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 苦の原因とその止滅 ディーパンカラ・サヤレー   

 皆さん、今晩は。本日は、みなさんに人生の本性、本質という事についてお話したいと思います。今、新しい年を迎えたわけですけれども、私たちは毎年毎年、歳をとって変わっていきます。年も新しく変わるし、また自分たちも新しく変わっていきます。その変っていくということが、一つの本性であり流れなのです。

苦しみの原因について

 ブッダは、いつも弟子である比丘や比丘尼たちに、四つの聖なる真理、(四聖諦)について教えました。今日はその中で二番目の真理について話したいと思います。四つの聖なる真理という事については、すでに存知の方もいらっしゃるだろうし、初めて聞くという方もいらっしゃると思いますので、ここで少し説明しておきます。四つの真理というのは、一番目が苦しみについての真理。二番目が、苦しみの原因についての真理。三番目が苦しみの止滅、終わらせることについての真理。それから四番目が苦しみの止滅に至る修行の道についての真理。それが四つの真理です。

 苦しみはどこから起こるかという事について、ブッダは五つの集まり(五蘊)から苦しみは生じると仰っています。五蘊というのは何かというと、色・受・想・行・識といって、要するに私たちの心と体の事です。心と体から苦しみは起こるという事を仰っています。それで私たちは、生まれた時から心と体を持つわけですけれども、その心の中に特に知恵を持っています。

 例えば15歳ぐらいの時に、先生は私たちに何が正しくて何が間違っているかという事を教えてくれます。それに従って私たちは善き事、正しい事をして間違っている事はしないようにという風にしてきました。善い波羅蜜(パラミー)、善い徳を持っている人はいろいろと善い事を教わってくるのですが、そうではなく、あまりよくない波羅蜜を持っている人はそういう事を教わっても善い事をしようと思わずに、不善な事をしてそれを積み重ねて行くという事があります。

 それが第二の真理、苦しみの原因の真理という事に関わってきます。私たちは心と体を持っています。どうして現在私たちがこういう風にして心と体を持って存在しているかという原因をたずねていくと、それは過去にあるわけです。つまり過去の心と体があり、過去の執着というものが現在を作り出している。そういう原因があって結果がある。過去の原因が現在を作っているという風になっています。それで、過去のどういう原因が現在を作っているのかという事を私たち自身でチェックをする必要があります。その場合二つ大事なものがありまして、まず第一は無知という事です。何もよく知らない、分かっていないという事です。二番目が、サンカーラと言って、日本語に訳すと「行」です。行いとか行為という事です。善い行いをする。そうすると善いカルマ(業)を積むというように、過去における行為が原因となるわけです。

皆さん、過去に自分がどういう事をしてきたかという事がわかりますか?
どんな善い行いをしてきて今ここに居るかという事がわかりますか?
過去の原因と現在の結果というものが分からないと、すなわち、「縁起」(十二因縁)、において過去と現在が分からないとそれが理解できずに、預流果(ソータパン)いう悟りの第一段階に至るのは難しいわけです。ブッダは、侍者であったアーナンダ尊者に縁起について語っています。縁起について理解できないと、最初の悟りには至る事が出来ないと。だから、縁起を理解するためには、過去の自分の行いを知る必要がある。過去の行いをどうしても調べる必要があると仰っています。

 先ほどあげた第一の項目である無知、あるいは無明という事ですけれども、これは間違った考え、間違った思い込みですね、これを持っているという事です。どんな風に間違っているかというと、私たちは例えば死ぬ時に、死んでまた人間に生まれ変わりたいとか、あるいは天界の神に生まれ変わりたいとか、あるいは動物に生まれ変わりたいとか、そんな風に思ったりするわけですけれども、それは誤った考え方であるということです。

欲・怒り・無知

 人間は、執着というものを持っています。何か欲しい、これがしたい、あれがしたいという風に思ったりしますが、それが貪欲(lobaローバ)です。その貪欲、「これが欲しい」、「あれがしたい」という欲と、それから見方・見解(ディッティ)、とくに間違った見解、とが結びついて、アクサラ(不善な)グループを作っていいます。これは、欲を持っている人の話です。

 また他のタイプの人がいて、怒りを根本に持っています。怒りを持っていると次は動物界に生まれたり、あるいは地獄界にいったりという事になります。そしてもう一つのタイプは、無知で、何もよく分かっていない。迷いとか、妄想、迷妄の人たちのグループがあって、まとめると、欲と怒りと無知、貪瞋痴と言いますけれども、この三つのタイプと、その反対の、欲がなくて不貪、怒りがなくて不瞋、無知の反対である智慧。その六つのタイプによる原因でまた次に生まれ変わって行き、その原因により結果が表れるという風になります。

 それで一番最初のグループの人たちは、欲(ローバ)のグループですけれども、この欲を持っている人達は、人間として生まれてくると、若い時にとても欲張りであって、何がしたい、何が欲しいという風に「欲しい、欲しい」というような人になります。そういう人達は、若い時から色々な物が欲しいのと同時に、例えば眼に美しい物があると、それに執着するという傾向を持ちます。美しい物が眼から入ってきて、それ執着するだけでなくて、耳から入ってきたもの、例えば美しい音・音楽とか、そういうものに執着します。あるいは鼻から入ってくる匂い、芳しい香り、それから舌で感じるおいしい味、それから身体で感じる快い感覚とか、そういう感覚に対して執着します。欲のタイプの人達というのは、そういう執着という事が起こりやすいのです。

 その欲を持つ人たちは、感覚が起こった時に「これが好きである」という心が起こる。六つの門から入ってきたものに対して「これは好きだ」という風に思います。「これは好きだ」の次が、「それに愛着する」という風になり、そして「欲しい」という事になって、それが手に入れば非常に幸せで満足なのだけれども、それが実現されない、手に入らないと怒りが出たりとても不満足になります。あるいは人間に対してだと嫉妬の感情が起こったりという事があります。嫉妬の感情が起こるとそれは不善な心です。心を善と不善に分けると、不善な心を作り出すわけです。

 例えば一軒の家を持ち、車を一つ持っている。しかし、それだけでは満足できないで、もっと立派な家が欲しい、もっと良い車が欲しい、ということで、セッセとお金を貯めようとして仕事に精を出して、働いてそれを得ようとするわけです。ですから何かが欲しいとなると、一つでは絶対満足できずに、あれもこれもと言うようにもっともっと欲しくなって、それが死ぬまで終わらないわけです。ですから一生懸命働かなくてはならなくなって、満足が得られないために苦しむことになります。

 自分の満足を得るために、お金を稼ごうとして仕事で疲れきって結局短命に終わったりするわけです。それで智慧を持つという事が大事なのです。人間として生まれてきた以上、日常的に智慧を持つということが大事ですけれど、一般に人間というものは智慧に従う、というより欲に従って生きるという事がほとんどです。欲に従って生きるから苦しみが起こるわけで、私達はそこでバランスをとる必要があります。

より良い人生と瞑想

 蓮の花は、泥の中から顔を出し、朝早く日の出と共に開き、美しい花を咲かせます。他の花、例えば、バラも同じく日の光を浴びて花を咲かせます。しかし、他の花は、日が沈んでも咲いたままになっているので、すぐに散ってしまいます。一方、蓮の花には智慧があり、太陽が沈むと花が閉じてエネルギーを蓄えます。従って、蓮の花は、他の花と比べて、長く生き延びることができます。

 人間の平均寿命は、ブッダがいらっしゃった時代と比べて短くなっています。ブッダがいらっしゃった時代は100歳を超えていましたが、だんだん短くなり、現在は世界的に見ると60~70歳くらいです。たまに良いカルマを持った人が、100歳を超えるくらいです。

 仮に人間の平均寿命を60歳としますと、20歳まで、40歳まで、60歳までの三つの期間に分けて、自分がどの期間にいるかということを考えてみるといいと思います。50歳だと人生の終わりに近づいていますし、30歳だと人生の半分がすでに過ぎ去っています。現在、30~40歳の人は、昼も夜も非常にハードに働いています。どのようにしてエネルギーを節約するのかを知らずに、仕事にエネルギーを使いすぎて、体も心も大変疲れています。従って、病気になり易くなり、寿命が短くなってしまいます。

 もし人生を本当に良くしたいのであれば、エネルギーを節約する必要があります。40歳からは、本当は仕事を止めて、リラックスして、心を平安にすることを考える必要があります。リラックスするために一番良い方法は瞑想です。ところが、瞑想をすると、いろいろな痛みが出てきます。しかし、それは最初のうちだけで、集中が良くなってくると、そのような苦しみはなくなってきます。例えば、瞑想の合宿に参加するとか、毎日家で瞑想を続けていると、集中力が高まってきて、心が平和になり、強くなってきます。心が強くなってくれば、体も強くなり、非常に健康になり、病気になりにくくなります。

 また、瞑想をすることにより、心が平和になってきます。さらに、瞑想は、他にも多くの益をもたらします。疲れたり、歳を取ってくると、病気になりやすくなります。病気は死をもたらします。私たちがいつまで生きられるかという保証はありません。明日にも死んでしまうかもしれません。ですから、私たちは、病に直面する準備をする必要があります。病気になると、病院に行って医者に診てもらうわけですが、治療できる病と、治療できない病があります。瞑想をしていると、自分で自分の体を治療できるようになります。

 昨日6日間の瞑想合宿を終了しましたが、初日に1人の瞑想者が、激痛を訴えて、救急車で病院に運ばれ、診察を受けました。診察の結果、腎臓からの管に結石があり、痛み止めの薬をもらって、何とか合宿に戻ってきました。次の日に、彼はサヤレーのところに来て、痛みがひどく不安なので帰りたいと訴えました。

 彼は、サヤレーが毎年日本に来るたびに合宿に参加していて、非常に集中力に優れています。それで、サヤレーは、「家に帰らずに、一日四界分別の瞑想をすれば、回復するでしょう。もし、回復しなければ、そのときは帰りなさい」と言いました。そして、サヤレーは、集中力をもって四界分別観で、石があり痛む箇所に火の要素で熱を当てて、水の要素で流すように決意してやりなさいと指導しました。彼は、一日指導されたとおりに瞑想をして、次の日再度病院に行き、医者に診てもらいました。そうすると、細い管にあった結石が膀胱に落ち無くなっていたので、医者も非常に驚いていたそうです。このように、医者でもなかなか治せない病気も、瞑想で治すことができます。

 瞑想をして、私たちの智慧を育てていくことは、大変良いことです。私たちは多くの欲を持っています。これらの欲を手放していくのには、瞑想が最も良い方法です。瞑想をすると、欲とは何か、体と心の中でどういうことが起っているのか徐々に分かってきます。体と心において全てが生じて滅している、すなわち無常ということを徐々に理解していくことができます。それにつれて、すこしずつ執着を手放していくことができます。

 その反対に、欲を持たない不貪の人、例えば、お釈迦様がブッダになる前の菩薩は、天界のトゥシタ天にいて、天界の神々が話を聞きにきていました。菩薩は、慈しみの心と、苦しみを持っている人への共感の心、つまり慈悲の心に溢れていました。人間界に生まれ変わることを決めて、母親の胎内に入って行ったときもその慈悲の心を持ち続けていました。ブッダは、若い頃から執着がなかったので、何でも気前よく人に上げたり、お布施したりしました。最終的には、29歳のときに、奥さんや子ども、立派な宮殿まで手放して、静かな森へ行って、毎日瞑想するようになりました。そして、慈しみの心を持って瞑想に励みました。
 
 また、無知(moha)の人は、智慧を持っている人とは正反対の人で、瞑想を始めるとすぐに眠気に襲われます。心は澄んでおらず、どんよりしています。努力を持って何かをしようとする精進の気持ちがあまりなく、自分がリーダになって皆をまとめていこうという気持ちがなく、いつも誰かに従って行こうとします。無知の人は、あまり一生懸命働きたくなく、夜も昼も寝ていたいような人です。ある経典で、ブッダが、過去において蛇であった人が人間に生まれると、眠りこけるのが好きな人になると仰っています。

外の世界と関わる四つの条件

 このように、人間には6つのタイプの人がいて、6つのタイプのうち各自の持っている本性は、一つの生から次の生へと受け継がれて行きます。私たちは六つの感覚器官、つまり、眼耳鼻舌身意の六つの門を持っていて、六つの門を通じて、対象と接触します。目に対して色、耳に対して音、鼻に対して香り、舌に対して味、体に対して接触感や熱、心に対してイメージや思考といった対象が、それぞれ重要になります。

 それで私たちの本性、本質として、例えば眼にいろいろな対象が飛び込んでくると、それが次に心に来るわけです。例えば音が耳に入り、その次に心に入ってきて、心がいろいろと始めるわけですから、六つの感覚器官をコントロールするということがとても大事であると、ブッダはおっしゃっています。 六つの感覚器官をコントロールするというのは、マインドフル、つまり「気付いている」ということ、「サティ」と言いますが、気付きをもっていることが大事である、とブッダはおっしゃっています。

 例えば、私たちが何かを見るとき、外の世界との接触をするわけですが、そのときに見えているというのは、物があるからただ見えているというわけではなくて、四つの理由、条件があります。第一に、そこに何か対象があります。それがないと見えるわけがない。それと、眼の中に(対象を)受け取る透明な要素がある。眼という器官があるということ、これが二番目です。それだけではだめで、さらに光が必要なわけです。物があって眼があっても、例えば真っ暗な中では何も見えない。要するにそこに光があるから見えてくるのですが、三つ目の要素は光です。

 それからもう一つ、四番目に大事なのは、心の働きで「マナシカーラ」とパーリ語でいいますが、「作意」すなわち注意を向けることです。見えていてもそこに心が向いていないと、物があっても見ていない。そちらに注意力が向かったところで初めて、映像が心に見えてくるということがあるわけです。それで映像、眼識、つまり眼の意識が生じる。この四つの条件があることによって眼識が生じるということになります。

 今言いました眼の意識、「眼識」が生じると、つまり何かを「見た」次に、心のプロセスが始まるわけです。このときに、さっき言ったマナシカーラ、つまり注意力、心をどこかに向ける働きのマナシカーラ(作意)というものが重要になります。
 マナシカーラについても、「善」なるマナシカーラと「不善」のマナシカーラがあって、善い方向に向けているマナシカーラがあるときは、次に起こってくるのも善の心のプロセスが起こってきて、善くない方向のマナシカーラだと、不善な方向の心のプロセスがその後に続いて起こってきます。

 今言いましたように、マナシカーラ(作意)という、心を向ける働きに、正しいマナシカーラと不善なマナシカーラがあるわけです。その正しいマナシカーラを持つということがとても大切です。
 ここで二つ大事なものがあって、もう一つは「意思」(cetanaチェータナ)、「何かをしようという意思」がマナシカーラと同時に大事なものです。その二つを持って、外の世界といかに関わっていくかという訓練をすべきである、とブッダはおっしゃっています。

 そのときにメッタ、 慈しみと、カルーナすなわち苦しんでいるものへの共感、つまり慈悲の心を養って、外の世界と関わっていく。そうすると、例えば人々と関わるときにもこの慈しみの心があれば、その心で人々と関わるから、その人も相手の人も、怒りを持つことがなく、平和な感覚の関係ができてくるということで、その意味で正しいマナシカーラが大事だということです。

 私たちは家族、友人、会社の同僚など、いろいろな人と付き合っていくわけで、こんなふうにして良い関係をもつということがとても大切です。他人と、メッタつまり慈しみの心で関わるということがあれば、他人だけではなく自分自身も心が平和になり、怒りも起こらないようになる。ですからそこが大切なのです。

 知恵を持っているタイプの人は、心をいつも良い方向、善なる方向に向けることを第一にします。自分の心をいつも良い方向に向けている。それと他人の感覚によく気付いている。そうすることによって良い関係を築こうとします。良い関係を持とうとし、また良いカルマを作っていこうとします。これが、知恵を持っている人がすることです。

苦の循環を断ち切る

 次の話ですが、さっき話しました「縁起」、つまり原因と結果の循環がいつも、廻っているのですが、それをいかにして断ち切るかです。 ブッダは、縁起を切るためには、ヴィパッサナー、つまり「観察」、「洞察」によりそれを切ることができるとおっしゃっています。それは、自らの心と体を観ていくのですが、まず体についていうと、眼にしても耳にしても、体という物質的なものは、最終的に「ルーパ・カラーパ」という微粒子、最小の微粒子の集まりによって成り立っているのです。その最小の微粒子が生じて滅して、絶えず生滅を繰り返している。生じては滅しているということが起こっている。それを観て、自分の体そのものをその微細な所まで観て、粉々に分解していくのです。

 自分だけでなく、他の人たちについてもそういう風に観ていく。ルーパ・カラーパ、物質の最小の微粒子が、生じては滅している。滅してしまうからこれは苦しみであり、それは自分というものがない、つまり無我である。そのように無常、苦、無我というものを観ていく。それを内においても、また外においても観ていく。
 すると、彼である、彼女である、あるいはこの人である、自分であるという考え、見方はなくなってしまって、単に「ナーマ」と「ルーパ」つまり心と物質の働きがあるだけである、とだんだん分かってくるわけです。

 名色、心と体を観察し、最終的に心と体は無常、苦、無我であると観て、そのように世界、この現象界の本質を観ることにより、智慧を成長させて行く。すると、自分が死んだら次はどこに行くかということについて、例えば天界に行くとか、また人間に生まれ変わろうと言うような考えが無くなってしまう。というのは、この世界の本質はルーパ・カラーパという最小の微粒子が生じて滅しているだけであると観えてくると、次に人間であるとかいう考えは無くなってしまう。

 そうすると、次に人間界にしても、天界にしてももう生まれ変わることがない。どこへ行くかというと、涅槃というところに行くのです。執着を断ち切って、執着がなくなると、行くところは涅槃になるわけです。ですから執着を切って涅槃に行くのが良いのですが、まだ涅槃に行きたくないという人は、慈悲の心を成長させることによって、よい行いを積み、よい人生を送ることが望ましいのです。

 今、新年を迎えました。毎年毎年、新年、新年と言って、新しい年を迎えていますが、あるとき新しい年がもう無くなってしまうこともある。つまり、自分が死んでしまって、もう新しい年は来ないということがあるわけです。
 では皆さんは、死んでから次はどこへ行きたいと思っていますか?
 皆さん、自分がいつ死ぬか、分かりますか?
 明日死ぬという可能性もあるのです。信じられますか?
 皆さん、死ぬ準備はできていますか?

 今、私たちは自分の家を手入れして綺麗にしようとか、豊かなものにしようとか、現在の家を大切に世話していますが、では未来はどこへ行くのか?未来の家はどうなるのかを考えて、未来に対して準備することが必要です。

 皆さんは自分の心の中に、次に行くべき家のイメージがありますか?次はどこに行くのかと。
次に地獄界には行かない、という確信はあるでしょうか。いかがですか?
どうぞ皆さん、自分は上の世界に行くのか、下の世界に行くのか指で示してください。
今の世界で欲を持ち、怒りが強く、また無知で、迷いがあり、嫉妬が多くなど、不善なことをしている人々は、地獄界や動物界など下の世界へ、行きたくなくても行ってしまう可能性があります。
皆さんは、欲望、怒り、無知(貪、瞋、痴)を持っていますか?

 新年の課題として、今日帰ったら、自分の中にどれだけ欲、怒り、無知や迷いがあるのかを、よくチェックしてください。自分の心をチェックしてみてください。自分の体が病気になったとしても、心は体に従わないで、心の方は良いカルマを作ろうと思えば、例えば瞑想に励むなどして心がしっかりしていれば、体もそれに付いて来ます。心の方は良いことをするように努めてください。

 自分自身の心や体について面倒を見て、自分で世話をするようにしてください。この世界は無常だからといって、瞑想も無常なので帰宅したら無くなってしまった(笑)、というような事にならないようにしてください。
 家に帰っても1時間、2時間と瞑想するようにしてください。痛みもあるでしょうが、痛みが出てきてもどうということないでしょう。私たちが未来について準備することが肝心ですから。

 人々がいろいろ苦しんでいるのを見て今の話をしたわけですが、この話をどう受け取るか、あるいは受け取らないかは、その人のカルマによります。皆さんに任されているということです。今の話を聞いて瞑想など、次の世界に向けて準備をすれば、それはその人のなかで非常に益となり、得るところが多いと思います。

 今日はありがとうございました。皆さん、身体に十分気をつけて、世話をしてください。

 サードゥ! サードゥ! サードゥ! 


  



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