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より良い世界を言葉で作る スダンマチャーラ師のお話 2006.10.14


『世界の苦しみ』にどう向き合うか

 いま、非常に憂慮される事態が、朝鮮半島を中心としておこりつつありますので、皆様のなかにも不安な日々を送っている方々も多いことでしょう。今回の北朝鮮による核実験だけではなく、地球上には大小を問わず様々な争いがあり、多くの人が苦しんでいます。その苛酷な現実に直面している我々は、それらとどのように向き合えば良いのでしょうか。仏教徒としての根本的な地点にもう一度たち戻ってこの問題を考えて行きたいと思います。

  ただ、これまで何度も申し上げてきましたように、同じ仏教といってもこの2500年の歴史の中で、様々な立場の違いが出てきています。今日の主題に関しても、「『世界』というものに一切関わりあうべきではない、世間から遠く離れて修行のみに専念すべきだ」という立場から、その逆の「『世界の苦しみ』を自分のものとして引き受けるべきだ、それこそが仏教の修行なのだ」という立場まで、一見対立する考え方があるようです。

 では、このような違いはどこから出てきたのでしょうか。この違いは乗り越えられるのでしょうか。それとも、違いはあくまで表面的なものであって、あらゆる伝統に共通した、仏教の本質的な立場というものが存在するのでしょうか。

ワンダルマ―One Dharma

 先回から何度も、「One Dharma=一法」ということを申し上げてきました。その意味するところは、仏教の長い歴史のなかで様々な伝統がアジアの各地で発展してきたのですが、その全体図をいまようやく見渡せる地点に我々は立っている。それこそが、二十一世紀の特徴なのだから、積極的にその利点を活かし、共通する本質的な仏教(=One Dharma)というものを探って行こうということでした。それは勿論、伝統の間に横たわるすべての差異を踏まえた上でということですが。

 One Dharmaというものを考えて行く時、私の心にすぐに思い浮かぶイメージがあります。それは菩提樹の下にお座りになられている仏陀のお姿です。いま、釈尊が微笑みを浮かべながら静かに楽しまれているお悟り、つまりこの「無上正等覚」からすべてが始まったのですから、仏教の本質というものを探って行くとき、いつもこの「菩提樹下の釈尊のお姿」を思い描いてさえいれば大丈夫でしょう。その後の仏教史の余りに多様な展開を目の前にしても、決して本質から逸脱することはないでしょう。

 実をいうと、私自身そのような思いをもってこの衣を着させていただいています。私が今身につけている衣は、ご覧になればお分かりのように、テーラワーダ仏教の、特にビルマに伝えられてきたものです。そういう意味で、これは「ビルマの衣」とも呼べるのでしょうが、皆様もご存知のようにテーラワーダの伝統というのは、あまり地域の文化の影響を受けていません。そのことは、たとえば日本仏教と比べれば明らかでしょう。

 日本の僧侶の法衣を点検してみただけで、日本仏教が様々な文化の影響を受けていることが分かります。日本のお坊さんたちはまず、襦袢(じゅばん)、着物という日本の文化そのものを身に着けます。そのうえに、大きな袖が特徴の直綴(じきとつ)という中国の服飾文化の結晶を着ます。そうしてようやくお袈裟という仏弟子としての象徴をその上から着けることになるのです。三国(印度、中国、日本)伝来の仏教とよく言われますが、まさに三国の服飾文化がそこにあります。

 それに対して、インドと気候、風土が極めて似通っているために、テーラワーダの国々では、お釈迦さまの弟子たちがインドで身に着けていたものとほぼ同じものを、現代にまで伝えてくることができました。ですから、確かに私が今身に着けているものは「ビルマの衣」ではあるのですが、私としては「お釈迦様の弟子たちの法衣」として身に着けています。この衣を身に着けることで、菩提樹の下に坐っているお釈迦様と直接つながって行こうと思っているのです。

 菩提樹下の釈尊がいらっしゃるその場所から、仏教2500年の歴史全体を包括的に見てゆきたい、これが私の考える「One Dharma」です。「包括的に」ということは言葉を変えれば、仏教のある一つの伝統だけが正しくて、残りの伝統は間違いだという立場はとらないということです。

 以上長々と「One Dharma」の説明を何故してきたかというと、今日の主題である「世界の苦しみとどう向き合うか」というポイントで、まさにかなり大きな亀裂が仏教史上で生じてしまったからです。つまり、今日の主題を考えて行くときに、必然的にこの亀裂に直面せざるを得ないのです。そしてもしそこで「One Dharma」という視点を失うと、たちまち亀裂をはさんで対立しあう二つの違った立場の一つだけを選んで、相手を非難するということになりかねません。

以上のことを念頭におきつつ、今日の主題に入って行きましょう。

自分の苦しみ、世界全体の苦しみ

 では、我々は世界とどう向き合ったらいいのか。ここでいう世界とは抽象的な、ニュートラルな『世界』のことではなくて、『世界の苦しみ』のことです。それにどういう態度で向かうべきなのかということです。つまり『苦しみ』がこの問題の鍵を握っていますので、そこを詳しくみてゆきましょう。『苦しみ』はパーリ語ではDukkhaと言いますが、それは仏教の最初から登場します。それも主人公として。

 ブッダガヤの菩提樹のもとで悟られたお釈迦様は、自分がいま発見したこの深遠な真理をいったい誰が最初に理解してくれるか思い巡らされました。それはたぶん五人の昔の修行仲間だろうと思われ、彼らに会うために数百キロ離れたヴァラナシに移動されました。

 その鹿野苑にいた五人に対して行われた最初の説法が「初転法輪経」として記録されていますが、その主題が「苦しみ」でした。もう少し正確にいうと「四聖諦」と言われる「苦しみ」をめぐる四つの真理が、その時のテーマだったのです。

「四聖諦」とは四つの聖なる真理ですが、まずその始めが「苦諦」です。この世は苦しみであるという真理です。次の真理が、苦しみには原因があるという「集諦」。三番目が、その原因を取り除いたら苦しみがなくなるのだという「滅諦」。そして最後は、その苦しみの原因を取り除く具体的方法である「道諦」、以上あわせて四つの真理です。ではここでいう『苦しみ』とはいったい何を指すのでしょうか。

 この『苦しみ』を理解して行くのに一番ふさわしい話しがあります。「四門出遊」という、お釈迦様がまだシッダールタ王子だったころの話です。いまのインドとネパールが接するあたりにあった釈迦国のシッダールタ王子さまは、何不自由のない生活をしていました。それは、ちょうど先月お話した日本や欧米など先進国の今の状況に似ています。つまり、生老病死の生々しい様子にカバーが掛かり過ぎて見えなくなっているところが共通しています。シッダールタ王子のまわりは若くて美しい人間ばかりで、そこには一人の病人も老人もいなかったのです。

 そんなある日、王子はお城の門より外の世界へ「出遊」されました。そこで初めて老人、病人というものに出会います。一緒についてきた侍従より、王子もまたいつかはあのようになるといわれて大いにショックをうけます。さらに追い討ちをかけるように、生まれて初めて人の死に出会います。こうして生老病死という人間のおかれた状況を目の当たりに見た王子は、もう元の生活にもどれません。そんな王子に一つの希望を与えたのが、城門の外で見かけた一人の修行者でした。その人が何ものをも乗り越えた平安に達していることが理解できたからです。

 その後、我々誰もが知るように、王子はやがて宮廷を抜け出し森の中に行き、生老病死の苦しみを乗り越える道を探り始めるのですが、こうして見て行けば、仏教の出発点において問題となった苦しみというのは、人間は誰もが、たとえ王様であっても生老病死を逃れられないということでした。そこから出てくる修行の道筋としては、苦しみを乗り越えるためにまずその苦しみの原因をつきとめ、その原因をなくすことで苦しみを滅するという方向になって行きます。つまりここで問題にしている苦しみというのは、まず何よりも『自分の苦しみ』なのです。

 では、この『自分の苦しみ』から『世界全体の苦しみ』がどう出てくるか。どうつながって行くのか。仏教の歴史に詳しい人ならご承知のように、この二種類の『苦しみ』のあいだに先ほどのべた「亀裂」がいくつも走りました。

『自分の苦しみ』を乗り越えようと必死になっている人からみれば、『世界の苦しみ』をまず解決しようというのは、まるで自分の家が火事になっているのにそれを消火することもなしに、むなしく走り回っているだけということになります。

 逆に『世界の苦しみ』を解決しようと身を粉にして働いている人から見れば、『自分の苦しみ』にのみとらわれているのは利己的だということになってしまいます。

両者それぞれもっともな言い分ではあるのですが、では果たして折り合いはつかないのでしょうか。

 One Dharmaという立場からみれば、両者のあいだに全く矛盾はありません。もし自分が生老病死から逃れられない存在なのだということがはっきり見えれば、その時同時に、この世界の全ての生きとし生けるものも、自分とまったく同じくその苦しみから逃れられない存在なのだということがわかります。つまり『自分の苦しみ』と『世界全体の苦しみ』はまったく同じものなのだ言うことがわかるでしょう。

 修行の進め方としては、いきなり『世界全体の苦しみ』に行くのではなく、まずとにかく『自分の苦しみ』を徹底的に見る。それをしないと仏教が問題にしている『苦』の本質を見損なうからです。そのあと自分と同じ苦しみをすべての生けるものが背負っていることを見ます。その全ての衆生の苦しみに対して大きな慈悲を抱いて、何とかそれを克服して行こうと目指す。これが自然な流れであるでしょう。

 今日の話しの最初に戻りますと、要するに仏教を本当に修行して行こうとするならば、現在大問題になっている北朝鮮の「核実験」と自分は無関係だという訳には行かないのです。自分の苦しみをきちんと見つめている人ならば、この世界の苦しみを放ってはおけないというのが当然です。

「仏教は出家主義だから、世の中のことは関係ない」とは言えません。「出家」されたお釈迦さまご自身、悟りを開かれたあと残り45年間の人生のすべてを、人々を救うのに費やされたことを振り返ればそのことは明らかです。自分の苦しみの中に世界の苦しみが入っており、世界全体の苦しみの中に自分の苦しみが入っているのですから。

社会と関わる仏教

 最近特に欧米において、エンゲージド・ブッディズム(Engaged Buddhism)ということがしきりに言われています。これは「関わる仏教」と言う意味です。では、一体何と関わるのかというと、社会と関わる、と言うことになるのですが、今日的文脈でいえば『世界の苦しみ』と言うことになります。

 この運動の提唱者は、今まで何度も紹介してきましたティク・ナット・ハン師です。ヴィエトナム戦争の和平に深く関わり、ノーベル平和賞の候補者にもなった方です。ハン師を中心としてすでに大きな国際的な運動になっています。仏教の智慧を現代の諸問題解決の為に使おうということで、国際紛争から環境問題までかなり間口は広がっています。興味のある方は、インターネットで検索すればたくさんの関連サイトが見つかります。

 ただここで誤解を避けるために言うと、関わる(Engage)と言っても、それはただ単に「これから自分は世界に関わって行く」ということではありません。実は既に持っている「自分と世界との関わり」を、もう一度再確認するという意味です。つまり自分と世界(あるいは他者)との「関係」についての深い洞察が大前提になっています。

 仏教においては常に「関係性」というものが大事であることはご存知のとおりです。仏教用語では「縁起=パティッチャ・サムパダー」と呼ばれています。つまり、あるものと他のものの間にある「因果=原因と結果」です。その解明をめぐって仏教の教義が発展してきました。この因果関係の解明は段階を追って深まって行きます。仏教の出発点である『自分の苦しみ』を徹底的に見る段階では、その苦しみをめぐる因果関係を解明しようとします。

 つまり苦しみの原因が何であり、その原因がどういうメカニズムで苦しみを生み、そしてどうしたらその苦しみの原因を取り除くことができ、原因を取り除いた時、どのように苦しみが滅するのかと言うことです。この段階ではあくまでも自分の中の因果関係です。

 その段階のあと、この世の生きとし生けるものすべてが自分と同じ苦しみを背負っていることがまざまざと見えてきますが、その時に自分と衆生との「関係」が大問題となって浮上します。つまり自分の中で『苦』の原因・結果を見て行くことで始まった因果関係の探求が、自分という枠を超えて自分と世界の間の因果関係を見て行くことになるのです。

 その関係を徹底的に探求して行った果てに、実は自分と衆生とは苦を共有しているだけにとどまらず、一番深いところでつながりあっているのだ、という発見があります。そこから新しい段階に入って行くことになります。

 簡単にまとめて行くと、結局皆つながっているのだということです。自分とつながっているから放っておくわけには行きません。これは日常生活を振り返っても極めて当たり前なことで、家族の中に病人が出ただけで家中が暗くなるでしょう。私は関係ないと切るわけにはいきません。

 一番身近な家族から、ご近所、日本社会、そして地球全体と広げていってもまったく同じことです。いまアフリカで親がエイズで死んでしまったたくさんの孤児たちが苦しんでいますが、その子達と自分とは関係ないとは言えないのです。そのつながりを自覚したうえで、ではどうして行くかを探求してゆくのが、エンゲージド・ブッディズムです。

 人間とは不思議なもので自分の為にだけ生きたら段々エネルギーがなくなって行きますが、つながりを自覚し、つながりの中で他人のために働いて行くと、とてつもないエネルギーが湧いてきます。他人のために何かをしようとしたときに強い喜びとエネルギーをもらえます。このことは皆様ももうすでに経験しているはずです。ですから後はそれを如何に深めて行くかだけでしょう。

正しい話し方

 さて、自分と世界のつながりを自覚し、世界の為に働こうとした時一番問題になってくるのがコミュニケーションです。コミュニケーションとは正に人と人とのつながりですから。そのつながりを更に深めるのも、逆に壊してしまうのもひとえに、言葉をどう使うかにかかってきます。つまり自分がどう話すか、相手の話しをどう聞くかによって、人間関係が決まって来ます。大げさに言えばそこからよりよい世界が生まれるか、住みにくい世界になって行くかが決まってくるのです。何故なら人間関係がこの世界の土台ですから。

 それ程大事なものですから、お釈迦様も『八正道』という八つの基本的な修行のポイントの中に『正語』というものを入れられました。正語とは正しい話し方のことです。正しい話し方とはどういうものかについて、伝統的に四つあげられています。この四つの点についてその反対、つまり間違った話し方を検討しつつ見て行きましょう。

1、嘘をついたり、騙したり、隠したりしないで、真実を話す。

2、噂話、陰口をして仲を裂くことをしない。

3、悪口、粗い言葉を使わない。

4、無駄話、とりとめのない時間つぶしの話しをしない。 

 以上の四つのポイントに気をつけて皆様にも「正しい話し方」を修行していただきたいのですが、それは単に言葉の表面的な使い方に気をつければそれで済むという話ではないことはもう気がつかれているでしょう。言葉の表面をいくら飾っても、それによって皆さんの話し方が良くなるかと言うとそうはなりません。それは、私たちが「生きとし生けるものは幸せでありますように」という慈悲の言葉を何度唱えても、もしそれが表面的なお唱えならば、自分の心に慈悲が生まれることが決してないのと同じです。

 自分の心に慈悲が本当にあるかどうかは、誰かに暴言を吐かれた時や、自分が重い病気になった時、自分のハートの所に常に暖かい気持ちを持っているかどうかチェックするだけですぐにわかります。まず自分自身に正直であること、謙虚であることが大事です。

 ですから『正しい話し方』を実践しようと思うなら、まず自分自身を正直に謙虚にみていってください。自分が一日どういう話をしているかを見てほしいのです。家庭や職場で人々とどんな言葉をやり取りしているか。その言葉をどういう思いから発しているか、それを正直に見ることが大事です。人間は思いによって突き動かされている存在です。その思いが一番湧き起こっているのは、人とおしゃべりしている時です。

 例えば、すぐに人を判断して、あいつは間違っていると切り捨ててしまいがちですが、これはとても気持ちが良いのです。何故なら自分は正しい、自分は偉いということなりますから。このように人を批判したり、なじったりする時にその相手ではなく自分の中にある動機を見てほしいのです。そうすれば、われわれが発する多くの言葉が、自分のこころにある怒り、イライラ、嫉妬、プライドなどから出ていることをまざまざと知るでしょう。それが出発点です。

 マインドフルに話す

 では、思いに突き動かされて、間違った話しかたばかりしてしまう我々はどうしたらいいのでしょうか。思いの奴隷状態になっている我々が思いに突き動かされない唯一の方法は、思いに気がついていること、つまりマインドフルでいることです。そのマインドフルを養うのに最もシンプルでかつ効果的な方法が、いままで何度でも言ってきましたが、自分の呼吸を見ることです。

 息を吸いながら、自分がいま息を吸っていると気がついている。息を吐きながら自分が今息を吐いていると気がついている。その時、こころは静かに平安になります。思いに駆られることはありません。何故なら気づいていることと、思いに駆られることは両方同時には起こり得ないからです。呼吸瞑想をとおして、マインドフルな日常生活を作って行くことが、正しい話し方をして行くために何よりも大事です。

 マインドフルな日常生活を作って行けば、思いに駆られて何か暴言を吐く、嘘をつくことが少なくなって行きます。『思い』の持つ荒々しい否定的なエネルギーが減って行くからです。それと反対にマインドフルのエネルギー(ハン師の言葉)が日常を満たして行きます。言葉というものは使いようによって人を救うことも、逆に殺すこともできるほど強力なものですが、マインドフルでいるときは、人を救う方向に言葉を使って行くことができます。それは怒りや嫉妬などの思いに駆られて使った言葉が必ず人を傷つけるのと反対です。

 まとめると「正しい」話し方をして行くのに何よりもまず大事なのはマインドフルな日常生活を作って行くことです。まずそれがあって、具体的な話し方の探求が始まります。

慈悲の言葉

 正しい話し方をして行く上で、マインドフルと並んでもう一つのポイントが、慈悲ということです。慈悲がないと正しい話し方が成り立ちません。ただマインドフルと慈悲の二つのポイントが大事だといっても、その二つは何か別個に存在しているものではありません。皆様も呼吸を見つめたりすることでこころが静かになったとき、そこに自然と暖かい気持ちが生じていることを経験したことがあるでしょう。それとは逆に思いに突き動かされてイライラしていると、どんなに慈悲を持とうと思っても不可能だということもおわかりでしょう。

 今日の主題は我々がどう『世界の苦しみ』に向き合うべきかということでした。生きとし生けるものの苦しみを深く理解した上で、ともかくその解決に向けて一歩を踏み出して行こうということでしたが、ただそれは何もいきなりNPOとしてアフリカ奥地の紛争の地に飛んで行くと言うことではありません。勿論それをしてもいいのですが、その前にまず自分の周りで今すぐ始められることがたくさんあります。

 そのうちの一つが、慈悲の気持ちを抱いて、一番身近にいる人に暖かい声をかけることです。これならすぐ実行できるでしょう。我々は毎日、いやでも人と言葉を交わさなければいけないのですから、この言葉のやりとりを、人々の苦しみを減らしてゆく絶好の機会として行けばいいのです。

 以上、マインドフルと慈悲という二つの面から、自分の話し方をもう一回点検されることをおすすめします。その点検を実際にして行く上で、ひとつ良い方法があります。それは「沈黙」です。お釈迦様のころよりノーブル・サイレンス(聖なる静寂)ということが非常に重んじられてきました。思いに駆られて、思いのままに言いたい放題言うのはいったん止めにして、静寂のなかで自分の心をしっかり見つめる、そのことが正しい話し方をして行く基礎になります。

 ティク・ナット・ハン師も「私たちは普段しゃべりすぎでいるから、ちょっと沈黙しよう」と勧められています。日常生活の中で少しでも静寂な時間を持ってください。それをすることによって、自分が普段どんなに無意味にしゃべっているかが見えてきます。

 例えば、食事の時間でもよいのです。静かにマインドフルに自分が今食べものを口にしていることに気がつきながら、食事をする。その他にも、顔を洗う、風呂にはいる、トイレを使う、歯を磨く、歩く、お茶を飲むなどの時間を利用すれば、日常生活がすべて瞑想になって行きます。一杯のお茶を、「今ここ」にしっかり目覚めながら飲む。そうすることによって今のこの場所が素晴らしい場に変わって行きます。

質疑応答

質問:

 今年の夏、知的障害を持つ子ども達とボランティアで一緒になりました。一緒に遊んでいると、とても明るくオープンな感じがしました。先ほど正語の話がありましたが、これだと思いました。瞬間瞬間に気づいていると、重労働ではあったけれどオープンで優しさに包まれていました。

 それと反対の例ですが、以前あるNPO団体で働いていたのです。人を助けるための組織であるはずなのに、中にいる人たち同士余り仲がよくなくて、普段から衝突が絶えなかったのです。先月のお話で、帰依をして行く時、正しい避難場所を見極める為に相手の嘘や詭弁を、ハートを使って見抜きなさいという話がありました。どんなに頭が良くても心が汚れていたのでは、何事も上手く行かないということですね。お釈迦様はこの辺について、つまり「人を救う」ということのまわりにある「落とし穴」みたいなものについてどういうことを言われていたのでしょうか。

答:

 今日は『世界の苦しみ』とどう向き合い、それをどう解決して行くかについて話してきましたが、人の苦しみを救うということになると、仏教の文脈ではやはりどうしても『菩薩』について触れざるをえないようです。ただ、菩薩という言葉は、テーラワーダと大乗とで大きく意味が違っているために皆様の中にも少し混乱があるようです。その混乱を整理することから始めましょう。

 テーラワーダにおける菩薩(Bodhisatta)というのは非常に明快な定義があります。要するに悟り(Bodhi)を求める人(Satta)、つまり「仏陀(=悟った人)になることを目指す人」という意味ですが、それは今は悟りを求めている段階で、まだ悟ってはいないことを意味しています。ではこれはいったい誰を具体的に指すのかというと、先ほども触れたシッダールタ王子のことです。

 もう少し詳しく言うと、シッダールタ王子は29才の時王宮を抜け出し、森の中で6年間修行をされて35才の時に菩提樹の下で悟られて「仏陀」になられたのですが、この仏陀になられる直前までの期間を「菩薩」と呼んでいます。以上は今世での話ですが、勿論仏陀にも無限の「過去世」がありましたから、その過去世における存在も同じく「菩薩」と呼ばれています。ジャータカの中に登場されますが、例えば飢え死にしかけていた虎の母子に自らの体を捧げられかたも、そのような「菩薩」のおひとりです。

 以上はテーラワーダにおける定義ですが、大乗仏教になると意味が大幅に変わってしまうのです。大乗においても「菩薩」とは「仏陀を目指す人」という基本定義は同じなのですが、実はその「仏陀」というもの自体が全く新しい概念になってしまいました。その結果当然「仏陀を目指す人」の意味も新しいものになります。

 テーラワーダにおいては、あくまでも仏陀はお一人です。それは勿論、お釈迦さま(=釈迦牟尼仏)のことです。過去の六人の仏陀や、未来に現れるという弥勒仏(マイトレーヤ・ブッダ)はともかくとして、この世界では仏陀は釈尊のみです。ところが、大乗だと仏陀は一人ではなくなり「諸仏」(複数)となります。

 それどころか私たちすべてが、修行の最終目標として仏陀を目指さなければいけなくなったのです。テーラワーダだと最終目標はあくまでも、仏陀の弟子としての最高位である阿羅漢になることですから、大乗の主張がどれだけラディカルだったかお分かりいただけるでしょう。

 当然のことながら、この大乗の主張はテーラワーダの方から言わせると「何と傲慢な」ということになってしまいます。私自身、ビルマやスリランカでそのような反応を身近で経験しました。ただ、以上説明してきたように、テーラワーダと大乗とでは「仏陀」観そのものが、違うのだから、その違いを無視して「菩薩」について論じても余り意味がないのでは、と思っています。

 それよりも、仏教の修行の目的というのは、自分の苦しみを解決するためなのか、それとも生きとし生けるものの苦しみを解決するためなのかを論じたほうがより生産的でしょう。というのは、大乗において菩薩として生きようとしている人たちの本当の願いは、仏陀になるとか、ならないということより、「すべての生きものたちの苦しみを救って行きたい」というところにあるからです。その願いを「菩薩の誓願」と言い、それが大乗仏教のまさに急所です。

 では、その願いはどこから来るのでしょうか。先ほど、縁起という仏教の中心教義がどう発展してきたかを説明した時に、自分の中で『苦』の原因・結果を見て行くことで始まった因果関係の探求が、自分という枠を超えて自分と世界の間の因果関係を見て行くことになり、その関係を徹底的に探求して行ったはてに、実は自分と衆生とは苦を共有しているだけにとどまらず、一番深いところでつながりあっているのだという発見をしたと述べました。そのつながりのところから、ストレートに「菩薩の誓願」は生まれています。

菩薩の誓願の代表例をあげましょう。

「無限の過去世において自分の母であり父であった人たちが、この輪廻の苦しみの波に呑み込まれて、もっとも暗い混乱のなかに堕ちてしまっている。彼らは、いったいどの道を歩いていったら良いのか、どの道を避けなければいけないのか全くわからないでいる。彼らには、自分たちを正しく導いてくれる精神指導者も、守ってくれる人も、仲間も、頼りも、希望もまったく持っていない。何もない荒地のどまんなかで、友達もなくあてどなく彷徨っている盲人のようだ。ああ、私のかつての母親たちよ、どうしてあなた達すべてをこの輪廻の苦しみのなかに残したまま、私ひとりだけがここから抜け出して行けるだろうか。私は、すべての生きとし生けるもののために、無上の菩提心を起こして行こう。過去の菩薩たちの力強い行いをまねて、一人も残らず全ての生けるものがこの輪廻から解放される日まで、全ての必要な努力をして行くことをここに誓う」

 さて、質問にかえりますが、もし以上のような「誓願」をいだいてさえいれば、人を救うために争うということはありえません。その誓願をよく理解せずにいきなり「人を救おう」とすると、そこにはたくさんの落とし穴が開いているでしょう。たとえば、自分の問題から目をそらすために他人のことに係わっているというケースもありえるのです。

 それに対して、菩薩の誓願は、繰り返し説明してきたように、自分のことをきちんと押さえた上で、さらにもう一歩踏み出そうとしているのです。NPOの現場などでは、その違いがはっきり出てくるのではないでしょうか。純粋なものなら良い雰囲気が出てくるだろうし、そうでなかったら、おかしなものになってしまうでしょう。そういう、何が本物で、何が本物でないかがはっきりしてくるのではないかと思います。

質問:

 日常生活で、マインドフルを育てるために、例えば禅寺などで、食事前とか、顔を洗う時とか、四行位の偈文を読むのですけれど、現代の我々に合うような物はないでしょうか。

答:

 今までの禅宗の修行道場では、確かにそういう偈文をとなえるのですが、只お唱えするだけで実際に意味をよく理解していないということがありました。それに対して意味を深く考えながら唱えていこうというのがティク・ナット・ハン師です。ハン師も中国の臨済禅の流れを汲む方ですから、日本のお寺で読む偈文と同じものを使いながら、それを現代にあうように英語に翻訳しています。それを現代日本語にできたらと思っています。

 基本線としては、これを「すべての生きとし生けるもののために」という誓願とともに唱えます。そうしないと凡夫の心で流されてしまうのです。

たとえば、朝起きるときの偈文です。

Waking up this morning, I smile.

今朝、私は目覚めそして微笑む

Twenty-four brand new hours are before me.

24時間のまっさらな時間が今私の目の前にある

I vow to live fully in each moment

一瞬、一瞬を充分生きよう

And to look at all beings with eyes of compassion

すべての生きとし生けるものを慈悲の目で見ていこう

そういう請願を立てよう。

 一日が無意味に流れてしまわないように、朝起きたときに、以上のような誓願を立てて始めるのです。その日一日が自然と意味あるものになります。

朝起きたときだけでなく、歯を磨くとき、お皿を洗うときのための偈文などたくさんありますから、いずれきちんとした現代日本語にして紹介したいと思っています。

質問:

 正語と悪語では、自分の心を見ているのが基本だと思うのですが、自分の職場で、仲間と話している内容は、噂話と無駄話が多く、なかなかそれは避けられません。そういう時に、沈黙しているわけにもいかなくて、仲間に調子を合わせてやっていると、今度は「こういうのはいやだな」と思ってストレスになってしまうのです。それが悩みなのですが。

答:

 そういうことに悩んでいるということが出発点になります。悪語をしながら多くの人は、楽しんでいるではないですか。その結果、いろいろな苦しみを生んでいるのです。最近、学校でいじめにあって自殺したという子どもたちの痛ましいニュースをよく耳にします。一人の小学生は友達に口を聞いてもらえなかったのです。それを小学校でされたらたまったものではありません。無視されたことを苦にして、その子は死んでしまいました。

 言葉の怖さは、それが凶器になることです。と同時にまた、それが人を救うこともできるのです。このすごさをまず知りましょう。人の苦しみを作っていく言葉の使い方を自分はしていないだろうか、と常に気をつけて、人を救っていく言葉の使い方をして行こうと努力してください。

 繰り返しますが、正しい言葉の使いかたをして行くうえで、大事なのはマインドフルと、慈悲の心を持つことです。だからその時その時の場にあわせて対応して行くしかないのです。そういう努力が大事です。たとえば、ある人が陰口や噂話をしかけてきても、相手が期待するリアクションをしなければ、そういう話は自然としてこなくなります。毎日誓願を立てて慈悲の心で生きていくと、そういう風になって行きます。暖かい人間関係が生まれてくるものです。

 それと今までどう「話す」かについて述べてきましたが、それと同じほど大事なのは、「聞く」ことです。慈悲を持っていかに相手のことを聞いて行くかということです。今はだれもが忙しくて、お互いに人の話を聞いていません。まずはじっくりと人の話を聞くことから始めたら良いのではないでしょうか。家庭で、学校で、職場で、人の話を聞く。その時の聞き方で一番大切なのは、ハートに慈悲を持ってマインドフルに聞くことです。




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