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質疑応答(解脱の過程・涅槃・慈悲の瞑想) ディーパンカーラ・サヤレー    
 

カルマについて

 今日はリトリート最後の日ですけれども、今回ここに参加できて大変嬉しく思っています。ここに参加してくださった修行者の方々、それからこの会を主催してくださった方々に大変感謝しています。修行者たちは、こうして瞑想してとても良いカルマを作り、ダンマ(真理)に対する良い意志を持っているわけで大変嬉しく思います。

 毎日八戒を守って修行をしたのですが、八戒を守ってどうですか、幸せでしたか。善き行いをし続ければとても幸せであったと思います。毎日、瞑想、瞑想でやってきたのですがその結果はどうであれ、瞑想してダンマを知るということは善き行いです。時として瞑想をして、疲れたりで、イメージとか心に不善なものが起きることもあったでしょう。それは良くないのですが、いずれにしても瞑想は良いカルマを作ります。

 仏教ではカルマを信じています。大変重要なこととしています。カルマは三つの理由によって起こります、まず第一番目は心で、心がカルマを作ります、二番目は話すこと、三番目は行為、行いです。三つの理由によって善いカルマが作られたり、悪いカルマが作られたりします。

 たとえ身体の方が行為としては瞑想という形で瞑想していても心の中が、不善な思いに満たされていると悪いカルマになってしまいます。ですから心というのが全てをコントロールしているわけで、心が言葉、話を作っているし、心が行動、行いを作っています。

 ですから、私たちはいつも心がマインドフル(気付き、サティ)であるかをチェックして、善い行いをしているか、不善な行いをしているかをチェックしなくてはなりません。
 これから皆さんは家へ帰って、いろいろな人たちと会ったり、仕事をしたりすることになりますが、そういう人たちの中には様々な性格の人がいます。ある人は自分と同じような考えを持っているでしょうし、又全然別の考えを持っている人もいるでしょう。

 それで人と何かを一緒にやっているとき、自分の心の中を見て、慈しみ(メッタ)と苦への共感(カルナー)、二つ合わせて慈悲の心があるかどうかをチェックする必要があります。慈悲の心があれば人々とうまくやって行けます。

 世界全体を見渡してみると、国によって問題は違いますけれどもそれぞれ問題をかかえて、苦しみを受けています。ですからいろいろ異なる種類の苦しみがあるわけです。仕事とか、家族とか、人間関係とか、様々な問題があります。

 世界にはいろいろな国があって、様々な宗教があるわけですが、ほとんどの人々は欲望、執着というものを持っています。皆、体に対する執着を持っていて、その為に一生懸命に働いてお金を稼いで家族を養っています。時として、仕事をする上で一生懸命に働いてそれが上手くいけば、嬉しいと思います。仕事で失敗すると、不幸になります。あるいは人間関係において、誰かと一緒になれば幸せになれると思ったり、また別れがあると不幸な気持ちになります。

 全ての人間は苦しみをかかえているということが言えます。人間だけでなく全ての動物も同じように苦しみを持っていて、どうやって食べ物を確保するかとかの悩み、苦しみを持っています。天上界にいる神々はとても幸せな生活をしているので、良いだろうと思われますが、彼らもやはり苦しみというものを持っています。ある時、寿命が尽きたら、人間界へ落ちてし行くか、動物界へ落ちて行くかという心配をしなくてはならないのです。そういう苦しみを持っています。
 
 デーヴァ(天人)の中にはいろいろな人たちがいて、たくさんの富を持ち、人気があって、知り合いの多いデーヴァもいますが、そうではない、あまり人気のないデーヴァには、付いてくる人もおらず、そこに嫉妬が起こったりします。

 人間が怒りを持っているときは、それは怒りとして終わるのですけれども、デーヴァの場合には、身体が非常にソフトで、微細に出来ているので怒りを持ってしまうと、身体に大きなダメージを与えて、怒りのために死んでしまいます。

 カルマの良い人にとっては、瞑想して怒りを問題にしなくて良いのですが、カルマが悪かったりすると、そのようなことが起こったりします、そういうことでカルマというものは非常に重要です。ですから瞑想して、カルマについて見る事が大切です。

 家に帰ったら毎日瞑想し、全ての生き物に対して慈悲を持つということがとても大切です。それだけではなく、他の人たちにも利益をもたらします。毎日そうやって瞑想をしていると、例えばこのような瞑想合宿に入ったときに、参加して非常に早く禅定に達することが出来るようになります。そういう瞑想をしないで、集中がよくないと心がどんどん汚れていきます。

 分りますか、心が汚れてくるのが。いろいろな理由によって心が汚されてしまいます。ですから毎日瞑想して、未来に備えてください。そして瞑想をする為に、どうぞミヤンマーへいらしてください。
それでは質疑応答に入ります、質問のある方は、どうぞ。

解脱のメカニズム

質問:
 瞑想して解脱するということなのですが、瞑想をして解脱するメカニズムの原点をお聴きしたい。瞑想すれば心がきれいになる、何故きれいになるのか、そこのところが質問なのですが。

答え:
 アーナパーナサティでは呼吸を対象にして瞑想しますが、眠気が起こたりしても呼吸に集中します。その呼吸という対象は、同時に又ダンマ(法)を対象としています。ですからダンマを対象として瞑想していることは、いわゆる行いをつくっていることになります。そして、ダンマを対象にして善い行いをしている時でも、不善な思いがどんどん入ってきたりします。

 この合宿で瞑想してみて、そのような心の中に起こってくる思いをコントロールするのが、いかに難しいかと言うことが分ったと思います。しばらくして、心が段々集中してくると、ミニッタが見えてきます。瞑想が進んで集中が良くなった時だけにミニッタというものが見えてくるのです。集中力が良くなった時に始めて、悪い、不善の心が起こったときにそれをコントロールすることが出来るようになります。

 ミニッタがはっきりしてくると、そこに心を集中して、一時間、二時間と集中して、それで心は幸福感で満たされるようになります。集中して一時間なり、二時間なりミニッタに集中できている間は、ずっと良いカルマ、良い思い、幸福感が継続しています。その時には、不善な思いが入ってくる隙間がなくなっています。

 それで段々心が、はっきりしてきて、良く見えてくるようになり、それは言ってみれば顕微鏡で見ているようなもので、物事がはっきり見えるようになるわけです。そのようにして、心というものは集中力をつけることによってとても強力に、パワフルになってきます。例えば普通には、バクテリアを直接目で見ることはできないけれど、顕微鏡を使えば、バクテリアを見ることができます。それと同じように、集中力のついた心によって、見えない心の中をも見ることができるようになります。
 ですから最初に集中力をつけて、第四禅定までに至るときとても力強い、パワフルな集中力が得られます。

 昨日もお話しましたが、そういうように禅定に至って、それからヴィパッサナーをして物質のルーパ・カラーパを見て、そこに無常・苦・無我を見ます。六門においていろいろなものが入ってきます、眼から、耳から、入ってきます。六門から入ってきたときに心に善の心、不善の心が起こります、そのようにして心というものは生じたり、滅したりしているということを見ます。それで無常・苦・無我を見ます。

 心はどうやって起こるかというと、心は眼、耳、鼻、舌、身、意の六門から入ってきた対象の後に心が生じます。心の内側にも外側にもルーパ・カラーパ(物質の微粒子)が生じたり滅したりするのを見てそこに無常・苦・無我を見ます。それをはっきり見るときに苦の真理を知ります。苦しみがいかに起こるかと、いうのを見ることが出来ます。

 お釈迦様は四聖諦ということを仰いました。私たちが悟りを得る為には、四聖諦について実践してく必要があります。四聖諦の第二番目の真理は、苦しみがいかに発生するかということを語っています。第二番目の苦しみの発生についてですが、原因について言いますと、過去においてカルマを持っていて、その為に今世に生まれ、再生してきました。

 これは原因と結果、すなわち因果です。過去の原因があって、現在がこういう結果になったということです。現在における五蘊、色、受、想、行、識というものが生じている。
 過去において無知というものがあって、次は人間に生まれ変わりたいとか、男性に生まれ変わりたいとか、女性に生まれ変わりたいとか、どういうものに生まれ変わりたいという想いがあって、それで次の世に生まれ変わって来ます。

 先程言った無知というのは、見、正見ではない邪見です、邪見があるためそのように、何になりたいと思うのです。正しい見を持っている人は、人間であったり、男性であったり、女性であったりするのは、ただ単にルーパ・カラーパにすぎない。いうなれば全て皆、物質的な微粒子から出来ているにすぎない、というふうに見ることができます。

 悟りを得たという人は、「全ては物質の微粒子に過ぎない」という風に見ます。それで無知、無明というのは第一の原因です。過去世において善き行いをしてきた、ダーナ(布施)をして、戒を守って、瞑想をして、そういう良いカルマを積んできた人たちもいます。それらが意志(チェータナ)という心を作ってきました。 
 それで、お寺へ行って、ダーナをして、お祈りをして、次にどういう風に生まれ変わりたいかと言うことをお祈りしたりします。

 どうですか、そんな風にしますか?
死んだら、天上界へ行きたいとお祈りします。天上界へ行くとして、男性だったら500人の妻がいまして、これは楽しいことだと思われますが、実際はそんなに良いことではありません。多くの諍いが起こりますし、嫉妬が渦巻いています(笑)。ですから無い方が良いのです。

 ダンマ(真理)について修行すると、次の生では比丘になって森の中に入り、たった一人で瞑想するのが良いと思うようになります。それが一番良いわけです。涅槃というのは何にもない状態です。それが一番良いわけで、涅槃を得るのが良いのですが、それが難しかったら来世においても、実践、修行してください。

 過去における原因が二つあり、一つは無知、無明というのが一つで、もう一つは意志、「こうしたい」という意志の二つがあります。過去においてその二つの理由があったために、体が壊れ、死んだ時直ぐにこの世に、つまりお母さんのお腹の中に入って来ると言うわけです。

 そういう意識があるために、心の働き、肉体的な働きというものが生じるでしょう。それで心と身体があるために六つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官が生じます。この六つの感覚器官があるために、外から対象がが入ってきて六つの接触が起こります。この六つの接触があるために、六つの感覚、感受が生じます。この六つの感受があるために六つの執着が生まれます。

 この六つの執着が境界線になります。過去と現在あるいは現在と未来どちらでも境界線になるのです。これが十二縁起あるいは十二因縁というものです。
 お釈迦様がおっしゃったのは、この十二縁起の中で執着というのが非常に重要なポイントであって、この執着があるためにいろいろなことが起こるのです。

 それで、現在においてこの執着をなくしてしまえば、未来に生まれ変わるということがありません。この執着をなくすことが出来ないと、例えば次の生は何とかに変わりたい、デーヴァ(天人)に生まれ変わりたい、人間に生まれ変わりたい、という思い、執着ですね、そういうものがあるために、来世において生まれ変わります。

 ですから、私たちにとって過去と未来を見ることが大事なのですが、集中力がないと過去とか未来を見ることが出来ません。未来に何処かへ行きたいという所かありますか。次は何に生まれ変わりたい、と言うことがあるでしょうか。皆さんどこへ行きたいでしょうか。何になりたいでしょうか。

 涅槃に行くのが一番良いのですが、それが無理としても、今世で最小限、預流者つまり悟りの第一段階ですが、ここに至るのが良いのです。人間界に人間として生まれてくるというのはとても難しいことです。なぜなら、人間というのは良いカルマを持って生まれて来るのです。今世において大変に良い人生であって、そのよい人生をどのように使うかということが分からないと、結局それを無駄にしてしまいます。

 今ブッダの教えというのは段々減少している時代ですから、あまり時間的な余裕はないと言えます。例えば次に天上界へ行きたいと思って、天上界へ行って,又人間界へ戻って来たら、ブッダの教えが無くなっていた、ということが起こったりします。

 ですから急いで修行してください。なぜなら、いずれ私たちは死ななくてはなりません。死んだ後に、生まれ変わって、又生まれ変わって・・・、というようなことをしていると大変に痛ましいし、退屈でもあります。同じようなことをずっとやって来たのです。もし過去世を見ることが出来るなら、過去世において、人間をずっとやってきたり、天上界にずっといたり、あるいは地獄にずっといたり、というようなことが分かってきます。

 過去世を見ていると、天上界に生まれても、結局又人間界とか、下の方へ戻ってくる。落ちて来ることがあって、それを繰り返しているということが分ってきます。それで仏陀が私たちに教えているのは、過去の心と身体、現在の心と身体、未来の心と身体を見ることが大事なのだという事です。そういう風に心と身体が生じて滅しているということ、無常であるということを見るのが大事だと仰っています。

 そんな風に、過去、現在、未来における心と身体というものが生じて、滅しているということです。無常・苦・無我、であることを見ることによって、四聖諦の第二番目の苦の原因が理解することが出来るようになります。
 四聖諦の第一番目の苦と、二番目の苦の原因はヴィパッサナーの対象になります。四聖諦の三番目と四番目を理解するにはヴィパッサナーを何度も何度も繰り返してやる必要があります。そして、最終的には涅槃(ニッバーナ)へ行くことが出来ます。

 ヴィパッサナーをもっと詳しく知りたければ、どうぞミヤンマーへいらしてください。10日間位のリトリートではちょっと難しいので、ミヤンマーでゆっくりやってください。
 日本でも、これからもっと長いリトリートをするようになると思います。台湾では百人以上の比丘尼を集めて毎年二十日間のリトリートをやっています。最初の年に、彼女たちはミニッタ、明るい光を見ることが出来ました。今は四日ぐらいでミニッタが見えるようになってきました。二年目に彼女たちは禅定(ジャーナ)に入るようになります。
 
 ここへ来る前にリトリートをしてきたのですが、彼女たちは、今回で三回目ですが、禅定(ジャーナ)に入って、第四禅定まで行って、ルーパ・カラーパ、つまり物質の微粒子を見ることが出来るような段階に来ています。
 来年も、行って教えるという約束をしました。来年は段々レベルが上がってきて、比丘尼たちに過去世を見ることを教えるのです。それから段々とヴィパッサナーの修行に入って行くようになります。

 台湾で大変嬉しいことは、50人の比丘尼がそのヴィパッサナーを修行して台湾全国に広めていくことが出来るようになると思うからです。日本でも同じようなことが起こってほしいと思います。ですから今度はもっと長いリトリートを行いたいと思いますので、どうぞ皆さんいらしてください。

ダンマとは何か

質問:
 最初アーナパーナを教えていただきました。アーナパーナでは呼吸を対象とする。呼吸対象はダンマを対象とする。ダンマを対象とするのは良い行いである。このとき不善な心が出ては良くない。ダンマを対象とすることによって、心がきれいになって行くと言うことですが、具体的にダンマとは何かを説明していただきたいのです。

答え:
 吸ったり、吐いたり、ここですねこれがアナパナの対象です。ですから呼吸に集中するということは、ダンマの対象に集中するということと同じです。アーナパーナではどのように呼吸をするか、どのように集中するか、そういうお釈迦様の教えをダンマ(真理、法)と言います。アーナパーナの仕方とか、呼吸にどういうふうに集中するとか、他に気をそらさないで呼吸に集中するとか、そういう方法自体がダンマなのです。

 ですからアーナパーナ・サティだけでなく、全て40種類の瞑想の仕方があります。それぞれ瞑想の仕方はお釈迦様が教えられていますがその教え全てがダンマといわれます。ダンマーヌサティ(法随念)という瞑想がありますが、これは仏陀の教えてくれたすべてのダンマについて瞑想するものです。

ババンガ(有分心)と涅槃

質問:
 瞑想中に陥ってはいけない状態として、何も見ていない、何も考えていない、なにも感じていない状態があると思いますが、その状態はなんと言うのですか。

答え:
ババンガと言います。対象を見失った状態です。

質問:
 そのババンガの状態と、涅槃とかは何か共通しているような気がします、どこが違うのでしょうか。

答え:
 お母さんの中にいる時の赤ん坊は寝たような心の状態なのですけれど、そういう無意識の状態を有分心(ババンガ)と言います。お母さんのお腹の中に入った時にある種のイメージがあり、そういう心があるのです。それがずっと心の基底にあって、ある時に出てきたりする。それは善でもなければ、不善でもありません。心の一番基底にある、有分心(うぶんしん)、ババンガです。有分心(ババンガ)は意識なのだけれども、普段は気がついていない意識、基底の意識です。

質問:
 有分心(ババンガ)は意識できないと言うことですが、涅槃(ニッバーナ)には意識はあるのですか。

答え:
 阿羅漢になって、亡くなった時にはナーマ(精神的な現象)も、ルーパ(物質的な現象)もありません。何もありません。 今言った有分心(ババンガ)というのは一つの意識なのですが、これはお母さんのお腹の中にいた時にあった意識です。お母さんのお腹の中にいたときに、明るい色のイメージがあり、それは意識できない意識下にずっと存在しています。善の心、不善の心とかが全く起こっていない、一番基底の心です。

 生きているうちに悟りを得た人、つまり涅槃を得た、預流果とか一来果とかの人たちは、肉体的には生きています。しかし、心は涅槃を得ることが出来ます。体は生きているけれど、心は涅槃に行けると言うことです。阿羅漢で深い禅定に達することの出来る人は、ニローダ・サムパッティ(滅定)という「何も生じていない」心の状態に入ることが出来ます。体はここに存在しているけれど、心は涅槃の中に入っているということができます。

質問:やはりババンガ(有分心)との違いが良く分からないのですが。

答え:
 例えば、六門のうち眼の門が働く過程と、対象を知る心の門(意門)が働く過程との間にはこのババンガ(有分心)があるのですが、心の過程という問題ですから、それを勉強すれば分かるようになります。今の時点ではとても難しいでしょう。眼と対象との接触の後で、感覚が生じ、眼識が生じ、その後で心の門の過程が始まり、善い思い、あるいは不善な思いが生じます。 
理解できましたか?(笑)

 ミヤンマーへ来てください(笑)。言葉で説明しても、とても難しいのです。集中力を持って心の過程を見てみると容易に分かることです。何かを見た時に、あるいは誰か人と会った時、快い感覚や不快な感覚がハートベース(心基)のところに生じ、その後で、心のプロセス(過程)が始まります。これは誰も眼で見ることが出来ません。次の機会に、集中した心で、「接触」の後にどういう感覚が生じ、どういう風に心の過程が生じるかを観てください。

慈悲の瞑想

質問:
 リトリートで実際にアーナパーナをやってみたのですが、あまり上手くいかなかったのです。ここに来る前に慈悲の瞑想をやっていまして、日常生活では怒りとかが起きても大体慈悲の瞑想で怒りを潰す事は出来るのですけど、途中で慈悲の瞑想に切り替えてやってみたら比較的体が落ち着いて、体の痛みもアナパナでやってきた時よりも感じなくなったんですけれども、これから私的にも慈悲の瞑想でジャーナに入るのを目指す時に、どういう風なやり方がいいのか。ようするに、慈悲喜捨だと4つの文言だからそれを順番に捉えていくと、散乱するというか集中出来ないんじゃないかと思うんですけれども、その辺のところを。

答え:
 慈悲の瞑想については528種類あるので、それを詳しく説明すると時間が足りないので、大雑把にという感じになりますけれどもお話させて頂きます。
 まず慈悲の瞑想は、自分について唱えるわけです。顔から体全体を感じて、「私が危害とか災いからから自由でありますように」と瞑想します。それを唱えて心が段々静かになって平和になるまで瞑想します。ただそれによって禅定(ジャーナ)を得ることを出来るわけではありません。

 段々心が落ち着いてきたら次は、「私の心が苦しみから自由でありますように」と瞑想します。3番目は、「私の体が苦しみから自由でありますように」と瞑想します。4番目は、「私が健康で幸福でありますように」と瞑想します。そういう風に瞑想していると、段々心と体が落ち着いてきて、体の痛みも感じなくなって、とても幸福な感じになってきます。

 自分を最初にやるわけですが、それから4種類の対象があって、まず一番尊敬する人を対象に慈悲の瞑想をします。これも同じようにやります。ですから、尊敬する人ですから、学校の先生とか自分の親しい友達とかを目の前に現れているようにイメージして、しっかりと目の前にいるような感じになるような事がまず大事です。

 慈悲の瞑想の時には、その慈悲を送る対象がまずはっきりしていないと良くありません。はっきりイメージするという事がまず第一に必要となります。そういう風にイメージというものがしっかり出来てきたら、心ですね、心臓のところから慈悲を送るような感じで、その対象に向かって、「その人が災いから自由でありますように」と慈悲を送ります。次は、対象に向かって「心の苦しみがありませんように」、「体の苦しみがありませんように」、それから「その人が健康で幸福でありますように」という風に慈悲を送ります(それぞれ第3禅定までやる)。

 ですから慈悲の瞑想というのはある程度禅定の力がついていないとなかなか難しいというのはあるのすが、それで心が落ち着くのであればやっても良いでしょう。アーナパーナで禅定力をつけてからでないと、なかなか本格的にやるには満足しないでしょう。アーナパーナサティをやって、第4禅定まで行っておけば、その対象のイメージをしっかりつくる時に、イメージがしっかり定着安定するのですが、その禅定がない場合には対象をイメージしてもすぐに消えてしまうか、なくなってしまいます。そういうことが起こります。

 過去のカルマがどうであったかというのがよくわからないのですが、過去においてメッタ(慈悲の瞑想)をよくやっていた人ならば、仮に禅定(ジャーナ)を得てなくても慈悲の力があるのでやってみると良いでしょう。それをやって禅定を得られなくてもそれはそれで良いので、その対象に対して慈悲を送って自分の心が非常に静まって落ち着いてくるという事があれば結構です。

質問:
写真を見ながら目を開けて、というようなことはどうでしょうか。

答え:
 写真を見ても結構ですけれども、そこに本当にその人が居る様に、そういう風にイメージしてということですね。それでさっきの続きですけれども、最初は自分で2番めには尊敬する人、3番目には中立的な、ニュートラルな人。4番目は敵ですね。敵というか仇。皆さんそういう敵みたいな人がいますか?

 なければ非常に良いことです。敵がいなければ心はとても平和です。ですから仏陀が私達に薦めたのは、すべてに平等に慈悲の瞑想をするということで、誰が特に好きか誰が嫌いかという事ではなく、平等にする事を薦めました。ですから中立的な人に対して、イメージして、その人にさっき言った4つの慈悲を送って、次に敵対する人に対してもイメージして4つの種類の慈悲を送るようにします。その4つの対象について慈悲の瞑想が終わったら、次は528種類の瞑想が待っています。家に帰ったら実際にやってみて下さい。

質問:
 実際にその人のイメージを固定するには、私が思うに明るいところより暗いところの方でやった方が少しでもイメージを作れると思うのですがどうでしょうか。

答え:
 暗くても明るくてもそれはどちらでも結構です。イメージがしっかりしてその対象にしっかり送ることが出来ればそれで結構です。528種類の対象の説明を手短にします。3つのグループがあります。1つのまとまったグループの人々に対して起こるという事で、「生きとし生きるもの、すべての生きもの」に対してメッタ(慈悲)を送るようにしますけれども、ニミッタの光がある場合は、ニミッタをずっと送るようにします。なくてもそれはそれでも結構ですから、「生きとし生きるもの」に対して慈悲をずっと送るようにします。すべての生き物をイメージして対象にして送るわけですけれども、それが少なくても多くても見えればそれでいいので、対象に慈悲を送るようにします。

 メッタの持っている力というのは、人によってみんな違うわけで、例えば仏陀の持っているメッタの力とそうでない阿羅漢達の持っているメッタの力とは異なっています。仏陀の場合は、すべての生きとし生きるものに慈悲を送る場合に、彼が今まで見る事の出来たすべての生き物に慈悲を送る事が出来ました。でも普通の人にとっては、ブッダの様に今まで見る事の出来たすべての生き物というわけにはいかなくて、非常に限られたものになってしまいます。どちらにしてもすべての生き物に慈悲を送るようにします。さっき言った4種類の慈悲を送るようにします。

 もし禅定を得ていたら、1つ1つについて第3禅定に至るまで慈悲の瞑想を送ります。最初は、サッベサッタ(Sabbe satta)で「すべての生きとし生きるもの」、2番目がサッベパーナで「すべての呼吸するもの」、人間も息するし動物も呼吸するしデーヴァも呼吸しています。皆同じですね。3番目はサッベプガラ、生き物、体の持っているもの、プガラは人間・個人ですね。パーリ語で個体ということです。すべての5つのそれぞれに対して4種類の慈悲を送ります。2番目のグループには7種類の対象があります。まず第一にすべての女性。すべての女性というのをイメージして、数は多くても少なくても良いですがイメージして、その女性たちに対して慈悲を送ります。2番目にはすべての男性です。

 3番目は聖者・悟りを開いた人達です。悟りを開いた人というのをイメージするのは難しいと言えば難しいのですけれども、それを決意してイメージするようにして、そういう人達に対して慈悲を送ります。心が天上界に集中する事が出来れば、天上界には多くの聖者であるデーヴァたちが居ます。禅定を得ていれば、ニミッタをそこに焦点を当てて見る事が出来ます。

 もう1つは、聖者ではない人達、凡夫です。もう1つは、デーヴァ、天上界に居る天神達です。それから6番目は人間。7番目は動物、阿修羅、餓鬼、それから地獄。これが1つのまとまりです。阿修羅とか動物とかに送りたいという慈悲について、送りたいもののイメージをして、そのイメージに対して慈悲を送ります。第4禅定を得てればイメージする時にこういう対象に送りたいと決意すればパッと浮かんできます。

 今、7つの種類の対象について話たのですが、さっき言った4種類の慈悲を対象に送ります。最初に第1番目のグループについては5つの対象がありました。2番目が7つの対象です。5と7で12種類の対象です。それぞれに対して4種類の慈悲を送ります。「災いがない様に」、「心に苦しみがない様に」とか、4種類の慈悲です。12かける4で48(12×4=48)、全部で48になります。

 また第3番目のグループがあります。これはそんなに難しくはないです。今度は方角です。まず東の方角に向かってです。今やった48ありましたけれども、その48の慈悲を東のすべてのものに向かって送るようにします。48種類の慈悲ですね、わかりますか。。「心に苦がないように」とか12種類の対象があって、それぞれ4つの慈悲を送って、それで48です。東の方角に向かって48の慈悲、西の方角に向かって48の慈悲という風に送ります。東、西、そして北、南、その間の東北、東南、西北、西南、これで8方向です。上、下、これで10方向です。それで今10の方向と48の瞑想で480。480+48ですね。10方向の480に基本タイプの48を足して528となるわけです。すべて合計して528という事になります。

 ですから家に帰って瞑想をしてみて下さい。それはたいへん良い事です。ですから皆さんの慈悲がずっと全世界、全宇宙に広がっていくわけです。そんな風にやってみて下さい。初心者は最初は同性についてやって下さい。それは最初だけで、平等にすべての人に送れるようになってきたらそれはもう構わない訳です。

仏陀と阿羅漢との違い

質問:
 仏陀と阿羅漢との違いについてなんですけれども、両方ともどちらも涅槃(ニッバーナ)に入れる、あるいは最終目標に到達したと思うんですが、昨日のナンダカ比丘の話とさっきの話でどうもブッダと阿羅漢の能力の違いがあるように思うのですが、違いがあるなら、阿羅漢はブッダになれるのでしょうか。

答え:
 仏陀も阿羅漢の一人です。阿羅漢というのは執着をなくした人の事で、執着を手放した人です。欲と怒りと無知、つまり貪瞋痴をなくした人の事を阿羅漢と言います。仏陀もその中の一人であるわけです。一番最初の悟りの段階である預流果は、まだ欲を、貪欲というものを持っています。阿羅漢に至って初めて、欲・怒り・無知というものをなくす事が出来ます。

 すべての阿羅漢というのは、貪瞋痴がなくなっているわけです。ですから仏陀もサーリープッダ尊者もモッガラーナ尊者も、そうではない普通の阿羅漢も同じく阿羅漢なわけです。しかしその質というか、パワー、力というものがそれぞれ違っています。仏陀の智慧と、サーリープッダ尊者の智慧は違っています。ですが仏陀とサーリープッダ尊者は非常に高い智慧というものを持っていて、他の普通の阿羅漢よりも更に高い智慧を持っています。智慧というのはダンマ(法)について詳しく知っているという事です。

 仏陀は過去世において、非常に多くの波羅蜜を積んできた人です。それも10種類の波羅蜜をずっと積んできている人なのです。それは過去世といってもこの宇宙の前の前の宇宙であるとか、そういう頃からずっと積んできているのです。サーリープッダ尊者とかモッガラーナ尊者は、仏陀にはちょっとは及ばないところがあります。それでもサーリープッダ尊者やモッガラーナ尊者という二人の阿羅漢の積んできた波羅蜜は、普通の阿羅漢に比べて更に高いものです。それは10種類の波羅蜜を昔からずっと積んできたというのが第1の理由です。

 第2の理由は仏陀がヴィッパサナー瞑想をやる時に、ヴィッパサナーの対象というのが非常に広く、広範に渡っているという事です。仏陀のヴィッパサナーの対象というのが、全世界、地球全体という位のパワーがあります。サーリープッダ尊者とかモッガラーナ尊者もヴィッパサナーは地球全体を対象としたいのだけれど、仏陀に比べるとその範囲は限られているということです。

 仏陀がさっき言った12縁起を見る瞑想をする時、他人に対してもそれを見る事が出来ます。過去世を見る事が出来ます。仏陀が見たそれは人間であれ物質であれ、原因があって、結果としてこうなっている、というのが見えてきます。物質的な物というのは、例えば木を見た場合、普通の人はただそこに木があるというだけですが、仏陀はどうしてそこに出来てきたか、種からその木が出来てきたという事を見る事が出来ます。

 ですからヴィッパサナーにおいても、それぞれにおいても色々な異なった種類というものというのがある訳です。それが仏陀が普通の阿羅漢に比べて、より強いパワー、力を持っていたという理由です。ですから仏陀がある人を見ると、その人の過去の過去世を見る事が出来る訳です。その人を見るとその過去が分かるので、その人にどうして教えたら良いのかということも分かります。その人を見ると、どこまで行けるかというのが分かるわけで、この人は普通の阿羅漢のレベルまでは達する事が出来るだろうという風に見ると、その人にそういう風に教えを説きます。

 人によってそれぞれ趣味も違うし、能力も違うし、性格も違って、ある人は先生になりたいという人もいます。仏陀の前身である菩薩ですね、菩薩がブッダになる前に色々修行してきたように、仏陀がある人を見ると、この人も菩薩であって次の未来において仏陀になるであろう、と見る事が出来るのです。

 30の波羅蜜を説明すると、10の波羅蜜というのがありますけれども、それは分かりますか?それぞれの10の波羅蜜について3つのレベルがあります。ダーナ、お布施の波羅蜜というのがあります。3段階の波羅蜜というのは、第1段階のお布施について言うと、自分の持っている財産をお布施するということです。多くの人がやっている事で、貧しい人達にお布施をしたりするということです。

 2番目は、例えばあなたの子どもが欲しいとか、奥さんが欲しいとか、旦那さんが欲しいとか言われた時に、それをあげてしまうという事です。それが2番目のお布施です。子どもが欲しいと言われた時それをあげられますか?旦那さんが欲しいとか、奥さんが欲しいと言われた時にそれをパッとあげる事が出来ますか?それが第2段階です。

 3番目は、命が欲しいと言われた時に、死んででも自分の命をあげてしまうという、これが第3番目です。3段階の修行・実践があります。普通の阿羅漢では、第1段階の実践・修行で行けるということです。仏陀になる為には第3段階の修行までしないとなれません。ですから波羅蜜を見てもいろいろな異なる修行、実践がある訳です。仏陀は、それまでの過去世において、子どもだとか奥さんだとかを、お布施してあげるということを長らくやってきました。

 皆さん、もし仏陀になりたかったなら、それらを手放さなくてはなりません。それで仏陀は弟子達に、「もし仏陀になりたければ30の波羅蜜を積まなくてはならない」と言いました。30と言うのは、10の波羅蜜がさっき言ったように3段階あるので、3×10で30という事ですね。30の波羅蜜を積まなくてはいけないという風に言いました。

 10の波羅蜜について手短にもう一回復習します。まずダーナですね、お布施の波羅蜜。次に戒の波羅蜜です。3番目はネッカンマ、離欲。4番目は智慧ですね。5番目が精進の波羅蜜。6番目が真理、真実を話すすこと。7番目が、カンティ、忍辱・忍耐。8番目が慈悲です。慈悲の波羅蜜。9番目が決意(決定)ですね。非常に強力な決意ということです。10番目が捨(ウペッカー)。この10の波羅蜜について3段階があるので全部で30ということです。

 ですから仏陀になりたければこの30の波羅蜜を積まなければなりません。それで更に仏陀はヴィッパサナーをやる時に、自分の内側についても外側についても対象します。自分の内側や外側、自分もそうだしまた他人についてもすべてをヴィッパサナーの対象にしなくてはいけないという事です。そういう風に詳しくヴィッパサナーをやっていくと、私達の智慧は高まってきます。それで智慧がその様にどんどん高くなっていくので、普通の阿羅漢と仏陀とでそういう違いが出てくる訳です。よろしいですか。

質問:
阿羅漢はブッダになれるのでしょうか?

答え:
 阿羅漢になってしまうと、その阿羅漢が死んだ時に次の人生というのがなくなってしまう訳です。ですからこの世界にまた戻ってくることが出来ない訳で、その阿羅漢はそのままで消えていくということです。

質問:
 2番目の、その子どもや妻などをあげると言うことだと、独身の人はどうなんでしょう?(笑)できないと言う事ですか。

答え:自分を布施(ダーナ)してお寺で修行して下さい(笑)。
 台湾では大乗仏教を信じていて、阿羅漢になってもまた人間界に戻ってこれるという風に言われています。だからサーリプッダ尊者も涅槃(ニッバーナ)に入ってからまた戻ってくる、と言われています。サヤレーが「ニッバーナに入ったらもう戻ってくる事が出来ません」と言ったら、とてもショックを受けていました。

 涅槃について、それは五蘊(色受想行識)がなくなってしまうことだと説明しました。ですから涅槃では原因もなければ結果もありません。生まれ変わると言うこともありません。そういう説明をして、涅槃に入ったらもう戻ることはありません、と言いました。すると皆は私の方を見たので、「般若心経は大乗仏教の経典であって、テーラワーダ仏教の経典ではありません。毎日唱えているのなら、その意味を理解して仏陀の教えを信じるようにしてください」と言いました。皆は「瞑想していくと多くの考えを変えなければいけませんね」と言いました。

 皆は「瞑想していくと、多くの考えを変えなければいけませんね」と言いました。ですからどうぞダンマを学ぶようにしてください、それは簡単なことではありませんが、学んで実践していくなら今生において理解することができるでしょう。
今日はありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!




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