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 涅槃に至る瞑想   ディーパンカラ・サヤレー   

執着が苦の原因

 皆さん今晩は。今夜は、涅槃に至るまでの瞑想をどのように支えていくか、というお話をしたいと思います。ブッダは、瞑想の目的は涅槃に到達することだと仰っています。涅槃というのは、ナーマという心の色々な現象、ルーパという身体などの物質的な現象、そのようなものが全てなくなり、苦しみもなくなるという世界です。
 苦しみには、心の苦しみと、身体に関する物理的な苦しみがあります。心も身体もなくなれば、苦しみもなくなります。ですから、私たちは苦しみをなくすために涅槃に行こうと思います。その世界というのは、原因も結果も、ナーマもルーパもなくなります。それが真の平安です。

 苦しみの主な原因は、執着です。心に対する執着や、物質世界に対する執着から苦しみが生まれます。人間には、「来世にまた人間として生まれたい、あるいは天上界の神に生まれたい、あるいは梵天に生まれたい」という執着があります。下の世界の動物の世界に生まれたいと思う人はあまりいないと思いますが、昔作ったカルマによってそのような世界に生まれてしまうということもあります。

 もしも執着を断ち切りたいと思うなら、私たちは瞑想をしなければなりません。ただ瞑想のみが、執着を断ち切る唯一の方法です。ブッダは、涅槃へ到達する道を、私たちに教えてくださいました。ブッダが教えてくださったのは、八正道です。八つの道は、さらに「戒・定・慧」の三つのグループに分けることができます。
一つ目は、「戒」。戒律、道徳に関する教え。
二つ目は、「定」。禅定の「定」で、集中力を養うこと。
三つ目は、「慧」。智慧の教え。
この三つのグループ、「戒・定・慧」を教えてくださいました。

 最初の「戒」は、最初の日にお唱えした八戒や、日常では五戒という戒律を守ることです。これは、八正道の中の、正語(話す時に正しい言葉を使うこと)・正業(正しい行いをすること)・正命(正しい仕事をすること)の三つに当たります。
 次の「定」も三つありまして、例えばアーナパーナ・サティをしているときには呼吸を対象にして、入ってくる息や出て行く息を見て、気付き(マインドフルネス)を養う必要があるということで、正念(サティ)・正精進(努力)・正定(集中力)の三つが「定」のグループです。

 呼吸を見る時に「気付きの力」と「努力」がしっかりしてくると、集中力が非常に良くなってきます。集中力が良くなると、呼吸を観察することに幸福感を感じるようになって、呼吸に親近感を感じるようになります。そうすると次第にニミッタが現れてきます。ニミッタが現れたら、それは集中力が良くなったということです。集中することは簡単でしょうか、難しいでしょうか?
「とても難しいです(笑い)」。
そんなに難しくないです(笑い)。呼吸の対象に10分あるいは15分、本当に幸せで楽しい気持ちで見ることができれば、ニミッタは簡単に現れてきます。よろしいですか?
「集中するのが難しい」と皆さん言いますが、次のヴィパッサナーのステップに行くと、さらに難しくなります。なぜならヴィパッサナーというのは、集中力が基礎になっているからです。

ニミッタから禅定へ

 ニミッタには三つの段階があります。始めの段階のニミッタは、黄色・オレンジ色・緑色・灰色など、人によって様々な色が見えてきます。何色が見えても構いません。しかし、その時心を色に集中しないでください。もしも色に心を集中させると、色は簡単に消えてしまいます。そして色はいろいろな所に散らばってしまいます。これは良くありません。ですから、最初の段階では、ニミッタに心を集中しないで、あくまでも呼吸に集中してください。すると、やがてニミッタは白色に変化して行きます。それがニミッタの第二段階になります。

 最初の段階で色に集中して禅定に入ろうとすると、とても簡単にニミッタが消えて、禅定から落ちてしまいます。ですから、ニミッタが白くなるまで待つことが大切なのです。さらにニミッタは明るく輝いてきます。ダイヤモンドのように輝く光になるのが一番善いのですが、そこまでいかなくても、星のような輝きになれば、これが第三段階、パーリ語で言うとパティパーガー・ニミッタ(似相)になります。

 鼻の前にそのような白い輝く光が安定的に現れて、それが5分以上安定したら、段々とそちらの方に意識を移していってニミッタを見るようにします。これをアナパナ・ニミッタというのですが、「アナパナ・ニミッタ、ニミッタ、ニミッタ」と、ゆっくりと注意を向けていきます。
 ニミッタに集中し続けてしばらくすると、心も身体も非常に軽くなり、心地よくなっていきます。そして身体が消えたような感覚になって、心はニミッタを見ることに幸福感を感じるようになります。そして、五禅支という五つの禅の要素が現れ始めます。

 五禅支というのは、1、ヴィタッカ(尋)という、対象をずっと見ようとする心、2、ヴィチャーラ(伺)という対象を見ることを支えている心の働き、3、ピティという喜び、4、スッカという喜びよりも静かな楽という要素、5、対象とずっと一つになっているというエカーガタ(一境性)です。
 この五つの禅の要素については、禅定に入っているときはその中に没入しているのですが、禅定から出た後で、その禅定の中に五つの要素があるかどうか振り返って確認します。このようにして、第一禅定から第四禅定まで実践して行きます。

 第一禅定には五禅支があります。第二禅定ではヴィタッカ(尋)とヴィチャーラ(伺)が落ちて、ピティ(喜)とスッカ(楽)とエカーガタ(一境性)だけになります。第三禅定ではピティが落ちて、スッカとエカーガタの2つだけになります。第四禅定ではスッカが落ちて、ウペッカ(捨)という要素が入ってきて、ウペッカとエカーガタの2つだけになります。

 第四禅定まで到達すると、心が強くなって集中力が強くなります。その集中力で、身体の三十二の部分を見ます。例えば頭の髪の毛を見ていると、皮膚の下の毛根のところまでしっかりと見えるようになります。身体の中のすべての器官、例えば膀胱や腸、食べた食べ物などを見ることができるようになります。皆さん、では今眼を閉じて身体の中に集中してみて胃や心臓などの器官を見ることができるでしょうか。
(会場)「見えません」。
なぜ、見えないのでしょうか。
(会場)「集中力がないからです」

 そうですね。十分な集中力があれば見ることができるのです。では想像することはできますか。綺麗ですか、それとも醜いですか。いい香りがしますか、臭いですか。みなさんどうでしょう。
 皆身体の部分は同じです。集中力をつけてヴィパッサナーで身体の中を観察すると、皆身体の中は同じだということがわかります。私たちは身体の中が醜くて臭いことを知っているので、身体の中を見ることに集中したくありません。ですから身体の外側の部分しか見ないで、外側に対して執着するのです。

ある比丘尼の話

 ここで一つお話をしたいと思います。ブッダの時代にルーパナンダという比丘尼がいました。彼女はブッダの従姉妹でした。ルーパナンダは、始めはブッダに対してあまり善い感情を持っていませんでした。彼女が結婚式を挙げるときに、従兄弟であるブッダを式場に招待しました。ブッダは式場にやってきました。花婿はナンダという名前で、彼もまたブッダの従兄弟だったのですが、式の後ブッダは花婿に托鉢の鉢を渡し、ついて来るように言いました。ブッダは式場から僧院までさっさと戻ってしまったので、ナンダは僧院までついて行かなければなりませんでした。

 僧院に着くと、ブッダはナンダに出家するよう告げました。それでナンダは仕方なく出家してお坊さんになりました。ナンダは本当は出家したくなかったのですが、ブッダを畏れていたので仕方なくお坊さんになったのです。すばらしいですね(笑い)。みなさん誰か結婚式を挙げるときはサヤレーを呼んでください。僧院へ連れて行きますからね(笑い)。
 そういうわけで、ルーパナンダは幸せではなかったのです。そのときに彼女のお母さんなど親類一同も皆出家してしまい、彼女はたった一人、王宮に残されてしまいました。彼女は、「私の親戚は皆出家して僧院に行ってしまった。私も出家しなければ親類に会うことができない」と考えて、出家することに決めました。

 その後、彼女は僧院に行きました。しかし、自分の美しさがブッダに見えない様に、なるべく後ろの目に付かない所に隠ようと思いました。そこで彼女は一番後ろの、隅の所へ行き、ブッダに気づかれない様そっとその場に座りました。ところがブッダは、神通力があるので、彼女が来ると言うことが分かり、話の準備をしました。更にブッダは、神通力使い、とても美しい16歳の女性を作り、ブッダの横に座らせ、団扇で扇がせました。

 最初、ルーパナンダは、ブッダの話を聞いていましが、その内、隣に座っている若くて美しい女性に見とれ、興味を引かれて行きました。ルーパナンダは、ブッダの隣で団扇を扇いでいるこの女性を見て、自分よりも遥かに美しいと思いました。ブッダは、ルーパナンダが、この女性に関心を寄せていることが分かり、その女性の年齢を、16歳から20歳に変化させ、さらに20歳から30、40、60歳と、徐々に変化させて行きました。60歳を過ぎたころから、肌の艶も無くなり、容姿も変化し、髪の毛の色も変化して行きました。

 それを見ていたルーパナンダは、団扇を扇ぐ女性に対し興味を失って行きました。更にブッダは、その女性の年齢を80、90歳と変化させました。そのうち女性は、腰も曲がり、病気になり、自分で自分の身を支えることさえ出来なくなり、その場に倒れ、ついには死んでしまいました。皆さんそれをイメージできますか。集中力を使って、自分自身が段々年を取り、色も変わり、髪の毛も変わり、腰が曲がって行き、死んで行くまでの過程をイメージしてみて下さい。

 更にブッダは、その亡くなった女性の遺体を2、3日経った状態に変化させました。その遺体は黒く変化し、徐々に悪臭を放ちました。皮膚からは体液が流れ出し、内臓が腐敗し、裂け、虫達が集って来ました。それを見ていたルーパナンダは、身体に対して嫌悪感を覚え、自分の体もこの遺体の様になるのだと悟りました。ブッダは、ルーパナンダが洞察力を身に付けていることを知り、更に自分一人で涅槃に到達できるのか、涅槃へ導く師が必要なのかを調べました。彼女は一人では涅槃に達することは難しく、涅槃へ導く師が必要なことが分かりました。ブッダは神通力を使い、「身体というものはこの様なものであり、今は役に立っていてもいつかお前の体もこの様になる。全て変化し、消滅してしまうものであり、執着の対象にはならない」と彼女に直接語り掛けました。

 どうですか、それは事実ではありませんか。あるとき、体というのは使うことができなくなっていまいます。死んでしまったときには、臓器も機能しなくなってしまいます。彼女はそれを自分の中で瞑想してそのことを深く観た時に第一の悟りである預流果に達しました。皆さんどうですか、預流果に達しましたか?(笑い)

新しく作った町の例え

 ブッダはルーパナンダに対して預流果から阿羅漢に導くためにいろいろなお話をしました。ルーパナンダに自分の体について集中して観てみるようにと。体というのは新しく作った町のようなものだと例をもって説明しました。
 新しい町には区画があり、それは人間で言えば骸骨みたいなものである。町の区画きというのは建設の基礎になっているから骸骨みたいなものであって、その上にシステム上のプランが必要でそれが神経系であったりとか、血液系であったりとか、その様な例を上げました。私達の体というのは骨が基礎になっていてその上に内臓があってそれをつなぐ血管とか、いろいろなものがあってそれで体になっています。皆さん分かりますか。

 新しい町には病院があったり、学校があったり、お店があったりという風に設計されていろいろなものがありますけれども、新しい町を設計するのは、エンジニア、大工さん、ということです。私たちの体も内臓があったり、血管があったりと、いろいろなものがありますが、これをつくるのは、私たちの執着です。町を作るエンジニアは、体について言うと執着であるということになります。ブッダは私たちの執着を乗り越えるために、「今をヴィパッサナーによって観察をして、心と体に対する執着を切るようにしなさい」とおっしゃいました。

 ブッダはさらに全ての、「体にしても心にしてもそれはすべて、スンニャータ、空、ゼロ、無である。それを深く観てみなさい」とおっしゃいました。私たちの体もそうですけれども、全ての物質というものは、物質の最小の微粒子であるルーパ・カラーパというものからできています。ルーパ・カラーパというものは生じて滅している。生じて滅しているから、無常であって苦しみであって、自分ではコントロールできないから無我であるということです。

 この様にしてブッダはヴィパッサナーによって現在の執着を断ち切りなさいとおっしゃったわけですけれども、その時に三つの人生についてお話しました。過去の人生、現在の人生、未来の人生、この三つです。私たちはともすれば、過去というものに執着を持っているので過去におけるナーマ・ルーパ(心と体)についても見る必要があります。同じようにして未来に何になりたいかという未来像についても執着があるので、未来についてもヴィパッサナーで見る必要があります。執着について過去におけるナーマ・ルーパに対する執着とか、現在の自分の体と心に対する執着、未来の体と心に対する執着、これを全部断ち切ることによって執着を切ることができます。

 それと同時に私たちはそれを見ることによって、過去における執着があって現在こういう風にして存在しているということを理解することができます。過去の人生が原因になって現在の私たちの人生が結果としてあります。現在の人生が原因になって、今度は未来の人生が結果として現れます。これが十二縁起における原因と結果ということです。ですから、私達はヴィパッサナーによってこの縁起について、原因と結果の関係について、過去、現在、未来の原因と結果の関係をヴィパッサナーによって見る必要があります。

 このようにして、過去、現在、未来の執着を切ることによって涅槃に行くことができますが、彼女はそのようにしてそれを深く見ることによってついに阿羅漢に達しました。非常に早く阿羅漢になりました。ですから、私たちは瞑想をしっかりして、怠けてはいられない訳です。真実というのは誰にでも快いものではなく、ある人にとっては気分を害することもあるので、真理を語るときは、気をつけて話さなくてはなりません。

オーストラリアでの法話会

 6年前にオーストラリアのシドニーでこのようにお話しする機会がありました。その時に小さな家で瞑想グループを主催している女性がいて、法話を頼まれある夜に行きました。家に入ったところ、彼女はとても綺麗にお化粧して、まるで女優さんの様な格好して出てきました。そのときにサヤレーがパッと思いついたのは、アスバ瞑想、死体の瞑想だったそうです。死体の瞑想について話すのが善いのでないかとパッと思いついたのです。

 サヤレーはそこの家で、ブッダが話した様に人間の体がどの様に変わって行くか、だから体というのはあまり執着できないものだと言うお話をしました。そうしたら、招待してくれた女性の顔がだんだん黒くなって行って、彼女はサヤレーの話に機嫌が悪くなったというのが分かりました。それでもその話を途中で打ち切れなくて、全て話しました。法話が終わったら、その女性は居なくなってしまいました。彼女はサヤレーに「さよなら」の挨拶もしないでどこかに居なくなってしまいました。

 それから3年間サヤレーを法話に呼ばなかったそうです。それからも毎年、シドニーでリトリートをやっているのですが、彼女はずっと来ませんでした。ところが3年経った後、彼女はまた現れました。そのときは化粧も無しに素顔で現れたそうです。彼女を知っている友達はみんなびっくりしました。というのは、彼女はいつもお化粧して、きれいな出で立ちで来ているのに、3年後再び会ったら化粧もせずにさっぱりした形で現れたので、サヤレーも周りの友達も驚いたそうです。
 彼女は自分について分かってきたのだなと思いました。彼女は寄進してお寺を立てたいとその時にサヤレーに言ったそうです。すでにオーストラリアにはお寺があったので、その時の彼女のダーナについてはお断りしましたが、彼女の気持ちが変わったので非常に嬉しく思いました。

 自分たちは美しいという話は聞きたがるのですが、実際自分の体は骸骨でできていて、悪臭を放つということは中々聞きたがらないのです。聞きたがらないけれども、それが事実です。皆さん骸骨と言われも平気ですか?ですから、皆さん自分の体については、そういう風に観て下さい。自分の体は単に骸骨であっていずれ用を成さなくなってしまうと、そのように深く観て下さい。この体が何で意味があるかというと、この体で瞑想して善い行いをする。そのためにこの体の使い道があるということです。この体を使ってする善い行い、瞑想やそのような善い行いのカルマだけが私達について来るものです。

心のプロセス

 これから、どの様に過去世を見るのかについてお話したいと思います。私たちには心と体があります。例えば、地水火風の四つの要素に分ける四界分別で眼を分解して見ていくと、最終的にルーパ・カラーパという微粒子になり、それが現れたり、消えたりするのが見えます。最終的にこのルーパ・カラーパが、以下の四つの原因からなっていることを見るべきであるとブッダは仰っています。

 一つ目は、カルマによって作られるものです。二つ目は、心によって作られるものです。三つ目は、温度によって作られるものです。四つ目は、栄養素によって作られるものです。
眼の中の微粒子(ルーパ・カラーパ)は、それぞれカルマ、心、温度、栄養素のいずれかにより、生じては滅しているかを見ることができます。それを、ヴィパッサナーによって見なくてはなりません。眼だけではなくて、耳、鼻、口、体、心(が宿っている心臓)の全部で六つの感覚器官それぞれに四つの原因のルーパ・カラーパがあり、それらが生じては滅しています。

 それゆえに、無常であり、苦であり、無我であるということを観察しなくてはなりません。自分の内側に対しても、外側の物質に対しても観察します。眼については、透明な要素(パサダ・ルーパ)があって、この透明なものが外側から入ってくる光線と接触したときに、その色や形などを認識できるようになっています。同じように透明な要素が、眼だけでなく、耳、鼻、舌、体の触覚にあり、それらにより感覚が分かります。

 より具体的に言うと、まず外側の対象があり、そこに反射した光が眼に飛び込んできて、眼の中の透明な要素(パサダ・ルーパ)と光が接触したときに、眼識が生じます。
次に、対象を受け取る心(領受心)が働きます。
次に、対象が何であるかを類推する心(推度心)が動きます。
次に、対象が何であるかを確定する心(確定心)が起こります。
次に、対象を味わう心(速行心:ジャーバナ)が7つ続きます。

 そして、対象が何であるかが確定すると、それが好ましいものであるか嫌なものであるかが決まります。好ましいものであると、善い(クーサラの)心が生じます。7つの速行心(ジャーバナ)は、それぞれ1つの心というわけではなく、よく見てみると1つの意識と33の心所が同時に発生しています。
 つまり、心は1つではなく、グループとして生じます。そして、この速行心(ジャーバナ)がカルマを作ります。しかし、見た瞬間のカルマは、それほど大きなものではありません。見た後に、心の中でいろいろ思ったりすると、同様に速行心が繰り返し発生します。
このように心の中で思い、速行心が繰り返し発生することによって、大きなカルマが生じます。

 見た後、眼門に付随する心の過程があり、これが何だと分かり、それで速行心が働きますが、その後心門の過程に入り、例えば楽しんだりする心によって、カルマが作られます。
その繋がりのところに、有分心という普段意識されない、眠っている時の意識が挟まります。
心門の働きがあって、眼門の働きがあり、また心門の働きがあるという心のプロセスが続いていきます。
 私たちが瞑想しているときに例えると、ニミッタを見るときに、最初にヴィタッカ(尋)という心をそちらに向ける働きがあり、これは何だと知ることができます。最初にニミッタだと知った後、常にそちらを見ていようと支える心、ヴィチャーラ(伺)が働きます。
そして、1秒間に非常に沢山の心のプロセスが起こります。

 ものを見たときに、眼門のプロセスがあり、それが心に入ってきて、心で楽しんだりします。このように心のプロセスがあって、いちばん中心になっている速行心(ジャーバナ)という7つ続くの心の働きは、さらに三つに分類されます。
 1番目の速行心は、強い時には現在に結果をもたらします。7番目(最後)の速行心は、次の転生に現れるカルマをつくります。2番目から6番目の速行心は、涅槃に行くまでの未来のいずれかのときに現れるカルマを作ります。

 このように速行心(ジャーバナ)は三つに分類されます。例えば、1分間だけでも呼吸に集中していれば、非常に善いカルマを作っていることになります。この7日間で、皆さんはとても善いカルマを作ってきました。欲とか、怒りとか、無知とか、迷いとか、嫉妬とか過去に起こったいろいろな心もカルマを発生させています。1分間怒ったとしても、多くの不善のカルマを作っています。
 怒りが非常に強い場合、今世において結果が現れます。それほど強くない場合は、今世において結果が現れずに、来生において結果が現れます。また、あるときは、今世でも来生でもなく、それ以降の生で現れてくることもあります。ですから、我々は体と心に対する観察をしないといけないわけです。

過去世を見る

 それから、私たちは過去世を見る必要があります。皆さん、自分の過去世を思い出せますか?昨日のことは思い出せますか。昨日何を食べたか思い出せますか。昨日でさえなかなか思い出せないのに、過去世はどうでしょうか?
 昨日の夜、ここで坐って瞑想していたとき、どういう心であったか、例えば、どういう対象について瞑想していたかとか、眠かったかとか、どういう気持であったかとかを自分の中で思い返してみてください。そのときに、どんな妄想や考えが浮かんできたかを思い出せますか?昨日怒ったことがあれば、今日思い出せるでしょう。

 そんなふうにして、昨日、1月前、1年前と、だんだん過去を遡って観ていきます。どうしても若い時を思い出せないときは、禅定(ジャーナ)に入れる人は第四禅定まで入って、「この頃のことを思い出す」と非常に強い決意をすると、その頃の映像がパッと出てきます。映像が浮かんだ時に、ヴィパッサナーをする必要があります。その映像について、全ては無常であって、苦であって、無我であるという風に見ていく必要があります。

 同じようにして、そのときの映像だけでなく、その頃の心についても、善であっても不善であってもよく観察して、それが無常であり、苦であり、無我であると見ていく必要があります。そのようにして、母親の胎内にいた時の意識までどんどん遡っていきます。そのときは善い心も悪い心もなくて、ただ眠っているような意識にたどり着きます。

 それから、いちばん最初に心が発生した時まで行って、その前の生のナーマ・ルーパ(心と体)を見ようと決意して、ただそれを観察します。母親の胎内に入ったときの最初の心と体について、無常であり、苦であり、無我であるとヴィパッサナーにより継続して観察します。そのように観察していくと、ある時心がババンガ(有分心)という無意識的な状態に入って、あるイメージが出てきます。そのイメージが出てきたときに、それをチェックして、人間なのか、天上の神々なのか、あるいは他の生命なのかを見ます。

 そのようにイメージが人間である天上界であるのかを見ていって、その時に無明がについて見ていきます。無明とは何かと言うと、人間になりたいとか、神々になりたいとか、そのように思っていた心その心を見ていきます。次の生では、人間に生まれたいとか、神々、梵天に生まれたいとか、そのように見えるのは、間違った見方であるから無明と言うわけです。正しい見方というのは、人間も神々もなく、ただルーパ・カラーパがあるだけであると言うものです。

 過去世において無明があり、次には人間として生まれたいと言う思いがあったためにこうして今人間として生まれてきているわけです。その時に人間として生まれたいと思ったのは、人間というものに対する執着があったからです。それはタンハー(渇愛)、人間として生まれたいと言う、欲があったからそうなったわけです。そして、人間の生に対するウパダナ、つまり大変強い執着があったわけです。それで、無明、渇愛、執着と言う。この三つが不善心の中の欲のグループです。そして、この欲グループの中には、20の心と心所があります。先程、クーサラつまり、善の心には、34種類の心所が含まれているとお話しましたが、この不善心のローバつまり欲のグループには、20の心と心所が含まれています。ですから、過去の心の中に「無明、渇愛、執着」がどのようにあるか、ということを見る必要があります。

 また同じようにして、過去世において、どのような善いカルマかあったかを見る必要があります。なぜならば過去において、善いカルマがなければ、動物界やその他の四悪趣の世界で生まれているわけで、人間にとして生まれることはなかったでしょう。善いカルマというのは、お布施をしたとか、戒を守っていたとか、瞑想をしたとかというものです。それで、過去における原因と結果ですね。どういう原因があって今どういう結果に、なっているかを見る必要があります。
 そして、過去における誤った見方、無明と善い行い、すなわちカルマが原因となってこのようにして人間として生まれてきたという結果を見ることができます。皆さん分りますか、とても難しい話ですけれども。

 そして次に今度は現在があって未来がどうなるかを見ていきます。現在において、皆さんが、正しい見方を持っているか、誤った見方を持っているか、と言うことです。皆さん、自分は、正しい見方を持っていると思いますか、間違った見方を持っていると思いますか。私たちはいずれ死ぬわけですが、死んでから皆さんは次はどこに生まれ変わりたいと思っていますか。考えてみてください。また人間に生まれたいか、神々の世界に生まれたいか。上の世界へ行きたいか、下の世界へいきたいですか。どこへも行きたくないですか。梵天界、神々の世界、人間界、動物界、餓鬼界、そしてさらに下の世界。

 どこの世界へ行きたいと思いますか。ニッバーナ(涅槃)ですか。現世において、ニッバーナに行くことができなければ、また次の世界へ、転生していきます。それで、次はまた人間に生まれたいという風に思ったとすれば、それは無明です。正しい見方はただ、ナーマとルーパ、心と体があるだけである。というものです。人間の生に対する渇愛と執着とがあるわけです。

 戒も守らず瞑想もせず善い行いをせずに善い世界へ行きたいと言うことは難しいことです。なぜならば善いカルマがなければ善い世界には行けないからです。善い世界に行きたいと思ったら、善いカルマを作らなくてはなりません。ですから皆さんは今、どこへでも行ける善いチケットを持っているわけです。現在善い行いを作っていないと未来は、危険なことになります。

 同じようにして未来についてもナーマとルーパを見ていきます。明日、明後日、1週間後、一月後、来年、10年後、そして死ぬ直前の意識について集中力を持って見るようにします。死ぬ間際の意識に次にどこへ行くかのサイン、映像が現れます。それで、次の生で、私達がどこへ行くかと言うことがおおよそ分ります。そして死ぬ直前の意識についてヴィパッサナーで見ていきます。そうしていると、バーバンガ(有分心)に落ちて、そして、次に行く世界の映像が現れます。そしてその未来について同じように、現在における原因と未来における結果というものを見ていきます。これが縁起における原因と結果のつながりです。

 そして、過去と現在の原因について、今度は、無明、サンカーラ(行)から渇愛について見ていきます。なぜならば、この無明、間違った見方がチェータナ(意志)を作るからです。そしてこのサンカーラ、つまり善いカルマが、死んだ後に、善い所に生まれる意識を支えます。そしてこの意識によって、母親のお腹の中でナーマとルーパつまり心と体が生じます。

 お腹の中において、最初の段階でのナーマとルーパ、つまり、心と体は、まだ未成熟です。そして数週間後に、六つ感覚器官、眼耳鼻舌身意が、少しずつ形成されます。そしてこの六つの感覚器官によって、六つの接触が生まれます。もし目がなければ、外界との接触は生じません。眼という感覚器官があるから、外の世界が見えるわけです。六つの接触によって、六つの感覚が生じます。これをヴェーダナといいます。この六つの感覚によって.六つの渇愛が生まれます。この渇愛が未来に繋がる境界線になっています。もし現世において、ヴィパッサナーをして、これらの渇愛を断ち切ることができれば、もう転生はなく次の生はありません。

 六つの感覚器官、眼耳鼻舌身意を通じて接触があり、新しい車が出たというと、買いたくなり、新しい家があると欲しくなるわけです。それは接触があるからです。見たり、聞いたりしなければ良いのだけれども、接触によって、六つの感覚が生じ、六つの渇愛か生じます。渇愛によって、来世はどうしたいという思いが生まれます。

 それで私たちがヴィパッサナーをして自分の体についてまた、他人の体についてよく見て、執着後なくすようにします。それだけではなく、外側の物質的な物、家、車、お金などの執着する対象についても、ヴィパッサナーで見ていく必要があります。そのようにして、私たちは、現世における執着を切っていきます。執着を切ることができなければ、いつの日か.悲しみ普通.嘆き、苦しみに出会います。嫌いな人と一緒にいなくてはならないとか、家族の誰かがなくなって、愛する人々と別れなくてはならないとか、そういう苦しみに出会います。この体と心はすべて苦しみのもとにあります。  

 皆さんそれが、真実ではないでしょうか。ですから、ヴィパッサナーをして、自分たちの体を観て、32の部分の体を観てあるいはルーパ・カラーパが生滅するのを観て、執着を離れていきます。そして家とか、車とか家族についてもよく、観察します。自分が死んだときに、誰もついてくるものはいません。家も金もついてこなければ車もついてきません。ただ、自分の作ったカルマだけがついてきます。自分の人生の中で.誰かを信用することができますか。
 自分の夫、子供、もしあなたは死んだとき、しばらくの間は悲しむかもしれませんが、そのあとは銀行の預金通帳とか、カード他に関心が移ります。預金通帳を見て、たくさんお金が入っていれば、「ああ、お父さんはちゃんと貯金していてくれたのだ」と思いますが、結局、あなたよりも、お金の方を愛していたと言うことになります。どうですか。それが真実ではないですか。違っていたら許してください。

 ですから気をつけて、この瞑想合宿がうまくいかなかったからと言ってがっかりしないでください。皆さんは、善いカルマを作ってきました。それはあなたの人生についてきます。そして善いカルマを作っていれば心は幸せになり、それは強いカルマとなります。リトリートに来ても、怠けていて、楽しく感じない人もいます。坐るのはつらいし、この先生は、いろいろ言って私たちをいじめるし(笑い)。そんなふうに思っていると、悪いカルマを作ります。善いカルマを作るのは楽しいことです。一時的な苦しみも、幸福につながってきます。我慢して聞いてくれてありがとうございました。

   サードゥ!  サードゥ!  サードゥ!



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