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「思い」を手放す  スダンマチャーラー師のお話  2006.8.20

日常生活と仏教の実践

 仏教の真理というものは、時間も空間も越えた絶対的な次元に属しています。それは、その通りなのですが、その一方で我々自身は、相対的な世界に生きているということを忘れてはいけないでしょう。たとえば、今日は2006年8月20日、ここは、東京の池袋です。

 つまり、我々は日本人として、日本という場所で、21世紀という時代をいま生きているのです。それが我々の現実です。そこを押さえないといくら仏教について話しても、何かつかみ所のない、抽象的なものになってしまいます。皆さんの生き生きとした現実と結びつかないのです。その結果、日常生活と仏教の実践とが別々なものになってしまいます。

 仏教の実践として、いまサマタ―ヴィパッサナー(止観)瞑想するとしましょう。そのときもし、日常生活とは無関係のところで瞑想をしようとしたらどうなるでしょうか。うまくゆくことはないでしょう。何故でしょうか。日常生活のなかで我々のこころに巣くっている煩悩(キレサ)が、瞑想をする時にも出てきてしまい、邪魔をするからです。

 煩悩がある限り心を落着かせることはできません。心が静かにならないのです。瞑想もまったく進んでゆかないでしょう。つまり自分が抱えている問題に手をつけないで、いくら瞑想しても決してうまくゆかないのです。

 普段の我々は自分の問題を真正面から見つめるということをあまりしていません。問題にまったく気がつかないか、気がついていてもわざと無視してしまいがちです。ところが、いま呼吸瞑想のなかで静かにひたすら呼吸を見つめてゆくとき、いままでしてきたごまかしが、自然とできなくなります。いやでも、自分の問題に直面せざるをえなくなるのです

 特にリトリート(瞑想合宿)などで長時間の瞑想をすると、ごまかしの蓋が完全にはずれて、自分の問題が一気に噴出してきたという経験をした人も多いのではないでしょうか。ですから、大事なことは、一人の人間として自分が抱えている問題を解決していくと言う文脈の中で瞑想していく事なのです。

 私はこの五年間ビルマやスリランカ、ネパールで修行してきて、六月の終わりに久しぶりに日本に帰ってきたのですが、正直に申し上げると、いま日本人の気持ちが随分と荒れているな、と感じました。何とも陰惨な事件が多発していることについては、皆様の方が私よりはるかにお詳しいでしょう。

 その中でも一番目を覆いたくなる出来事は、家族の中での殺し合いでしょう。親が子供を殺し、子供が親を殺す。向こうにいたときも、その地で出会った日本人から「今の日本は大変なことになっている」という話しを聞かされていましたが、帰ってみると私の想像以上でした。

 しかし、家族だけが問題で、他はすべてうまくいっているということでは勿論ありません。学校も、会社もうまくいっているとは言えないでしょう。しかし、学校や会社というところは昼間一緒にいるだけの場所で、またお互い他人同士なので、社会常識というものによって自分をある程度まで抑えられます。

 ところが家族だともう身内なので一切の遠慮がなくなり、いきなり“本音”が出てきてしまいます。怒り、恨みなどがストレートに噴出してどうにもとまらなくなってしまうのでしょう。新聞、テレビのニュースに出てくるのはほんの一部の極端な例であって、あそこまでは行っていないが、その一歩手前までは煮詰まっているケースだったら、それこそ日本中に数え切れないほどあるのではないでしょうか。

 ではなぜこんなことになったか。それはいろんな原因の積み重なりがあるでしょう。家庭、学校、教育、政治等々について、いくらでももっともそうなことは言えます。それらを分析して論議してゆくことも大事でしょうが、それよりもまず、とにかくこれ以上家族がお互いに殺しあわないようにするにはいったいどうしたらいいのか。これが、緊急の課題でしょう。最悪の事態を何とか回避しつつ、少しずつ状況を変えてゆくしかないと思います。

人間は、“思い”によって突き動かされている

 相手を殺したいほど憎む。恨む。
人間にはいろいろな感情がありますが、その中でも、怒りというのは、とても大きなエネルギーをもっています。例えば、記憶に新しいところで言えば、サッカーのワールドカップの決勝戦で、フランスのジダン選手を頭突きに駆り立てたあの力です。彼はその後のインタヴューのなかで、相手の選手から屈辱的な言葉をなげつけられた直後、体がもう勝手に動いてしまったと語っていました。自分の中に突き上げてくる強い力―そこからどう自分を守るか。それがいわば緊急避難ということです。

 他人がその力に駆り立てられている様子は比較的簡単に見ることができますが、自分自身についてはどうでしょうか。自分の心にわいてくる色々な“思い”に対して、我々があまりに“馬鹿正直に反応”していることを、皆様ははっきり見えますか。たとえば“心配”という思い。いま、あることが心配になりました。

 たとえば病気になったらどうしようかと。その不安な気持ちにCMが「保険があれば安心です」と語りかけます。そこで保険に入る。でもこの保険だけで十分だろうかと言う心配が起こってくる。そうなると、次から次へと、ありとあらゆることが心配になってきて、もう止まりません。そのキリのなさをまず見てほしいのです。

 心配というのは自分のなかだけですが、怒りとなると相手がいるのでさらに厄介です。いま、怒りという思いに反応して、怒りの原因になったその相手に対して何かしてしまったとします。どうなるでしょうか。勿論相手も怒りでもって反撃してくるでしょう。その向かってくる相手に更にこちらも怒りをエスカレートさせてゆきます。 最後にどちらかが倒されるまで突き進んでいく、そのはてにどれほど悲惨な結果を生んでしまうことでしょう。

個人のレベルでも、国と国とのレベルでもまったく同じことです。人類は20世紀の前半、二つの世界大戦を通して、怒りに駆られてあい争うことの愚かさをもういやというほどに学んだはずではなかったでしょうか。1945年8月の惨憺たる焼け野原で、敵味方なくもうこんなことは絶対にするまいと誰もが心に誓いました。日本でも、ヨーロッパでも。

 でも世界はその誓いをすぐに忘れました。まるで何も学ばなかったかのように、その後もまったく同じことをいまでもし続けています。“思い”に駆り立てられることからすべての不幸がうまれているのは、誰の目にも明らかなのに、それから解放されることが、何とむずかしいことでしょうか。

 私はテーラワーダの比丘になる前は、日本の曹洞宗に所属する禅僧でした。内山興正老師という方について学びました。老師は生涯を通して「思いの手放し」ということを繰り返し説かれました。人間は、“思い”によって突き動かされている。それがこの世の苦しみの原因であることをはっきり自覚したうえで、それを手放さなくてはならない、ということです。

 ですから皆様には何はさておき、自分のなかの“思い”が問題の根源なのだと言うことをまずは押さえてほしいのです。普通はそうは思いません。自分の苦しみの原因は外にあるように誰もが信じこんでいるのです。自分の怒り、恨みの原因になった人がいて、その人によって自分は苦しめられていると思っています。

 しかしもう少し見ていくと、その人によって自分が直接苦しめられているのでなく、自分の中にある「怒り、恨み」が自分を苦しめているのです。その違いがわかりますか。そこを押さえないと何も始まりません。そこを徹底的に見てほしい。自分の中に湧き起る怒り、恨み、心配をじっくりと見てほしいのです。そこまでわかれば、「思いの手放し」の意味がわかります。

「思いの手放し」はどうしたらできるか

 そこで問題は、「思いの手放し」はどうしたらできるか、ということになってきます。私自身「思いの手放し」をしようと思っても、その具体的なやりかたがわからないという状態が何年もつづきました。1988年から3年間、私は曹洞宗から派遣された開教師としてアメリカ、マサチューセッツにある禅堂で暮らしていたのですが、その時ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハン師のことを知りました。師の教えの中心はマインドフルネス(サティ、気づき、念)です。

 マインドフルネスはちょうど良い訳が見つからないので、そのまま英語を使いますが、原語はパーリ語のサティ、日本語では“気づき”などと訳されています。ティク・ナット・ハン師は日常のすべてにおいてマインドフルでいなさい、と繰り返しとかれました。そこにどうやら“思いをどう手放すか”ということに関するすべての鍵があることだけは分かったのですが、その当時禅僧であった私には、マインドフルでいるとは具体的にどういうことなのかチンプンカンプンであったのです。

 師は1995年に来日されました。その時京都で一日師を囲む会が開かれ、一緒にお昼のお弁当を食べました。その時、マインドフルに食事をされる師を目の前にして、マインドフルの意味を如実に学んだのです。いま自分が食事をしていることに気づきながら、食事をする。お茶を飲んでいることに気づきながら、お茶を飲む。その時、どれほど心が穏やかで平和な喜びに満ちているということを。

 こうしてマインドフルでいることのヒントを得て、自分で修行し始めたのですが、勿論一日だけの経験では充分ではなく、もっと深く学ぶ必要を感じていたとき、その伝統を仏陀のときから伝えているのがテーラワーダ仏教であることを知りました。その瞑想法に段々関心が向いてゆき、日本で1年半くらい勉強してから、ビルマへ行き、パオ・セヤドーという方を師匠として本格的にこの五年間勉強してきました。

 テーラワーダの瞑想も勿論色々なやりかたがあります。私が勉強したのは「パオメソッド」と呼ばれるものですが、他にもマハシセヤドーや、ゴエンカさんの教える瞑想法が有名です。去年くらいからパオの瞑想法を紹介し始めた時に、他の瞑想のやりかたをしてきた人たちから、色々な質問を受けました。マハシセヤドーもゴエンカさんもヴィパッサナー瞑想という言葉をさかんに使われます。ヴィパッサナーとは気づきながら見るということです。

 パオ・セヤドーも勿論、ヴィパッサナーを説かれますが、普通マハシ、ゴエンカのやりかたではいきなり最初からヴィパッサナーをやるのに対して、パオではサマタをやってからヴィパッサナーをやると言います。私自身もそう言ってきました。しかしそもそもヴィパッサナーという言葉で意味するものがそれぞれの先生によって違うからそういう比較は意味をなさないのです。

 そこで今私が考えている大体の修行の道筋としては、まずマインドフルの訓練をしましょう、ということです。それをやった上で心が落着いて、湧き起ってくる思いによって突き動かされてしまうということがなくなったら、伝統的なサマタ―ヴィパッサナーをやるというのが、無理のないやりかたでしょう。

 パオにおいてはテーラワーダの伝統的瞑想法を教えています。しかしそこに至るには準備が必要です。その準備とは、マインドフルを養うことです。サマタ瞑想の前にマインドフルの訓練をする。こうとらえればすべてが、段階的にスムーズに進んでゆくでしょう。

マインドフル(気づき)とはどういうことでしょう

 では、マインドフル(気づきの瞑想、サティ)とはどういうことでしょう。
自分の中に湧き起る思いをちょっとはずして見ることです。たとえば怒りが起こったときに、一歩退いてその怒りを見ます。一歩離れたところから見るのがなぜ大事か。自分の中に突き上げてくる強い力―そこからどう自分を守るか。その緊急避難が今日のテーマでした。一歩離れたところから見ることで、その緊急避難ができるのです。

 怒りが起こったときに、なぜ我々はすぐに馬鹿正直にそれに反応してしまうか。その怒りに駆られたまま暴言を吐いたり、さらにエスカレートして暴力をふるうところまでどうしていってしまうのか。それは「怒り」が自分だと思い込んでいるからです。だから反応してしまうのです。そこを切るのです。

 「怒り=自分」「自分=怒り」という式のイコールを切るのです。「怒り=自分」をちょっとはなれたところから見ることができれば、怒りと必ずしもイコールではない自分が見えてきます。それが見えたらもう怒りのエネルギーに流されずにすみます。

仏教は「無我」の教えだということは皆様も聞いてきているでしょうが、それだけではピンとこないでしょう。日常の現実と結びつかないでしょう。無我を理解するために、まずは怒り=自分ではないことを見てください。それが最初の一歩です。

マインドフル(サティ)とはどういうことか。「見たら、気づいたら、自由になる」ということです。こころに起こってくるさまざまな“思い”による連続的な支配から、それを見ることによって逃れられるのです。離れたとたん、ある程度自由になります。

 以上のような説明を受けても勿論すぐには納得がゆかないでしょう。そこでどうしても具体的な訓練が必要になってきます。仏教の歴史のなかで、数え切れないほどの訓練の方法、つまり瞑想法が修行されてきましたが、そのなかでもっとも代表的で、基本的かつ効果的なのは呼吸を使った瞑想法なのでそれを紹介します。

 
アーナパーナサティ(呼吸による気づきの瞑想)

 我々は“思い”に支配された世界の中に生きてきました。生まれたときからずっとそうだったから、そういう世界に生きてきたのだということすら気づかないのです。そこから出ないと気づきません。これから“思い”の世界の外へ出てみましょう。

これから呼吸を見てゆきます。では、呼吸を見ることがなぜ大事なのか。私が呼吸瞑想を通して皆さんに最初にしてほしいのは、自分がどれほど自分自身の“思い”によって支配されてきたかを見ることです。呼吸という瞑想対象に留まれない自分。あちこち飛び回っている自分のこころ。それをしっかりみてください。

「ここにいなさい」と言われてもここにいられない自分の心を見ます。そのことを通して、自分を支配してきた自分自身の“思い”というものの正体が少しずつ、見えてくるでしょう。

そしてもし呼吸にほんの数分、たった数秒でも留まることができたら、その時それがいかに安らぎと平和に満ちたものであるかを見てほしいのです。

 具体的に説明してゆきましょう。ちょっと鼻から息を強く吐いてみてください。上唇のうえのあたりに“ヒヤッ”と感じる部分がありますね。そこを確認して、心をその“ヒヤッ”と感じたものの上に置いてください。心をそこに置きながら、そこを通り過ぎてゆく入る息、出る息を見てください。

 自分が呼吸をしていることに気づいている。息を吸っていることに気づいている。息を吐いていることに気づいている。今はそれだけで良いです。とにかく気づいていれば良いです。では始めましょう。


質疑応答


Q:曹洞宗の坐禅、その只管打坐と呼ばれているものとテーラワーダの瞑想はどう違うのですか。

A:坐禅とテーラワーダについて論じる前に、表面的には違ってみえる伝統をどう見てゆくかという問題から考えてゆきましょう。

私はいま鎌倉の稲村ガ崎にある庵に住んでいるのですが、そこは「一法庵」と言います。外国の友人たちには英語で「One Dharma Hermitage」と説明しています。というのは、私は21世紀の仏教のあるべき姿として、“ワンダルマ”というものを考えているからです。

では、“ワンダルマ(一法)”とは何でしょうか。仏教というのは歴史的にいって、だいたい三つの流れがあります。テーラワーダ、東アジアの大乗、そしてチベットの伝統です。この三つの伝統は地理的隔たりのためいままで交流がありませんでした。

しかし今、アメリカやヨーロッパで面白いことが起こっています。アジアの各地で発展してきた仏教の伝統が、この数十年の間にアメリカなどで盛んに布教されて、いまでは三つの伝統が混在しています。アジアでバラバラに発展してきた仏教の伝統がアメリカ、ヨーロッパの地で出会い始めているのです。人と人との交流が始まりつつあります。

アメリカ人は正直な人たちだから、正しいと思ったら何でも素直に受け入れゆくので、そのアメリカ人たちを媒介にして、今色々な仏教の流れが出会いつつあるのです。

 出会いのひとつの例としては、サンフランシスコ禅センターを作られた曹洞宗の鈴木俊龍老師とチベット仏教のチョギャム・トゥルンパ・リンポチェとの出会いがあります。お二人とはとても仲がよく、お互いを尊敬されていました。リンポチェは「セッシン」“接心”という言葉を自分の説法で使い、禅の教えを取り入れられています。

色々な伝統が出会う時に「自分の伝統だけが正しく、あとは間違っている」という立場をとる人も勿論いますが、全体の方向としては、それぞれの伝統が伝えてきたものを総合して見てゆこう、その作業を通してその統一された姿、即ちワンダルマを見てゆこうという人たちが多いようです。私自身、それが21世紀の仏教のあり方だと思います。

 さて、只管打坐とテーラワーダの関係ですが。

1、ウジョティカ・セヤドーとお会いした時、瞑想は何か結果をあてにしてそれをつかもうとする態度を一切捨てて、手放しでやること、それが禅宗で強調される、ただ坐ること―只管打坐だという説明をしました。それに対してセヤドーは、「“只坐る”というのは“只見る”ということと組み合わせることができますね」と言っています。

「只見ること」が大事なのです。その意味で只管打坐とマインドフルとは補い合うべきものだとおっしゃったのだと思いますが、私もそのとおりだと思います。

2、大乗とテーラワーダの関係については、余りに大きな主題なので簡単に言えることではありませんが、私がいま感じていることをすこしだけ述べます。

私自身、以前大乗仏教の僧侶だったのですが、その時感じていたのは、大乗仏教は何かあるものを一応仮定して話を進めているという気がしていたのです。唯識でいったらアラヤ識のようなもの。それが存在するのかどうか直接には経験できないものをまず立てて、それにもとづいて、理論を構築しているような。

それに対してテーラワーダにおいては、仮定はありません。我々が直接確認できるもの、たとえば眼耳鼻舌身意のような六識だったらそれが確かに存在しているのは誰もが納得するでしょう。そういうものからのみ出発します。

仏教史においては、初期仏教から約500年後、大乗仏教運動が起こってきました。それをお釈迦さまの教えからの逸脱と見るか、さらなる発展と見るかで意見が大きく分かれます。日本の我々は東アジアの仏教つまり大乗仏教の伝統のなかで生きてきたわけですから、大乗とテーラワーダのつながりを見て行くことは非常に大事だと思います。

そのつながりを見てゆくポイントは、我々が直接経験できるものから出発したテーラワーダの修行、具体的にはそのサマタ・ヴィパッサナー瞑想を段階的に行った最終地点で、あるものにたどり着く。そのたどり着いたものが、はたして大乗仏教の出発点だったかどうかという点になります。もしそうならば、大乗というのは、初期仏教からさらに発展した仏教となりますし、そうでなければ、単なる逸脱ということになるでしょう。

 私自身は、仏教には色々な伝統がありますが、その全体を一つのダルマとして見て行きたく思っています。これだけが正しい、という立場は取りません。

Q:私の友達でうつ病とか、怒りとかがすぐ回転してしまう人がいます。そういう人にはどういう瞑想が良いでしょうか。

A:専門家の助けを必要とするような人たちには、こういう瞑想(アーナパーナ・サティ)は止めたほうが良いと思います。きつすぎるのです。心がギュッーと煮詰まってしまうのです。そういう人たちは瞑想のなかでも「思いの手放し」ができないですから、坐禅でさらに煮詰まるという危険性があります。

 そういう場合は、体を動かす方が良いと思います。禅では作務が重要視されています。肉体労働ですね。日常の肉体労働をマインドフルに行う。今ここにとどまりながら。これはセラピーとして「作業療法」としてやっている所もあります。心がとらわれている人は、日常生活で不安などが頭にこびりついていますから、動けないのです。体も心も硬くなっていますから。

 そういうのを解きほぐすには、作業療法というか、実際にマインドフルに掃除なら掃除、洗濯なら洗濯、料理なら料理をやっていくことですね。体が動くから心がギュッと固まらないのです。坐る瞑想というのは下手をすると心がギュッとなって、心に問題のある人には良くないことが出ますから。 

 よく瞑想センターにそういう人たちが来ますが、瞑想中に急に立ち上がって“ウワーッ”となって出て行ってしまうことが多いのです。坐る瞑想というのはそんなに簡単ではないのです。自分に問題を抱えている人は、その問題とまともに出会わなくてはならなくなりますから。

 あるいは歩く瞑想でも良いでしょう。マハシの歩く瞑想でも良いし。ティク・ナット・ハンなんかは外でやっています。出る息と入る息に合わせ、マインドフルに歩くという瞑想です。外で歩く瞑想から始めるのが良いでしょう。

 そういう人たちに体験してほしいのは、自分の苦しみは自分の心が作り出しているということです。それ以外にないのです。といってもそんなことすぐに分るわけないので、歩くことによって少しでも心が平安になったということを体験してもらえれば良いと思うのです。心が休まるとはどういうことかが分るわけです。たいていの人は、何がなんだか分らないものでワーッと押し流されちゃっていますから。押し流されていることにも気づかない。

 本当の静けさを味わって、「こういう静けさと、こういう安らぎがあるんだ」ということを1分でも、5分でも体験できたらその人たちにとって良いと思うし、それからは、1分、5分をさらにどう続けていくかという問題になります。

 一番良いのは仏教の専門家と、精神医学の専門化が協力してやることでしょう。

Q:瞑想で「軽く心を置く」と説明されましたが、そのニュアンスが良く分らないのですが。

A:ビルマの人はもともとリラックスしているから良いのです。日本人や欧米人は緊張して心がギューッとしています。競争の激しい所で生きていますから。「集中しなさい」とセヤドーに言われると、日本人や欧米人は頑張りすぎてしまいます。普段から“闘っている”から。瞑想は“闘い”を止めることなのだけれども、瞑想でも闘ってしまうのです。

 その結果心が硬くなってしまいます。サマーディは集中、Concentrationと訳されますが、その訳語には「頑張ってやる」というニュアンスがあり、少し誤解を生んでしまうでしょう。無理ながんばりは何もうみません。怠けなさいと言っているのではなく、無理な努力は却って集中を壊してしまうということです。

Q:坐っていて、終わるときに落着かない状態で終わると、心が波立ってしまうのですが、そういう時はどうしたら良いのでしょう。

A:大事なのは、瞑想している時とそうでない時の差がない方が良いのです。静寂感と集中を維持してゆくこと。つまり急にあわてて終わらないことです。時間がきたら「さあ、終わった」でなく、ゆっくりゆっくりこころと体をほぐして行きます。ゆっくり、スムースに移行するように。もう少し瞑想を続けるなりして、心が騒いだ状態で終わらないようにした方が良いでしょう。

Q:瞑想中に眠くなってしまうのですが。眠くなるときはどうしたら良いのでしょうか。

A:眠気は瞑想に付きまとうものです。今まで激しい刺激の中で生きてきていますから、その刺激がなくなると、眠くなるのはある程度仕方ないことです。

 体を整え、食事は少なめにします。顔を洗ったり、冷たい水で足を洗うのも良いでしょう。そういうことを通して、自分の体を微調整していくことを学んでほしいのです。心と体の状態を把握できているということです。

Q:セヤドー・ウジョティカとの対話の中で、日本人は幸福について誤った見方をしている、という話しがありますが、そこをもう少しお話ください。

A:すべての生き物が幸せを求めて生きています。幸せになりたくて頑張っているのに、幸せになれない。それは、ほんとに幸せを求める場所において勘違いがあるからです。

 仏教から言うとこの世は苦です。仏教は世間一般の幸せを言いません。仏教では、この世は苦であることをまず押さえます。ここに幸せがあると思って頑張っているけれどこの「部屋」にいる限りは無理なのです。

 この部屋には波があります。高いところ(幸せ)、低いところ(不幸)。普通われわれは、何とか高いところ、快適なところへ行こうとします。仏教では幸せ、不幸せの波そのものが苦であるという見方をします。波に従っている限りはどうしようもないということです。

だから、ここを乗り越えるしかないということを押さえないと仏教の話しにはならないのです。そこのところで皆覚悟が決まってなくて、何とか高いところへ行くというところに話を落としてしまうから、こんがらがって来てしまうのです。この波の中にある限りはどう考えてもダメなんだ、ということを見ることから話が始まります。

 ものすごい不幸をした人が、良く初期仏典に出てきますでしょう。大切なものすべてをなくした人が半狂乱になりながらお釈迦様に泣きついた。そういう人をお釈迦様は一気に救ってしまいます。すべてを失うことによって、つまり波のどん底にいる人を、そういう波の高い低いとはとは関係のない世界へお釈迦様は持って行ったわけです。そのへんなのです。

 そういう波のある世界とは一切関係のないところに、ほんとの安らぎがあるのだということ。そうではない次元、そうではない生き方に行くこと。こんなことは皆さん私の話を聞いても信じられないでしょうが、これは皆さん自身が体験するしかないと思います。

 ダライラマさんなんかは、大乗の人ですから他人のために生きるという話になりますが、そこまで行かなくても、単に自分の個人的なものを追いかけていくことの限界を知った上でそれをどう乗り越えていくかという話しになってくると思います。


Q:ただ今の、乗り越えるということに関連してですが、前に帰依の大切さについて語られました。瞑想して気分が良くなるという以前のことです。帰依はいつやるべきなのでしょうか。どのくらいの気持ちを持ってやるのでしょうか。


A:帰依は英語でtake refugeといいます(避難する)。それはちょうど、戦争、自然災害などで難民になり、そこから命からがら逃げて、難民キャンプ(refugee camp)にたどり着いてホッとするのに似ています。では、どこから逃げてきたのでしょう。

サンサーラ(輪廻)からです。我々は、鎧も着けず戦場に入っているようなものです。そこは、弓矢、弾丸が飛び交って、あまりにも危ないのです。それが、生老病死の世界です。頼るものもガイドしてくれるものもいない危なさです。何も頼るものもなくどうして生きていけるでしょうか。

では難民キャンプ(避難所)はどこにあるのでしょう。それが仏陀、法、僧伽です。
そういう危ない状況で、「助けてくれ」という思いを仏陀に投げる。どれほど自分が危ない所にいるかということを分った上で帰依をする。

 帰依がないと、思いを手放してもどこへ行くのかが見えないし、瞑想が進むということもありません。帰依するという文脈の中でやらない限り、瞑想を学んでもうまく行かないでしょう。帰依については別の機会に詳しく話したいと思います。


スダンマチャーラー・比丘(山下良道さん)のお話としては、「ビルマ森林僧院滞在記」にパオ森林僧院での様子などが書かれています。
その中にある、最近の「パオの瞑想法」という文には世界の瞑想事情、思いが苦を作る話などがあり、今回の法話の基礎になっています。
セヤドー・ウジョティカとの対談では、「日本の心」、お年寄りの孤独、家族の問題、禅とヴィパッサナーなどについて論じています。
また、パオの瞑想法については、パオ瞑想センターより「パオ森林僧院の教えと修行」(英語)という法話が出ています。パオ・セヤドーご本人の法話としては、先の「滞在記」の中に、「如何にして苦に終止符を打つか」があります。



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