探索するようになります。瞑想者は、すべてのものごとの「5通りの理解」に達するまで、このプログラムを使い続けることができます。それらの生起、消滅、欠点、長所、それらからの脱却といった観点において。そのときにのみ、精神は解脱を味わうことができます。

 ヴィパッサナーとサマタを開発するこのプログラムは、また、他の多くの態度や、精神の質、実践の技術に支えられる必要があります。これが、尊い方々への尊敬や、漏煩悩を捨て去る7つの方法論や、八正道を含む、より大きなプログラムの一部として、ブッダが教えられた理由です。

 必要最低限なことのみを取り出して行おうとする実践へのアプローチでは、そのように値引きされた結果しか出ません。つまるところ、瞑想とは大工仕事のような技術であり、多くの道具をいろいろな必要に応じて使用できるようマスターすべきなのです。瞑想においてただ1つのアプローチに制限してしまうのは、道具箱にはハンマーしか持っていず、なんとなくの気持ちだけで、家を建ててみようとかいうのと同じことなのです。


 



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