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四聖諦・苦の原因   ディーパンカラ・サヤレー (09.5.7)


 皆さま、こんばんは。
今日は最後の法話になりました。明日になると各自、自宅に戻られると思いますが、時間をとって、今回の瞑想リトリートに参加してくださって、どうもありがとうございました。
私もみなさんと、とても有意義な時間を過ごすことができました。また、個人的にも瞑想に集中できて、とてもいい時間が持てました。今晩は、前回の続きで、四聖諦のうちの二つ眼、苦しみの原因についてお話ししたいと思います。

 四つの聖なる真理ですが、一つ目は前にお話したように苦しみの真理ということで、ナーマとルーパがある限り、すなわち心と体がある限り、苦しみが存在するというのが一つ目の真理です。ヴィパッサナー瞑想の一つ目のステップになるのですが、ルーパすなわち体の真実を洞察していくということで、体の中を深く観て行く。32個所の部分に分かれている体の一つ一つを洞察していくというのがヴィパッサナー瞑想になります。

 四つの要素・四界分別の瞑想もやはりルーパすなわち体の真実を深く洞察していく内の一つとなります。そして、体に対しての執着という心も見ていかなくてはいけません。内臓は眼に見えるものではないので、内臓に執着を持つということはあまりないのですが、眼・耳・鼻・舌…、という感覚の門から入ってくるものに対して、人間は、どうしても執着を持ってしまいます。

 それは自分自身の体のみならず、他人の体に対しても執着を持つということもあります。
32の部分があって、眼に見える部分、例えば髪の毛に対して執着を持つ方が多く、髪の毛を染めたりとか、お金を掛けてパーマを掛けたりする。そういうものの根源にあるのは、体の一部である髪の毛に対する執着です。
 皆さんいかがですか?あるいはまた、肌に対する執着はありますか?肌も32部分のうちの1つです。

 やはり、32の部分のうち、眼に見えるものには執着心を覚えてしまうので、それも深く深く見ていって、ルーパ・カラーパというルーパ(物質、体)の本質を見ていくことによって、執着心を手放していくということが必要です。

 究極の真実ということを、ブッダは仰っていますが、すべて体の内臓、眼、髪の毛、耳・・・自分の体のすべてを微粒子のレベルで深く見ていくと、生じて滅する、生じて滅する、とすべて最終的には同じなのです。眼のカラーパ(微粒子)も耳の微粒子もまったく同じもので出来ているということが分かります。それを観るのは、やはり深い深い集中力であり、四大要素に分割していく瞑想が必要となります。

 テレビの例え

 いい例えがあるのですが、皆さん家に帰ってテレビを点けると思います。最初、テレビはテレビで、それを一つの物体として認識されると思います。好きなチャンネルを選んでテレビを点けると、最初、スクリーン全体が眼に入ってくると思うのですが、しばらくするとその中に存在する女優さんであったり男優さんであったりする。その体あるいは服装とかいろんなことが見えてくると思います。

 最初にテレビを点ける前は、テレビの全体、縁(ふち)も含めて見えていて、テレビを点けると今度、縁は自分の視界から外れていく。画面のみの集中になりますね。またしばらくして番組の内容に入っていくと、今度、中にいる女優さんとか男優さんにフォーカスして、スクリーンの背景がまた見えなくなっていきます。

 その例と同じように、集中力の幅を外側から中側にだんだんフォーカスして行くというのが、ルーパの瞑想の仕方と似ています。テレビ自体の縁とかスクリーンの背景は、眼に入っているはずなのですが、出演している女優さんに集中していれば、心の眼には入って来ないという状態になりますので、自分のフォーカスしたいもの以外は見えてこないという状態になっています。

 最終段階としては、もう登場人物、女優さんとか男優さんも見えず、彼らの着ている服装の色だけの印象を見て行くということになります。で、その色ももっと深く見ていくと、テレビのスクリーンの粒子がだんだん見えてきます。その粒子も実はルーパ・カラーパと同じように生じて滅して、色がチョチョチョッと変わって、点いたり消えたり、点いたり消えたり、黒くなったり白くなったりという現象が、だんだん見えてきます。
 もし外の天候が悪いときには、画面ザーッとなったり、そういう現象がスクリーンに見えてきたりします。そういうこと経験ありますか?

 粒子がいっぱいテレビのスクリーンに見えてくると思うのですが、そのうち1つにフォーカスしてみてください。そうすると、フォーカスしたと思ったら、パッと消える。1つフォーカスしたと思ったら、またそれもパッと消える。そのような現象が起こりますが、それは物質の世界での、ルーパの本質・真実というもので、テレビとか時計とか形あるものはすべて微粒子で出来ている真実ですが、自分たちの体も実は同じことで、同じような現象が起こっています。

ルーパ・カラーパをつくる四つの原因

 ルーパの本質というものは、つかめない。とりあえず、常に生じて滅しているという状態なので、捕まえることはできないのです。捕まえたと思ったら、必ずすぐ消えてしまう、滅してしまう。その次の瞬間には滅しているという状態になります。

 私たちの眼の玉も同じで、眼の玉も細かく細かく見ていくと、ルーパ・カラーパが生じて滅して、生じて滅してという状態です。捕まえようと思うともう滅しています。それが自分の体が出来ているルーパ(物質)の究極の真実です。眼の玉のルーパ・カラーパの生滅をずっと見ていると、眼の玉という形では認識できない状態になっていきます。ただもう生じて滅している微粒子の状態という風になります。

 そのルーパ・カラーパの生じる原因として、四つの原因があると見られていますが、そのうちのどの原因で生じて滅しているかということも、さらに深く見ていかなくてはいけません。ルーパ・カラーパには四つの種類があります。一つ目はカルマによって生じているルーパ・カラーパです。カルマによって出来るルーパ・カラーパには10の性質があります。

 二つ目のルーパ・カラーパとしては、温度によって生じるルーパ・カラーパです。温度のルーパ・カラーパには8つの性質があります。心によって生じるルーパ・カラーパが三つ目の種類になりますが、それにもやはり8つの性質があります。四つ目の種類としては、栄養によって生じているものがあり、それもまた8つの性質があります。

 四種類のルーパ・カラーパがあるのですが、そのうちの一つであるカルマによるものは、さらに三種類に分類されます。そのうちの一つは体のルーパ・カラーパ。体のルーパ・カラーパの中に含まれているのは、やはり10の性質があるそうです。ハダヤ(心基)のルーパ・カラーパが二つ目の種類で、その中にもやはり10の性質があります。

 三つ目は性=男性か女性かの性質のルーパ・カラーパがあり、10の性質があります。
いまお伝えした中で、ルーパ・カラーパの性質の数ですが、8つあるものと10あるものがあり、1から8まではすべて同じです。そのうち最初の4つは四界分別でやった4つの要素、地・水・火・風・になります。次は色ですね。その次が匂い、香り。次は味。次が栄養。カルマによるルーパ・カラーパでは、その8つに加えてさらに2つあるのですが、1つが命根、もう1つが透明な要素・浄色というふうになります。

 とても難しいのですが、みなさん、がんばって理解してください。ルーパの性質は重要なものです。ブッダが教えてくださったルーパの性質の真実なので、これを深く理解することで、ルーパ(物質)の真実が観えてきます。カルマによるルーパ・カラーパに、体と心基と性の三種類あって、それが10ずつなので、トータルで30の性質があります。

 それに加えて、温度の8つの性質、心の8つの性質、栄養の8つの性質を足しますと、30+24で、眼の玉には54の性質が含まれているということになります。眼と同じように、耳も地水火風4つの要素に深く見ていって、その中に54の性質が含まれています。
 鼻、舌、身など感覚器官のルーパ・カラーパにはすべて54の性質があるのですが、それ以外の体の部分は44の性質となります。

ルーパの本質、無常・苦・無我

 ルーパ・カラーパ(物質の微粒子)の生滅を観ていくのですが、その1つのルーパ・カラーパがカルマによって生じているのか、温度によって生じているのか、心によって生じているのか、栄養によって生じているのか。一つ一つのルーパ・カラーパが4つのどれによって生じているのか洞察して観て行きますが、それによって理解できるのが、ルーパ(物質)の本質、究極の真実です。無常・苦・無我が観えてきます。

 生じて滅している自分の体のルーパ・カラーパを観ていくと、最終的に自分の体という感覚を手放していくということになります。自分の眼とか、自分の手とか、自分の鼻とかいう感覚がないということは、自分の体とか他人の体とかいうことがないということなので、先ほど言っていました体に対しての執着心が消えていきます。

 自分の体もそうなのですが、他人の体ですね、自分の家族、自分の子供、自分の親などの体に対しても、同じような瞑想をしていきますと、彼らの体に対する執着心というものがなくなります。物質によっても同じことが言えて、家、車、お金、そういった物質的な物にたいして執着心があるのであれば、四界分別によって、深く粒子のレベルまで観ていけば、すべて同じ粒子に過ぎないと分かります。

 (生命体でない)物質というのはすべて、温度によって生じるルーパ・カラーパだそうです。それが全部まったく同じだということがわかって、執着をなくすことができます。自分たちのものと思っているものに対して、この瞑想をするというのはとてもいいことです。執着を手放すというのはとてもいいことです。

 皆さん、いい家に住んで、いい車に乗って、いい家族を持ち、財産を築き、いい思いをするために、一所懸命身を粉にして働いていると思いますが、それに対する執着が消えてしまうと、ずいぶん楽になると思います。例えばバナナの幹は、剥いても剥いても次の皮が出てくるだけで、最終的に中身はない、ということで、最終的に自分たちの体も瞑想で皮を剥ぐように深く深く見ていけば、最終的には何も「物質」というものはないということが分かると思います。

 自分のものに執着しないと、心と体が自由になるということなので、サヤレーもミャンマーにある自分のお寺を出る時にいつも、「私に何かあったら違う人にこのお寺を渡してください」と言います。別にこのお寺に対して自分のものという執着は持っていないので、全く楽に出発出来ます。そういった心を持って生きていくというのはとても良い方法です。もういつどこで死んでもいいと思えると、とても楽になります。とても心も落ち着きますし、とてもいい心の持ちようだと思います。

 服も三着ぐらいあれば全くまかなえますし、食べ物も戴いたものをただ有難くいただく。おいしいものとか豪華なものも求める心もありませんし、毎日、体が軽く心が落ち着いている状態で、とてもシンプルなライフスタイルを楽しむことができます。

 体というのは、他の方にどうやって奉仕できるかという道具として考えているそうです。どうやってこの体とエネルギーを他の人のために使うか、ということを考えていらっしゃるそうです。たとえ、その過程で病気になって死んでしまっても、それもOKだと思われているそうです。

善と不善

 ダンマ(理法)自体それが本当の本質、一番大切で重要なものだと考えています。ダンマを勉強し、ダンマに基づいて生きることにより、善と不善の心というものが分かってきます。
 生きていく上で、感覚器官を通して外の物質と関わりあうのですが、その前に、この関わりあうときの自分の心が善か不善かということをチェックします。善の心をもってその対象と関わりあうことで、その対象も善に変わりますし、自分の心も善でいるという状態になります。

 例えば世の中で不当なことを見てしまったりとか、そのようなことをしている人に対して怒りとか、直さなきゃいけないとか、自分自身の苦しみに変わってしまうと思うのですが、そのときにも慈悲の心を持って、人間というものは三つの要素―――欲と怒りと無知(貪・瞋・痴)という、どうにも拭いきれないベースを持っているということを深く理解して、大きな慈悲の心を持って、その不当な事実を前にしても善の心を持って対処することによって、手放すことができます。その状況を手放すことができますし、心が善のまま楽にいることができます。

 そういう状況に対して適切な対処の仕方は、ルーパ・カラーパとして見ることが一番良いのですが――ルーパ・カラーパだったらもう全部何もないという、物質というものが存在しないと見えるので、それが一番手放すには良い方法なのです。しかし、それが難しい場合は先ほど言った、欲と怒りと無知というベースがあることを知って、慈悲の理解を持って接するというのが手放すのにとても好い方法です。

 もう一つ深く理解するのは、全ての人は苦しんでいるということです。私の言葉だけでなくブッダもおっしゃっていたことです。欲しいのに手に入らない、それによって生じる怒り、そして無知によって生じる迷い、妄想――それによって、不善の心を持って苦しんでいるのが、私たち人間です。正しい意志によって生じる善の心を持って物事に関わっていけば、良い相乗効果によって善の心が向こうにも伝わるし、自分にも戻ってきます。

心のプロセス

 感覚器官によって入ってくる全てのものを正しい善の意志で受け止めることによって、全てが自分にとって善いものに変わる。同じ対象を見ても、それを不善の心――欲で見てしまうと、そのものが欲としての対象に変わってきます。そのものを欲しくなったりとか、そのものに対する執着というものを感じてしまいます。これは不善心のひとつです。欲の下にさらに色々分類できますが、正見の反対で、正しく見ない、間違って見てしまう――邪見というものがあります。

 例えば自分の夫だからこう見るとか、男だからこう見るとか、女だからこういう風に理解してしまうとか、ということも全て欲の下にくる邪見の一部です。それは人間に対してだけでなく、物質――例えば自分の家とか自分の車とかいうことに対しても言えることで、これもこの欲と邪見によって生じる執着心であったりとかします。意門――心に起こることですね、それを見る時に、例えば五つの感覚器官から入ってきたものにより、心に色々な感覚が起こる。

 そのときのプロセスを見ていくと、1つの意識が起こると、そこに19の心所が――心に付随する感情とかの要素を心所といいますが――付随しています。そういう過程があって、それから、7つの速行心が続いてその速行心がカルマを作ることになります。貪欲には20の要素があり、すなわち1つの意識があって、19の心所がそれに付随しています。最初に言った、貪欲と邪見があって、それからもう1つが慢です。この3つが一つのグループを成していて、それぞれ1つずつに1つの意識と19の心所、いわば不善心所が伴っているということです。

 大まかに言っているので、そんなに細かくこだわらなくても結構です。これは心の過程のことを言っているので、心を知るにはこういうことをある程度知っていないと分からないということです。知識として聞いておいてください。そういう知識が預流果になるためには、必要になってきます。

 怒りもやはり不善心のうちの1つです。皆さん、怒りをもっていますか? 時々疲れてくると、皆さんの怒りを感じるときもあります。怒りのタイプは18です。やはり、1つの意識と、それに付随する17の心所から成っています。無知も不善心の1つです。落ち着きのなさ、疑い、慢もそれぞれ不善心の1つです。

 無知・落ち着きのなさ・慢・疑いには15の心所と1つの意識があります。なので不善心は、この6つの種類が現われてきます。自分の心を深く知るためには、そのうちのどの要素が自分の今の状態になっているのかということを見ていくことが必要です。全て16から20の要素(心所)を一つ一つ見ることによって、心のプロセスのなかの、無常・苦・無我という真理が見えてきます。

 喜びという、心で感じるものも、実際にある心所が何かということを見ていくことが必要です。何かを見て感じる喜びに関しても、それが善の心から生じているものなのか、不善の心から生じる感情なのかということも見なくてはいけません。また生じては滅している心のプロセスについても、無常・苦・無我の状態というのを見ていく必要があります。

 怒りだとか喜びだとかの感情が起こるときに、その感情は一つだという風に見えますが、実際にはその中に非常にたくさんの要素があり、例えばさっき言った欲には1つの意識があって、19の心所があります。19というのは具体的に何々と挙げることができますが、それが一緒にあって、そういう風に分けることができます。

 感情のほかにもいろいろな心所が付随しているのを知ることが必要です。その感情によって欲・怒り・無知・落ち着きのなさなど色んなものが付随しているということを理解してください。分かりますか?

 自分がいろいろなものを持っていて、自分が優秀だと感じて他の人に比べて優越感を覚えるというのも、その中に隠れているのは欲であったり、無知であったり傲慢な心だったりしますので、それを深く見ていって理解することが――自分の中に細かく見ていくということが必要になります。

ヨーロッパの国民性

 日本に来る前にドイツに行ったのですが、10日間のリトリートを二度行いました。ヨーロッパ各国からいろいろな国の人たちが来ていて、その国によって性質が色々で面白かったです。ドイツ人は、「われわれはドイツ人だ、世界で一番優秀な民族である」という確固たる自信ある態度をとっていました。フランス人はフランス人で、「われわれは一番だ」という信念を強く持っていて、他の国の人たちとは交わらずにフランス人だけで固まっているような状況でした。

 スイス人は大きな銀行もあって、皆さんお金持ちが多いので自分たちだけのことを考えて、他の国の人は関係ないというような態度でした。イタリア人やスペイン人はラテン系なので、感情的でやわらかい人も多かったです。

 そのように国によって性質がずいぶん変わっていることが見えました。ドイツ人の瞑想者と話をしましたが、「ヨーロッパでの体験は、いかがでしたか」と聞かれたので、「5年前にもイギリスで瞑想の合宿をしたので、ヨーロッパの人には慣れている」と答えましたが、そのドイツ人は、「フランス人は鼻が高い(傲慢)ですね」と言っていました。ヨーロッパ全土を見ても、やはりドイツ人は強い性質を持っている人が多いようです。

 大体2分間一人一人の目を見れば、心の状態はすぐ分かります。だからそれぞれの国の一人一人目を見て、それぞれの状態を確認することができました。
(参加者:日本人はどうでしょうか?)
 日本人は素晴らしいです。私は日本人が好きです(笑)。私は単刀直入に物を言う方なので、ドイツ人とは結構うまくいきました。もし悪い方向に行っている瞑想者がいたら、面と向かって、「違います」と言いました。

 世界中旅していますが、やはり自分がアジア人だからかもしれませんが、西洋人に比べてアジア人のほうがしっくり来ます。ミュンヘンからフランクフルト経由でシンガポールに戻りましたが、飛行機の中に200人ぐらい乗客がいました。そのうちアジア人は自分と韓国の人だけでした。その人はたまたま自分の前に座りましたが、降りるときに大変よく面倒を看てくれ、同じアジア人同士で心の優しさをとても感じられてよかったです。

過去を見る

 今はそういう話をしましたが、心の状態というのはどこに行っても、アジア人でもヨーロッパ人でも皆同じなので、一番大切なのはナーマ・ルーパ(心と体)をきちんと見ていってヴィパッサナー瞑想をすることです。ナーマ・ルーパの今現在の真実を見ていくというのが一つ目の聖なる真理なのですが、その原因を見ていくというのが次のステップになります。そこでは過去世を見ていくのですが、その瞑想の最初のステップとしては、まず昨日の自分の心の状態を見ていきます。

 昨日ここで瞑想して、坐っていたときの自分の心の状態はどうだったか、自分の意識はどういうところにあったのかということを思い出して、見ていくのが最初のステップになります。昨日の心の状態を思い出すことができますか?
 どんなポジションで座っていて、どんな意識を持っていたのか――心が彷徨っていたのか、そういうことを事細かく思い出すことができますか?

 想像してどうぞ昨日の状態を思い出してください。昨日が無理でしたら、今日の午後例えば何を食べたのかとかそういう細かいことを思い出してください。お昼に何を食べたか覚えていますか?
 そうやって昨日坐っていたときの状態、今日の午後ものを食べたときの状態など細かいことを思い出すということは、過去世を思い出すことの練習になりますので、やってみてください。

 そのように昨日、1週間前、1ヶ月前、数ヶ月前、1年前という風にだんだん過去にさかのぼっていってそのときの自分の心の状態、生じて滅しているナーマ・ルーパ(心と体)の状態というのを見ていきます。1年前のことを思い出せないときは、まず第四禅定まで行って集中力を高めて、1年前のことを思い出すという決意を強く心の中に持つと、しばらくするとその1年前のことがパッとよみがえってきます。

 最終的には自分のお母さんのお腹の中にいた時のこともはっきりと見えます。そこでナーマ・ルーパ(名色)の消滅をヴィパサナー瞑想で見ていくと、お母さんのお腹の中に入った瞬間を思い出します。その母親の中に宿った最初の瞬間のところにいて、その瞬間に辿り着いた時に「過去世を見たい」という決意を自分の中で持ちます。それを持ったら、それはそれでやめて、どういう過去世だったのかという想像とかを全くせずに決意だけを持って、続けてナーマ・ルーパ(心と体)の消滅している状態を深く深く見ていきます。

 深く深く見ていると、疲れてきますが、疲れてきてふと意識がなくなる状態があるのですが、意識が無くなった状態の時になって初めてハッと過去世のビジョンが出てきます。難しくありません。たくさんの方にニミッタが見え始めて、だんだん禅定に入られていると思いますので、もう第四禅定まで到達されればそれ以降はとても簡単なのでご心配なく。今年サヤレーのセンターでは、20人以上の方が過去世を見たそうです。

 映像が見えてくるのですが、その映像をチェックします。チェックする方法は、男だったか女だったか、人間だったか神だったか梵天だったか、そのような細かい性質を見ていきます。ほとんどの人がその前世、この今世に入る前の1つ前の過去世の死に際の映像が見えます。その時にやるとことというのは、死に際の心基(ハートベース)のあたりで、心の状態を見ていきます。ずっと見ていくと、その時の心の状態というのがわかってきます。伝わってきます。

過去における心の状態

 ちょっと前に説明した昨日のこの状態を見ていくのと同じ方向で、過去世の死に際のこの状態を思い出す事が出来ます。理解できますか?そうやって見ていくと、例えば無知というものが見えてきたりします。その時に前世の死に際の時に、次は女性に生まれ変わりたいとか神に生まれ変わりたいとか、邪見の心・無知な心が見えてきたりします。

 欲のうちの一つなのですが、次は女性に生まれたいとか神様に生まれ変わりたいとかいうのは、欲と見(見解)の一つになります。次に女性に生まれたいとか男性に生まれ変わりたいとかいう渇愛も持っています。そして強い執着ですね、捉まるような執着、これら三つの要素があるかどうか見ていかなくてはいけません。それは、不善の心ですが欲の下に入っている不善の心になります。

 あとこの前世での人生で行ってきた良いカルマを見ていかなければなりません。きちんと戒律を守ってきたかとか、どのくらい瞑想修行したかとか、いかに善の心を持っていたかも見ていく必要があります。今世においてもお寺に行って、お布施をして、きちんとお祈りしてという、次回は良いカルマで良い心を持つのですが、お布施をして祈ることによって、どうぞ来世は神として生まれたいのでお願いします、というのは執着心、不善の心となってしまいますので、その辺は境界線をきちんと見ていくことが大事になります。 皆さん、そういうことをして来ていますか?

 このように原因と結果を見ていくことが大切です。亡くなった瞬間に身体というのは必要ないものとして前世に置いてきます。しかし心というのは、そのままの状態で、次の今世のお母さんのお腹に入った瞬間に、そのままの状態で入ってきます。ですから前世に持った、次は女として生まれたいとか、神として生まれたいとか、そういうような執着とか、良いカルマも悪いカルマもすべて今世に持ってきて生まれています。

 大体亡くなる瞬間に最後に見えるのは、次どういう所に生まれるのか、どのような形で生まれ変わるかということです。神として生まれ変わりたいとか、人間の男の人として生まれ変わりたいという思いや願いがあっても、それが叶わない時もあります。
 良いカルマを積んだ人生であれば、天界に行って美しいデーヴァ(天神)のもとで、神様と明るい世界で心地良い世界に入る事ができます。死に際に、ちょっと朗らかなやわらかい笑い顔のような顔をされているというのは、良いカルマを積んだ結果として、その次天界の世界に戻ることができるというサインが見えたことだと思います。

 また反対に、良いカルマを積めなかった人生である場合は、同じように次に行くサインというのが、炎であったりとか、黒い犬に追いかけられて噛みつかれているような怖い映像として、恐ろしい映像として死に際に見えるそうです。そういう人の死に際というのは、すごく顔が硬直して恐怖感に包まれた表情で、周りの人が「何でこんなに顔が強ばっているのだろう」と思うくらいで「死にたくない」という今世にしがみつくような顔になっているかもしれません。

十二縁起

 人間として生まれ変わるサインとしては、母親の中の子宮の色として、真っ赤な映像が見えるそうです。その時にヴィッパサナー瞑想で見えるのは、意識が生じることによって、ナーマ(心)とルーパ(体)が生じるということです。そして、ルーパについては、カルマによるルーパ(物質、身体)だけが見えます。最初の瞬間というのは、カルマのみなので、心とか栄養とか温度とかによるルーパとかはなく、カルマによるルーパのみが存在します。

 十二縁起のなかの、無明、行、識、名色、六つの感覚器官という、前世から今世に繋がってくる五つの原因があります。最初が無明で、次がサンカーラ――意思あるいは心がつくる働き、行というように訳されます。サンカーラは善あるいは不善のカルマを作るものです。

 縁起というのは十二の要素があるのですが、過去世の原因とその結果を見るいろいろな方法があって、五つの原因を見る方法もあるし、二つの原因を見る方法もあります。そのうちの二つの原因が無明と行です。

 無明(無知)というのは男になりたいとか女になりたいという間違った見方。行(心所)に関しては、良いカルマをどういう風に積んできたか。戒律を守るとかお布施をあげるとかそういうことから由来しています。この二つの原因というものは、過去世に存在するものなのでそれを見る必要があります。この二つの原因が要素として今世に影響しています。過去世からきた二つの原因が、そのまま今世のお母さんのお腹の中に結果としてそのまま移動されます。

 亡くなったあと七日もしくは四十九日彷徨ってから、初めて次の来世が始まるという考え方もありますがそれは間違っていて、すぐ瞬間的に今世に生まれ変わります。瞬間的にまた人間として生まれ変わることができない意識(心)というものは彷徨っている状態なので、一般的にいう幽霊(ペータ、餓鬼)という存在になります。意識によって、今世の最初のナーマ・ルーパ(名色:心と体)が生じます。そのナーマ・ルーパが生じた事によって2・3週間後、六つの感覚器官(六門)というものが生じます。それもやはり原因と結果の関係となります。

 その六門(眼耳鼻舌身意)があるが故に、対象との接触が生じて、六つの感覚(色声香味触法)というものが生まれてきます。六門と六つの感覚の関係も原因と結果です。そして感覚によって執着というものが生まれてきます。それは今の状態においても言えることで、見えたものによって「欲しい」という執着心が生じたり、食べた事により「もっと食べたい」という執着心が生まれたりもします。

 来世へと向かう境界線というのも、この執着から生まれます。過去世の執着がこの今世に繋がっていくように、今世の執着も来世に繋がっていきます。過去世から今世、今世から来世に繋がっていくその原因は執着が原因なので、ブッダのように阿羅漢に入りたいのであれば、すべての執着心を断つことが必要だという事を教えてくださっています。

 今世においても、例えば老いに対する恐怖心、自分の今の身体に対する執着が老いに対する恐怖心になったりとか、病気になりたくないという恐怖心が出てきたりとかします。自分の家族に対しても、家族に対しての執着心も恐怖心になります。それが苦しみを生む結果になります。愛する人と離れなくてはいけないというのも苦しみの体験になります。

 それはやはり愛する人への執着があるが故の苦しみです。今の自分の身体、今世においての自分の家族、過去世の自分、過去世においての自分の家族のすべてをヴィッパサナー瞑想で見ていくと、無常・苦・無我という真実が見えてきます。そうすると執着も消えて、最終的にはニッバーナ(涅槃)に到達することができます。ニッバーナに皆さん行きたいですか?
 ニッバーナには家もないし、車もないし、愛する家族もいません。何もないのはつまらないから解脱はしたくないとおっしゃる方も時々出てきます。

 もしニッバーナに行きたいのであれば、最初にやらなくてはいけないのは自分と一つになることです。独房に入った感じで、自分の心のみを感じるということが必要です。ニッバーナに行くというというのは平安を得るということなので、苦しみもない、悩みもないというような状態でとてもいい所です。今世で修業を頑張れば阿羅漢に入れるので、阿羅漢が無理なのであれば預流果まで頑張って修行してください。

 今までは5日とか6日位のリトリートの期間しかとらなかったのですが、1ヵ月、2ヵ月くらい長い時間をかけてのリトリートを日本でやりたいと思いますので、皆さんどうぞ時間を割いていらして阿羅漢もしくは預流果まで到達してください。

サードゥー! サードゥー! サードゥー!


 



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