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 つながりあっている私たち スダンマチャーラ師のお話 2006.11.23 

ダライラマ法王と四聖諦

 先日テレビでダライラマ法王へのインタビューを放送していました。日本ではチベットのことはあまり放送されることもないのでこれは良い入門編になったかと思います。チベット仏教は日本では、川口慧海が三蔵経を持ってきたりしています。西洋ではきわめて影響力があり、もう20年も前から受け入れられています。

先月の話は「自分の苦しみと世界全体の苦しみとがつながっている」ということでした。
ダライラマ法王も次のように言われています。「仏教と言う場合、まず思い浮かべて欲しいのは、四聖諦です」。チベット仏教においても四聖諦が基本になっていると言うことです。

苦には三種類あります。
1、苦苦:誰の目にも明らかな苦。
2、変化する苦:例えばおいいい物も食べ過ぎると、うんざりするということ。今幸せでも変化してしまう苦。
3、偏在する苦:今どうかということでなく、偏在する苦。仏教が問題にしているのはこの苦。生まれてきた以上、生老病死から逃れられないと言うこと。

 仏教が問題しているのは、今の、うれしい悲しいとかの感情をこえて、生老病死から逃れることはできないと言うことです。ここが基礎であり基本です。ここを押さえないと仏教の話しになりません。ですからここを押さえてください。そうすると、ここから出て行きたいという気持ち―出離の気持ちが生まれます。苦しみから出て行きたいと。

生き物として生まれた以上逃れられない苦しみがあります。それがないと始まらない。生き物として生まれてしまった以上どうしても逃れられない苦しみ。それがはっきり見えて、そこから出て行こうとする。しかしそれがなかなか分からない。

 火宅の喩えというのがあります。我々は、家の中が火で燃えているのに、火が見えない。ここから出ると言う気になれない。それで方便をもって、救う。我々の本質的な苦がなかなか分からないと言うことです。苦が分からないと、そこから出て行こうということもないから話が始まらないのです。

新しい一歩

 今の話はあらゆる仏教に共通する点です。ではどこで分かれ道になったか。自分の苦しみと、この世界の生きとし生けるものの苦しみ。まず自分の苦しみを解決して行こうということがあった。つぎに世界全体の苦しみを解決しようと言う方向に行ったのです。そこのところで大乗仏教が一歩を踏み出したということです。Aが正しくてBが間違っていると言うことではなく、あくまでも仏教は段階を踏んで進んでいきます。世界の苦しみを解決して行こうというのが明らかに大きな一歩だったわけです。

 自分がなぜこんな苦しい状態になっているのか。その原因を見ていくのが縁起です。その原因をとり除くことによって、苦を解決して行こうということです。仏教の初期においてお釈迦様が集中的に教えられたのはこのことです。その後でもう一歩踏み込んで、世界全体の苦しみを解決して行こうという方向にステップを踏み出した時に、縁起の理解が深まるのです。すべての世界における物事がお互いに関係を持ち合っていると言うことです。

 皆さんは禅寺へ行けば、禅僧の話を聞くだろうし、またテーラワーダの長老の話を聞くだろうし、ダライラマさんの話を聞くだろうし、そういう中で頭の中が混乱しがちだと思います。あくまでもテーラワダ、大乗、チベットの立場と言うものがあり、その辺のことを理解しておかないと、混乱しがちなのでそれを整理するためにお話しているのです。

広島における平和会議

 今日のテーマは皆がつながりあっているという事実です。広島における平和会議でのダライラマの共同宣言を配りました。そこにはツツ大司教と、アイルランドから、ベティ・ウィリアムズさんが参加しました。この三人はノーベル平和賞を受賞された人たちで、仲が良いのです。今回の広島ピース・サミットで非常に感銘したのは、彼らは現実の中でもまれて非常に深いところまで理解が行っているというその深さです。深さと強さと現実的な智慧です。この三人にとって広島と言う世界的に意味のある場所で行われました。これはダライラマの意向でした。

 広島の被爆者達は非常な苦しみの中で最初はアメリカを怨んでいました。しかしアメリカを許し、報復をしないということを学びました。ではなぜ、許すことと報復をしないと言うことが大事なのか。それはあなた自身を、私自身を破壊してしまうことに他ならないからです。

 争いの根本はどこにあるでしょう。私とあなた、我々と彼ら、と言う風に分けるところから始まります。分けたことに問題の原因があります。私と彼らとは分かれている、関係ないのだと。これは真理に反している。「すべてのものが、つながりあっている」からです。普遍的な責任ということを法王様はおっしゃいます。

 整理してみます。生老病死から出たいというのが仏教の最初の方向でした。次に、私が生老病死にとらわれた存在から、すべての人々の苦しみの解放へ。そうした時に世界に対する見方が格段と広がった。地球上のすべての人がすべてつながりあっているという理解。それがつながっていると、他人の家を壊すことは自分の家を壊すこと。他人の家を直すことは自分の家を直すことになる。

 私らの無知とは、私らと世界とが切れている、つながっていない。私と世界とはつながっていないと思うとき、我々と彼らと言う風に分けてしまう。そして、敵である彼らをやっつければ苦から逃れられると思ってしまう。もしそれがつながっていることが見えたら、敵をやっつけることが全然解決にはならないことが分かる。他人の家を壊すことは自分の家を壊すことだから。

問題は私たち自身の中に

 そうなってくるとさらにどういう風に見えてくるかと言うと「問題は私たち自身の中にあります」ということです。小学校の子どもがいじめにあった場合。その子だけの問題でしょうか。原因は私たちにあるのです。この間もテレビで法王にいじめの問題でインタビューをしていました。

 いじめの問題。―物事には原因がある。直接的には絶望があるということだが、なぜ小学校の子どもが絶望してしまうのか。それを生み出したものは、日本全体にもあるし、私たちの中にもあるわけです。そのことをきっちり見ていかなくてはいけない。問題の原因は私たち自身の中にあり、解決も私たち自身の中にある。

 共同体についていうならば、修行者が瞑想したりするコミュニティもすこしずつ作っていくのも必要ですが、ダライラマたちが考えているのは、地球全体を一つの共同体として捉えていこうということです。なぜかと言うと、お互いがつながりあっているから。
 では、今私たちはどうすれば良いのかというと、「内なる平和」を作っていかなくてはならない。世界平和を作るためには、心の中で平和を作っていく。

 なぜいじめの問題が起こるかと言うと、イライラしているからです。むしゃくしゃするから、弱いものに向かう。何でこんなにイライラしてしまうのと言う問題があります。そこをどう解決していくかと言うことです。そのためには慈悲が大切ですと言うことになりますが、思いやりとか、親切。すべての人に通用する真理として、思いやりの心、親切の心を育てるという風に法王は話されていました。そのためには、まず自分の心を静めていくことです。

 仏教徒として話を進めると、世界の平和を作るためには内なる平和を作っていく。内なる平和を作るには、思いやり、親切、慈悲が鍵になる。まず自分の心を静めていくことです。どう心を鎮めて平和にしていくかということ。そのために瞑想法はたくさんあるけれど、アーナパーナが有効だと思う。

心の中の虚しさ

 ツツ大司教が言われたことが印象的でした。世界にいろいろ苦しみはあるが、戦争や争いのことについてはそれ程心配はしていない。心配なのは、例えば北欧など福祉が整った国で、自殺する人が多いことです。なぜでしょうか。心の中にぽっかり穴が開いている。虚しさ、満たされなさがある。

 人間は一人一人の心に満たされない思いを抱いている。その穴を神以外のものによって埋めようとしても埋まらない。神様以外とはお金であったり地位であったり、家であったり・・・、なぜそんなものに夢中になるのかと言うと、この虚しさを埋めるためなのです。しかしそれは手段として間違っているから虚しさは埋まらない。虚しさを埋めるには、神様以外にはない。人間がなぜ愚かなことで争ったりしているのかと言うと、間違ったもので虚しさを埋めようとした、そのツケが来ているのだと。

 この虚しさは神様によってしか埋まらない。彼はキリスト教だから神と言うけれど、仏教徒ならダルマによってしか埋まらない。あれこれと苦しんだのは、この虚しさはダルマによってしか埋まらないと言う一番大事な真理を学ぶためだった。その時今までの苦しみは意味があるものになる。

 今世界にはありとあらゆる苦しみがあるわけだけれど、そういう苦しみを通して我々が今学ばなければならないのは、我々の心にあるこの虚しさはダルマによってしか埋まらないと言う事実、絶対的な事実です。

 21世紀は、「埋まりようもないものによって埋めようとする。さらに埋まらないから争って、自殺したり」ということがまだ続くでしょう。その続くことを通して、このことは神様の問題、ダルマの問題なのだと言うことに気付く人が増えていくことでしょう。

 私たちはいろいろな思いによって突き動かされてそのことにも気づかない。その突き動かされていると言う事実に気付いてそこから少しづつ解放されていく。そのために一番良いのはこんがらがっている心を一つの対象に集中させることです。瞑想の対象としてお釈迦様が一番勧めているのは呼吸なのです。

質疑応答

質問:
瞑想中、目は開けたほうが良いでしょうか、閉じた方が良いでしょうか。

答:
禅宗では、半眼にします。テーラワーダでは閉じます。チベットではパッと開けてしまいます。それぞれの伝統で厳しいことを言いますが、皆さんの場合いきなり閉じると、寝てしまう、あるいは自分の姿勢が分からなくなるということがあるので、瞑想が初めての人なら半分くらいは開けておいたほうが良いと思います。

 眠気について。これは習慣性のものです。瞑想をすると必ず眠ってしまう人がいる。この癖は絶対につけて欲しくない。絶対に眠らないと言う決心でしてほしいと思います。瞑想は心の訓練と共に体の訓練でもある。姿勢がっかり身についてきたら、閉じても良いでしょう。

質問:
禅宗とテーラワーダとで、「悟り」の考え方が違うように思えますが。

答:
 ダライラマ法王の考えですが、大雑把に言って、初期仏教と、大乗と、チべットの金剛乗というのは三階建ての建物と理解したら良い。
 ダライラマ法王がいたるところで注意しているのは、いきなり密教なんて修行するなということです。いきなり3階から始めるようなものだからです。密教の前に大乗仏教を勉強しなくてはならないし、大乗の前に初期仏教を勉強しなくてはならない。初期仏教とはパーリ経典です。

 テーラワーダ仏教で一番大事な清浄道論の序文をダライラマ法王が書いています。仏教は段階的になっているから、いきなり3階は建てない。1階から順に建てていきます。私は曹洞宗の人間でしたがその時感じていたのは、「宙に浮いている」ということです。1階がなくて2階が宙に浮いているという感じです。

 しかし、道元禅師は1階の部分も重視された方です。阿含経からの引用など。しかし曹洞宗の教団はそうではなく、いきなり「なんとか禅」となってしまうわけで、その危うさを私は感じていました。危うさというのは、戒律を無視するとか、因果を無視するとか、いきなり原因と結果を超えてしまう。どんなことをしても結果を生まないのだといって、原因を積み重ねるということが無くなってしまう。

 道元禅師は因果を大事にした人です。私としては道元禅師に帰ろうとしたのですが、そうすれば、ブッダに帰らなくてはならないという結論が出てきてしまって、ビルマの僧院へ行くことになったのです。
質問は、禅で言う悟りと、テーラワーダでいう悟りがどう関係するのかしないのかということですが。

 テーラワーダでどういうことをやっているかと言いますと。
この世界を見ると、精神的なものと物質的なものと二つあるように見える。テーラワーダでは、実際的にほんとにそうなのかを見ていく。そのために集中力が必要になる。パオにおいては集中力がついた上で、精神的なものと物質的なものを見ていく。そこに見えるのは常に物事が生滅していること。固定して見える物質も、一瞬後には違っている。(分子レベルで動いている)実体あるものが存在するのではない。

 ヴィパッサナーの目的は、生じて滅しているものを見ることによって、生じ、滅しているものがストップ(止まる)するのを見る。それを空、スンニャータという。テーラワーダでは、ニローダ(滅)と言う。これがヴィパッサナー瞑想の最終段階です。ヴィパッサナー瞑想の目指すものです。空性に入っていくこと、溶けていくこと。この世界は苦しみの世界なのです。それには原因がある。原因は何なのか。それは無明である。根本的な原因を取り除いたときに苦からのがれられる。空性を見るときに「何もない」ということになる。

 無明とは何か。我々は怒りや執着を持つ。なぜ怒りを持つか。それが本当に存在すると思うから怒りを持つ。何か実体あるものと思う。これが空であることが分かればつかめない。そこで執着と怒りが根本的に収まる。

 ほんとにスンニャータ(空)を体験したら、執着や怒りが根本的にない。ないけれど、今までのエネルギーが残っている。それがソータパン(預流者)です。ソータパンでは、習慣的に続いてきた怒りを抜いていく。空を徹底的に見ていく。執着がある程度消えたら、一来、不還、阿羅漢と進んでいく。そこで根本的な苦しみの原因が消えてしまう。

 ですからまず集中力を養う。それによって養った集中力で見る。その集中力で、消滅を見る。空を見る。今まで習慣的に残っているエネルギーを減らして行く。カルマの力によって生み出されているから、そのカルマの力が死する。そこで輪廻を完全にストップできる。この苦しみの世界から解放される。それが初期仏教の修行の仕方です。それで終わりです。テーラワーダの国ではそれで良いのです。

 しかし、なぜ大乗という動きが出てきたのかということには非常に明確な理由があります。つまり、残った人はどうなるのかということです。解放されるのは、「私一人」。他人はどうなるか。私以外の人はどうなるのか。チベットの人達はこう説明します。皆さん家族がいますが、それは今世での役割なのです。長い輪廻の中では、生きとし生けるものがお父さん、お母さんであったかもしれないのです。

 問題は、瞑想の最終段階で空ということが分かったとして、これからどうやって人を救っていくのか。その時、自分は観音様であるというイメージを持つ。空性を知った人が、人々を救うには、具体的な体が必要である。それで自分が観音様だというイメージを持つ。

 質問に戻ると、テーラワーダでは、輪廻をストップし、空性の中に溶けていくことにより輪廻を乗り越える。大乗では、すべてを空と分かって、ここでストップすれば輪廻から出られると知る。あえてストップしないで(涅槃へ行かないで)、皆のために働こうとする。すべての人が輪廻から出た後に自分は出ようと決意する(菩薩の請願)。それでは終わりがないと言われるかもしれません。生きとしいけるものがすべて輪廻から出た時です。

 悟りの体験は同じなのです。違うはずはないのです。空性を経験した上でどう決断するか、において違いがあります。
 ただ日本の禅宗がそんなレベルでやっているわけではありません。1階がなくて2階の部分だけがあるような状態であるために、坐禅そのものがなかなか深いところまで行かない。だから私は、日本の禅宗の人たちにテーラワーダの非常にみっちりして、きめ細かい瞑想を学んでもらったら良いかと思うのです。その上で空性を体験した上でどう決断するかはそれぞれの人によると思います。

質問:
 パオメソッドでは、サマタのサマーディを作ってヴィパッサナーへ行くという流れですね。アビダンマに書かれている二因者以前は今生では禅定は無理ということでしょうか。99パーセントの人は二因者以前と言われています。今生では、禅定は無理なのでしょうか。

答:
 パオでも、禅定に入れない人が、私は二因者じゃないかという話になったりしました。しかし、私はパオに4年いて、瞑想の状況を見ていましたが、実際の所、あまり禅定に入れる人はいない。大部分の人は第一禅定に入れないところで、アーナパーナをただやるだけで終わってしまう。私が思うのは、禅定に入るにはそれなりの準備が必要。まずたっぷりと基本的な瞑想をやれば、多くの人が入れると思っています。準備をせずにいきなりやるから、入れない。ちゃんと準備した人が入れる。

 禅定に入ることはそれほど大変なことではないのです。さっさと終わらせて、ヴィパッサナーまで行って欲しいのですが、仏教の修行は段階を踏んでやっていくことです。順番にやっていけば禅定は入れます。さっきの生まれつきに条件が整ってない人、というのは、そんなことはないです。過去のカルマによってというより現実的な理由によって入れないのです。過去からの問題ではなく、肝心の準備をしていないために入れないのです。ちゃんと準備さえすれば、かなりの人が入れると思います。

質問:
パオメソッドではマハシの歩行禅に当たるものがないと言われていますが。

答:
 そんなことはないです。パオの僧院では坐る時間は決まっています。では歩くのはどうするかと言うと、時間が決められているということではないですが、各自やっています。サヤドーもやりなさい、と言います。その時に集中の対象はもちろん呼吸になりますが。

質問:
禅定に達する準備についてもう少し詳しくお話ください。

答:
 テーラワーダで教えないことがたくさんあります。まず坐相ですね。坐り方です。禅宗はそこがしっかりしている。坐禅の形ですね、体の形の指導を受けたほうが良いのです。体をまっすぐすることによって、心もまっすぐになるのです。一つには坐禅という形を作ってください。体を作るということです。それには股関節が柔らかいということが大切です。ヨガなり、真向法なりもありますからやると良いでしょう。股関節が柔らかくないと膝に負担がかかって膝の関節を痛めます。

1、瞑想は心でもするし、瞑想をする体を作っていくということも非常に大事なことです。

2、心の姿勢。我々は普段の生活の中でも“つかもう”としていますから、瞑想の中でもつかもうとやってしまいます。その反対派“やっつける(怒り)”です。良い体験をするとそれをつかもうとし、上手く行かないと、怒りを持ってしまって心の中が戦争状態になってしまう。ですから決して、つかもうとしたり、怒りを持ったりしないことです。

3、あとは、何のために瞑想するかという、動機が大事です。

4、仏教全体を知的に、理解しておくことももちろん大事です。八正道の勉強とか。

そういう準備を少しずつやって行けば第一禅定は誰でも入れると思います。

質問:
 今回のテーマなのですが、すべては繋がっていると言うのはどういうところから出てくるのでしょうか。それからすべての問題の原因は私たちにあるというのもどういうところから出てくるのでしょうか。

答:
 例えば、九州の小学校の女の子がいじめを苦に自殺してしまった。東京にいる我々と、九州の女の子と関係なさそうに見えるではないですか。だけども、ちょっと考えていけばなぜいじめが起こったかを見れば、子ども達の心が荒んでしまったからです。なぜ荒んでしまったか。それには親のこともあるし、ではなぜ親が荒んでいるのかと言うと、社会の問題があり、社会全体がこういう社会だからです。

 ではこういう社会は誰が作ったのか、というと別に社会なんてものが存在しているわけではない。日本社会なんてどこにありますか。日本社会なんてどこにもないのです。それは私ら個人が日本社会であるわけです。となったら、日本社会は自分だとしたら、日本の社会が彼女を自殺に追い込んだとしたら、私にも責任あるとなるわけです。

 ただ、仏教ですべてがつながっているというとき、普通の考え方から分かるレベルもありますが、もう少し深いレベルでの話なのです。それは、なぜ大乗仏教の人たちが、世界は繋がっていると自信を持って言えるかというのは、あくまでもその前提条件は空性になるわけです。すべてのものが、生じて滅しているものがストップして空であるということを直感する。それで終わりにならなくて、そこから世界というものができてきている。生じて滅しているものがどこから生まれてきているのか、そういう話なのです。

 テーラワーダで言うのは、ルーパ・カラーパ(物質の最小粒子)は四つの原因でできている、と。しかし、根本的な原因は問わないのです。大乗仏教になってくると、もっと根本的なところで、物とか心とかはどこから生まれてくるのか、という問いかけが出てきます。出てくるのはもちろん「空」からなのです。すべてのものが、生じて滅しているものがストップして「空」であるということが見えてくる。そこで終わらなくて、その「空」からもう1回世界が生じて滅してきているということになってきます。そういう意味でそこから生まれてくる世界は当然皆つながっているということになります。

 それがどう繋がっているかで大乗仏教のいろいろな見方ができてくると思います。基本線としては、何かから生まれてきている。この何かというのは共通のものとしてありますから。だからここから生まれてきたものはすべて繋がっているというそういう考え方になると思います。それを禅宗なんかだと、詩としてしか表現しないのです。繋がっているということが分かったら、私と彼らという風には分けられないという、世界観、生き方ができてくると思います。

 ですから最初の質問については、あくまでも空(スンニャータ)というのが基点としてあって、そこから生まれてくるから、だから繋がっているということです。そういうことがあるからこそ、問題が起こっているという原因が私たちにあるというのは当然そうだし、だからこそ今私たちが呼吸瞑想して、自分の中のイライラとか怒りとか恨みとか嫉妬とか、プライドとか、そういうものを乗り越えることができたら、そのことが九州のいじめに苦しんでいる人に良い影響を与えるという、これは考えにくいかと思いますが、そうなるのです。

 すべては繋がっていますから我々としては、まず自分の心を静かにして、安らかにして、安らかな世界を自分の周りに作っていく。そうすることによってまず家庭や社会を変えていく。それがこの世界宣言の言いたいことだと思います。これは21世紀の最先端のテーマだと思います。

質:
 ただ今の質問は私ももう少し聞きたいなと思っていたものです。今日のテーマである人とのつながりということが、頭では分かるのだけれども前の法話でも言われていた、ハートの部分でなかなかピンとは来ないのです。その辺をもう少し掘り下げていったほうが良いかなと思っています。

答:
 この間のテレビを見ていたら分かったと思うのですけれど、チベットと北京政府とは対立関係にあって、北京政府はダライラマ法王のことを分裂主義者と思っているわけです。ダライラマ法王の方はそのことに対して「北京政府は私のことを敵だと思っているんだよ」と言ってワッハッハと笑われたでしょう。その笑い顔がとても印象的だったのですけれども。 

 ダライラマ法王という人は自分を敵と思っている北京政府に対しても慈悲を持っているということです。それはそういう人に会わなければ無理なのです。例えば慈悲についてしゃべることはできるのです。だけどしゃべっている人のハートの所に慈悲があるかどうかは全然別の話で、皆さんに知ってほしいのは、慈悲についての理論を知っている人ではなくて、本当にハートの所に慈悲がある人に会ってほしいということです。

 そのうちの一人がダライラマ法王ですけれど。会われたら分かるように、ほんとにそういう生き方が可能なのだということが分かるわけです。だから皆さん実際にそういう人に会ってほしい。そうすれば分かると思うのです。




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