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 感謝することの大切さ  ディーパンカーラ・サヤレー    
  

 今日は2007年の12月31日です。明日になれば新しい年が始まりますので、皆さんに「新年おめでとう」を言いたいと思います。
 ジャカルタからシンガポールへ飛び、そして日本に来たのですが飛行機の中で、もうすぐ年が移り、一つの年から次の年へ変わって行くと思いました。私たちの人生も、前の人生からまたこの人生へと、常に変化していくように見えます。過去において私たちはいろいろな人生を経験して来て、ある時は人間だったり、天界に生まれたり、あるいは動物界に生まれたりと、輪廻を重ねて来ています。

カルマはついて来る
 お釈迦様は四聖諦ということを仰いました。それは、第一に人生には苦しみがあるということ、第二に苦しみの原因があるということです。私たちにとって、四聖諦を理解することはとても大切です。お釈迦様が仰っているのは、執着というものを止めないと、また次の人生を始めてしまうということです。阿羅漢になると執着が止まりますが、その執着が止まらないと、また次の人生を始めて、苦しみを作ってしまいます。集中力を高めていくと、過去のことが見えてきます。過去の人生において幸せだった時もあるし、そうでなく苦しかった時もあります。

 人生をそのように変遷しながら、その人にはカルマというものが付いて回ります。カルマとはその人がした行いです。この世でお金を一生懸命貯めたり、家族がたくさんいたりしても、それは次の人生に持って行くことはできません。いま作っているカルマだけが次の人生に付いて行きます。それによって、次の人生を良くすることも悪くすることもできます。ですから、未来の人生を考える場合、いま何をしているかということがとても重要になってきます。いまの結果が未来に繋がって行くからです。

 今日(12月31日)は一年の最後なので、家に帰ったらテレビなど見ないで、今年一年がどうであったかを改めてチェックする必要があります。今年の初めから今までに、どのような良い行いをし、どのような悪い行いをして来たのかをチェックしてみる必要があります。それが、とても大事です。

 それと同時に何が良くて何が悪いかを知っておく必要があります。戒を守ったり、ダルマを勉強したり、瞑想したりすることは非常に良い行いです。戒を破ったり、欲望に任せたり、怒りを持ったり、無知のままでいることは悪い行いです。怒りを持っていたり、物事がよく分からず無知であったり、嫉妬を抱いたりしていると、良いカルマは作られません。今晩どうぞチェックしてみてください。チェックしてみて、良くない行いがある場合は、次の年からそれを減らして良い行いをするように努めましょう。

 人生の変わり目、すなわち死んでまた次の人生を始める時には、亡くなる直前の心がとても大事になってきます。その時の意志が次の人生を創って行きます。新しく人間界に生まれかわる時には、母胎に入って行くわけですが、意識は前の人生から続いているので、死んだ時の次の意識が母胎に入って行きます。この人生においても、まず意識があって、心の働き(ナーマ)と肉体の働き(ルーパ)が発生します。それが原因と結果です。心と体が発生して、しばらくすると、それが分化していきながら、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官が生まれて発達します。

 集中力がよくなると、自分が母胎にいた時のことが分かります。過去のことが分かってくると、自分の母親がどんな気持ちでいたかが見えてきて、どのように食べ物を分け与えたかということが分かってきます。母親が食事をして、栄養がお腹の赤ちゃんに行き渡る時に、うれしく思っていたようなことが分かってきます。母親が、お腹にいた頃から今に至るまで、いろいろな面倒を見てくれたということが分かってきます。母親が私たちの世話をして面倒を見てくれたので、人間界で生活を送ることができています。だから両親に感謝しないといけません。

 お母さんがいろいろ面倒を見てくれた時のことを覚えていますか?思い出すようにしてください。そうすれば、次第に自分の親に対して感謝するようになってきます。私は、いろいろな国に行って、人々から多くの親切を受けたりしますが、そういうことで両親に対しても大変に感謝しています。人生はとても変化が激しく、今日良かったと思っても、次の日が悪かったということがよくあります。でも、お母さんは変化することなく子供たちの面倒を見続けてくれます。

あるお金持ちの話
 今日は、お釈迦様の過去世のある人生についてお話しします。
一人のお金持ちがいて、いつもお寺に行って、お釈迦様を尊敬していました。彼は結婚して、4人の息子を授かりました。息子達の面倒をとてもよく見て、やがて4人の息子は結婚しました。4人の息子が結婚した時に、彼は8万のお金を持っていました。手持ちのお金のうち半分を手元に置いて、残りの半分を4等分して息子達に分け与えました。息子達にお金を分け与えた後、奥さんが亡くなりました。

 息子達は父親のことを心配して、集まり相談しました。しかし、息子達は、残りの半分のお金をまだ父親が持っているので、もし父親が新しい女性と結婚してしまうと、お金が新しい奥さんのところに行ってしまうのではないかと心配しました。お父さんが自分たちにお金を持ってくるように何とかしなければいけないと思いました。

 息子達はお父さんのところに行って、「再婚するのはあまり良くないので、しない方が良いです。代わりに私たちが面倒を見ますから、お金を私たちに分けてください」と言いました。父親は息子達のことを信用して、残りのお金を全部分け与え、持ち物が服だけになってしまいました。

 お父さんは、次の日から長男の家族と一緒に住むようになりました。しかし、しばらくして、長男のお嫁さんが、「あなたは、4人の子供に平等にお金を分け与えたので、私たちのところで長く養うことはできません。しばらくしたら、次の子供のところに行って、またしばらくしたら、その次の子供のところに行くようにしてください」とお父さんに言いました。お父さんは怒って、それならばここにいる必要はないと、次の息子の家に行きました。

 しかし、しばらくすると、そこでもお嫁さんが同じようなことを言うので、次の息子の家に行くことになりました。そして、どの息子の家でも同じようなことを言われて、結局住む所がなくなってしまいました。お父さんは、小さな鉢を持って家々を回り、食事を乞うようになりました。70才を越えていて体が丈夫でなかったので、栄養が行き届かずどんどん痩せていきました。

 お父さんは、4人の息子は全く助けにならないと思い、仏陀のお寺に行きました。仏陀は、いろいろな人に食事を分け与えているので、相談すれば、何かいい考えが出てくるのではないかと思ったのです。お寺に行って、お釈迦様の前に座りました。仏陀はお父さんを見て、彼の状況をすぐに察知し、「随分お疲れのようですね」と労りました。それから2、3の質問をしました。お父さんは今までのことを全て説明し、息子達にお金を全てあげてしまい、家も食べ物もなくなってしまったけれど、誰も助けてくれないということを伝えました。

 仏陀は、「心配しないでください。四つのマントラ(唱える言葉)を教えます。それを覚えて、インド中から多くの人が集まる会議がありますから、そこへ行って、四つのマントラを唱えなさい」と仰いました。その集まりには4人の息子も来ていました。お父さんは、その集まりの中に入っていって「今から四つのマントラを唱えますが、良いですか」と聞きました。周囲の人達は「どうぞ唱えてください」と答えました。

四つのマントラ
 それはパーリ語でしたが、難しいのでその意味を言いますと、第1のマントラは、「私には4人の子供がいました。4人が生まれたときは大変喜んで、みんなの面倒を見て、結婚する時期まで育てました」というものです。その続きは、「息子たちは結婚して、それでお嫁さんと話して、自分自身をぜんぜん養ってくれませんでした」。

 第2のマントラは、「子供たちは私を、“お父さん、お父さん”と呼んでいました。そう言ってはいましたけれども、実は、本当の息子ではなく、彼らは悪魔、デーモンで、息子の振りをしていただけでした」という意味です。息子の振りをして「お父さん、お父さん」と言っていただけなのです、というマントラです。

 第3のマントラは、「馬を飼っていると、まだ若いころはとてもエネルギーがあるから、その馬を使っていろいろな仕事ができます。まだ元気なうちはいろいろ働けるので、飼い主はとても面倒見が良く、餌をやり、食事も良いものをやって、よく面倒を見ます。馬がだんだん年を取ってくると、飼い主のために働けなくなるので、面倒見が悪くなって、食事も満足に与えなくなってしまう。その馬と同じように、家族においてもお父さんが元気なうちは子供たちも尊敬してくれるけれども、だんだん歳を取ってきて、元気がなくなると、もう世話をしなくなってしまう。面倒を見なくなってしまいます」というものです。

 第4のマントラは、「お父さんは杖を持って歩いましたが、歳を取ってくると、杖のほうが、息子よりもはるかに助けになる」という意味です。
 それが4番目のマントラで、「私が持っている杖のほうが息子よりも余程頼り甲斐がある。なぜかというと、暗くなって道を歩いていても、杖をついていると助けになる。自分自身は歳を取って、もう弱くなってうまく歩けないけれども、杖は歩く時にとても自分を助けてくれる」という意味です。それが全部で4つのマントラです。

 日本ではこんな問題があるかどうか分からないのですけれども、他の国ではこんな風に、歳を取ってくると、誰も養ってくれなくなるという、そういう問題があります。
どうですか、日本ではそんなことありますか?(会場から、“大いにあります”)

 それで、どんな宗教においても、どんな国においても、とても親というものは大事なものです。インドにおいてはある法律があって、親が歳を取った時にちゃんと養わない場合は、死刑になる、殺されてしまうことになります。昔のことを言っているので、今はどうか分かりませんけれども。
 それで、それを聞いていた4人の息子たちは、非常に心配しました。聞いていた周りの人は皆、「誰がその息子なのだ」ということを言うようになってきたので、息子たちは非常に心配して、お父さんのところに行きました。「お父さん、ちゃんと面倒見ますから殺さないでください」と、そんな風にいいました。 

 お父さんは大変慈悲深い人だったので、息子たちが来たときに「そんなに心配しなくてもいい」と言いました。それでそのお父さんは4人の息子のところで暮らすことになりました。戻って、幸せに暮らすようになりました。
 それでお父さんは息子たちに、「お釈迦様を招いて、食事の御布施、供養をするように」と言いました。それで次の日お釈迦様が来られて、食事の供養を差し上げた時に、4人の息子たちはお釈迦様に、「父親は、われわれが面倒見ているから、大変に元気で、力があります」と言いました。それで仏陀は息子たちの話を聞いて、ただ微笑んで、「それは良いことだ。お父さんをこれからも面倒見るようにしなさい」と仰いました。その時に仏陀は、「私にもいろいろな人生があって、昔同じように親の面倒を見ていた時がありました」と語り始めました・・・

仏陀が象だった時の話
 かつて仏陀の前世(菩薩)において、象の王様だったときがありました。その時、8万頭の象を従えていた王様でありました。お母さん象がいたのですけれども、お母さんは目が見えなくなっていました。その時、仏陀の前世である象は、森へ行って、食べるものを集めてきて、お母さんに与えていました。
 とても忙しくてお母さんのところに行けなかった時に、果物とかの食べ物を集めてきて、弟子にお母さんのところに持っていくようにと言いました。しかし、弟子たちはお母さんのところに持っていかないで、途中で食べてしまいました。その菩薩である象が戻ってきた時に、お母さんがあまりにもやせ細っていたので、どうしたのか聞いて、弟子たちが食事をくれなかったという話を知り大変に怒りました。

 今まで、弟子の象たちにいろいろなことを教えていたにもかかわらず、お母さんの面倒を見ようとしなかったということで、象はお母さんを連れて、別の森へ行きました。そしてお母さん象を連れて全く別の森で暮らすようになりました。その時に、森の中で誰かが泣いている声を聞きました。その声を探してみると、猟師が泣いているのを見つけました。

 なぜ泣いていたのかというと、象がやってきたので、踏み殺されるのではないかと思って、怖くなっていたのです。菩薩である象は彼のところへ行き、「殺したりしないから心配することはない」と言いました。それで猟師は、「森へ入ってきて7日になるのですが、道に迷ってどうやって帰っていいのか分からなくなってしまったのです」という話をしました。それで象は、猟師の道案内をしてあげました。

 象は、猟師を背中に乗せ、7日の道を、また森の外まで案内して行きました。象はとても良い心を持っていたので、慈悲の心で人が苦しんでいるのを助けたいという気持ちがありました。その象は白象だったのですが、乗って帰りながら猟師は、考えました。「もしこの象を持って帰って、王様に差し出したら大変なお金をもらえるのではないか」と。

そういう考えは良い考えでしょうか、悪い考えでしょうか。どうですか?
良くないですね。
ですから私たちは、親からいろいろ面倒を見てもらったことに対して感謝しなくてはいけません。いろいろなことをしてもらったら、それを返して行くということが大事です。

 それで、猟師は村へ帰ってきました。その時に王様の王宮には、別の白い象がいたのですが、その象は死んでしまいました。なぜ死んだかというと、誰かがまた別の白い象を連れて来ると言う噂が広まっていたので、それを聞いて象は死んでしまったのです。

 そして猟師は、森の中に白い象がいるので捕まえてはどうかと、王様に話ました。王様は、森へ行って捕まえて来るように命じました。王様の遣わした狩人たちが象のところへやって来ました。菩薩である象は、猟師がそういうことを言ったから問題が起こったわけですが、猟師にはとても良くないことが起こるだろうと、その時考えました。
それで象は、猟師を殺すことができたけれども、自分は戒をしっかり守っているので、怒りを出さないようにしようと、忍耐することにしました。菩薩は、非常に忍耐力が強かったのです。

 それで白い象が王宮に連れてこられた時に、王様は象に良い住まいと良い食事を与えました。王様はいろいろと良い食事を与えたのですが、その白象は全然食べようとしませんでした。というのは、象はお母さんのことを心配していたからです。

 王様は、象が食事をしないので、「なぜ食べないのか。食べれば栄養がつき、力が出て国のためいろいろなことができるではないか」と言いました。象は、「実は母親の象がいて、目が見えないし、食べ物もないから、それを心配しています。それで食事も食べる気がしないのです」言いました。その王様はとても良い人だったので、それを聞いて大臣たちを集め、「この象は本当に良い象で、母親のことをとても尊敬しているので、心配している。だから、食事も食べなくなってしまった。森へ返して母親と一緒に暮らすようになればまた幸せになるだろう」と言って森へ返しました。

 象はとても感謝して、王様に法話をしました。その法話を聞いて、王様は大変に喜びました。白像は森へ帰り、お母さんと暮らすようになりました。お母さんもちゃんと食事がとれるようになり、幸せに暮らしました。

感謝することの大切さ
 この話から学ぶべきことは、人々から何かしてもらったり、何かをもらったりしたら、感謝して返していくということが大事だということです。それがこのお話の結論です。皆さんはいろいろな環境の中で生きていると思いますが、忍耐力と許すということが大事です。それがブッダの前生である菩薩が積み重ねてきた修行です。人々が何かおかしなことをした時に、怒りを返したら悪い波羅蜜を積むことになり、良くないことになります。

 もう6時になりました。今年もそろそろ終わりに近づいていますが、家に帰ったら一年のことを振り返り、どんなことをしてきたかを見て、両親やいろいろなことをしてくれた人には感謝をして、プレゼントやあるいは物でなくても、感謝の心を示してください。

 両親がいらっしゃる人も、亡くなられている人もいると思いますが、今日ここに集まってきたことは、とても良いカルマを積んでいます。戒を守り、ダンマの話を聴いたり、瞑想したりすることによって良いカルマを積むことができます。年が変わりますから、未来に対して、よいカルマを積んで行くようにしてください。
今日はどうもありがとうございました。


質疑応答(接触・感覚・知覚の関係)

質問:
 瞑想をしていると、特定の対象に集中しますが、そのときに2つの対象あるいはそれ以上の対象に対し、瞬時に瞬間において、強い集中することは可能なのでしょうか?

答え:
 集中の瞑想には40種類の瞑想があります。しかしどの場合も複数の対象に集中するというのは難しいので、一つの対象を選んでください。もしアーナパーナサティが難しければ、他の瞑想法を行ってください。

質問:
 瞑想をどういう風にやるかという問題も一つあると思うのですが、あと二つくらい思いつきます。例えば、心の働きというものが私たちの体を動かしているとすれば、心の働きというのは、それぞれの場所が同時進行で、かなり複雑に展開していると思います。その時心というものは、集中しているのか、していないのか。集中している程度の違いというものが同時に進行しているのか、それとも集中が一つ一つ高速に移り変わっていくのか、という問題をまず一つ思います。
 そしてもう一つ思うのは、最近大ラーフラ経を読んでいるのですが、そこに出てくるアーナパーナサティというのは、最初の3つか4つぐらいはアーナパーナサティだけで行くのですが、ところがそこから先に行くと、身・受・心・法の受あたりから、自分の感覚を観ながら入息しよう、自分の感覚を観ながら出息しよう、こういうふうな展開になっていって、何かをしながら同時にアーナパーナをする、というように書いてあります。

 で、自分でやってみて、集中度の問題はちょっとわからないのですが、ある程度の強いサマーディをもってすれば、それは可能なように思います。その問題と先ほど言われたこととは違うのかもしれませんが、つまり、同時に二つあるいはそれ以上のものに対して、強い集中力を保つことは可能なのではないかと思うのですが、その点どうでしょうか?

答え:
 アーナパーナサティではあくまでも呼吸に集中して、呼吸が入ったり出たりを観ていると、心に幸福感が出てきます。その幸福感を感じるというのが感覚(vedana、感受、受)です。それはそういう感情が起こったというのは観ているのですが、しかし集中しているのはやはり呼吸の方で、そのとき起こっていることは感じます。
ですから、集中の対象はアーナパーナの場合、あくまでも呼吸です。そのときに感覚が起こってきて感じますが、そこに集中するのではなく、あくまでも対象は呼吸です。

 ある程度長い間、1時間とか呼吸に集中していると、心に幸福感が出てくるのですが、その時の感覚の方に集中しないでください。あくまでも呼吸に集中していると、その次の段階、心がそこに没頭(absorption)する段階に達することができます。
 他のものを観るというのは次の段階で、集中力を高めていって禅定の状態に達したら、その次にヴィパッサナーという観察の瞑想をしますから、その時にはいわゆる身・受・心・法ですね、幸福感が起こっているとか、その時どういう要素が起こっているとかを詳しく観ていくので、段階的には禅定を得てから、観察することを、その後にやります。

質問:
 第二禅定の時の「尋、伺」の捉え方ですが、(尋、伺が無いのは)第二禅定の条件のように言われますが、その時の尋、伺の捉え方として、集中に関する捉え方と、思考のように解釈する方法があると思うのですが、今例えば、この感覚(vedana)が起こっている、この接触(passa)が起こっているというふう知っている状態というのは、分かっているということだから、思考にあたる部類の話だと思います。となると、強い禅定を得た状態というのは、尋、伺が、つまり思考がなくなっている状態と捉えるのは、間違っているということになりませんでしょうか。今自分が分かっているというのは、それはある意味、思考しているということにならないでしょうか?

通訳者:
 尋と伺とは思考の範疇に入りますね。

質問:
 それで良いのかということです。集中の対象とか、そこに自分をとどめておくというような解釈で、尋、伺を読んだこともあります。

答え:
 第二禅定では尋と伺は無いということです。

質問:
 そのように解釈されますけど、その尋・伺の中身について感覚(vedana)が入っていくという状態を観ていくということですから、vedanaがあるということが自分に分かるということは、そこに何らかの思考が働いているように捉えられないのかなと思います。例えば、尋・伺、集中している対象とか、そこに留めるという意味で解釈したとしたら、第二禅定に対象無しでボンと入っていくことが可能であるように思えます。そういうように自分の体験からすれば、尋・伺の解釈というのは思考だというふうに思え、思考が無くなると捉えれば、それは間違っているのではないかと、このところ考えているのですが、そのことについて知りたいのですが。接触(passa)と感覚(vedana)の間の区別をつけることは・・・

答え:
それはどの時点ですか。禅定に入った時ですか?

質問者:
はい。

答え:
 五蘊というのをご存知ですね。色受想行識という五つの集まりです。色というのは物質、肉体のことで、あとの4つは心のことがらです。初禅に入った時に、それは心の中で起こっている過程ですが、初禅では34の心所が働いています。初禅にしてもそうですが、意識というのは1つの意識だけがあるのではなく、いろいろな心所が集まったものが意識としてあります。普通一般の人が考えるのは、ただ1つの意識が、例えばpassa(接触)の意識があり、vedana(感覚)の意識がただ単独にあるように思っていますが、そうではありません。心というのはそういう一つ一つが単独に起こっているわけではありません。

 ですから例えば、色なら色を見たときに心にいろいろなものが起こって、快い感覚が起こったり、不快な感覚が起こったりします。その時意門(minddoor)、つまり心のドアの中で、いろいろな過程が始まります。その心の過程というのは1つだけではなく、例えばpassa(接触)が起こったりして、34のいろいろな心の働きが含まれています。この34の中には、心(citta)だとか、想(sannya)、接触(passa)など、全てが含まれています。
 お釈迦様が接触(passa)、感覚(vedana)を説明した時に、いろいろなものを見て接触(passa)があるときに、この4つのタイプの心の過程が起こっているということを説明しました。

質問
想(sannya)がわかるのはどのような段階ですか?

回答
 順に説明します。例えば、接触では、何かが目に飛び込んできたとかいろいろなものが、接触(passa)があった時に、心の中に快い感覚が起きた時は、感覚(vedana)、あるいは感受が、それだけで起こっているのではなく、いろいろなもの全部が起こっています。その時一番強いのが感覚であって、その状態を感覚(vedana)と呼んでいるのです。
 また、目で見たり食べたりした時に、接触(passa)があり、不快な感覚が起こった時には、同時に他の想(sannya)なども働いています。ですが、その時に一番強い、焦点が当たっているのが、不快な感覚、五蘊の中の一つの感覚(vedana)なので、それを感覚(vedana)と呼んでいるのです。

質問:
感覚(vedana)と接触(passa)と・・・

答え:
 例えば何か見たり聞いたりしたときに、快い感覚や不快な感覚が起こらない。例えばこの座布団を見たときに、別にそういう感覚は起こらずに、記憶力のいい人だと「これは座布団だ」というように認識するというのは、知覚(sannya)の働きなのですが、そのときは知覚(sannya)の働きが一番前面に出ているので、その時の状態、心のプロセスを知覚(sannya)と呼んでいます。しかしその時になんらかの感受(vedana)も、また34の心の働きも全て入っているのですが、一番前面に出ているのは知覚(sannya)の働きなので、それを知覚(sannya)と呼んでいます。
 接触(passa)とか感受(vedana)とか、知覚(想sannya)とかが一つだけで起こるということはないわけで、一つのまとまりとして、心の中の過程として起こっているわけです。
よろしいですか?

質問者:
ありがとうございました。

答え:
次の機会にもっと集中力を増して心の中を観てみると、善い、善心所とか不善心所とか、いろいろなものが見えるようになりますので、良く観察してみてください。

よろしいですか。では今日はこれくらいで終わりにしたいと思います。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!




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