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四界分別、菩薩の忍耐  ディーパンカラ・サヤレー (08.12.30)


四十の瞑想法

 皆さん今晩は。今日は、地水火風の瞑想、四界分別観についてお話したいと思います。そして、四界分別観とアーナパーナサティとの関係についてもお話したいと思います。アーナパーナサティをこの二日間やってきたわけですけれども、うまくいく人もいるし、あまり集中を得られないという人もいると思います。瞑想がうまくいかなくても、ガッカリして家に帰らないようにしてください。瞑想は全部で四十ありますから、まだたくさんの瞑想法があります。

 この四十のうち、アーナパーナサティも一つの瞑想法ですし、もう一つ四界分別観というものもあります。今その四十の瞑想法について、ざっと説明したいと思います。十種類の、カシナという円盤を使った瞑想法があります。十種類の、アスバ・メディテーションという、不浄観があります。十種類のアヌサティ(随念)という瞑想法があります。それから四つが四梵住という梵天界の瞑想があります。その四梵住というのは、慈・悲・喜・捨の四つの瞑想法です。それから四つの無色界禅というのがあります。そして四界分別観と食べ物を厭う瞑想(食厭観)があります。

 全部合わせて四十の瞑想法になるわけですけれども、今日は四界分別観について説明したいと思います。アーナパーナサティにおいては、入ってくる息、それから出ていく息、その呼吸を見つめているわけですけれども、呼吸を追って身体の中に入って行かない。逆に出ていく呼吸を追って外の方に行かないようにします。中には無意識的に、呼吸を見つめていると、呼吸をどんどん中に追って行って、中に入って、中での感覚とか振動を感じたりするということがありますが、そこでもう一度鼻の所の呼吸に戻すようにしてください。

 二日間やってみましたが、集中が良くなって、二十分間、三十分間と呼吸に集中できるようになると、ニミッタが見えてくると思います。最初の二日ぐらいはとても難しく、山になっていて、それを越えていくと段々易しくなってきます。呼吸を見ることがとても快適に、楽しくなってきて、そのことによって心があちこち彷徨ったり、雑念が起きたりというのが少なくなって、集中が良くなって来ます。

四界分別観

 そんな風にして心をコントロールして行くわけですけれども、アーナパーナサティをやってもなかなか集中がよくない人に対して、もう一つの瞑想法を説明したいと思います。アナパナを20分くらいやっても集中をなかなか得られない人は、四界分別観をやるといいでしょう。四界分別観をやっていると、いろいろな身体の振動とか、感覚を見ていくので、それをやってまたアナパナへ戻ると、瞑想の性格が違うので、ちょっと煩わしくなるという事が起こるそうです。ですからアナパナをやって、うまくいかなくて、それで四界分別をやろうと決めたら、しばらくは四界分別でやるようにして、あれこれ変えないようにしてください。

 四界分別観をやる意義というのは二つあって、一つは四界分別観をやることによって禅定に非常に近いところに達することができます。近行定(きんぎょうじょう)といいますが、そこに達することができます。もう一つの意義は、ヴィッパサナーと関係してきます。ヴィッパサナー瞑想をやる人は、必ず四界分別の瞑想をやらなくてはいけない。それからアーナパーナサティをする目的は、第四禅定までのジャーナ(禅定)、非常に深い集中力を得ることです。ですからアナパナで、第四禅定まで到達したら、それから先はヴィッパサナー瞑想をやるわけで、そのヴィッパサナー瞑想をやるときに、また四界分別観という瞑想が入ってきます。

 数日間アーナパーナサティをやってそれから四界分別をやるというやり方もあるみたいですけれども、それではなかなか上手く行かない。それはアナパナで第四禅定までの禅定をしっかり得てないと、その次の段階に進んでも、ナーマ(精神性)とかルーパ(物質性)をしっかり見るというのはなかなか難しいということです。最初に四界分別観の瞑想をやって到達できるサマディというのは、ウパチャーラ・サマディ(近行定)という禅定にかなり近い状態だけれども、それでもまだ充分な状態ではないので、例えばナーマ、ルーパというのは、心と身体ですね、それらを見ていくには不充分なので、更に先にそれをやってからカシナ瞑想をする必要があります。

地水火風の要素

 それで四界分別は、何を対象にするかというと、地水火風という四つの要素を対象にします。地の要素を分けると更に2つのグループで、6つに分かれます。まず重さ・軽さに分けます。重さのグループは更に3つに分けられて、硬さ・粗さ・重さという3つが入ります。今度は反対の方ですけれども、硬さと反対の柔らかさ、粗さの反対の滑らかさ、重さの反対の軽さ、この3つが一つのグループです。

 地水火風の火の要素は2つあって、熱さと冷たさの2つです。三番目の風の要素ですけれども、これは押す力と支える力があります。四番目の水の要素ですけれども、流れる性質と、粘着力という、まとまろうとする力、この2つの性質に分けられます。それで全部分類したのを合計すると十二になるわけです。この十二の要素について自分の身体の中にそれぞれを見つけて、その感覚を一つ一つ確かめていくようにします。

 最初にやるのは、比較的容易な風の要素の中の、押す性質を観ていきます。この場合に使うのは、アナパナと同じように呼吸で、特に入ってくる呼吸を観ます。この場合アナパナの場合は中に入っていってはいけないという説明がありましたが、四界分別観の場合は、押す力で呼吸が入って行って、ずっと頭の所まで来る、その力を感じるようにします。それでそんな風に、呼吸が入ってきて、押していって頭の天辺までずっと入ってくるのを感じるわけでが、その時に押す力で振動しているような感覚を頭の上の部分に感じて、それを段々顔全体に広げていって、さらに身体全体に広げていくようにします。

 最初はなかなか難しいから、どちらかというとイメージの方が多いのですが、押す力によって振動しているのを感じて、それを段々全体に広げていくと、それが感覚として実感できるようになってきます。それを何度も何度も繰り返して見るようにします。

 そんなふうにして風の要素の、押す力を見ることができたら、今度は地の要素の硬い性質を見ます。二番目に硬い性質を見る場合は、歯をグッと噛みしめてみて、その時に硬いという感覚を感じてそれを全体に広げて行きます。次の粗さの感覚を見るには、舌先で歯の裏側のザラザラしている感覚を体全体にずっと広げていく、あるいは皮膚におけるザラザラした感覚があったらそれを全体に広げていく、そういうふうに見ます。次は重さの性質ですけれども、これを感じる時には両手を腿の上に置いて段々身体を傾けて、体重をかけていくと「重い、重い」という感覚が出てくると思います。その重さの感覚をまた身体全体に広げていって見るようにします。

 次は柔らかさという性質ですけれども、それを見る時は、上の歯で下唇を噛んでみると、唇だから柔らかいわけですね。この柔らかさを感じてそれを全体に広げていきます。「柔らかい、柔らかい」というふうに感覚を全体に広げていきます。次に滑らかさの感覚ですが、この場合は舌先で自分の唇の裏側を舐めてみると非常に滑らかでツルツルした感じがあります。その滑らかな感覚を顔から更に全体に広げていって「滑らか、滑らか」というふうに見ていきます。次の要素は軽さですが、これを見る時は、指を曲げ上げてみると簡単に上がる。これは軽いから上がるわけで、重さが載っていないから簡単に上がるわけです。その軽さの感覚を指から全体に広げていって、「軽い、軽い」という風に感覚を取ってみてください。

 次は風の要素のもう一つの支える性質ですが、この場合は身体を段々傾けていって、それからまた戻す。すると身体を支えている力があるからまた元に戻るわけで、その支えている力を感じることができると思います。その力、その感覚をまた見ていって全体に広げていきます。眠くなった時に、身体が段々前にかしげて、ある所まできたら飛び上ってパッと元のところまで戻りますが、それは支える力が働いているからなのです。皆さん、そういう経験ありますか?

 次は火の要素のうちの、熱ですけれども、この場合は手のひらに手の甲を当ててみると温かさ、熱を感じますけれども、この熱の感覚を、手からずっと広げて「温かい、温かい」と見ていきます。次はその反対の冷たい、涼しいという感覚ですけれども、この場合は呼吸する時の感覚を見ます。鼻に空気が入ってきて、スースーして、涼しい感覚があるわけですけれども、その涼しい感覚を見ていって「涼しい、涼しい」と、あるいは、冷たいという感覚ですね、「冷たい、冷たい」という感覚を見ていって身体全体に広げていきます。

 次に見るのは、粘着性(cohesion)という、ギュッとまとめようとする力です。水の、流れる性質とは反対の、ギュッとまとまる力、凝縮しようとする力ですが、手首をグッと握って手首がその時に、グッと絞まる感覚を見て、これを広げていきます。これが難しい時は、身体が呼吸をしていて、うまくできない時に身体が硬直して硬くなっている時の、ギュッと圧縮しているような感覚として見ていきます。それでも難しい時は、硬さと粗さと重さ、その3つを感じると、身体がギュっと締められているような感覚になると思います。圧縮されるような感覚です。

 次は流れる性質ですけれども、これは涙だとか、汗とか、血液とか、自分に一番合ったものを選んで、その流れている感覚を見て、それを広げていきます。そんなふうにして、今十二の性質についてお話ししたのですが、それらを一つ一つ見ていって、一つが終わったら次の一つを見ていくと、段々集中が良くなってきて、集中が良くなると明るい光が見えてきます。アナパナと同じようなニミッタですね、ある種の色が見えきます。これもアナパナと同じなのですが、光の色が見えたとしてもそちらの方には集中しないで、身体の地水火風の感覚の方にずっと集中し続けます。

近行定に達する

 そのうち見えている色が段々と氷の塊みたいになってきます。そのように氷の塊のみたいに見えてきたら、今度は氷の塊の方に意識を集中していって、禅定の近くまで行くことができます。こんなふうにして、四界分別の瞑想によって、近行定という禅定に近いサマディに到達することができます。

 それでこのように四界分別の瞑想から更にアナパナをやって第四禅定までいくと、その時の光をもって身体の内部の三十二の部分を見る瞑想をします。そこで瞑想の段階の話をしますけれども、三十二の身体の部分を見たら、今度は骸骨ですね、身体の中の骸骨を見る瞑想をして、それからその骸骨の色を使ってカシナの瞑想をします。カシナという円盤なのですけれども、色のついた円盤を見る瞑想をするというふうに、段々、段階を追ってやっていきます。骨は白いですから、白いカシナの瞑想をやって、それが終わったらヴィッパサナーに入っていくという、こういう段階です。

 ヴィッパサナー瞑想というのは、この塊を粉々にして、微細な粒子にしてしまうというようにやるそうです。最初は粉々じゃなくて、一つの身体としてあるのだけれども、四界分別観でその身体の地水火風で何度も何度も見ていくうちに、身体が粉々になって、粒粒になって見えるそうです。ルーパとは物質ですが、非常に細かい最小の粒であるルーパ・カラーパというのがあるのですが、ルーパ・カラーパについては次の機会に説明したいと思います。

 ですから四界分別観にしても、アーナパーナサティの四つの禅定の瞑想にしても、心をコントロールするというのが大事なわけです。で、心をコントロールして集中力を高めるという、この集中力がないと自分の身体の内側を見ることができないわけで、そのためにやっているわけです。

信・精進・気付き

 その時に必要な心の要素としては、まず「信」です。信仰の信、信頼の信、信ずるという信です。信はとても重要で、「私にはニミッタなんて見えない」、「見えるわけがない」などと信が揺らいでいると、「もうやめて帰ろうか」というような事になってしまいます。とても強い信が大切で、「私はここにニミッタを見るためにやって来たのだ」、「絶対に見てやろう」と信をもって進めることが必要です。

 リトリートに入って2日間で一番問題になるのは、眠気と、心があちこち彷徨い妄想が始まるということです。何故ならば、こんなに朝早く起きるという習慣がまずないでしょう。2・3日すればこれにも慣れてきます。2日間は大目に見ますけれども、3日目は寝ている人がいないかしっかりチェックしますから、よろしいですね。

 もう一つは、心が彷徨い出す妄想ですが、これもしっかり見ています。次に大事な心の要素としては、精進、努力です。努力がないと気付いているという力が弱くなって、それで容易に眠気や、妄想だらけになってしまうことが起こるわけで、そのためにも努力が必要です。

 努力・精進は、心に持つということであって、呼吸のところには力を入れないでください。呼吸のところで力んでしまうと、段々疲れて来るので、そこは自然な呼吸をするようにして、心に努力の力を注ぐようにしてください。信と精進(努力)と3番目がマインドフル(気付き)です。気付いている、というのは何に気付いているかというと、瞑想の対象は呼吸であるという事に絶えず気付いているとことで、これがなくなってしまうと対象がどこかに飛んで行ってしまう事が起こるわけです。絶えず瞑想の対象は呼吸である、ということに気付いていることが大切です。

忍耐

 ですからそういう気付きの力が強い時には、とても容易に集中力を作り出す事が出来ます。そんな風に集中力がしっかりしてくると、その集中力をもってヴィッパサナーをして、智慧が生まれ、洞察力が生じます。ですから禅定やヴィッパサナーを得たかったら、必要なのは忍耐の力です。パーリ語でカンティと言いますが、足が痛くても、いろいろ辛い事があっても怒らずに、忍耐をもって進んで行くことが必要です。

 30分なり1時間なり座っていると、あちこちが痛くなってくるのを感じたりするものです。どうですか、皆さんもそういうのを感じますか。あちこちに痛みとか。痛みを感じると、怒りの気持ちが出てきたりしますか。怒りというのは、瞑想には良くないわけで、痛みがあっても、心は善の心を持っていれば瞑想は進むけれど、不善の心を持っていると良くない方向に行ってしまいます。

 その最初に感じる痛みというのは、それほど大きなものではないのだけれども、それに対して怒りを持つと、その怒りによって痛みがもっともっと大きくなってしまいます。それで地獄に落ちてしまう。地獄に落ちた時の方がもっとすごい。それは日常生活においても、ちょっと不満足な事が起こると怒りを出すような習慣があるから、ちょっとした痛みでも怒りが出てきてしまう。そんな風になるわけです。どうですか、そんな風ではないですか。

菩薩の忍耐

 ブッダが菩薩だった時、すなわち、ブッダになる前の過去世で10の波羅蜜を修行していて、そのうちの一つがカンティという忍耐の波羅蜜でした。昔バナラシ国の王様にカラーブという王様が居て、この人はとても粗暴な王様でした。ブッダの時代に、デーバダッタというブッダに危害を加える人が居ますが、その人の前世がこの王様だったという事です。菩薩はとても裕福な家庭に生まれました。両親が亡くなった時に、莫大な財産がその菩薩に相続されました。菩薩は、瞑想していた時に、たとえこの莫大な財産を貰ったとしても、自分が死んでしまったら持って行くわけにはいかないと熟慮しました。どうせ財産は自分には属さないと考え、すべてをいろいろな人々にダーナ(お布施)として分け、自分自身はヒマラヤの麓で瞑想をするようになりました。

 それで森で暮らしていたのですが、その時に塩が体にとって必要なエネルギーなのでそれを求めて町へ托鉢に行きました。その時、王様の下で国を治める宰相が居て、その人はとても信仰深い人で、菩薩がその国にやって来た時に自分の家に案内して供養をしました。宰相は、菩薩を案内したのですが、その時に王様が非常に美しい庭を持っていたので、そこに案内しました。ある時王様は、従者を連れてそこの庭にやって来て、踊り子に踊らせたり音楽を楽しんだりしていました。その様子やイメージがわかりますか。

 それでいろいろなダンスを踊ったりしていたのですが、そのうち疲れて寝てしまいました。そうすると踊り子達は、王様が寝ているのだから踊っても踊らなくても良いのではないかという事で踊りをやめて、その森や美しい庭とかの散歩を始めました。踊り子たちが庭を散歩していたら、その時に先程の菩薩が沙羅双樹の木の下で瞑想していたのに出会ったわけです。それで踊り子達は、菩薩に礼拝して、「どうぞ法話をしてください」と頼みました。その時、まさに王様が目覚めて、起きたら誰もそばに居ないので、たいへんに怒りを感じました。それで王様は、「彼らはどこに行ったのか」と探し始めました。

 皆は菩薩の法話を聞いているところでした。それで王様は、菩薩が説いているのを見て、非常に腹を立て、その菩薩を殺したいと思い、「一体何の瞑想をしているのだ」と尋ねました。菩薩は、「私が主にやっているのは、忍耐波羅蜜の修行です」と答えました。 

 すると王様は、「カンティー(忍耐)というのは何なのか」と尋ねました。「忍耐というのは、誰かが謗ったり怒ったり叩いたとしても、そんなことをされても怒りを出さないのが、カンティー(忍耐)の修行です」と菩薩は答えました。王様は、「よく分かった。君が忍耐をもっているかどうか今試してやろう」と言いました。従者の中の死刑執行人を呼んで「やってみろ」と命じました。先に棘々が付いた棒で、「2千回、菩薩を叩きなさい」と命じました。2千回叩かれたので、菩薩の皮膚は破け、肉も弾けて血だらけになりました。その時に菩薩は王様に、「叩いて、私の忍耐を見つけようとしても、忍耐は筋肉や皮膚や骨のところにあるのではなく心の中にあるのです」と言いました。王様は執行人に、「それでは、両腕と両足を切ってしまえ」と命じました。その時に菩薩は、「忍耐というのは腕や足だとかにあるのではなく心にあるのです」と言ったので、王様は、「今度は耳と鼻とを切ってしまえ」と命令しました。それで残った菩薩の体は血だらけになってしまいました。

 王様は足で菩薩を蹴っ飛ばしました。王様が去った後、宰相が来て非常に恐れて菩薩に謝罪し、「王様に対して怒りを持ったとしてもそれは結構ですが、その周りの人々には怒りを持たないようにしてください」と言いました。そこで菩薩は、「たとえ私の腕や足が切られても怒りをもつという事はありません」と答えました。ひどい痛みがあったとしてもメッタ(慈悲)の心を送ることが出来るわけです。

 その後、王様は庭から出て行った時に、突然大地が裂けて地獄に真っ逆さまに落ちて行きました。その時に菩薩も同じく庭で亡くなりました。ですから慈悲の修行と忍耐の修行をしている時は、いかなる自分の痛みに対しても怒りを持つ事なく、あるいは自分を虐待した人に対しても怒りを持たないようにします。ブッダがおっしゃったのは、「我々は生まれ変わって来ているわけですが、歳をとるし、病気になると痛み苦しみが起こります。たとえ体が病気になっても、心は病まないようにしてください」ということです。心というのはとてもパワフルです。 

サヤレーの忍耐

 今度はサヤレーの話になりますが、サヤレーは少し前に台湾で1ヶ月半、病気で入院していました。インフルエンザで咳が止まらなかったという状態だったのです。その時台湾で100人以上の瞑想の指導をしていて、その人たちはかなり瞑想が進んでいて、過去世を見る段階にきていたので、瞑想指導をキャンセルするという事はとてもできなかったわけです。その時、非常に強い薬を飲んで仕事をしたのだけれども、あまりにも強かったので副作用でアレルギーが出てしまいました。救急車で病院に運ばれ、集中治療室に連れて行かれました。

 体は集中治療室に運ばれたわけですけれども、自分の心は瞑想センターにありました。20日間のリトリートだったのですが、インタビューというのはとても重要なわけです。1日1日のインタビューは非常に大事で、そのインタビューを聞いて次のステップへと進んでいくというような状態でした。ですから集中治療室にいた時にも心は瞑想センターに行きたくて、先生にも是非帰りたいと言ったのですが、先生は「それは駄目だ」と言われ、注射を打たれました。

「注射を打つと眠くなって寝てしまうので、帰る事は出来ません」と医者は言いました。本当に注射を打った後に意識が朦朧としてきて、何とか意識をしっかり保とうとしたけれども、なかなか難しかったのです。そしたらもう一つ注射を打たれた。それで体はアレルギーでとても痛かったのですが、その時瞑想している人たちの為に指導するか、自分の体を治すか二つの選択がありました。お医者さんは、「3ヵ月間は教えるのは無理です」と言いました。3ヵ月駄目だとなると、シンガポールとかインドネシアとか日本とか香港のリトリートを全部キャンセルしなければならなくなる。それで心をもっと強くして6割ぐらいは治してしまって、それでリトリートを続けているというわけです。

 インドネシアで先生(パオ・セヤドー)と一緒にリトリートをしていたわけですけれども、「もう日本には行かない方が良い」と先生に言われました。サヤレーはとても頑固だから「いや私は行きます」と来てくださったそうです。

サヤレーの気持ちとしては、いろいろな痛みとか大変なのはあるけれども、とにかく瞑想の修行を教えたいということでここに来ています。もう一つの理由としては、富士山を見るととても幸せな気持ちになって慈悲を送る事が出来る。今回富士山に行く事が出来なくても、日本に居るという事だけで非常に幸福な気持ちでいられます。膝がとても良くなくて、20分も座っていると痛みが出てきます。お医者さんがすぐ手術しなければいけないという状態ですけれども、日本に来てくださっているということです。

 ですから、皆さんが瞑想している時にいつも付き合う事が出来ないというのはそういう理由からです。そのようにして努力をしてここに来ているのですから、皆さんも簡単に諦めないで努力をして瞑想を進めるようにしてください。リトリートの期間は短いわけですが、その期間を有効に使って進めてください。インタビューの時間以外でも聞きたい事があったら来てください。宜しいですか。ですからもう一段の努力をしてみてください。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!


 



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