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 禅定と五禅支・須弥山と宇宙  ディーパンカーラ・サヤレー 
 
 四十の瞑想法
 今晩は禅定についてお話したいと思います。禅定はとても大事なことです。初日に戒と定(集中力)と智慧の三つについてお話しました。二番目の定(サマーディ)というのは集中力ですけれど、パーリ語で言うとサマーディといいます。昨日40の瞑想法について説明しましたが、それぞれサマーディの中にも異なったレベルがあります。多くの人が集中力と言うのはそれほど重要ではないと考えていますが、実際に仏陀は40の集中力の瞑想について教えてくださっています。

 昨日のダンマトークを覚えてくださっていると良いのですけれど。集中力の瞑想法について、一晩寝ると忘れてしまっているのではないでしょうか(笑い)
忘れないでくださいね。

 復習しますと、10のアスバ瞑想というのは死体についての瞑想法ですけど、それぞれステップがあって、どのステップにおいても初禅まで行く事が出来ます。
それから三十二の体の各部分を見る瞑想法ですね、それぞれどの部分を見ても初禅に達する事が出来ます。
それと10のカシナ瞑想、は第四禅定まで、さらに第八禅定(無色界禅)まで達する事が出来ます。その他に10の随念というのがありました。この10の随念のうち、9つの随念が、それを行うことによって、禅定に非常に近い状態、近行定(ウパチャーラサマーディ)に達する事が出来ます。

アーナパーナサティというのもその随念の一つに入っているのですが、第四禅定まで達する事が出来ます。無色界禅までは行けません。四界分別観という地・水・火・風を見る瞑想法は、これを行うことによって、禅定に非常に近い状態、近行定に達する事が出来ます。慈・悲・喜の瞑想では、(捨は入らない)第三禅定まで達する事が出来ます。そして最後の捨(ウペッカ)ですね、これは第四禅定まで達する事が出来ます。

 それでこの40のそれぞれの瞑想法は全ていろいろ違ったレベルの禅定に達する事が出来るわけです。ですから集中(禅定)というのは私たちにとって非常に重要な修行の一つです。今日もアーナパーナサティの修行をしたわけですけれど、その結果があまり良くない人もいたりして、たとえば眠くなるというような事があります。これはたとえば食事をした後は、歩行禅とかで動いたほうがいいわけです。

 動かないとあまり消化が良くなくてそれで眠気が来てしまいます。5日間のリトリートのうち3日寝ていたのではあまり集中力が良くなりません。それで最後の日にニミッタが見えても、その次の日には帰らなくていけないということになってしまいます。ですからとにかくがんばってください。

 心は大変重要です。心を強くしなくてはなりません。心で「集中力を得るぞ」と決意して、努力してください。
 何で瞑想がそんなに難しいのか、私にはよく理解できません(笑い)。呼吸をしているわけですから。
なぜかというと、皆さんあまり好きではないという、そのへんが問題なのではないでしょうか。瞑想があまり好きではないのですか?
呼吸を見ることに楽しさを感じれば、瞑想に上達するのが上手くなるのですが、それがあまり面白くないとなると、なかなか上達するのは難しいのです。

呼吸が静まったとき
 10分とか20分とか集中力が続けば、呼吸が非常に静かになってきます。それと同時に体の感覚というものをあまり感じなくなって、たとえば痛みとかがあってもそれをあまり感じなくなり、とても軽く平安な感覚になってきます。瞑想する人にとっての一つの問題がありまして、呼吸が静かになって心が平安でリラックスしてくると、楽しい感覚の方に行って呼吸を見続けることを忘れてしまうのです。

 それは集中力が良くなってきて、体がわりと楽になってくると「快適になってきた。これはもう集中が良くなってきたのだ」ということで、微かになった感覚のほうに注意が行ってしまって、「微かだ、微かだ・・・」と観ているうちにババンガ(有分心)に落ちてしまいます。心と体が非常に心地よい感覚になったとしても、やはり呼吸を対象とすることを忘れないようにしてください。

 集中力がついて呼吸が微かになって、その微かになったのをずっと見ていると、呼吸しているかしていないか分からなくなってきます。微かになった呼吸を追っていると、「微かになった、微かになった・・・」と、そのうちババンガに落ちてしまいます。なくなってしまう。それで呼吸を見失った時に、呼吸を勢い良くやろうとすると、今度は心臓の鼓動も速くなってきます。

 呼吸が非常に微かになってきた時というのはとても注意する必要があり、微かになってきたことを追わないで、あくまでも呼吸そのものを対象に、それを観るように注意します。あまりにも呼吸が微かになってくると呼吸を見失ってしまうという事があるのですが、鼻の辺りに注意を向けて、意識的に呼吸を強くしたりしないで自然に呼吸を観ていると、段々呼吸を取り戻していくことができます。

 呼吸を見失ってしまった時は、どこに行ってしまったのかと辺りを探し回るのではなく、鼻のところに戻ってくればまたそれを捕まえる事ができます。また鼻の所で呼吸を見ていて、10分か15分すると、再びニミッタが現れてきます。

ニミッタには三つのレベル
 ニミッタにも三つの違ったレベルがあります。最初の段階というのは、顔の前とか体全体みたいな感じで、雲のようにぼんやりとした感じで、ある人は黄色だとか、赤、青とか人によって違った、様々な色が見えてきます。そういう色が見えたときには、すぐに色の方に注意を向けないでください、また目を開けたりしないでください。色(ニミッタ)の方は見ないようにしてください。呼吸を対象に集中し続けます。

 さらに呼吸を継続して見続けますと、色が段々白くなってきます。ニミッタそのものが白くなって輝いてくる。それが第二段階のニミッタです。その白くなって輝いているニミッタが、ゆっくりゆっくり鼻の方に近づいてくるようになります。まだ白いニミッタが鼻のほうに近づいてない状態でニミッタのほうに意識を集中して、そちらの方に心が入ろうとすると、まだ早すぎるために、色が体全体に分散してしまいます。
早い段階でニミッタの方に心を向けてしまうと、それが体全体に広がるようになり、とても静かで平和な快い感じになってきて、人によってはそれが禅定であると間違えてしまうのですが、それはまだ本当の禅定ではないわけです。

 それはまだニミッタの段階が早すぎるから起こるわけです。さらに集中していると、ニミッタがゆっくりゆっくり近づいてきて、非常に鮮明になり、輝きを増して、星のように光ってきます。ですからあくまでも呼吸に集中し続けて、ニミッタがだんだん近づいてきて星のように輝いていても、もう少し忍耐していると、ダイヤモンドのようにあるいは水晶玉のように輝いてきますから、それまで待ってください。

 そんなふうにニミッタが輝きを増してダイヤモンドみたいになってくると、水晶玉のようなニミッタを得ようとして、呼吸のほうに過度の力を入れたりする事があるのですけれど、そうすると心は安定せず平安がなく、鮮明なニミッタは得られません。それはしないで、今迄どおりの静かな呼吸、自然な呼吸を続けるようにしてください。そうすれば、心はリラックスし、平安な心がニミッタを支え次第に鮮明になってきます。

 それで鼻の先に白いニミッタが近づいて止まったとしても、しばらくは待っていて、それが鼻のところで安定するまで待ちます。5分、10分も安定して動かなくなったら、段々とそちらの方に意識を移していくようにします。そちらの方に意識を移していくときに、ニミッタの中へ中へと入っていくような感じでしないでください。そうすると、ニミッタが分散してしまうので、あまり急激には中に入っていかないようにします。

禅定の状態
禅定に入った時というのは、ニミッタが無くなるわけではなく、いつも鮮明にそこにあります。1時間なら1時間ずっとそこにニミッタと共にあり、消えることはありません。初めのうち禅定に入るときは、ニミッタの表面に心を置くようにして、中には入りません。それから次第に、ニミッタの中へ入っていくようにします。禅定に入っているとき、心は常に一つの対象に集中しています。それでニミッタという対象にいつも気付いているわけで、つねにそのことを思い起こす必要があります。

 ニミッタそのものに心が張り付いてしまうと、ニミッタそのものと一緒になって、瞑想が止まってしまい、しばらくして有分心(ババンガ)――寝ているような、無意識な状態――に心が落ち込んでしまいます。多くの人が、そんなふうに落ち込んでしまって、有分心(ババンガ)の状態、眠い無意識な状態を、禅定であると思ってしまいます。

 ニミッタが見えたときにはあくまでもそれが瞑想の対象であることに気付いている事が大事です。1時間なら1時間ずっとニミッタを対象としていることに気付いています。ヴィチャーラ(伺)という心を使って、対象にいつも気付いているようにします。

 それで、初禅に入ったときには、もう心が彷徨いだすという事がなく、眠気もなく、体の痛みも消えてしまうような、とても幸福な感覚になります。1時間、1時間半と初禅に入ることが出来たら、心をチェックします。心臓の辺りに集中すると、そこに心基(ハートベース)というものがあり、ニミッタと同じような光が鏡のように見えます。心臓そのものは見ることは出来ないけれど、心臓の周りを見ていると、ニミッタを反射した光が見えます。鼻のところで見えるニミッタの光と心基(ハートベース)の辺りに見える光とはつながっています。全ての心の働きというのはこの心基のところから起こってきます。37

禅定の五要素
 その後に心の中の禅定の要素をチェックしてみます。それはヴィタッカ「尋」、ヴィチャーラ「伺」、ピティ「喜」、スッカ「楽」、エカガータ「一境性」です。「尋」の意味は対象を知る、ということです。ですから最初にニミッタが現れたときに、これはニミッタだと知る、そういう働きが「尋」です。ヴィチャーラ「伺」というのは、支えるという意味です。ニミッタが見えたらこれはニミッタだと知るのは「尋」ですが、それを継続的にこれはニミッタである、ニミッタである・・・・という風に支えていく、それが二番目のヴィチャーラ「伺」の働きです。

 三番目はピティ「喜」ですが、ニミッタが見えて心が落ち着いてくると、だんだんと喜ばしい感覚が起こってくる。それが喜です。四番目はスッカ「楽」ですが、心が非常に落ち着いて、平安な感覚が生じる。それが「楽」です。
五番目がエカガータ「一境性」で、心が他へ彷徨い出ないで、一つの対象に絞られて分散しない。ただニミッタのみを対象にしている、そういう働きです。
「喜」と「楽」はたいへん似たような働きで、いつも一緒に現れます。だから、この二つを区別するのが非常に難しい人もいます。

 たとえばチーズケーキが好きな人の場合を例に挙げて説明しますと;
チーズケーキを見たときに、とても嬉しいと思う。実際に食べてみると、食べた後で非常に満足感というのがありますね、それで、ピティ「喜」というのは嬉しいという感情で、スッカ「楽」というのは、食べた後の心も体も満足して落ち着いた状態、という風にたとえる事が出来ます。スッカ「楽」というのはとても落ち着いた静かな心の状態です。

「五自在」の練習 
 それで、1時間禅定に入っていたら、この五つの禅定を支える要素(五禅支)をチェックしてみて、それらが存在していれば初禅に達したと断定することが出来ます。そのあとで五つの自在、「五自在」(*註1)を練習します。そのうちの一つは、心のドアである、意門にかかわることで、たいへん難しいので、心の過程が見られるようになってからすることにして、残りの4つについてチェックする事が出来ます。

 それをする時に「決意」します。「これから30分間初禅に入る」第一番目は「いつ初禅に入るか」を決めて、決意します。第二番目は「どれだけ長く初禅に入っているか」決意ということで、第三番目は「いつ初禅から出るか」を決意するという事です。禅定の要素(五禅支)をチェックしようとすればいつでもチェックすることが出来る。
第二番目は、どの位長く禅定に入っていられるか、を決定する事です。
三番目に、いつ禅定から出るか、それを決める事です。禅定の要素をチェックした後では、とても簡単に出たり入ったりする事が出来るようになります。

 それで、第一禅定を得て、自在の訓練をして、自在に禅定に入ったり出たりする事が出来るようになったら、次に第二禅定の修行、訓練をします。第二禅定に行く時に、二つの仕方、まず、第一禅定というのはある意味、五つの障蓋に非常に近いところにあります。
第二禅定に行くときには、「尋と伺は思考と非常に近い関係にあるので、私は望まない」と心で決めます。

 決意をした後で、ニミッタに集中して初禅に入ります。初禅に十五分くらい留まります。五禅支のチェックをする必要はありません。そしてさらに1時間ニミッタに集中して禅定に入ります。そうすると「尋」と「伺」は次第に落ちていきます。そして、「喜」と「楽」と「一境性」が強くなります。これが第二禅定です。そこで第二禅定においても先ほどの五自在を行う必要があります。それで五自在が第二禅定においても出来るようになったら第三禅定に入る訓練をします。

 第二禅定の中に「喜」と「楽」と「一境性」とがあるわけですけど、「喜」というものも、とても感情的なものなので、障害になったりするという事があります。それで、「喜を望まないから第三禅定に行く」という決意をします。そして決意してから、ニミッタを対象として禅定に入ります。そうすると次第に「喜」の要素が落ちて、「楽」と「一境性」が強くなり、第三禅定に入ります。そして同じように、五自在の訓練をします。
 第四禅定に行くときは最初に、もう「楽」はいらないから落とします、という決意をして、第三禅定に入ってその決意を実行すると「楽」が落ちて第四禅定に至る事ができます。

 そのように初心者からだんだん段階を踏んで行って、五禅支の要素を落として行って、最後には「一境性」が残る。第三禅定の中にあった「楽」が落ちると同時にウペッカー、「捨」というのが入ってくる。それで第四禅定の中の要素としては、「一境性」と「捨」と二つがあります。

三十二の体の部分についての瞑想
 アーナパーナサティは第四禅定まで到達できます。さらに上の無色界禅をやろうとしたらアーナパーナサティでは出来ないので、カシナ瞑想などが必要になります。アーナパーナサティで第四禅定まで入り、30分間禅定の中にいて、そこから出て、三十二の体の部分について一つ一つ瞑想を行います。禅定で得た白い光によって頭のところを観みます。そして、皮膚の表面から中に入っていくような感じで観察します。人によって髪の毛一本一本まで見える人もいるし、上のほうだけ先に見えて、次に髪の根っこまで見えるようになる人もいます。少ししか見えない人もいますし、全部見える人もいます。

 頭の部分が見えるようになったら、次に体について厭う瞑想をします。皆さんは体について綺麗なものだと思っているけれど実際にはそうではありません。とういうのは髪の毛によっても見えてきます。それで、初禅まで行けます。昨日は胃の中の食べ物について厭う瞑想について話しましたが、髪の毛についても「嫌気、嫌気」と見ていくわけです。

それで髪の毛を対象に瞑想して、髪の毛を厭う瞑想をすることによって初禅まで至る事が出来ます。それが上手くいったら三十二の体の部分について同じように一つ一つ観ていきます。禅定が上手く行ったら次の機会にそのことについては説明しますので、ぜひミャンマーに来てください。

 三十二の体の部分の一つに骸骨も一つの項目として入っています。体を見た時に容易に骸骨を見る事が出来る人もいます。ある人は頭蓋骨のみを見る事が出来、ある人は上半身くらいを見る事が出来ます。体全体を見る事が出来る人もいて、全体を見る事が出来る人は、しっかりそれを見るようにしてください。それで、全身の骸骨を見ていると心はだんだん静かになって落ち着いてきて、それで初禅に至ることができます。

 骸骨を対象とする瞑想をして初禅まで行ったら、次に白いカシナの瞑想をします。骸骨に集中しているとそれが白いから、白、白、白と、骸骨全体が非常に白くなってきます。そして骸骨が消えて白い円が出てくる。
 そして10分ぐらい白い円を集中して見て、そのあとそれがいろいろな方向に広がっていくように心で広げていく。とても素早くいろいろな方向に広げる事が出来る人もいます。あまり広げるのが得意ではない人は、最初このくらいの白い円があるとすると、決意してもう少し大きい円になるようにと、だんだん広げていきます。そうしてだんだん広げていって、四方八方に広がるようにします。

 それで、四方八方に広げていって全体が真っ白になってきたら、今度は真正面の狭い範囲を見るようにします。それがアーナパーナサティでやったニミッタと同じような働きをするので、この白い光に集中することによって初禅から第四禅定まで至る事が出来ます。

無色界禅 
 第四禅定まで行ったら今度は無色界禅に行きます。第一から第四まではいわゆる色界禅といって、対象が物質的な対象なのですが、今度は物質ではないものを対象とします。第四禅定の対象は白い色の二ミッタでした。第五禅定、これは無色界禅の最初なのですが、そこに至るには第四禅定に入って白い色に集中します。ずっとそこに集中していくと、そこに小さな小さな穴がたくさん見えてきます。例えば、手の皮膚を見た時に、ここに穴を見る事は普通出来ません。しかし顕微鏡で見てみると、この皮膚のところにも色々な無数の穴が開いているわけです。

 それで第四禅定で使った白い色に、ずっと集中して見ていると、そこに小さな穴が見えてきます。それでたくさんの穴が開いているのだけれども、その1つを選んでそこにどんどん集中して、その穴を突き通すように見ていると、穴を通り抜けて空間へ出て行きます。穴を貫いて、空間が見えてきますが、今度はそれを見ていると、とても広い空間に出たという感じになり、開放感という感覚が生まれます。そういう感覚を得たら、その感覚を瞑想の対象にします。物質である白いカシナはもうなくなって、広い空間の感覚が対象になるのが、第五禅定です。

 心が広い空間の中に入っていると言うそんな感覚になります。そういう感じというのは、心が広がっているような感じで、物質的なものから離れて、物質を対象とするのとはまた違う気持ちの良い状態です。1時間とか1時間半とか禅定に入ってから、その禅定の要素を見ます。それは、第四禅定と同じ二つの要素が第五禅定にもあるという事です。捨(ウペッカー)と一境性の二つがあります。

 第五禅定がうまくいったら、また同じように五自在を練習します。決意して禅定に入ったり出たり、入定の時間を決める練習をします。
 第五禅定の次には、第六禅定の修行をします。第六禅定というのは、意識が対象になっている禅定で、最初に第五禅定の空間を見つめる禅定から始めます。空間を見ているときに、心のなかでは、心基(ハートベース)に捨と一境性を感じています。さて、第六禅定の場合、見つめる対象を空間から意識、感覚の方へ転換します。心を見ていると、もっともっと平静になってきて、静かに落ち着いてきます。第六禅定を得たら同じようにして五自在を練習し、今度は第七禅定の修行をします。

 第七禅定の対象というのは、「何も無い事・空っぽ」です。無そのものが対象になっています。第五禅定では、空間が対象でした。第六禅定は、意識が対象でした。第六禅定の対象である意識を瞑想していると、空間というものは消えてしまいます。そうすると空間というものが無くなって、そこには対象が無いわけです。それで今度は、無くなってしまった事を対象にして、「何も無い、何も無い」という風に、何も無いことを対象に瞑想します。
 「何も無い、何も無い」という風に見ていると、心はどんどん落ち着いてきます。それで1時間とか1時間半ぐらい何も無いところの瞑想で第七禅定に入る事が出来たら、やはり同じように五自在を練習して次の段階にいきます。

 次は第八禅定ですが、第七禅定が基礎になっています。第七禅定は、何も無いという事でした。第八禅定に至る時は第七禅定の「何も無いこと」を対象にして、「無い方が良い」また、「無いことは素晴らしい」と念じて瞑想します。そうすると心は、とてもとても微かになってきます。それで、対象を見たり、知ったりする知覚の働きも、あまりにも対象が微かな為に、ある時ははっきりして、ある時はぼんやりと言う風になってきます。心そのものが消えてしまうような感じです。それは「非想非非想」と訳されていますが、あまりにも微かであって、「想うのでもなく、想わないのでもない」という様な状態です。

 非常に難しく聞こえますが、第四禅定まで至ればとても簡単な話です。でも大変眠い話でしょうけれども・・・。皆さん眠いですか?

31の世界
 とても難しい話ですけれどもたいへんに重要な事です。なぜ重要かと言うと、皆さんは禅定を得るかもしれないし、禅定に入ったらとても重要な事です。良いですか。第八禅定まで行くというのは、非常に有益です。なぜかと言うと、死ぬ時、次にどんな世界に行くか、という事を選ぶ事が出来るのです。死ぬ時に無色界に行くのか、色界に行くのか、デーヴァ(天神)の世界に行くのかという事を選ぶ事が出来ます。

 ですから禅定(ジャーナ)に入っていないと、その禅定という感覚が分からないので、
そういう世界に行く事は出来ません。ブラフマ(梵天)の世界へ行きたければ、修行して行くことが出来ます。阿羅漢になる為には、禅定だけでなくヴィパサナー瞑想をする必要があります。

 この宇宙には31の世界、31界というのがあります。今生で阿羅漢まで修行したら、31の世界のどこにも行く必要がなくなります。なぜなら阿羅漢はもう生まれてこないからです。再生しないからです。もし阿羅漢にならなければ、更にまた次の生を始める事になります。もうちょっと旅をしたければ、この31の世界で旅を続ける事が出来ます。

 31の世界の中心には、メール山(須弥山)があります。この須弥山にはいろいろな段階があります。下の方、須弥山の地下の方には地獄界があります。禅定を得てその地獄界を見てみると、ものすごく燃えている火があって、人々がその中でたいへん苦しんでいるのが見えます。地上には人間界があります。それから動物、阿修羅、餓鬼ですね。地上というのは、我々人間だけではなくて動物とか阿修羅とか餓鬼が一緒に住んでいる所です。だから低いレベルにいるわけです。とても地獄に近い所に居るという事です。

 地獄・動物・阿修羅・餓鬼、その四つは悪所、あまり良くない世界で、そのちょっと上に人間界があります。段々上がっていって、須弥山の真ん中ぐらい、中腹位からデーヴァ(天人)の世界が始まります。四天王の世界がまずあって、須弥山の真ん中ぐらいに住んでいるのが、四天王の持国天、増長天、広目天、多聞天です。更に上がっていくと・・・だんだん上がって一番上(頂上)まで行きますから付いて来て下さい(笑)。

 須弥山(メール山)の頂上には、二番目の天界があります。利天(とうりてん)が其処に住んでいます。また、そこには天界の王である帝釈天がいます。(*註2)
 須弥山の上には第三番目の天界があります。天界には6つの界があります。デーヴァの世界よりも上へ行くには、色界禅が必要です。色界禅というのは、第一・第二・第三・第四禅定までを言います。地獄・動物・阿修羅・餓鬼で4つの世界があって、人間界があるので全部で5つですね。それから6つの天人(デーヴァ)の世界があって全部で11です。この11の世界というのは、感覚を持った世界という事で、欲界と訳されています。

 更にその上は、色界の禅定に入らないと行けないけれども、16の界があります。16と11でいくつでしょうか(笑)。そう、27です。更にその上に無色界禅で行ける界があって、これが4つあります。27と4つの界があって、それを合計するといくらでしょうか。それで31になります。これが世界の全部です。

須弥山の宇宙
 須弥山(メール山)の周りに、どこに地球があって、どこに太陽があって、どこに月があるかという事は禅定の力を高めて見る事が出来ます。月とか星とかというのは、天の上にあると人々は思っています。しかし、月というのは須弥山の直ぐ横にあって、上にあるわけではありません。須弥山の横に太陽があって、月があって、下に地球がある。瞑想していると、それらが動いているのが見えてきます。とても興味深い映像です。

 瞑想して須弥山の周りにどんなものがあるかと見ていると、須弥山とは別の山々があります。中心にあるのは須弥山で、その横に大きな川が流れていて、その川の横にまた山があって、その山は須弥山の半分の高さです。そのようにして、1つの川があって1つの山があって、1つの川があって1つの山があって、というように7つの山があります。それで最後の山の支脈をずっと行くとヒマラヤに繋がっています。

 須弥山というのはヒマラヤの一つの山だと思っている人がいますけれども、そうではありません。ヒマラヤというのはずっと支流の支尾根みたいなものです。一番小さな、枝別れした最後の所がヒマラヤ山脈です。面白いのは、須弥山の南東に我々の住んでいる地球があります。須弥山の北の方にも住んでいる人たちがいて、その人たちは戒律をしっかり守っています。そこでは着る物も食べる物もすべて揃っていて、全く料理する必要がなく、直ぐその料理が食べられるという事です。次の機会があればその辺ところを詳しくお話します。

 一つの宇宙があって、禅定の力があればこの宇宙ではないまた別の宇宙を見る事が出来ます。他の宇宙でも31の界があります。また別に31の界がある宇宙があるわけです。三つの宇宙があり、その三つの間に空間があってそこが地獄になっています。それで、仏陀を殺すとか、非常に重い戒を破った人はそこの地獄に行かなくてはならない。ここは非常に寒い所で、ブラックホールみたいな所です。その真ん中の所はブラックホールで、とても真っ黒で、非常に寒い所です。そこに行きたければ・・・あまり良い所じゃないです。

 カルマというものに注意して、31のどこの界へ行きたいかというのを選ぶ事が出来ます。そのためにはカルマを強くすることが必要です。ロンドンに行くには切符が必要です。「ロンドンに行きたい」と思っても、切符がなければ行く事が出来ません。デーヴァ(天人)や梵天の世界に行きたいと思っても切符がなければ行けません。ですから今切符を手に入れて下さい。禅定ですね。禅定を得ればそこに行く事が出来ます。
今日は辛抱強く聞いてくれてありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!

(*註1) 五自在
(1)引転自在:心処色において五禅支を確認するためジャーナから出ることができる。
(2)入定自在:いつでも好きな時にジャーナに入ることができる。
(3)住定自在:たとえば一時間とか、自分で決めた時間だけジャーナに留まることができる。
(4)出定自在:自分が決めた時間にジャーナから出ることができる。
(5)省察自在:五禅支を省察できる。
(*註2) ?利天(とうりてん):三十三天ともいう。須弥山の頂上近くに位置する。その王が帝釈天。
31の世界を天上界から地獄まで見ていきますと、
①無色界地 : 非想非非想処地・無所有処地・識無辺処地・空無辺処地
②色界地 
 第四禅地 : 無劣天・善見天・善現天・無熱天・不捨天・無想有情天・広果天 
 第三禅地 : 遍浄光天・無量浄光天・少浄光天 
 第二禅地 : 発光天・無量光天・少光天
 初禅地  : 大梵天・梵輔天・梵衆天
③欲界地
 1、欲善趣地 : 他化自在天・無変化天・都率天・夜摩天・三十三天・四大王天 
          人間界
 2、離善地 : 阿修羅衆・餓鬼界・畜生界・地獄




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