[ホームへ]
今晩は、瞑想においてどのように集中のバランスをとるのか、ということについてお話したいと思います。今日一日アーナパーナ瞑想をしてきたわけですけれども、楽にできた人もいることでしょうし、あまりうまくいかなかった方もいることと思います。うまく心をコントロールできた人というのは、昨日もお話した「五つの障害」がそれほど問題にならず、そのために心が対象を見ることができ、心をコントロールすることが比較的容易にできる人です。 「五つの障害」が多い人はなかなか心をコントロールすることが難しいのです。なぜ難しいのでしょうか。難しい人というのは、まず心がさまよいだし、妄想が浮かんできたり、眠気が襲ってきたのではないでしょうか。もう一つは心を呼吸に集中させようとしても、しばらく経ってくると退屈になってしまうという、退屈感が出てきたのではないでしょうか。 心をコントロールするには「五つの要素」が大事になってきます。「五つの要素」というのは、まず第一にサッダー(信)、つまりブッダやダンマ(理法)に対する信がしっかりしているということです。二つ目は精進。三つ目がマインドフルネス(サティ)あるいは気付きの力。四つ目が定(サマーディ)、ひとつの対象に集中していく力。五つ目が智慧の力。この「五つの要素」要素が大事になってきます。 一番目の信ですが、ブッダとダンマとサンガに対する信がしっかりしているということです。信をしっかり保つためには、ブッダの教えやブッダがどのような人であるかということを知る必要があります。ブッダや法に対する信があると、瞑想していて幸福な気持ちになります。けれども信がないと、瞑想していて退屈になりやすいのです。皆さんがどれだけ仏教に対して信を持っているかは分かりませんが、ここでミャンマーのちょっとしたお話をしてみたいと思います。 信仰深い娘の話 ミャンマーは上ビルマと下ビルマという二つに分かれていて、下ビルマは南の方のヤンゴンとかパゴーとかの地域のことです。昔々下ビルマの王国に、ある王様がいました。この王様は、もともと仏教徒だったのですが、家臣たちはみんな仏教徒ではなかったので、王様は仕方なく仏教から改宗しました。王様が仏教徒を止めてしまったとき、全ての国民に対して、「仏教徒であることを止めて違う宗教を信仰しなければならない」という布告を出しました。同時にそれまでは家の中に仏像などがあったわけですが、王様は家に仏像を置くことも禁止し、仏像は川へ捨てなければなりませんでした。 ある村に、ダラートという名の、ブッダとダンマに対してとても信仰の厚い娘さんがいました。皆が王様に殺されるのを恐れて改宗したにもかかわらず、このダラートだけは強い信仰を持っていたので、仏像を家に置いて仏教徒であり続けました。 ある時、ダラートは友達と一緒に川へ水浴びに行きました。水浴びをしていると、川上から八体の仏像が流れてきました。それを見つけたダラートは、仏像を川から拾いました。それを見ていた友達は、とても心配して言いました。「仏像を拾うのをおよしなさい。仏像を持っていることが王様に知れたら、殺されてしまいますよ」。しかしダラートは、「たとえ私が仏像を持っている事で王様に殺されても、気にしません。私は死んでも構いません」と言いました。そして、ダラートはすべての仏像を家へ持って帰り、祀って毎日礼拝していました。 しかしある日王様がその事実を知り、彼女を殺すよう命じました。王様は殺す時に、見せしめのために公の場で死刑を執行しようと考えました。そして、ダラートを象に踏ませて殺そうと考えました。なぜ王様はそのような方法を考えたかというと、それを見せることによって人々が恐れて、もう仏像を礼拝しなくなると思ったからです。 とても凶暴な象を連れてきて彼女を踏み潰させようとしたのですが、象が近づいてくると、彼女は毎日やっていたように三帰依を唱えました。それを見た象はブッダのパワーを感じて恐れを抱き、ついには逃げ出してしまいました。ミャンマーではこのように三帰依を唱えると、色々な危害から守られると信じられています。 王様は非常に腹を立てて、また別の象を連れてきて殺させようとしましたが、また同じように彼女が三帰依を唱えると象は逃げ出してしまいます。また違う象を連れてくると同じことが起こって、ついに王宮にいる象がみないなくなってしまいました。王様は非常に腹を立てて、彼女は何か黒魔術を知っているのではないかということで、火あぶりの刑にしようとしましたが、また彼女が三帰依を唱えると、火は彼女の体を燃やすことができませんでした。 次に王様は、違う方法で彼女を殺そうとしました。土を掘って穴をあけ、彼女をその中にいれて上から土をかぶせてしまおうと考えました。そして、家臣に命じて土を掘って穴を掘り、彼女を落としました。王様が穴の近くに寄ってくると、彼女は王様に慈悲をずっと送っていました。王様が土をかぶせようとしても彼女は恐れることもなく慈悲を送っていたため、王様はそれを見て同情のような感情を感じ、それ以上続けることができなくなりました。 王様はダラートに言いました。「よし、ではお前に最後のチャンスを与えよう。家に祀ってある八体の仏像をパワーを使って私の目の前に見せてくれたら、お前を自由にしてやろう」。彼女は「分かりました」と言ってお祈りしました。「この国の全ての人々が改宗してしまったけれども、私はブッダ、ダンマ、サンガにお祈りして自分一人が仏教徒として残っています。もし私の信仰が真実であるならば、どうか八体の仏像がここに現れますように」と念じて心に決意してお祈りしました。すると、八つの仏像は家から王宮に空を飛んでやってきて、皆がそれを見ました。 それを見た人たちはとても幸福な気持ちになりました。王様は非常に驚きました。そして王様はブッダ、ダンマを信じるようになって、再び仏教徒に戻りました。王様が仏教徒になった後、全ての国民が仏教徒になることを許しました。その後、信仰心の深いダラートは王様と結婚してその国の女王になりました。ダラートが女王になった後、治めていた下ビルマの全国にパゴダ(仏塔)や沢山の仏像を作ったので、今でも下ビルマにはパゴダや仏像が沢山見られます。彼女のおかげでミャンマーは今でも仏教の国を保っているのです。今でも彼女の信がみんなの心に生きています。 瞑想を支える精進 ブッダは涅槃に入っていないわけですけれども、私たちはブッダの九つの徳を今でも信じています。そして私たちはダンマ(理法)も信じています。それは智慧を与えてくれるし、涅槃への道を教えてくれるので、信じています。そして私たちがここへ来ているのは瞑想をするためなのですが、瞑想をしているときもダンマ(ダンマというのは非常に広い意味があって、いろいろな現象そのものを表わしたり、真理という意味があります)やブッダを対象として感じているわけです。ですから、瞑想している時はブッダとダンマを感じているので、とても幸せで、退屈にはならないのです。幸せな気持ちというのがあると、努力をしようという気持ちも起こってくるのです。そういう幸福感がないと、なかなか努力をしようという気持ちにはなれないのです。 特に初心者にとっては努力(精進)するということが非常に大切です。努力がないと、心が落ちてしまって眠くなったり、心がさまよってしまったりするのです。人間の本性というのは、自然にしておくと、貪瞋痴(欲・怒り・無知)に流されるという性質があって、努力しなくてもだんだん悪い方向に行ってしまいます。良い方向にもっていくためには瞑想をして、努力しなければなりません。どうですか、そう思いませんか? ここに来ている皆さんはそれがよく分かっていると思います。このような休日に入ると普通はどこかへ遊びに行ったり、休養しようという気持ちになるのですが、皆さんは努力してここへきて瞑想しようと思ったのです。それは智慧があるからです。せっかく智慧をもってここまで瞑想に来たのですから、努力してジャーナまで到達しようという気持ちで励んでください。「ジャーナまで到達しなかったら帰らない」という決心でやってみてください。 心というのは非常に大きな力を持っていて、心を制御したいと思い、心を制御することで幸福感を感じられれば、簡単に心を制御(コントロール)することができます。、心を制御したくないと感じ、制御することに幸福感を感じなければ、心を制御することが難しくなります。 努力とか精進というのは、要するに心のエネルギーのことです。人間の心というのは、努力をしていないと、どんどん沈んで行ってしまうという性質があって、それは例えて言えば、泥の池の上に咲いている蓮の花みたいなものです。蓮の花もしっかりと支えていないと、だんだんと泥の中に沈んで行ってしまうのですが、水面から出て咲いているというのは、ある種の努力があるからです。 もう一つの例え話をしたいと思います。これはブッダの時代の、パリーヤという象のお話です。このパリーヤという象がまだ若い時は、非常に力があり、他の国との戦でいつも勝つので、王様も非常に大事にしていました。しかしだんだん歳をとってきて引退ということになりました。引退して森に入って住んでいましたが、沼の湿地に入って行ったら、ドンドン沈んでしまいました。人々が集まって来ましたが、象は自力で上がってくることができません。人々は、どうすることもできないのでハラハラして見ていました。 その時に王様は、そのニュースを知り、かつての象の調教師にその話をすると、調教師はすぐそこへ駆けつけました。昔若い時に他の国と戦った時、象を鼓舞するためにドンドン太鼓を叩いて気持ちを奮い立たせました。調教師は、象が沈みかけている沼に行って、その太鼓をドンドン、ドンドン叩きました。そうしたら象が音を聞いて、若い時に戦った事を思い出し、心が非常にパワフルになり、力が出てきました。それで、「エイッ」とばかりにそこから飛び出る事ができたそうです。 私達の心も同じようなもので、自分の心で、「よしっ、やるぞ」と思って、眠気に打ち勝とうとしたり、「とにかく、集中しよう」という風に、心でいつも思っていると、段々といくつもの障害を乗り越えて行く事ができるようになります。心はそんな風にして努力で強く持たなくてはなりませんが、呼吸の方は、あまり強くやろうとはしないで、いつも自然に、ナチュラルな呼吸でやってみてください。呼吸はいつもソフトに、そして幸福な感じでやるようにしてください。 六種類の妄想 努力が強くなってくると、サティー(気付き)の力ですね、マインドフルの力が一緒に強くなってきます。サティー(気付き)ということですけれども、これがとても大事で、いつも呼吸に注意を向けているという事です。呼吸以外の対象に心を向けないようにしているのが、気付きの力で、マインドフルなのですが、それが弱くなってくると、妄想が起こってきたり、他の方に心が行ってしまって、だんだん対象が見えなくなってしまいます。サティの力によって呼吸をいつも見ている、注意を向けているという事が大事なわけです。 入ってくる息と、出て行く息を対象に見ているのですが、吸う息、吐く息を非常に簡単に見ることができる人もいると思いますし、難しい人もいると思います。呼吸を見るのが難しいという人は、一つの葛藤みたいなものが起こっているわけす。その葛藤というのは、つまり妄想が起こり、心がさまよい出してしまうという事が起こっているのですが、妄想というのも六種類の妄想があります。六種類というのは、まず、欲です。そして貪・瞋・癡です。欲と、怒りと、無知(迷妄)という三つ。 四つ目は、信です。信じる気持ちですけれども、何でこれが妄想の原因になるかというと、仏・法・僧に信が強いと、思考が入って来てしまい、今やるべきことは呼吸を見ることですが、それよりも「いずれ私は出家したい」とか、「どこそこの瞑想センターに行ってやろう」と、そういうような思考が入ってきてしまうからです。 ですから信を持つのはとても大事なのですが、呼吸瞑想の時に信は一応置いておきます。瞑想する時はあくまでも呼吸を対象に瞑想して、信から出てくる「どこへ行こう、今度はどうしようか」という考え方は起こさないで、呼吸に集中してください。 ブッダが悟りを開く前に、6年間ウルベーラの森で瞑想をしていました。ブッダは、森で瞑想をしていた時に、例えばクティ(小屋)で、毎朝起きるとドアを開けて森を見渡し、あるいは散歩をします。その時に、「とてもすがすがしい朝だ」とか、あるいは森の中に花が咲いていたら「大変綺麗な花だ」という風に思ったりします。それでクティに戻ってきて瞑想する時に、そういう光景とかが、思考に入ってきます。それは瞑想に良くないという事で、私達にも同じような事が言えます。ですから私たちが例えば外で歩行瞑想する時にも、「なんてきれいな空なんだろうか」とか、「この木は素晴らしい木だ」とか、「花が咲いてる」とか、そっちの方を見ないで、ひたすら呼吸に集中するようにしてください。歩いている時も必ず呼吸の方に意識を集中するようにしてください。 五番目は、さっきの逆で、無欲です。それから六番目に無瞋、怒りのない事です。無瞋についていうと、それは慈悲の心なのです。最初に慈悲の瞑想をやって慈悲を感じて、人々を思い浮かべますが、瞑想中にまたそういう人が出てくると、そっちの方に心が行ってしまって、やはり思考になって妨げになってしまうので、瞑想中は呼吸に集中して、慈しみ(メッタ)の心は一応置いておくようにします。最初の5分ぐらいは慈悲瞑想をしますが、呼吸瞑想に入ったら一応それは置いておいて、呼吸の方に集中するようにします。 妄想を避ける四つの方法 この六つの原因による思い・考えが入ってくるのです。妄想というのは、一つの考え・思いですから。瞑想する時には、こういう思いが入り込まないように、考えがさまよい出すのを切って行くということが大事です。それでも呼吸に集中しようとして退屈さが起こってくるという事があります。その時には四つの方法があります。第一の方法は、自然な呼吸をしていて、ゆっくりしてきて、息が長く入り、長く出ていくという風に感じたら、「息が長く入り、長く出て行く」と気付きます。その時に、呼吸の後をついて行くと、段々肺の中に入って行ってしまいますが、それはしないで、あくまでもこの鼻のあたりに意識は置いておいて、呼吸の出入りを見ているというようにします。 次は呼吸を見ていて、短い呼吸が入ってきて短い呼吸が出ていくという風な感じたら、「短く吸って短く出ていく」という風に気付きます。 次は呼吸全体を感じるようにします。呼吸の始まりそれから真ん中、それから終わりです。吸う時に「始まり、真ん中、終わり」。それから出す時も、「始まり・真ん中・終わり」というように呼吸の全体をを三つぐらいに分けて眺めて感じるようにします。 四番目は、そんな風にして見ていると、もっと呼吸を細かく見る事ができるようになってきます。微細な呼吸が見えるようになります。微細に呼吸が見えるようになったら、「微細な息が入って、微細な息が出ていく」と気付きます。こんな風にしてだんだん、微細な呼吸が見えるようになってきて、集中が良くなってくると、心が非常に快適、軽快になってきて、体の方も軽い感じになってきます。心が軽快になって体が軽くなってくると、ある光が現れ始めます。それは集中が良くなってきた時の印、サインなのですが、人によって色とか、形が違っています。 集中のサイン、ニミッタ この時に光が見えてきたとしても、その色とか光には集中しないで、あくまでも呼吸の方に集中するようにしてください。光の方に意識を移してしまうと、すぐそれは消えてしまいます。ある時は、呼吸が非常に微細になってきた時にそういう光が見えてきてそれを続けていると、ババンガ(有分心)と言って、ある種の無意識状態みたいな所に心がスッと入ってしまうという事も起きます。 これは初心者で、ある程度瞑想が進んだ人が陥りやすい事なのです。段々呼吸が微細になってきて、集中が良くなってくると、ある種の光がぼんやり見えて、非常に心が平和な感じになってきます。そうすると幸福感の方に意識が集中するようになり、呼吸ではなくて幸福感の方に心が行くようになって、それを追っているとスーッと無意識の方に行ってしまいます。ですから、呼吸が柔らかくなって微細になってきて、心が平安で幸福になっても、そちらの平安の方に心を持って行かないで、あくまでも呼吸の方に意識を集中するようにしていてください。そうしていると、光がもっとはっきりしてきます。 もう一つの問題は、呼吸が非常に微細になると、呼吸が消えてしまったかのような感じになる事があります。呼吸がどこに行ってしまったのか、分からなくなってしまう、そういう感覚になる事があります。その時に、待っていても一向にはっきり呼吸が現れてこない、というような事が起こります。そういう時は、意識的に呼吸をして、「吸ってる、吐いてる」という風に呼吸を意識的にやるようにすると、また呼吸を感じる事ができるようになります。また呼吸が戻ってきます。 そんな風にして、呼吸に集中していって集中力がついてくると、いろいろな明るい色が現れてきます。これは人によって黄色とかオレンジとか青とか、いろいろな色があるのですが、その色はあまり気にしないでください。そしてさらに呼吸を見続けていると、色がだんだん白っぽくなってきます。この白い光が第二段階のニミッタです。 光が白くなってもそちらに意識を向けないで、呼吸に集中していると、白くなってきた光が輝く星のようになってきて、だんだん鼻の方に近づいてきて、鼻の前のあたりで止まります。それが第三段階のニミッタです。光が安定して見えてくるようになったら、今度は呼吸ではなくて、ニミッタに心を集中してください。そして心で「アーナパーナ・ニミッタ、ニミッタ、ニミッタ」というように、ニミッタの光の方に意識を集中するようにします。10分くらいニミッタに心を集中させると、心が非常に平和な幸福な気持ちになってきます。それでニミッタの方に心をずっと向けていると、五禅支が現れて、禅定(ジャーナ)に入って行きます。 五禅支 禅定に入ると、五つの要素が現れます。一番目はヴィタッカ、尋(じん)という、心をアーナパーナ・ニミッタという対象に向けて行く要素です。二番目は、ニミッタをずっと継続して見続けていく要素、これをヴィチャーラ(伺)と言います。支える心、ニミッタを見続ける心です。三番目の要素はピティと言いますけれども、これは日本語で書くと「喜」です。ニミッタを見続けていると、心が幸福になってきますけれども、その喜びの感覚です。四番目はピティと似ているのですが、スッカという要素で、日本語では「楽」と書きます。ピティは喜びで、振動しているような感覚ですが、スッカというのはもっと落ち着いた、静かな淡々とした喜びという感覚です。 例ばアイスクリームを見て、食べる前はアイスクリームを食べられるという非常に嬉しい気持ちになります。食べた後は、満足して落ち着きます。食べる前の喜びがピティで、食べた後の落ち着いた喜びがスッカです。分かりましたか? 五番目はパーリ語ではエカーガタ、日本語では「一境性」書きますが、心が一つのニミッタという対象にぴたっと集中して張り付いている状態です。そんな風にしてニミッタに心が没入していると、五つの要素(五禅支)が起こってくるわけです。 明日はみなさん第一禅定に入れるように頑張ってください。できますか、できませんか?(会場、苦笑)。 心は非常に強力ですから、ただ心をコントロールしたいと思うだけで良いのです。呼吸を観察することに幸せを感じれば、みなさん必ずできます。最初の禅定に入ることができれば後の四段階までは非常に容易に達することができます。第四禅定まで達することができれば体の内部の三十二の部分を見ることができるようになります。 サヤレーは台湾でも教えているのですが、そこにいろいろなグループがあって、とても強力な尼さんたちのグループがあります。その人達は毎年10日間ずつ10年続けてやっているのですが、どんどん成長していてジャーナ(禅定)から体の中を見て、それからナーマ・ルーパという精神現象や体の現象を見るところまで行って、自分の過去世を見るという瞑想まで入っています。今回は強力な決意を持って、ここにいる全員がジャーナに入ってもらいたいと思います。よろしいですか? 台湾に行った時に、「サヤレーはいつも日本でリトリートをやっていますが、日本の人はどうですか」と聞かれても、答えようがありません。 でもここへ来れて大変幸せです。日本に来ると富士山も見られ、故郷に帰ってきたようで、大変幸福な気持ちになります。いつも合宿の時は皆さんが来てくれて、なんだかふるさとに帰ってきたような気分です。ですから、サヤレーのためにもジャーナに達するように決意してくださいね、良いですか?(笑い)。みなさんが必ず「OK!」という気持ちで頑張っててください。 ですから、マインドフル(気づき)というのが非常に大切で、20分でも呼吸に向けていることが大切になります。ジャーナ(禅定)というのは、非常に強い集中力です。そんな風に禅定に心が達することができれば、心がとても強力で鋭くなってきます。それでそんな風になってくると、次第に洞察力、理解力がついてきます。集中力や智慧がないと、我々の心はいつも散乱していろいろな欲などを追いかけたり愚かな状態になります。それでいろいろな物に執着すると、それによって時間を浪費してしまいます。そういうことによって悪い(不善)なカルマを作ってしまいます。集中力をつけて智慧を持つことができれば、執着を簡単に切ることができます。涅槃に行くことも簡単になります(笑)。 執着による苦しみを絶つ それではまた一つのお話をします。ブッダの時代にコーサラ国という国がありました。その国にあるとき大変に強盗が出没したので、王様はサンダッティという家臣に命じて取り締まらせました。サンダッティは強盗を取り締まって、その後王宮に戻って来ました。王様はとても幸せになって、サンダッティに「褒美に今日から7日間だけおまえを王様にしてやろう」と言いました。7日間の間王様になった家臣は、お酒を飲み続けて酔いどれになっていました。 7日目の最後の日にサンダッティは象に乗って、従者と一緒に王宮の庭を王国の門に向かって歩いていました。その途中で、彼はブッダが托鉢に来るところに会いました。ブッダを見たサンダッティは、象に乗ったまま象から降りることもなく、ブッダに対してただ頭を下げるだけの礼をしました。それを見たブッダは、にこっと笑いました。ブッダに従っていたアーナンダ尊者はそれを見てブッダに、「なぜお釈迦様は笑ったのですか」と聞きました。ブッダは次のように答えました。「アーナンダよ、サンダッティを見てみなさい。今、サンダッティは綺麗な格好をしていますが、今日の午後に必ず私たちの僧院に訪れるでしょう。そして法話を聞いた後、彼は阿羅漢になるでしょう。そして阿羅漢になるとすぐに死んでしまうでしょう。今日、彼は死ぬでしょう」。その話は瞬く間に国内に広まって、人々はどうなることやらと、皆、僧院に見にきました。 サンダッティはブッダに会った後、沢山の従者とともに王宮の庭へ行きました。その中に一人のとても美しい踊り子がいました。その踊り子は、サンダッティが王様になっている間、いつも彼の世話をし、7日間歌い続け、踊り続けていたので、あまりにも疲れて、その時に死んでしまいました。7サンダッティは彼女に対してとても執着、愛着がありました。始め、彼は酔っ払っていてその事がよく分からなかったのですが、踊り子が死んだ話を聞いたとき非常にショックを受けて、酔いから醒めてしまいました。酔いから醒めて心がはっきりしてくると、彼はとても動転し、大変深い悲しみとショックが生まれてきました。彼は心をコントロールすることができなくなって、この感情をどうしていいかわからず、心を鎮めることができるのはブッダしかいないと思いました。 それから彼は僧院へ行ってブッダに踊り子が亡くなったことによって受けた自分の苦しみについて話しました。ブッダは彼に次のように言いました。「あなたは今世だけでなくて、過去世においても彼女のことでずっと涙を流してきました。あなたが過去に流した涙は海の水よりももっともっと多いのです」。 ブッダは続けて言いました。「あなたが多くの過去世においてずっと涙を流してきたのは、彼女に対する執着があったからです。この苦しみから逃れるためには、過去の記憶における彼女に対する執着を切らなければなりません。それと同時に彼女に対する執着を未来に持って行ってはなりません。未来における執着を切らなければなりません。現在においてもヴィパッサナーで観察をして執着を断たなければいけません。過去においても、現在においても、未来においても、ヴィパッサナー瞑想をして執着を断たなければいけません。すべての執着を切ることができれば、容易に涅槃に行くことができるでしょう」。 非常に単純な話ですね。その話を聞いて彼は瞑想をしてすぐに阿羅漢になることができました。なぜそんなに早く阿羅漢になったかと言うと、彼には過去においてずっと瞑想をしてきたという大変大きな波羅密があったからです。私たちはどうでしょうか。今、このような話を皆さん聞きましたけど、阿羅漢になれたでしょうか。まだですか?まだならもっと瞑想が必要ですね(笑い)。サンダッティは阿羅漢になって、自分の生を観て、今日が自分の死ぬ日だということを知り、ブッダのところに行って暇乞いをし、その後すぐに亡くなりました。 そういうわけで、私たちはすべての苦しみを集中力と智慧によって断っていくといくことが大切なのです。先にお話した、五つの禅の要素が涅槃に行くときに大切な力となります。ですから、みなさん自分の中の、嫌だとか退屈だといった不善な心を乗り越えて、呼吸に集中することに幸福を感じるようにして頑張ってみてください。明日からインタビューを始めます。その時、どのくらい集中できたかを聞きます。皆さん「20分も30分も妄想せずに集中できました」と答えられるようになって欲しいと思います。ありがとうございました。 サードゥ! サードゥ! サードゥ! |
[ホームへ]