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今回の合宿は日数も少ないのですが、頑張って瞑想すればはっきりしたニミッタも現れるし、禅定に入ることも出来るでしょう。瞑想の方法はとても重要なのでこれから説明したいと思います。 瞑想の目的 瞑想というものは、そんなにむずかしいわけではなく、心をしっかりコントロールすることができれば、非常に早く進んでいきます。私たちは、仏陀の教えに従ってやっているのですが、瞑想の目的というのは、悟りを得ること、つまり涅槃(ニッバーナ)を得ることを目的としています。 仏陀が、瞑想の目的としてなぜ涅槃(ニッバーナ)へ行くのが大事であると語ったのかと言うと、涅槃というのは心の働きとか、肉体、物質的な働き(ナーマ・ルーパ)がなくなって、苦しみがなくなってしまう。それで非常に大事だと仏陀は仰ったわけです。 多くの人は、 人生というのは、苦しみであると言います。どうですか、皆さん、そう思いますか? 人生が苦でないと思っている人は、お金があったり、家族があったり、良い心を持っていたりして、人生はある程度、快適で、悪くはないと思っているけど、しかし70、80歳になってみると、いろいろな問題が起こってきて、そこで苦しみというものを実感するようになります。 このリトリート(合宿)が終わって、病院へ行って健康診断を受けたら、「あなたは癌です」と言われたら、いくらお金を持っていても、あるいは、幸せな家族があったとしても、しばらくしたら死ななくてはならないとなったら、心の苦しみや、体の方も苦痛が出てきます。それが人生、この世界の本性で、自然なことです。歳を取って、あるいは病にかかって、死んで行くというのが、この世界の自然なことで、 それゆえに苦しみというものがあります。 だんだん年を取って行ったり、病気になったりすると、人生というのは苦しみであると思います。お母さんのお腹から出るときも、中にいるときも苦痛を感じています。お母さんの食べた辛いもので、お腹の赤ちゃんも辛さを感じて、非常につらさを感じます。何故なら、肌は非常に柔らかいし、脆弱なものなので、辛いものが入ってくると、とても痛みを感じます。ですから、お母さんのお腹にいるときにも、苦痛というものを感じています。 心と体があるので、そのような苦痛、苦しみというものを感じます。現在こんな風に心と体が存在しているのは、以前に執着というものがあったから、その結果として今、存在しているわけです。それで現在において、心と体に対する執着を捨てて、なくせば未来において生じることがありません。心と体がなければ、そこに苦みというものは無くなります。阿羅漢になると、そのような心と体への執着から離れことができるのですが、阿羅漢になるには、なかなか大変な修行が必要です。 阿羅漢になると、苦しみから離れられるのですが、私たちはそこまで行かないから、体の中をバランスさせる必要があります。その時に集中力を高めて、禅定を得ることができれば、心の苦しみを、ある程度無くすことができます。集中力によってリラックスして、それから心を解き放っていくと苦しみが和らぐと同時に集中力というのは、ヴィパッサナー瞑想の基礎になっています。 八正道と戒・定・慧 仏陀は、たとえば、悟りの第一段階の預流者を目指すなら、一つの方法があると仰っています。それは、聖なる八正道のことです。それで私たちが段階を踏んで修行していくと、苦しみをだんだん減らして行くことができます。仏陀は、八正道をさらに、三つのグループに分けています。 戒(戒律)と定(集中力)と慧(智慧)に分けています。それでまず、リトリートでも、戒律を守ることを薦めています。五戒よりも、八戒の方が良いのです。戒律は、サマーディ(集中力)の基礎になっています。戒律がしっかり守られていないと、集中力はなかなかついてきません。 戒をしっかり守るようになると、自分の心をだんだん変えていくことができるようになります。それで私は、皆さんが戒律をよく守り修行してくれるように望みます。よろしいですか?(笑) 大変でしょうけども、努力してやってみてください。 瞑想というのは、自分の心を訓練して育てていくことです。瞑想する時は、心を一つの対象に集中して、心を一つの中心に集めて行く必要があります。ですから、心がとても硬くなっていると、なかなか集めて行くということが難しく、心が柔らかいとスーッとうまく集まってきます。それで私たちの心を柔軟にするということが、とても大事です。 これは、金細工師の例と似ています。金細工師が、金をきれいにデザインして良い形を作りたい時に、そのままではとても硬くて加工するのが難しい。それで金を火で暖めることによって柔らかくし、いろいろデザインしたり、飾りをつけたりすることが簡単になります。私たちの心というのは、いつも貪・瞋・痴、すなわち欲望とか、嫌悪、あるいは嫉妬 、無知というものが入り込んでいるので、そのままだと、いろいろな反応をしてしまい、柔らかさを欠いています。 例えば、怒りを持っている時に、その怒りの対象に対して、怒りの波動(バイブレーション)を出すわけですけれど、そうすることによって、とても心が硬くなり不善な心が出てきて、そのため怒りの波動によって心が壊れてしまう、そういったことにもなります。 つまり貪・瞋・痴を持っていると、心が硬くなってしまいます。ですから、例えば、怒りを持っている人たちが、怒りを出すことによって、心臓をやられたりします。不善な心を持っていると、心の中にずっと入っていって、貫くように見ることができないし、集中力も悪くなります。ですから私たちにとってまず大事なのは、心を柔軟にして慈悲の力を持つことで、とても容易に集中ができるようになります。 戒を護る 戒律を護るときに、その中味をよく理解して、それで護って行くことが必要です。というのは、してはいけないことなので護っているだけだと、心は幸せにならないわけで、本当に心が納得して戒律を護って行くと、心が幸せになり集中力がつき、瞑想がうまくいくようになります。ですから、八戒をよく理解して、よく心のなかでは反芻するようにしてください。 八戒について、もう少し説明をしたいと思います。戒が一番基礎になっているわけで、皆さんがそれを理解できていれば良いのですが。八戒の第一は生き物を殺さないということで、すべての生き物に対して慈悲の心をもって接するということです。たとえば、蚊や、蟻に対しても同じことで、蚊が手に止まったとしても、それを殺すということをしません。心で殺そうと思うのも良くありません。殺すという意志を持つと、悪いカルマを作ってしまうからです。 生きものを殺すという時に、三つの理由があります。一つは欲のため、二つは怒りのため、三つ目は物事がよく分からない、無知のためです。例えば殺したいという欲が起こった時は、 生き物も私たちと同じように体と心を持っていて、同じように苦しみを味わっていると、そういう風に思うことによって欲望から離れることができます。 またもう一つの方法として、自分が殺されるような目にあったら、どんな風に思うだろうかと反省し、思ってみて、その時の恐れや驚いた時の気持ちを感じてみます。それを自分のなかに見ることによって、慈悲の心を持ち、殺したいという欲望を断ち切っていくことができます。 そして毎朝、慈悲の瞑想をします。「すべてのものが苦しみから自由でありますように。危険から自由でありますように」という風に、瞑想します。それで自分の家族に対して、「幸せでありますように」と言うだけではなく、すべての生きているものに対して慈悲を広げていくことにより、慈悲の心が深まって行きます。 それで、慈悲の瞑想をして慈悲の心を養って行くと、心がとっても柔らかくなり、しかも自分の心が幸福感を感じることができるようになります。他の戒律、第一以下の戒律も、同じようにして、 原因があって結果があるということを見て、自分で護るようにして行きます。 そのようにすると、その後で集中力の瞑想が、非常にやりやすくなります。そして八正道の中で、戒律のグループは、正語、正命、正業、この三つです。最初の正語ですが、私たちが護るのは簡単です。何故ならこのリトリート中は、しゃべらないことになっているからです(笑)。ですから、しゃべらないようにしてください。それだけではなく、話さないことによって、心を一つの対象に向けることができ、集中力を高めることができます。 定―サマーディ 次は三つグループのうちの「定」についてです。集中力の瞑想として、40の瞑想法について仏陀が仰っているのはすべて、禅定をめざす修行です。それを全部ここでやるのは、大変なので、そのうち一つを選びます。というのは、集中力を養う時に一つの対象に心を集中することが大切なわけで、あれもこれもという風に やっていると、うまく行きません。初心者にとっては、アーナパーナ・サティという呼吸を対象とした瞑想法か、あるいは地・水・火・風を見る四界分別観という瞑想法のどちらかが、向いていると今までの経験から思います。 今回は、まずアーナパーナ・サティ、すなわち呼吸による瞑想をして、そして自分にあまりうまく合わない時は、インタビューの中で言ってもらって、四界分別観を紹介したいと思います。 アーナパーナ・サティというのは、大変やさしい瞑想法で、難しいことはありません。 何故簡単かといいますと、 呼吸というのは昔からしていることで、生まれてから今まで、ずっとしていることなので、それを対象とするのは大変易しいことです。見誤るということはないわけで、呼吸が止まってしまったら、私たちは死んでしまうわけですから、絶えずある 呼吸を見失うことはありません。 呼吸はいつもあるのですが、心は呼吸の所に留まらないで、いつもどこかに彷徨(さまよ)い出て 妄想してしまう。そのために、集中力がなかなか得られないという結果になってしまいます。私たちは、集中するためにある種の闘いをしなければいけません。今日は、ファイトをしなければなりません(笑)。 闘う相手というのは不善な心で、そういう心が来たら闘って、それはいらないということで切っていく、そういう風にしなくてはなりません。では何がよくない心、不善心であるかを知らないとならないわけです。第一に欲です。こうしたい、ああしたいという欲です。これが一つの不善な心です。この欲望が現れたら、「これが欲望だ」ということで、ストップする。それが大事です。 どんな風にして、ストップさせたら良いか。気付き(サティ)によって、それをストップさせます。気付きというのは、一つのドアみたいなもので、不善な、欲望の心が来た時に、閉めてしまわなければ、どんどん入ってきます。それで、仏陀は集中の瞑想においても、気付き(マインドフル)というものがとても大事であると、仰っています。 八正道のうち集中(定)のグループには三つあります。一つ目が正念、正しい気付きですね。二つ目が精進、正しい努力です。三つ目が正定、正しい集中です。正しい気付きと正しい努力がなければ、正しい集中は得られません。深い気付きと大きな努力がある時に、深い集中が得られます。正しい気付きというのは、常にそれについて覚えているということです。呼吸が終わり、また次の呼吸があるというように、いつも気付いているというのがとても大事です。 最初のうちは疲れてきたり、飽きてきたりするので、呼吸に気付いていようとしても心はどこかへ飛んで行き、10分位どこかへ行って、また戻って来たりしますけれど、それでも絶えず呼吸に気付いていることが大事です。 努力(精進)というものも大切で、呼吸に絶えず気付くよう努めることです。心がどこかに行ってしまったら、また戻ってくる精進の力というのはとても大事です。だんだん上手くなってくると、そんなに努力しなくても呼吸にいつも集中出来る状態になってきます。私たちは精進がどういうものかを理解する必要があります。 努力の力によって気付きを支えます。努力が過剰になってしまうと、つまり呼吸をあまり一生懸命に観ようとすると、呼吸がとても不自然になって、疲れてしまったり、頭が痛くなったりすることがあります。呼吸が早くなると体も疲れてきます。呼吸をする時には自然な呼吸をするように心がけます。そうすると心も非常にリラックスして呼吸を観ることができます。 多くの人が一生懸命やり過ぎ、呼吸を一生懸命に観ようとして、呼吸が早くなって、自然ではない呼吸をして疲れてしまいます。努力をする時というのは、呼吸に集中していて心がだらけてきた時で、そういう時に心を押し上げて、いつも呼吸が観られるようにします。心が怠けたくなるのは対象に対してだんだん飽きが来て、めんどうくさくなってしまって、呼吸から離れていくからです。怠けたくなるという心です。 慈悲の瞑想 自然な呼吸をするようにして、心に喜びが生まれてくると、瞑想もとても上手く行きます。アーナパーナ・サティをしている時に自分の心がどういう風になっているかをよく観る必要があります。あまり上手くいかないようでしたら、慈悲の瞑想をします。呼吸の集中が上手くいかないようなら、慈悲の瞑想を5分間位やって、またアーナパーナに戻ります。呼吸を観ていて心がとても落ち着いていて、たいへん快適な状態だったらそのままで良いでしょう。 慈悲の瞑想をする時には、顔、頭の辺りから体全体を感じるようにして、それで「いろいろな危険や災いから自由でありますように」という風に瞑想します。そうすることによって心が落ち着いてきます。慈悲の瞑想には四つ唱えることがあって、 危難から自由でありますように 心の苦しみから自由でありますように 肉体的な苦しみから自由でありますように 私たちが健康で幸せでありますように という四つです。 慈悲の瞑想をすることによって心も体もだんだん落ち着いてきて、静かになって呼吸に集中することが出来るようになります。呼吸を観るときには鼻先に心を持って来るようにします。最初に始める時は呼吸の、入る息、出る息を観るようにします。数回やった後で、このタッチングポイント、つまり空気と鼻との接触点に心を持って来るようにします。空気と鼻とが触れている領域、それに心を向けるようにします。 ただ単に、空気が動いているという呼吸の動きそのものを感じるようにします。よく先生が接触点に集中しなさいと言うと、鼻の皮膚の所だけに集中してしまうことがありますが、ここの小さい領域だけにずっと集中していくと頭がだんだん痛くなってくることもあります。 呼吸を観る要点 また鼻のところで暖かさとか、ヒヤッとした涼しさを感じてしまうと、全く別の瞑想になってしまいます。地・水・火・風を見る瞑想に入っていってしまうので、それはやらないようにしてください。 80%位は空気の出し入れの動きを観るようにします。残りの20%は接触点を観るようにします。鼻のところで空気の出し入れを感じているということなのですが、呼吸が体の中に入った時、呼吸を肺の中まで追いかけて行くということはしないでください。 肺とかお腹の中にまで追いかけてしまうと、肺が動いているのを感じて、瞑想が違う方向に行ってしまいます。肺とか胃とかの方に呼吸を追っていくと、お腹が押したり引いたりしているのを観察するようになって、地・水・火・風のうち風の要素を観る瞑想法に入ってしまいます。ですから、そういう方向には行かないようにしてください。 鼻の周辺の空気を観察することによって呼吸を感じるようにしてください。呼吸が出たり入ったりするのを観るだけですから非常に簡単なはずです。その結果がどうであるかというのはあまり気にしないで、ニミッタを観ようとか、そういうことを気にしないで、鼻の所で呼吸の動きを観るようにしてください。それだけでもとても良いカルマを積んでいることになります。呼吸が入ったり出たりというのを1回2回、という風に観ていきます。継続的に呼吸の出し入れを観ていきます。 仮に10分間呼吸に集中し続け、継続することが出来るようになれば、二ミッタがだんだん現れて来ます。10分間くらい集中することで、だいたい7割くらいの人にニミッタが現れて来ます。大事なことは、心が彷徨い出し、呼吸から離れていろいろ妄想し出すのが始まりますが、ストップして呼吸に戻るようにしてください。戻るようにするということがとても大事です。 五つの障害 特に初心者にとって一番問題になるのが五つの障害(五蓋)といわれるものです。最初に心が彷徨った時に、まず一番出てくるのは感覚的な欲望というものです。例えば何か綺麗なものを見たいとか、あるいは良い音楽を聴きたいとか、あるいは何か美味しいものを食べたいとか、眼や耳や舌の感覚的な欲望が起こってきますから、それをストップするようにしなくてはなりません。そのような、感覚的な欲望というのは執着と繋がっているものです。 瞑想していて、例えば仕事のことがいろいろ頭に浮かんできたり、家族のことが浮かんできたりして、それらが攻撃してくるという感じですね。そういう仕事とか家族のイメージが入ってくるような状態だと、一ヶ月瞑想をやったとしてもなかなかニミッタまでは行き着きません。感覚的な欲望、家族に対する心配とかが現れた場合は、それを止めるというのがとても難しいわけです。 そういう時は、「自分はいつ死ぬか分からない」という風に見つめます。自分はいつ死ぬか分からないわけですが、もし自分が死んでしまったら、家族だとか色々な財産が自分について来るわけではなく、独りで死んで行くわけです。 「自分のしてきた行い」つまりカルマだけが死んでも自分について来る、という風に見つめていきます。今、瞑想して高い集中力をつけるという良い機会を得ているわけだから、これをやっていこうと思うようにします。そうすることによって色々な欲望、感覚的な欲望というのを切っていくことが出来るようになります。 五つの障害の二番目は怒りということです。瞑想していて上手くいかないと、いろいろな記憶が浮かび、嫌いな人のイメージが浮かんで、怒りがだんだん出て来て、「この野郎!」というような怒りになります。そういう時は瞑想しているようでいて、怒りの中で闘っているということです。 サヤレーは皆さんを見ていると、どういう瞑想をしているかというのがだいたい分かります(笑)。超能力があるのではなく、顔を見ているとだいたいどういう瞑想をしているかというのが分かってしまいます。顔が赤くなって来たりすると、これは怒りがあるなという風に。 笑顔でニコニコしていると、笑顔にも色々な種類がありますが、集中力がとても良くなってくると、心がとても安定して微笑が起こってきます。そういう笑いもあります。もう一つは、集中が良いわけではなく、心が妄想して面白おかしいことをイメージして、それでニコニコしてしまう笑いもあります。毎日皆さんの顔をチェックします。怒りは瞑想の実践にも、心に良くないので、怒りというものに注意してください。 三番目の障害ですが、眠気と怠惰な心で、最初に瞑想を始めるときの大きな障害になるものです。明日から4時半と朝早く起きるのですが、普段はそのように早起きしていないので瞑想すると眠気が出てきます。眠気が出てきたら、心を押し上げるように努力して眠気を抑えてください。上手くいかなかったら、目を大きく開けたり閉じたりしてみます。それでも駄目なら、耳を強く引っ張って下さい。痛い位に引っ張ってみてください。 眠気を打ち破れないと時間を無駄にしてしまします。仏陀は、怠ける人はよく六つのことを怠ける理由にあげる、と仰っています。 1、今修行するのは早すぎるので修行すべきではない。 2、今はもう遅すぎるので修行するべきではない。 3、暑すぎて修行できない。 4、寒すぎて修行できない。 5、お腹が空きすぎて修行できない。 6、お腹が一杯で修行できない。 自分を見つめて、怠け心のある人かどうか注意して見てください。 眠気に対するもう一つの対処法として、数を数えることがあります。吸って、吐いて1、吸って吐いて2と、8まで数えます。そうすると心が落ち着いてきて呼吸を観察できるようになります。そうしたら数を数える必要がなくなりますので、呼吸だけを観察してください。 四番目の障害は散乱です。心が対象を求めてあちこちに飛んでしまう性質です。私たちの心は猿に似ています。猿は一つの所に留まっていることはできません。猿の自然の姿は、次から次へと絶えず動き回り移動します。そのような猿をコントロールするためにはどうしたら良いでしょうか。1つは紐を結わえてその端を木や柱に括りつけることです。猿は何処かに行こうとするのですが、紐によって木に括りつけられているので何処にも行くことができず、しまいには疲れて眠ってしまいます。私たちも、心があちこち飛んで行きそうになったら、呼吸という気付きの力で、イライラした心を乗り越えていくことが必要です。 五番目は疑いということです。このような短い間(瞑想合宿)では禅定(ジャーナ)は達成できない、深められないと思うことです。また「仏陀は集中力が必要だとは言っていなかったのではないか」と教えに対して疑いを持ってしまうと、瞑想は上達しません。瞑想する時には信が必要になります。八正道にもサンマー・サマーディという要素が入っているように、正しい集中力は必要なことです。 五つの障害は瞑想する人にとっては危険なものとなります。初めに私たちの欲望を上手く抑えることができたとしても、次に怒りが障害となります。欲に基づいて何か欲しいものがあり、それが高額で買えなかったりすると、次に怒りが湧いてきます。多くの人がこのようにして怒りを持ちます。幸せでないという感覚は怒りと同じです。感覚的な欲望を退け、幸福ではないという気持ちも退けます。 欲望と怒りは強い波動(バイブレーション)を持っているので、心が強い波動に満たされ行動的になります。フライドチキンの好きな人がそれを見た時に、眠気が起こることはありません。嫌いだという気持ちに心が満たされた時にも眠気は出てきません。心というのは常に欲望と怒りによって活動的になっていますが、皆さんの心の状態はどうでしょうか。 集中力が深まると欲や怒りを退けることができます。瞑想を始めて活動的な怒りや欲望といった強い波動が心の中から無くなると、眠気が出てきます。泥棒が警察に捕まって牢屋に入れられて何もすることがなくなると、牢屋の中で眠くなってしまいます。明日瞑想を実践してみて怒りや欲望が出てきて、眠くなるようでしたら、あまり良い状態とは言えません。 呼吸に戻り、絶えず呼吸を観察してください。呼吸を絶えず見つめることができるようになれば、集中力が高まります。姿勢も重要です、真直ぐであるけれど硬直させないようにリラックスしてください。 痛みが出てきた場合、痛みと闘おうとは思わないで、ゆっくりと足の位置をかえます、足の位置を変えるときも、足には注意を向けないで、呼吸に集中したままでいてください。但し、頻繁に足を変えるようなことはしないで下さい。アーナパーナ・サティをしている時は、お風呂に入っていても、食事でも、歩行禅でも、呼吸に集中してください。 質疑応答 質問: 波羅蜜には様々な種類がありますが、瞑想はどの波羅蜜に該当するのでしょうか。 答え: 瞑想は知恵の波羅蜜になります。全ての波羅蜜は相互に関連していて、様々なレベルがあります。菩薩が仏陀になるときも瞑想という波羅蜜だけではなく様々な波羅蜜を積んで仏陀になりました。例えば、菩薩は自分の子どもさえも誰かの為に差し出してあげるというレベルのダーナ(布施)をしましたが、その強い心を支えていたのは仏陀になろうという精進の波羅蜜です。 |
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