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ワンダルマと三階建て論 スダンマチャーラ師のお話 2006.12.17

仏教の3階建て

 21世紀の日本の仏教を担っている人たちが分裂に悩んでいます。その分裂、混乱を何とかしたい。それがこの間私が話してきたことのねらいなのです。その対立を乗り越えて統一したものとして行きたいと思います。

 私はワンダルマについて話してきました。これについては誤解もあるかもしれません。い伝統仏教のいいところだけをとって一つのこじんまりとまとまったものを作り上げていくという風に思うかもしれません。

 先ほどお配りしたもの、これは私が真言宗の新聞に出した記事です。ダライラマ法王の話について書いています。ダライラマ法王は、仏教全体の構造を非常にクリアーに述べています。それは私の考えてきた方向と一致しています。それは骨子に過ぎないのですが、これから肉付けしていきたいと思います。

 まず大まかに言うと仏教には三つの流れがあります。すなわちテーラワーダ、大乗、チベットです。それぞれ歴史を持っているわけです。ではてんでんばらばらかというと、そうでもなくて共通するものを持っている。

テーラワーダは建物でいうと、1階に当り、チベットは3階です。では東アジアの大乗はどうでしょう?
「危うい三階建て」なのです。テーラワーダとチベット仏教には堅固な1階部分があります。東アジアの大乗は3階が宙に浮いているような状況です。

1階とは、基本の教えです。根本乗と言っても良いでしょう。普通は「小乗」、「ヒーナ・ヤーナ」という言葉を使っています。そこには「小さい、劣ったもの」という価値判断が入っています。ですから「小乗」という言葉を使わずに「根本乗」という言葉を使うほうが良いし、それが本質だと思っています。

2階は大乗仏教です。ここには大まかに二つの流れがあります。
中間派:ナーガルジュナからはじまる
唯識派:バスバンドゥからはじまる
3階の部分:密教、金剛乗

 真言宗は、中国や韓国では消えてしまいました。東アジアでは、禅宗と浄土宗とが残っています。韓国、中国、台湾ではこの二つは合体しています。チベットでは3階の部分は密教であり、東アジアでは禅・浄土であると言って良いかと思います。問題は、東アジアの大乗に1階部分がないことです。1階とはないかと言うと、お釈迦様の基本の教えつまり、四聖諦、八正道、十二縁起が基本のものとしてないし、重要視もされていません。

日本仏教と戒律

 さらに日本においては、戒律の問題があります。1階部分である戒律はまず五戒です。八戒、10戒になると沙弥戒。そのあとで比丘戒といって、227戒。これが1階部分。
2階は、菩薩戒。菩薩として生きて行こうという誓いです。
3階は、サマヤ戒。これは密教の戒です。

ではダイラマはどういう戒を受けているのでしょうか。
1、比丘戒 2、菩薩戒 3、サマヤ戒
この三つを受けています。このように戒律も三段階になっています。
ダライラマとチベット僧は説一切有部の比丘で、私は上座部の比丘です。説一切有部と上座部の戒律はそんなに違いがありません。

 韓国台湾においても比丘戒を受けています。その上で菩薩戒を受けています。なぜこんなことを言うかというと、日本仏教は比丘戒を受けていません。これはタブーとされていることです。これには歴史的経緯があって、最澄が比叡山を開いた時点で、比丘戒を捨ててしまいました。その時奈良仏教が権力を握っていたので、最澄は奈良から独立したかったために、比叡山だけでできるような仏教を作りました。そこで、日本の仏教は世界仏教から分かれわけです。

 よくテーラワーダと大乗の対立を言いますが、世界全体の歴史を見ますと、そういう対立はないのです。1階すなわち、比丘戒においては、皆共通しています。日本だけが、世界から離れています。1階の比丘戒ナシに、菩薩戒だけでお坊さんになるということになってしまったのです。

 そのように見ると、日本仏教の秘密が解けてしまいます。なぜ日本の仏教だけが世界から離れているのか。その理由は比丘戒がないからです。比丘戒を受けていると、性行為ができません。家庭を持つことはありえません。比丘戒がないと在家者と出家者との違いがはっきりしなくなります。

 私はアメリカへ行っていろいろな仏教の人たちと出合うことで、「何で私たちだけこんなに違うのだろうか」と思っていたことが、はっきりしてきました。結局ここがずれたら、その後すべてがずれてくるのです。何と越して1階の部分をしっかりさせなくてはという思いがあります。しかし日本の伝統教団がそういう状態です。

 1階部分の基礎がないという、そんな状況で、金剛乗などが入ってくるととても危険なことになります。それがオームの事件で経験したことです。1995年に起こったこの事件は、私にとってとてもショックでした。自分たちはどうなのか?同じことをやっているではないかと自問しました。あの愚かさを笑えなかったのです。

 3階の部分しかない危うさが一気に出てしまった。 それから曹洞宗から離れました。あの事件において日本の仏教の矛盾が出てしまいました。あの教団は身を持って愚かさを教えてくれました。しかし日本の仏教界はあいも変わらず同じことをしています。

 その後で、1995年にテーラワーダ協会が設立されました。そこから日本におけるテーラワーダの本格的な紹介が始まるのですが、これは素晴らしいことでした。我々に致命的に決定的にかけている、1階部分をもう一度作り直して行こうということでしたから。1995年功の日本仏教の問題はかけている1階部分を埋めるということでした。

 では1階建ての建物で良いのではないか、2階、3階は必要ないのではないか、と思う方もいます。2,3階は逸脱であるという考え方もあります。1階(根本乗)だけが仏教であるとするか、その上に2階(大乗),3階(禅、浄土など)を建てていかなければならないのかという問題になります。皆さんが直面している問題と、1階、2階、3階とはどうつながるのか。

 私について言うと、ミヤンマーに行っていたときは、2階3階の考えたくありませんでした。1階の部分だけに集中していましたから。しかし最後の頃になって、2、3階の部分の問題が出てきました。1階から2階3階へとどうつながるのかつながらないのかという問題です。1階だけで良いのではないか、という考えと、2,3階を建てる必要があるという考え方があります。日本には2階(唯識、中間の哲学)3階(禅、浄土、仏教諸派)と既にありますから。

 皆さんはそこら辺が聞きたくて着ていると思います。ここにいるのは1階の部分を勉強してきた人たちですから。

菩薩ということ

 では何が問題化と言うと、1階(根本乗)の上になぜ2階(大乗)を立てる必要があるのか。1階から2階へと踏み出す一歩とは何なのかということです。ここで、菩薩ということが鍵になってきます。これは、今までさんざん言ってきたことです。

 テーラワーダでは菩薩とはシッダルタ王子のことを指します。大乗では意味が違っています。私たち一人一人が菩薩になれます。大乗の1歩とは、仏教を修行する目的が、自分の苦しみを解決することだけでなく、他人の苦しみを解決することにあります。これは何も自分の苦しみを解決しなくてもいいということではないし、自分の苦しみを解決することと、生きとし生けるものの苦しみを解決することを対立するものとして捉えてほしくないのです。

 これはまず自分の苦しみを解決しようとして始まったのだけれど、そこからある時点において、自分の苦しみだけではなく、生きとし生けるものの苦しみを解決していきたいという方向に一歩踏み出したのです。その踏み出した人間を菩薩というわけです。この1歩を踏み出すか踏み出さないかの違いです。この1歩を踏み出さなかったら1階建てでOK ということです。そこで煩悩をなくしていって、完全になくなった人を阿羅漢といいますが、煩悩がゼロですから、再生してくる力もゼロになって二度と生まれてこない。そうすることによって輪廻から完全に解放される。これが初期仏教における修行の流れです。

 しかし大乗にいては、自分の苦しみだけではなく、生きとし生けるものの苦しみを解決していきたいという方向に一歩踏み出したのです。私にとっては仏教の修行、イコール菩薩としての修行でした。それ以外の修行はピンと来ないのです。私としては1階から2階への道は必然であったと思えます。

何をしていくか

 では、実際に人々にどういうことを教えていくか、何をしてもらいたいか。その必然性について話していきたいと思います。今したいこととは、1階、2階、3階の部分をきちんとやって行こう。致命的に欠けている1階部分をしっかり勉強して行きたいということです。1階をしっかり勉強した上で、2階3階部分とのつながりを見て行きたい。

まとめると。
私たちがすべきことは2500年の仏教の歴史を見ること。また日本仏教の歴史を見る。なぜ21世紀初頭の日本仏教がこんな状況になっているのだろうか。1階、2階部分を立て直していきたい。チベット仏教は1階、2階、3階までしっかりあります。ダライラマだけがこの関係をはっきり語ってくれました。すなわち密教について、空性について、はっきりと語ってくれました。それはいきなり立て直すというのは無理でしょう。最大の弱点である、根本上、1階部分についてやって行きたいと思います。

 今、ではどうしたら良いのかと言うと――呼吸を見つめること。それも今すぐに効くということではありません。呼吸瞑想から最初の一歩を踏み出すのが、正解だと思います。


座談会 (Su:スダンマチャーラ・比丘)

参加者:
 今年はいろいろな長老がいらっしゃって勉強になることが多くあり、まとめると三つのことを学びました。
一つは、サティとサマーディ(集中力)について別のものとして考えていたのですが、気付きの裏側に集中力があり、集中があるところには気付きがあるという表裏一体のものであること。これは自分でも瞑想をしてみるとたしかにそうだと思いました。また、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想にしても、別々のものでなく対になっているということですね。

 二つ目は、ワンダルマという話で、これもテーラワーダと大乗とを別々のものとして見ていたのですが、その関連についてのヒントを与えられた感じです。つまり、1、2、3階建てという構造になっているということで、それぞれ独自性を持ちながらつながっているということの全体像が見えてきました。

 三つ目は、「自分はなぜこういうことをやっているのだろうか」という問いとつながります。修験道に「山の行より里の行」という言葉がありますが、日常生活の中でいかに人々とかかわって行くかということが大事なことです。瞑想をやっているから何か他とは違うと思ってしまいがちですが、周りの人には瞑想しているかしていないかは関係ない話で、日常の中で、心の平安とか、慈悲の心とかをどう生かしていくかということだと思います。

Su:
 私の話は三階建ての建物の全体構造を一応理解してもらいたいということです。来年からは1階の部分から、四聖諦八正道とかていねいに見て行きたいと思います。

参加者:
 テーラワーダ仏教を学び始めて三年くらいになります。お話を聞いていていままで一側面からしか見ていなかったことに気付かされました。つまり、テーラワーダの中にもマハシの瞑想以外にもあるということですね。もっと視野を広くして勉強して行きたいと思います。

Su:
 それは仕方のないことです。これがミヤンマーだと、そこら中に瞑想センターがあって、長老達もいろいろいらっしゃるし、本もたくさん出ています。ヴィパッサナーといったって、マハシ・サヤドー以外にもたくさんあるし、マハシの中でも、ウパンディタ・サヤドーやチャンミ・サヤドーとかいらっしゃって、そのサヤドーたちがまた微妙に違うとかいうことがあります。いろいろな先生がいるということが分かった上で、「私はこの先生につこう」というように決めているわけです。
日本ではどうかと言うと、それがあまりにも少ないから仕方のないことです。

参加者:
 分かってはいるが苦から抜け出せないでいます。瞑想してもなかなか集中できない。やってても面白くないというのがあって、なかなか長続きしない。私としては1階部分をしっかり学ぶと共に、お話にあった2階、3階部分をどう取り入れていけばヴィパッサナーは進むのか、と考えていますが。

Su:
 まず、1階部分だけをしっかりやってから、2,3階をやっていくことです。
自分の苦しみを何とかしようとすると、余計苦しくなる面があります。自分のことばかり気になる。あまりにとらわれすぎて、自分で自分を縛ってしまう。これは、戒律の問題も絡みます。

 1階の部分の戒は「・・・してはいけない」というように具体的です。それは日本仏教で欠けていたものですが、しかしあまりにもとらわれすぎると本末転倒になってしまいます。
例えばビルマでの話。シャワーを浴びる時に熱帯では多いアリを流してしまう。それが気になる。「アリを殺してはいけない」のではないかとサヤドーに聞く。標準的なこたえは、「その意志がなければ問題はない」ということだけれど、「では、アリはどうなっちゃうの」という気がする。

 あまりにも気にしすぎると、自分のことしか考えてないということになってしまう。衆生を救うという視点を入れないと、バランスが崩れるという気がします。個人的なことを何とか乗り越えようと、それのみにとらわれると、空回りしてしまうという面があります。

参加者:
 暗くなって、苦しくなるような気持ちが起きてしまうのです。

Su:
 面白くないから集中できない。退屈だ。呼吸を見るのがつまらないとよく言いますが、それはありえないことです。ほんとに呼吸が見られたら別の次元に入っています。瞑想がどこか退屈に思えたら、どこか間違っています。瞑想とは退屈をがまんしてするようなものではないのです。まずしなくてはならないのは、思いの世界から出ること。思いにとらわれた中にいる限り、退屈とかは起こってしまう。

 思いを手放して呼吸を見ると、見た時に「今ここ」にいて、退屈は存在しない。そこには惨めさや暗さとか、退屈はない。思いによって占められた部屋から出て行くこと。そういう世界があることを見てほしい。

参加者:
 そういう世界とは大乗とか密教とか・・・。

Su:
 それは大乗、密教、全然関係ないです。アーナパーナで充分行けます。

参加者:
 うちの学生にタイからの留学生がいまして。タイのお坊さんて何なのだと聞くと、学生は200いくつの戒を課している人だと言います。臨時の出家というのがあって、五つの戒を課せられて自分もやってきたと。そうすると、母親が非常に喜んだそうです。また、主治医みたいに「主坊主」がいて、何か事があると相談に行くのだといいます。

 質問は戒律ということです。戒律の意味とは何なのか。戒律と菩薩道とは矛盾する所が出てこないかという気がしますが。何か緊張関係にあるように思える。出家仏教と在家との関係ですね。

Su:
 出家仏教と在家仏教との違いがある。一方タイやミヤンマーでは、一次的にお坊さんになる習慣がある。
戒律のことですが、1階の部分の戒では「・・・してはいけない」ということですから、それを細かくとるときりがなくなります。サポーターが多くいるときは問題ないのです。しかしそれなくして守っていくのは難しいのです。

 それで、2階になると菩薩戒になって「生きとし生けるものを救う」ということに主眼が置かれてくる。そこで単に「・・・してはいけない」というところからもうちょっと柔軟性が出てくる。
ですから1階の部分だけだと、硬直化することがある。そこで2階の菩薩という視点を入れるしかないと思っているのですが、そういう視点を入れることで柔軟性が出てくると思います。

参加者:
 初めて参加しました。ホームページを見ていて興味があったのですが、ハダヤ・ルーパ(心基)というのは実際に見えるのでしょうか。

Su:
 それは本に書いてあるからだけではなく、瞑想としてみていくと、智慧の目で見ることによって、この体が光の固まりであると、見えます。それは禅定に入って以降のことですから智慧の眼が開いてからですが、心臓の所で、心によって生じてくるものを見るということです。光の粒が生じ滅している。ルーパ・カラーパは実際に見ることができる。それは、瞑想の過程が進んでいく中で見ることができますが、また違う次元でのことです。

参加者:
 岩波文庫で中村元さんの初期仏教の本が好きで読んでいたのですけれども、その仏教を実践されている人たちがいるのを知ったのは1年位前、こういうところにめぐり合えて幸運だと思っています。

 坐る瞑想は苦手なのですが、慈悲の瞑想はしっくり来ます。慈悲の瞑想の気持ちでいるとなんとなく周りに伝わるような気がします。こちらがそういう気持ちでいると向こうの心も自然と開くのです。周りがいい環境になると、こちらも幸せになるし、こちらが敵対心のない心を持っていると、向こうも自然にほぐれるので、いい関係が作れます。
これは皆さんにもやってもらいたい良い方法だなと思います。

Su:
 世の中の苦しみは、慈悲と正反対の否定的な感情で生まれてくるわけですから、それをやらないだけでも自分の周りは変わります。今坐る瞑想よりも慈悲が大事だと感じているというのは、それをやらなきゃいけない時期だからだと思います。徹底的にやられたらいいと思います。そのうちに自然と呼吸を見ることをやっていくようになるでしょう。

参加者:
 7月に法話を聞いて、その時にすごい世界があることを感じたのですが、今年は「受け入れる」ことのお話から参加するようになりました。
実践の中でサティというかラベリングのという方法が強くて、坐る瞑想でもラベリングをすることを言われてきました。それが自分の中では進展がなくなってきたときに、どうすれば良いのかなと思っていました。

 そのときに「受け入れる」という話を聞いて、そんなにラベリングにこだわらなくても良いのかなと思って、アーナパーナに変えたところずいぶん楽になりました。アーナパーナをやっていって静かな気持ちになったり、安らかな気持ちになってきたというのが今なのですけれども、日々の瞑想では自宅でやっていて、楽になった所でそこで終わりという風になってしまうことが多いのです。それで良いのか悪いのかを聞きたいと思います。

 また、この瞑想の静けさを日常生活に、ということを言われて、自分自身もそれを繰り返しているのですが、日常生活の中で、サティとか、静かな心を持続させるためにはどうしたら良いのでしょう。ラベリングは日常生活の中ではわかりやすかったのです。アナパナのときは呼吸だけを見つめるということですが、ラベリングをしないとすれば、どういう風にして静けさを持続させていったら良いのかということをお聞きしたいのですが。

Su:
 アーナパーナと日常生活とはぶつからないと思います。
呼吸を見つめ続けなくても、一つ一つの動作に心を置くということです。普段の生活では考え事に占められています。
例えばジュースを飲むときに、2、3度呼吸を見つめることによってどこかへいっている心は「今ここ」に戻ってきます。戻った所でジュースを飲んだら、心は「飲むこと」と共にあります。

 言いたいのは、考えながら飲んでいるのと、気付いていながら飲むのと、その決定的な違いですね。どこがちがうかというと、安らぎと喜びが即座にあるはずなのです。なぜ普段それがないかと言うと思いの中にずぶずぶ入ってしまっているからです。
ポイントは、思いを手放して、ジュースを飲むという「今ここ」に戻る。戻ったとたんに安らぎと喜びがある。そこには退屈さとか、イライラとか、惨めさとか、暗くなるとか、そういうことはありえないのです。

 皆さんに見てほしいのは、ラベリングがどうとか、呼吸がどうとかというのは、あくまでもその部屋に入る方法であって、ほんとに大事なのはその世界に入るということです。入れるのだったらどういう方法でも良い。でも呼吸を見るというのはシンプルで、どこでもできて非常に効果的な方法だということです。思いの世界を抜けて、「今ここ」にいて日常のすべての行為をしていくということで、あまり方法論に捕われてほしくないと思います。

 戻りますと、日常の行動において何かをするとき、いきなりやるのではなく、3回だけ呼吸を見てください、その後でゆっくりと行動する。そのくらいから始められたら良いかと思います。

参加者:
 現代は慈しみのない世の中で、この間夜中にファミレスへいって食事をしていたのです。女の子たちが話をしていました。その話題というのが、将来結婚したら、いかにして相手の親の面倒を見ずに、誰かに押し付けて安楽に過ごすかという話をずっとやっているのです。

 それが許せなかったので、その音を消してやろうと、「音」とラベリングしたのですが、うまく行かないで、「いやな音」「憎い音」と入れてみても闘っているからどうしてもダメなのです。それで、自分の心を見たときに、「自分勝手」というラベリングが飛び出してきて、私は小さい頃から人に迷惑をかけてくるような「自分勝手」に育ってきたので、女の子たちの言動が許せなかったのだと思いました。

 瞑想しても、日常生活で人から非難されたり怒られたりした時にそこで踏ん張れなければ、意味がないと感じています。日常生活の人間関係がサティを修行する場になる。今ここに気付いて、怒りの対象から離れられればいいと思います。「サティは無限後退」であるといわれた人がいますが、波打ち際の波をよく見て、打ち寄せたらさっと後退するようにやっていけたら、と思っています。人間に生まれかわるのはまれだと言われていますが、次に生まれかわるとしたら、より良いところに生まれかわるように頑張りたいと思います。

Su:
 怒りという時に、普通の人は、怒りを引き起こした原因を何とかしなくてはという風に見るけれど、瞑想している人は、「湧き起こってくる、私の心の怒りを何とかしなくては」と見ます。この違いは決定的に大きいのです。なぜなら、そこで女の子たちを何とかしなくてはと考えるのと、この「怒り」が問題だとするのとで生きていく方向が違うわけです。

 今怒りが抑えられないとしてもそれはかまわないです。でも、少なくとも怒りが問題なのだと分かった、それを大事にしていってほしいと思います。その違いは決定的に大きいわけです。

参加者:
 今年の収穫ですが、ブッダと繋がった上で、その後の仏教の発展を全体的に捉えて行きたいというお話しは、とても印象的で、そういう視野を持つことで視野が開けてきて、いろいろなことが楽になってくるという気がしています。

 瞑想の話は別としても、オープンでありたいということを考えているところです。仏教をやっていてもいろいろな宗派の人々と会うこともあるだろうし、宗教と無縁の人とも会うだろうし、その中でオープンでありたいという心構えというものを感じているところです。

 この夏ウジョティカ・セヤドーとお会いした時に、ルイ・アームストロングの歌の話をされたり、芭蕉の俳句はいいですねという話をされたりして、とてもオープンだったのが繋がっていて、その辺が今年のテーマだったと思っています。

Su:
 オープンというのはティク・ナット・ハン師がよく言われますが、その辺が鍵だと思います。真理にたいしてどれだけオープンであるか、そのオープンさをどれだけ維持できるかということが大事ですね。



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