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Namo tassa bhagavato arahato samma sambuddhassa. 阿羅漢であり、正覚者である世尊に礼拝いたします 皆さん、本日はお集まりいただいてありがとうございます。こんなふうにみんなで瞑想できるというのはとても幸せな時間です。こうして集まったのは、心が幸せだからです。幸せでなかったら、良いカルマを得ることができません。瞑想していて幸せですか? (一同考えている・・) たぶん幸せでしょう。でも同時に、苦痛があるのも知っています。痛みがあっても、幸せでいることができるということを知れば、痛みがあっても心配することはありません。 心は幸せであるようにしてみましょう。痛みについて楽しむ方法を知れば、それは素晴らしいことです。それが涅槃へ行く道です。涅槃というのは、苦しみのない世界です。涅槃において、もはや苦はありません。すべてのことは苦、苦しみであることを理解します。すべては苦であると見た時、その苦からいかにして幸せになるか、それが涅槃へ行くことです。もう苦がない、苦を幸福に変える一つの修行があることを知ります。 ニミッタについて 今日お話しするテーマは、カルマと再生についてですが、その前に、ニミッタについて少しばかり、話しておきたいと思います。ニミッタというのは、アーナパーナ・サティをやるときに良く出てくる用語です。アーナパーナ・サティをやっていて30分くらいして集中がよくなってくると、多くの人たちが顔の前に色が見え始めます。この強い色というものは、心の集中力がよくなってくると出てくるものです。呼吸に全然集中できないときは、色はまったく見えません。 ニミッタには三段階があります。最初の段階では、いろいろな色、黄色とか青、オレンジなどが見えてきます。そういう色が見えても、それを見ようとして眼を開けてはいけません。意識は呼吸の方にずっと向けたままでいてください。そういうふうに青、黄色、オレンジの色が見えてきますが、ゆっくりゆっくり呼吸に集中し続けていると、その色がだんだん白っぽい色になってきます。白い色が見えたとしても、なお呼吸の方にずっと集中し続けていてください。白い色になるというのがニミッタの第二段階です。 白い色が現れ、さらにゆっくり、ゆっくり呼吸をしていますと、白い色がもっともっと明るくなってきて、光そのものがゆっくりと鼻の方に近づいてきます。そうなってもさらに呼吸の方にずっと意識を向けて継続的にやっていると、明るい白い色がゆっくりと、さらに輝きを増し、明るいガラスや、明るいクリスタルのような透明な光になってきます。 そのようなクリスタルのような輝きを持ってくるのが、ニミッタの第三段階です。 ニミッタがクリスタルのように輝いてきて、安定してくるまで待ちます。すぐにニミッタの方を見たくなるのですが、まだ集中力が成長していません。ですからニミッタが安定して、白くなるまで待たなくてはなりません。それで、ニミッタがゆっくりと安定してきたら、今度は呼吸ではなくてニミッタそのものに意識を集中して、1時間でも2時間でもずっとニミッタを見るようにします。 今までは呼吸にずっと意識を集中していたのを、今度は呼吸ではなく、ニミッタの方に集中します。それで、継続的にニミッタを唯一の対象にして、見続けます。そうして、そのように心が二ミッタに集中できるようになると、しばらくすると幸福感を感じ始めます。幸せな気持ちになります。心はもう外へさまよい出ることがなくなります。心はコントロールされ、1つの対象にしっかりと集中している状態になって、2時間でも3時間でもさまよい出すことはなく、非常に深い瞑想状態になります。そのようにして、ジャーナ(禅定)、没入状態に入るまで、アーナパーナ・サティを続けます。 次回、時間があればニミッタというものがどんなふうに見えるかもっと詳細に説明したいと思います。1日や2日ではあまり詳しく説明できません。「今日は眠かったので、次の日はいい説明をしましょう」といって終わりになってしまいます。次回、もう少し時間がとれて、修行・瞑想がもう少しできるときには詳しく説明したいと思います。 カルマと再生 それでは、カルマと再生についてお話ししていきたいと思います。カルマを理解するのはとても重要なことです。みなさんが信じているか信じていないかは分かりませんが、仏教では多くの人がカルマあるいは「意志」というものを信じています。カルマというのは、将来に再生してくることと関わってきます。 みなさんは過去世とか来世について信じていますか。いかがですか。 過去世というのはあると思っていますか? それから、来世についてはどうでしょうか? みなさん信じていますか? みなさんが信じていれば話はしやすいけれど、信じていないと説明が難しくなります。カルマについては、「意図」あるいは「意志」と呼ぶこともあります。意志の心がカルマをつくり、カルマは三つの原因によって作られるのを理解します。 カルマの一つ目の原因は心です。心により考えたことがカルマになります。第二番目は実際になした行為が、良いカルマ、悪いカルマをつくります。三つ目は話、しゃべることです。まとめると、心と体と言葉(身口意)です。この三つのうちどれがいちばん重要で、重いものでしょうか? 多くの人は行為が一番重いのではないかと考えます。みなさんは行為がいちばん重大だと思いますか、それともその他のものが重大だと考えますか。どれがカルマとしていちばん重いでしょうか? 心が一番です。お釈迦さまも心がいちばん重いものだと語りました。 みなさんが外へ出てみると道に小さなアリがたくさんいるのを見るでしょう。そうすると、道を歩きながらアリを見て、「踏み潰そう」と思ったりするかもしれません。そのとき「踏み潰そう」という意図があります。心が原因になります。最初に意図の心があり、そしてアリを踏みつけ、アリは死にます。心が重いカルマをつくります。なぜなら、アリを殺そうとする意図があったからです。 歩いていて、たくさんアリがいてもそれに気がつかないときもあります。後から見たらアリを踏んでアリが死んでいた、ということに気がつくこともあります。そのときは別に殺そうとかいう意図はないにもかかわらず、踏んでしまったということです。そういうときにはアリは死んでしまいましたが、重大な悪いカルマを作ったということにはなりません。なぜなら、自分の中に殺そうとする意図があったわけではありませんから。ですから、こういう場合、意図がとても重要です。この場合、心、思考が行動をコントロールしています。心はすべてをコントロールします。心は、言葉をコントロールします。心は言葉と行動をコントロールします。 例えば、蜂蜜をカップの中に入れると中にアリが集まってきます。アリを寄せないようにするには、また別の容器に水を入れて、その真ん中にカップを置きます。そうするとアリは水を渡ることができません。冷蔵庫がないので多くの人がそんなことをします。それが(ミヤンマーで)日常的にわれわれがやっていることです。歩くとか、仕事するとかいう、日常的な、いつもの行動、日々の努めにおいて意図、意志があります。 意図という事で言うと、こんな風に工夫するのは、アリたちがこの蜂蜜の中へやってきて死ぬようにはしたくないからです。アリの苦しみがないように慈悲を送っています。アリたちに対する、慈しみの意図や、生き物に対する良い意図を持っていれば、良いカルマを作ります。 それで、朝起きてから夜寝るまで毎日の日常生活で、何をするにしても、善い意図を持つことがとても重要です。会社にしてもそうだし、あるいは家族とか友達とか、いろいろな人と一緒に行動しますが、その前に自分の心はどうであるかということをチェックすることが重要です。自分の心について、悪い心が起こってくるのを止め、防ぐようにしなくてはいけません。なぜかというと、悪い心というのを発生させると、悪いカルマが作られてしまうからです。 そういう不善なカルマが積まれて行くと、死んだ後に、不善な世界に行きます。動物界とか地獄だとかの不善な世界に再生します。みなさん、動物界とか地獄とかというのを信じますか。行きたいでしょうか。行くことをお薦めしません。そのためには自分の心をコントロールして、いま善いカルマを作っていくようにしなくてはなりません。現在の生活というのが、来世・未来の生活に対して、非常に重要です。 みなさんが来世について別に信じていなくても、それでも現在の生活がどうであるかということをチェックするということは大事なことです。心の中で、善い心が起こっているときは、心も体も非常に平安で落ち着いています。そうでしょう。どうですか、みなさん。強い意志を持って、それから慈しみ・慈悲の心を持っていると、心はとても落ち着いてくる。そうすると、体のほうもたいへん元気になってくる。 いつも怒っていると、平和な心はありません。そうすると体のほうも病気になってしまう。怒りとか不善な心というのが、いろいろなところに影響してくる。怒っている人に他人はあまり近づかないという、そういうことが起こるのではないでしょうか。 怒っていると、これは危ないというので、他へみんな逃げていってしまいます。ですから他の人にとってとても良くない影響を与えてしまう。慈しみとか慈悲があると、他の人たちにもいい影響を与えます。 どっちのほうが良いでしょうか。皆さん、どっちが良いと思いますか。ですから、私は善い意志・意図を持って、善い心を持つことをお薦めします。私たちはずっと旅をしていて、次の生というのがあるからです。 縁起 お釈迦様は聖なる四聖諦を教えてくれました。 第一番目は、苦についての教えですね。 二番目は、苦しみの原因についての教えです。 三番目は、苦しみの停止、苦しみを無くすことについての教えです。 四番目は、苦しみの消滅に至る道への教えです。 そのうち、第二番目の苦しみの原因についての真理に、原因と結果、つまり因果ですね、因果というものがあります。その場合にカルマというのがあって、原因と結果というのが、カルマによって生まれてきます。それでお釈迦様は、十二の縁起あるいは因縁(Dependent Origination)について語りました。この縁起というものは、自分の過去世について分かっていないと理解できません。そして未来についても知る必要があります。縁起は、過去世と、現在の生と、それから未来の生と、その三つの生のサイクルに関わってきます。 集中力のレベルが上がってくると、それによって過去世を見ることができるようになります。そうすると、自分の過去世において、無知・無明であったこととか、それから意志ですね、どういう意志を持っていたのかが見えます。それが過去における原因になっています。 それで、仏陀は無明、無知によって、心の「こうしたい」という思いが生まれる、と述べています。では、その無明とは何かというと、我々は次に人間に生まれたいとか、あるいは女性に生まれたいとか、男性に生まれたいとか、あるいはデーヴァとか、デーヴァって天の神ですね、天神に生まれたいとか、そんなふうに望んだりしますけれども、それがそもそもの無明の始まり、無知の始まりです。 仏陀は、私たちの中のナーマとルーパ、つまり精神的現象と物質的現象について語っています。この、精神的現象と物質的現象は生滅を繰り返していますが、それについて理解することを、八正道のうちの正見 (right understanding )と呼びます。 それで我々は普通、無知の中にいるから、自分たちが死んだら、また人間に生まれ変わりたいとか、次は天上界へ行きたいとか思っていて、それが無知から来ています。 その無知から善い行いも生じて、それで例えば瞑想したり、お布施をしたり、善いカルマを積んで行こうと、一生懸命努力します。無知というのは善い方向にも働いて、そうすると善いカルマを積んでいく。戒を守る――これも善いカルマですね。それからお布施などをよくやる。それも善い行い、カルマになっている。 今日もみなさん瞑想しましたが、一番高いカルマになって良いカルマを積んでいる。そのカルマというのはすなわち心の中の意志ということです。だから私たちはその前の生において、そういうことをやってきている。過去世のそういう積み重ねられたものがあって、それで、今生母親の子宮の中に入ってきた。 過去の生についてチェックする時に、死ぬ直前のことについて見てみます。亡くなるときに、意識というのは途切れることがないのです。意識はずっと生じて滅してというのが続いているのだけれど、肉体の方はそこで止まってしまって、そこで終わってしまう。ただ心、意識は、そのままずっと流れていく。意識は、ただ涅槃(ニッバーナ)でしか止まらないし、止まることができない。 ですからこのような意識が、母親の子宮のなかにまた入り込んで、ナーマ(精神現象)とルーパ(物質現象)が発生するようになる。 精神現象と物質現象によって六つの感覚器官、眼耳鼻舌身意の感覚器官が生じる。最初の瞬間での、ナーマ・ルーパ(精神現象と肉体現象)は、その数週間後、分化してきます。どんな風に分化するかについて細かくやっていると、時間がとても足りないので、かいつまんでお話することにします。 眼耳鼻舌身意という六つの器官が生じると、それによって外界との六つの接触が生じます。眼による接触だとか耳による接触だとか、いろいろな対象が外から飛び込んでくるわけです。口だとか、味だとか、鼻だとか…。 この外界との六つの接触によって、 六つの感覚、感受が生じます。もしそういう外界との接触がなければ、感覚というのは全く起きません。「どんな感じ」というのが生じようがないわけです。 この感覚が生じることによって、渇愛つまり、それに対する願望が生じます。だから、なにか欲しいものがあると、欲しい欲しいと思って、願望から貪欲になってきます。なぜなら、それが欲しいとなると、もっともっと欲しくなるからです。いい歌を聴いていると、幸せな気分になって、もっともっと聴きたくなったりします。それが、願望とか執着です。 この執着というのが境界線になります。この現在において、そういう願望とか執着を止めておけば、未来において苦しむことはありません。そういう願望、執着がなければ、未来は生じることがありません。その執着からまた次の人生を作り出しますから、執着がなければ、新しい人生を作るということはないわけです。 ですから、執着がなければ、無知、無明というのは生じません。それでこの執着というのをヴィパッサナーの智慧によって、切っていくことにより、離していきます。しかし執着というのを止められないと、次の生にそれがつながってきて、また母親の子宮の中に入っていくことになります。どうでしょうか。それが真実ではないでしょうか。もう一度説明すると、いかにしてそういう執着がカルマを作り出すか、ということです。 次は例え話です。 ある村から他の村へ行こうとする人がいました。途中で日が暮れてきて、夜になったので、寝なくてはいけなくなってしまいました。そこで、寝るのに良い場所を探して、マンゴーの木の下を見つけました。あまりに暗かったので、何の木だかはっきりとは見えませんでした。それで、下に寝床を作り、その夜は寝てしまいました。寝ていると、何か落ちてくる音がしました。 しかし、暗いので何が落ちてきたのか良くわかりません。落ちた音が耳に接触しました。そうすると、耳のドアから音が入ってきます。そのとき、これは何なのか、知りたいという欲求が起こります。それで、起きあがって辺りを見回したり、うろうろしたりして、マンゴーを見つけます。 マンゴーというのは大体黄色い色をしていますが、マンゴーを見たとき、どんな気持ちになりますか。幸せな気持ちになるでしょう。マンゴーを見たら、皮を剥いて、見れば食べられるかどうかは分かります。臭いを嗅ぐと、それが大丈夫かどうか分かります。とても良い香りがしました。これは、ちょうど食べるのによいと判断します。皮を剥いて、食べてみると、非常に甘い味がしました。口で感じる味わいは、とても美味でした。 おししいフルーツを食べると、心は幸せになるでしょう。どうですか?酸っぱかったら、あまり幸せではなく、失敗したなと思います。美味しいものを食べると、体の調子が良くなって、心もとても幸せな感じになります。だから、感覚というのは大きな執着になります。 ちょっと小さいマンゴーだったら、他にも欲しいと思ったりします。一つのマンゴーだけでなく、もっとたくさん欲しくなってきます。彼の頭の中には、木を登ってマンゴーをいっぱい取って、持って帰ろうという考えが浮かんできます。でも、その考えはあまり良くありません。なぜ、良くないのでしょうか?その木は、その人のものでなく、他人のものです。木に登って、それを取って行くということは、盗みをするということになります。執着によって、悪いカルマが発生してしまいます。 いろいろ社会を見ていると、盗んでみたりとか、嘘をついてみたりとか、戒を破ることがとても多く見られます。ビジネスなどでは、嘘をついたりして、いろいろな意味で盗みをしています。巧みに盗む方法も開発されています。それらは、執着がなせる業です。 もっとお金が欲しいとか、お金があれば全てのものを手に入れることができる、と思います。そして、皆さんお金を得ようと朝から夜まで一生懸命働こうとします。体にとってはとても疲れますが、もっとお金が欲しいから働きます。お金を手に入れて、それで欲望を満たそうとします。1つや2つの車では満足できません。家も欲しいと思ったりします。それは願望であり、執着です。それが真実ではないでしょうか。大変疲れる話です。たくさんお金を得ることによって、不便な思いもしているのです。 お金を稼いだら、それを上手く使う方法を心得ておくと良いのです。稼いだお金でとても貧しい国の人たちにお布施していくとか、そういう行いをしていけば良いのです。それは良いことです。でも、それは最高に良いことだとは言えません。一番良いのは、瞑想をすることです。瞑想するというのは、お布施するよりもカルマが優れています。お布施するというのは非常に良いことなのですが、瞑想するのはさらに良いカルマです。 お金を稼ごうとすると、あちこち動きまわらなければならず、忙しくなってしまいます。さらに、家族がたくさんいると、またいろいろ問題が起こってきます。第一の妻とか第二の妻とか、いろいろお金がかかったり、争いが起こり、頭を痛めたりします。それは、あまり幸せではありません。それで、私たちはもっともっとお金を稼ごうとします。お金を得たからといって、全て良くなるというわけではありません。癌になって危ない状況のときに、10億円のお金を出しますから助けてくださいと言って、いかにお金を積んだとしても、お医者さんにはどうすることもできません。病気が全体に広がったりして、そのために新たな苦しみが生じます。 それで仏陀が仰ったのは、人間として生きていると老いて行く苦しみがあり、その印(しるし)として病気になって体に痛みを感じたりします。いろいろな病気が出てきて、衰えていくというのが、年を取っていく印です。どうですか皆さん、体に痛みを感じますか。1時間も瞑想をした後では痛みが出てくるでしょう。(笑い)歳をとるとすぐ痛くなります。それは苦しみです。だから、お金持ちになたとしても、完璧ではありません。 旦那さんがお金持ちだと、その奥さんもお金持ちです。旦那の財産は、奥さんのものですから。でもある日、奥さんが旦那に別の女性がいることを知ると、たくさんお金を持っていても、幸せというふうに感じるでしょうか。 私は、台湾で10年ぐらい瞑想を教えていますが、「私は不幸です」という質問を受けることがあります。彼女たちは、いろいろな心の悩みを打ち明けてくれます。「どうして泣いているのですか、お金もいっぱいあるし、人生楽しんでいるのではないですか」と尋ねると、「お金はどうでもいいのです、うちの旦那が帰って来てくれたらいいのです」と答えます。多くの台湾の女性がそんな風に語りました。シンガポールでもマレーシアでも同じようなことを聞きました。日本でも同じではないですか?いま、お金というのは大事なことではなくて、温かい家族に対する慈しみの心が大事です。 去年、台湾に行ったときに、一つの家族がやってきました。お父さんと二人の息子がいました。お父さんが言いました。「私たちはお金がなくて貧しい家族です。私は70を過ぎていて、まだ家族を助けなければいけません。同時に、自分はお寺に行って、お寺のいろんな仕事をしたいのです。もう命が長くないことが分かっているから、お寺に行って慈善的な仕事をしたいと思っているのです」と語りました。しかし、同時に家族を支えなければいけないと思っています。二人の大きな息子がお父さんの話を聞いていました。お父さんは、自分がどういう風にしたらいいか分からずに混乱していると言いました。それで、どうしたら良いか教えてくださいと質問しました。 私は二人の大きな息子を見ました。その息子に、お父さんが年を取って、働けなくなってきたので、あなたたちが面倒をみたらどうかと尋ねました。この二人の青年は独身でした。結婚すると、自分の家族を養わなければならなくなってしまいます。それで、ガールフレンドを養うか、お父さんを養うか、どちらにするか考えなさい。でも、父親を助けることは非常に大切なことだと教えました。結婚することもいいでしょうが、その時はお父さんと一緒に住むようにと言いました。最も重要なことは私たちの人生です。少しばかりのお金を持って、少しばかりの食べ物があって、お互いを思いやる心を持つことです。 そういう慈しみの心を持って、親の世話をし、食べ物は少ないけれども一緒に食べていると、幸福な気持ちになります。それがいちばん重要なことで、大きな家とか、多くの物とかを考える必要はありません。たとえ少なくても、助け合って生きれば、それで満たされます。そのような慈しみの心を持って、お父さんは働かなくても引退して、お寺でダンマに係わることや慈善をしていれば良いのです。 しかし、お父さんが働かないと、家族を支えるようなお金が回ってこないという心配がありました。それで家族の方に、互いが一緒に暮らすということが、家族にとって最も大事なことであると話しました。 お金について、そのために一生懸命働くような心配をしない方が良いのです。皆さんはお金のことについて心配します。どんな額であっても、それで幸せに暮らせるようにしてください。その後、彼らはとても幸福になりました。 そしてお父さんは私にむかって「アミタブ、クワンインブサー(阿弥陀仏、観音菩薩)」と言いました。 「私は観音様じゃないですよ」と答えました。(笑) 台湾では皆がとても尊敬してくれます。台湾に行った時は、いつもみんなをサポートするようにしていて、どんな家族も平和に暮らせるように努めています。人びとの支えになりたい、苦しみがないようにしたい、という思いがあります。 菩薩と波羅蜜 台湾の生徒たちに「旦那さんを他の女性にお布施したらどう?」と聞きます。(笑)台湾には多くの菩薩様がいらっしゃいます。多くの人が仏陀のために祈り、仏陀としての人生を送りたいと祈ります。いつか仏陀になりたいと思っています。それで、仏陀になるためには波羅蜜がないとだめです、というお話しをしました。波羅蜜には十種類あります。お布施が第一番目です。お布施には三つの段階があることを話しました。 第一番目は、お金とか服とか財産を他の人にあげることです。それが最初の段階です。第二番目は、乞われたら臓器や眼をあげてしまうことです。菩薩の場合は、死んでからあげるということではなく、生きているうちに差し出します。死んでからあげましょうということではなく、今すぐあげましょう、というのが菩薩です。奥さんをくださいとか、子どもをください、と言われたら、「いいですよ、どうぞ」と言うのが菩薩です。それが第二段階のダーナです。 仏陀になりたくて祈るのなら、旦那さんもお布施しなくてはなりません。(笑)それが第二段階のお布施です。第三段階というのは、死ぬことを求められたら、死ななくてはなりません。命を求められます。菩薩がウサギであったときに、デーヴァ、天の神さまがあるとき降りてきて、試験をしました。そのとき天神は猟師になって、ウサギを追いました。その肉を食べたい、と思います。 それで、ウサギに「火の中に飛び込んでみなさい」と言いました。菩薩はその火の中に飛び込めば、すぐ死んでしまう、即死してしまうだろう、と知っていました。しかし、彼は命を惜しまず、人生を惜しまず、すぐに火の中へ飛び込んでしまいました。それが第三段階のダーナです。 そんな風に、十の波羅蜜というのがあります。多くの人は第一段階のお布施くらいしかやりません。菩薩の修行としては、いつでも第三段階までの修行をしなくてはいけません。だから、仏陀になるのはそう簡単な話ではありません。 本当に仏陀になるという思いがあるなら、自分の人生のいろんな財産であれ、奥さんであれ子どもであれ布施してしまうという、そういう覚悟がないといけません。すべて手放せれば、それは非常に良いことです。 というのは、あげてしまうということは執着を切ってしまうということですから。 みなさんに聞かれた時にはいつも、「いいですよ、上げてしまいなさい。執着を離れますよ」と答えます。でも、皆そんな布施はできないと言います。そんな風に妻子を上げられないと言います。生徒たちに尋ねると、そんな風に旦那さんを布施することはできません、と言います。 「なんで上げられないの」と聞きます。それは執着があるからです。彼女たちは旦那さんを愛しているから、執着があります。 では、なぜ愛しているのでしょうか? 誤った見方からくる執着があります。誤った考え方、見方で、旦那さんはすごくハンサムだと思っています。 また、旦那の方は奥さんをすごく美人だと思っています。だけども、ほんとうにお互いの中身を見ていません。集中力をもってお互いの体の中の臓器・器官を見たときに、つまり、身体の器官が透けて見えてしまうときに、その人のことが好きになれるでしょうか。皆さんわかりますか。表面的なきれいさではなくて、体の中の状態が集中力を通して見えてしまうわけです。それでも、好きになれるでしょうか。 私たち、実際には、はっきりと物事を見ているわけではないのです。それで、仏陀は私たちに瞑想をするように言われたのです。瞑想をすると物事の真実が見えるようになります。そうして、手放すことができるものは手放していくようになるのです。 だから、台湾の家族に手放しなさいと言いましたが、お互いに執着があったのですね。彼女や旦那さんが死んだ後に、家に死体を1ヶ月くらい置いておくことができるでしょうか。旦那さんの死体を1ヶ月くらい置いておくことができるでしょうか。 皆:NO(いいえ)(笑) だから、死んだ時に何が起こったのかみんな知っています。積んできたカルマ(業)が良くないと、亡くなる前にあまりよくないイメージが出てきます。火だとか、あまりよくないイメージが出てきます。あるいは、恐れがでてきます。死にかけているとき、昏睡状態になっているときに、犬が噛んだりだとか、火が燃えたり、絶対に行きたくない場所のイメージがでてきます。そんな所には行きたくないと叫んだりします。生まれ変わったとしてもあまりよくないところ、不善なところに生まれ変わります。 亡くなった後に、皆さんは悪いところではなくて、良い所に行きたいと思うでしょう。お金を払ってでも良いところに行きたいと思うでしょう。しかし、お金を払っても買うことはできません。イメージを変えることはできないということです。お金が全てではないということを理解するのです。 ただ、良いカルマ(業)だけが自分自身を助けることができます。お金を積んで、自分の人生を良くしようというのは不可能なわけで、若い頃から瞑想して良いカルマ(業)を作っていくことが大切です。それが積み重なって、記憶の中に沁み込んでいくのです。イメージがいいイメージにだんだん変わっていきます。そのカルマは、前から積み上げていくことで、より良いカルマにすることができます。 死にかけている時にカルマを変えることはなかなか難しいのです。ですから、時間を無駄にしないで下さい。今のうちに良いカルマを積むようにして下さい。皆さん、そういう話を信じるでしょうか。ですから、お金というのは、実際、それほど助けになりません。 毎日、五戒を守るということです。5分でいいですから瞑想を毎日行うことです。慈悲の瞑想と、そうしようという意志が大事です。5分やって、心が幸せになってくれば、それで、10分やろう、20分と増えていきます。それが仕事になってきます。 それが保険になります。お金を払う必要はありません。5分が保険になるのです。お金を出して保険を買いたいと思いますか。自分の家で瞑想することで、保険になるものを得て下さい。 今日はどうもありがとうございました。 サードゥ! サードゥ! サードゥ! |
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