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簡単に説いた仏教 目次 |
第1章 ブッダ 第2章 ダンマ―それは哲学だろうか? |
第3章 仏教は宗教だろうか?第4章、第5章 未翻訳 |
第6章 カルマ―道徳性の因果法則 第7章 再生 第8章 縁起 |
第9章 無我 第10章 涅槃 第11章 涅槃へ至る道 |
簡単に説いた仏教 ナラーダ長老 |
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に敬礼したてまつる。 第1章 ブッダ 紀元前623年、5月の満月の日のこと、今ではネパールになっている地に、ゴータマ・シッダッタという、インドのシャカ族の王子がお生まれになりました。彼は世界の最良の宗教的指導者になるべくして生まれました。富裕な環境に育ち、王子としての教育を受け、結婚して子供をもうけました。 しかし、彼の思慮深い性質と、限りない憐れみの心とは、彼が王族としての豊かな物質的快楽を楽しむ生活を送ることを良しとしませんでした。彼は、悲惨さを知りませんでしたが、苦しむ人類に対する深い憐れみを感じていました。快適さと繁栄の中にあって、王子は、全世界が苦に満ちていることを理解しました。 その中に集めた世界中の享楽すべてをもってしても、宮殿はもはやこの憐れみ深い王子の本性にふさわしいものではなくなってしまいました。出離の機は熟しました。29歳の時、感覚的楽しみの虚しさを理解した王子は、すべての世俗的快楽を放棄し、修行者の粗末な黄色い衣をまとい、ただ一人、無一文で、真理と平安とを求めて放浪の旅に出ました。 それは歴史上前例のない、快楽の放棄でした。老いゆえの放棄ではなく、人生の盛りにおける放棄でした。貧困ゆえにではなく、豊かさにおける出離でした。厳格な禁欲生活を送らなくては苦からの解放は得られない、という古代の信条にしたがって、彼はあらゆる種類の苦行を熱心に行いました。「徹夜に次ぐ徹夜、懺悔に次ぐ懺悔」…彼は6年もの間、常人を超えた努力を続けました。 彼の体は骸骨のように痩せ細りました。が、体を痛めつければ痛めつけるほど、ゴールは遠ざかって行きました。熱心に追い求めた、苦しく実りのない禁欲的修行は、完全に無駄なものであるという事が明らかになりました。彼はいまや、自らの経験を通じて、心も身体も弱らせることになった苦行が完全に無駄なものであるということを確信しました。 この、とても貴重な経験を通じて、彼はまったく独自の道を歩むことを決意しました。人の精神的成長を遅らせる、欲望への耽溺と、人の知性を鈍らせる苦行との両極端を避けた、中道です。彼が自から見つけた中道(Majjhima Patipada)は、後に彼の教えの重要な特徴の一つのとなりました。 ある幸福な朝、彼が深く瞑想状態に没入しているとき、どんな超自然的な力に導かれることもなく、彼は自力で、努力と智慧のみによって、煩悩を根絶し、自らを清めて、ものごとのありのままの状態を観じて、35歳で悟り(Buddhahood)に到達しました。 彼はブッダとして生まれたのではなく、自からの努力でブッダとなったのです。すべての徳を完全に具現化して、無限の憐れみと同じくらい、深い智慧をもって、彼は教えを説きました。彼はその貴重な残りの人生を、人々に模範と教訓を示すことによって教えを伝えることに尽くしました。個人的動機はまったくありませんでした。 45年もの長い間、人類へ実り多い奉仕をしたのち、ブッダは他の人間と同じように、容赦ない無常の法則に従って80歳でこの世を去りました。弟子たちに、彼の「教え」を師とするように、と励ましながら…。 ブッダは一人の人間でした。人間として生まれ、人間として生き、そして人間としての生をまっとうしました。ブッダは人間でありながら特別な人(人類の教師)になりました。しかし決して自らを神格化しようとはしませんでした。 ブッダはこのことの重要性について強調し、人々が彼を不死の神のような存在であると誤解することへの余地をまったく残しませんでした。こういう訳で、幸いにブッダについては神格化がありません。しかし、いまだかつてブッダのように、神を信じないけれど神のような師もいなかった、と言うべきでしょう。 ブッダはヒンドゥーの神であるヴィシュヌの化身ではありません。ある人々によって信じられているような、個人的な救済によって自由に他の人たちを救う救済者でもありません。ブッダは弟子たちに、自らを解放するのは、彼ら自身であることを説きました。清浄を目指すか、煩悩に耽るかは自分次第なのです。 彼の弟子達との関係を明確にし、そして自らに依ること、各人が努力することの重要性を強調して、ブッダは次のようにはっきりと述べています。 「自ら努力しなくてはならない。如来 (原注2)はただ教師であるに過ぎない」 ブッダは道を示しました。そしてその道を歩み、心の清浄を得ることは、私たちに委ねられています。 「救済を他の人たちに依ることは無意味であり、自らに依ることこそ確実である」 他の人たちに依存することは自分の努力の放棄を意味します。 ブッダは「般涅槃経」 (Parinibbana Sutta )のなかで、弟子たちに、「自己を拠り所にする」よう説きます。 「あなたたち自身が自らの島であり、拠り所である。他の人たちに拠り所を求めてはならない」 これらの意義深い言葉は自己成長のためにあります。自らの目的を達成するために、自己努力がどれほど重要であるかを明らかにしています。そして恵み深い救済者を通して救済を求めたり、空想上の神々の慰めに依ったり、無意味な生贄や、信頼できない祈祷師に頼って死後に幻想の幸福を渇望することが、いかに浅薄で空しいものであるか、を明らかにしています。 さらに、ブッダは、覚醒者であることを独り占めしようとはしません。それは、実際誰にでも特別に名誉として授けられる特権ではありません。ブッダは誰でも望むことのとのできる、最も高い完成の状態に達しました。そして教師としての、もったいぶる考えなしに、そこに導く唯一の直接的な道を明らかにしました。 ブッダの教えに従って、必要な努力をするならば、誰でも最高の完成された状態を求めることができます。 ブッダは「哀れな罪人」と呼ぶことによって、人を非難しませんでした。それどころか、人々はその心情において純粋なものであると語ることによって、彼らを喜ばせています。 ブッダの考えでは、世間の人々は邪悪ではありません。しかし無知によって欺かれています。 自分だけをその高い状態に留めて、弟子達を落胆させるのでなく、ブッダは自らを見本として導き、励まします。なぜならすべての人はブッダ(覚醒者)になり得る可能性を持っているからです。ある意味ですべての人は潜在的なブッダなのです。 ブッダになることを熱望する人は、菩薩(Bodhisatta) と呼ばれます。それは、文字通りには智慧の存在を意味します。この 菩薩という理想は最も美しいもので、今までこの自己中心的な世界に提出された、最も洗練された人生の道です。なぜなら奉仕と浄化の人生以上に高貴なものがあるでしょうか。 人として彼は菩薩になり、人間の隠れた、想像も及ばない可能性と、創造的な能力を世界に宣言しました。人類の運命を独断的に支配し、絶大な力に服従的させるような、目に見えない全能の神を人の上に置く代わりに、彼は人間の価値を高めました。 ブッダは、自分以外の神に頼ったり、聖職者に取り次いでもらうことなしに、人間がたゆまぬ活動によって自らの救出と清浄化を得ることができることを教えました。自己中心的な世界に、無私の奉仕という気高い理想を教えました。 人間の品位を下げるカースト制度に反対し、人類の平等性を教え、すべての人々が人生の歩みにおいて、自分というものを知る平等の機会を与えました。 新しい生き方を始め、完成を熱望するならば、生まれの高い低いにかかわらず、聖人であろうと、犯罪者であろうと、成功と繁栄の門は人生のすべての条件において開かれていることを宣言しました。 カーストや、肌の色、あるいは階層に関係なく、修行する男女のために民主的に構成される独身者の秩序(サンガ)を作りました。 弟子たちに、教えや彼自身に服従するのを強いることなく、思考の完全な自由を認めました。 慰めの言葉によって、遺族を元気付けました。 見捨てられた病人達の世話をしました。 無視されていた貧しい人たちを助けました。 惑わされた人たちの生活を高めて、犯罪者の堕落した生活を浄化しました。 弱者を勇気付け、別れた者たちを結び付け、無学な人々を啓発し、神秘主義を解明し、無知な人々を導き、知的な基礎を高め、聖者を尊びました。 貧しい者も富める者も、聖者も罪人も同じように彼を愛しました。 専制的な王も、公正な王も、有名無名の皇子や貴族も、気前の良い百万長者も、けちな百万長者も、ごう慢な学者も、謙虚な学者も、貧窮した貧困者も、虐げられた清掃人も、邪悪な殺人者も、軽蔑されていた娼婦も、―― すべての人々が、ブッダの智慧と思いやりの言葉の恩恵を受けました。 その高貴な手本はすべての人々にとって鼓舞の源でした。 彼の穏やかな、そして平安な表情は信心深い人々の目にとって、心を和らげるような姿でした。 平和と寛容というブッダのメッセージは言葉で表せない喜びとともにすべての人々に迎え入れられました。そしてそれを聞き、実践するすべての人にとって不滅の恩恵でした。 ブッダの教えが浸透したところではどこでも、それぞれの人々の性格上に消えない影響を残しました。すべての仏教国の文化的な発展は主に彼の崇高な教えのおかげです。 実際セイロン、ビルマ、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、ネパール、チベット、中国、モンゴル、韓国、日本などのようなすべての仏教の国は、仏教という揺りかごのなかで大きくなりました。 この偉大な教師が去ってから2500年以上が経過しましたが、なおその独特な性格が彼を知るすべての人々に大きな影響を与えます。 彼の強靭な意思、深遠な賢明さ、普遍的な愛、無限の思いやり、無私の奉仕、歴史的な出離、完全な清浄、人を惹きつける性格、その教えと最終の完成を伝えるのに使われた手本となる方法 ― これらすべての要因により、今日世界の人口のおよそ5分の1の人々はブッダを最高の師として喜びを持って迎えています。 シュリ・ラダクリシュナンはブッダへの熱い賛辞を語ります。 「人類の思想と生活への影響に関する限り、ゴータマ ・ブッダの中に、私たちは二人といない東洋の偉大な智慧を見ます。 その生涯は宗教的な伝統を創設することに捧げられ、その影響は、他の誰にも劣らず広く深いものです。 ブッダの教えは世界の思想史に位置づけられ、自らを修めた人の普遍的な遺産に属します。 なぜなら、知的な完全性、道義的な誠実さと精神的な洞察力よって判断すると、彼は歴史上確かに最も素晴らしい人物の一人だからです」 歴史上で最も偉大な三人の人たちについて H.G. ウェルズは書いています。 「ブッダの中にはっきりと、誠実で、信心深く、単独で光を求め闘う、生き生きした人間の性格を見ます。それは神話ではありません。彼は人類に、徳性における普遍的なメッセージも与えました。 近代における最良な考えの多くが、ブッダの教えと親しく調和しています。 「すべての苦しみと不満足性は自分本位からくる」とブッダは教えました。人が平静になりたければ、自分、あるいは自分という感覚のために生きることを止めなくてはなりません。そして自分がなければ、大いなる存在の中に融合します。 キリストよりも500年も前に、ブッダは異なった言語で、人々に自己献身を思い起こさせました。いくつかの点でブッダは私たちや、私たちの必要とするもののより近くにいます。ブッダは個人の重要さと奉仕を語ることにおいて、キリストよりも明解であり、不死の問題においては、あいまいさが少ないのです。 聖ヒレールは言いました、 「ブッダが説いたのは、すべての美徳における完全な手本です。彼の生涯には汚点がありません」 ファウスボールは言いました、 「ブッダについて知れば知るほど、ますます彼を愛するようになります」 ブッダの謙虚な弟子なら、こう言うでしょう。 「ブッダについて知れば知るほど、ますます彼を愛するようになります。彼を愛すれば愛するほど、さらに彼を知るようになります」 翻訳:Y.O、湖寂 第2章 ダンマ-それは哲学だろうか? ブッダが詳しく話された体系的な教えは、攻撃的なものではありません。道徳的であり、哲学的なものです。それは、人々に盲目的な信仰を求めることはなく、教えを信徒に押し付けることもなく、うわべだけで中身を伴わない儀式や式典を行うよう勧めたりもしません。 ブッダの体系的な教えはダンマと呼ばれ、仏教という形で世に知られています。ダンマが提供するのは、清らかな生活や清らかな思考をするための素晴らしい手段です。この手段によって、仏教の修行者は最上の智慧を得、自身の中にある悪からの解放を得るのです。 慈悲そのもののような人であったブッダは、人類のためにこの素晴らしいダンマを惜しみなく伝えました。ブッダはすでに亡くなられましたが、ダンマは本来の純粋なかたちで今も伝えられています。 ブッダはその教えを書き残すことはありませんでしたが、分別のある彼の弟子たちが教えを完璧に暗記し、口伝で何代にもわたって伝えて行きました。 ブッダが亡くなられてすぐ後、ダンマとヴィナヤ(戒律)に精通した500人の大阿羅漢(修行を完成して完全な悟りを得た聖者)たちは、教えをブッダが説かれたままの形で保存するために、集会を開きました。第一回仏典結集です。ブッダの全ての教えを聞いたアーナンダ長老はダンマを暗唱し、ウパーリ長老はヴィナヤ(Vinaya戒律)を暗唱しました。 これら熟達した阿羅漢たちによって、ティピタカ(三蔵)という経典が編集され、現在伝えられているような形に整えられました。 仏教の歴史上初めて三蔵(ティピタカ)が書き残されたのは、紀元前83年頃のスリランカにおいてです。敬虔なシンハラ人(スリランカに住む仏教徒)の王ヴァッタガマーニ・アバーヤの治世のときで、セイロンでオーラというヤシの葉に書き残されました。 三蔵はブッダの教えの本質を伝えています。巻数が非常に多く、聖書の約11倍もの分量であると見積もられています。三蔵は第一回仏典結集のときに一気にまとめられました。三蔵はこの点で、いろいろな作者により徐々に作られた聖書とは大きく異なっています。 三蔵という名の示すとおり、三つの教説の集成でできています。戒律の集成(ヴィナヤ・ピタカ)、教えの集成(スッタ・ピタカ)、そして奥義の集成(アビダンマ・ピタカ)です。 律蔵 仏教の修行者たちの共同体は歴史上最も古い出家集団であり、サンガと呼ばれています。戒律の集成である「律蔵」は、このサンガを維持する頼みの綱と考えられています。律蔵は、僧(ビク)と尼僧(ビクニ)により構成される未来のサンガの規律のために、ブッダが機会あるごとに定めた戒律と規制とを主に扱っているからです。 そこには、次第に発展していったブッダの教えが詳しく述べられています。ブッダの日々の生活と仕事の説明も記されています。また、律蔵からは、重要でおもしろい古代の歴史や、インドの慣習、芸術、科学などの情報も読み取ることができます。 律蔵は次の5つにより構成されています。 Ⅰ、ヴィバンガ(vibhanga):解釈 1、パラジカ・パーリParajika:大きな罪について 2、パチッティヤ・パーリPacittiya:小さな罪について Ⅱ、(カンダカ)Khandhaka 3、マハーヴァッガ・パーリMahavagga:大品 4、チュッラヴァッガ・パーリCullavagga:小品 5、パーリヴァーラ・パーリParivara:戒律の大意 経蔵 経蔵は、ブッダがさまざまな機会に応じて自ら説かれた教説から成っています。また、サーリプッタ尊者やアーナンダ尊者、モッガラーナ尊者といった、ブッダの優れた弟子たちによって説かれたものも含んでいます。この中にはっきり記されている教えは、さまざまな機会やいろいろな種類の人間の気質に合わせて詳しく説かれているので、まるで処方箋の集成のようです。 その中には、一見したところ矛盾しているように思われる発言があるかも知れませんが、誤解すべきではありません。それらの発言は、ブッダが特別な目的のために、ふさわしい時期をみて話されたものなのです。たとえば、まったく同じ質問を受けた時でも、質問者が単に軽薄な質問好きだった場合はブッダは沈黙を守ったりしますが、質問者が熱心な探求者だとわかった場合は、詳しい返答をしています。 ほとんどの教説は主に僧たちのためになるように説かれたもので、聖なる修行生活と教義の説明とに関するものです。しかし、いくつかの他の教説では、世俗の信徒たちの物質的な発展や道徳的な進歩に関することも扱っています。 この経蔵は、五つの集成(ニカーヤ)に分けられます。すなわち、 1、長部経典(ディーガ・ニカーヤDigha Nikaya:長い教説の集成) 2、中部経典(マッジマー・ニカーヤMajjhima Nikaya:中くらいの長さの教説の集成) 3、相応部経典(サンユッタ・ニカーヤSamyutta Nikaya:同じ系統のことわざの集成) 4、増支部経典(アングッタラ・ニカーヤAnguttara Nikaya:数にあわせて整えられた教説の集成) 5、小部経典(クッダカ・ニカーヤKhuddaka Nikaya:比較的小さな説教の集成) 5番目の小部経典は、さらに15の集まりに分けることができます。 1、クダッカ・パータKhuddakapatha:短めの文章 2、ダンマパダDhammapada:真理への道 3、ウダーナUdana:感興の賛歌 4、イティヴッタカItivuttaka:「かくのごとくおっしゃられた」ではじまる教説 5、スッタ・ニパータSutta Nipata:集められた教説 6、ヴィマナ・ヴァットゥVimanavatthu:天上界の物語 7、ペータ・ヴァットゥPetavatthu:ペータ(餓鬼)の物語 8、テーラガーターTheragatha:長老たちの詩集 9、テーリーガーターTherigatha:尼僧たちの詩集 10、ジャータカJataka:本生物語(ブッダの前世譚) 11、ニッデーサNiddesa:解説的論文 12、パティサンビダ・マッガPatisambhidamagga:分析的な知識 13、アパーダーナApadana:阿羅漢たちの生のあり方 14、ブッダヴァムサBuddhavamsa:ブッダの歴史 15、チャリヤ・ピタカCariyapitaka:行動のありかた 論蔵 奥義の集成である論蔵(アビダンマ・ピタカ)は、経蔵に含まれている明快で簡潔な教説とは対照的に、ブッダの教えに関する深遠な哲学を含んでおり、三蔵の中でもっとも重要でもっとも面白いものです。 経蔵には型にはまった教え(vohara desanaヴォーハラ・デーサナ)が見られる一方、論蔵には究極的な教え(paramattha-desanaパラマッタ・デーサナ)が見られます。 論蔵は、智慧ある者にとっては欠くことのできない道案内であり、精神的に進歩したものにとっては知的な喜びの源であり、探求する学者にとっては思索の糧であるといえます。論蔵の中では、気づき(サティ:現在の心身の状態をありのまま自覚すること)がどのようなものかが明確に説明されています。 そして、意識が定義されます。また、様々な思考についても、主に倫理的観点から分析され分類されています。人間のあらゆる精神状態が数え上げられています。それぞれの意識状態がどのような要素で構成されているのかが詳細に説明されています。どのようにして思考が起こるのかが、丁寧に述べられています。人間に関することであっても、人々の心の浄化に何の関係もないつまらない問題は、注意深く除外されています。 また、論蔵のなかでは、物質についても要約して述べられています。物質の基本単位、物質の特性、物質の源、精神と物質の関係が説明されています。 論蔵では、生命体の二つの構成要素である精神と物質についての詳しい説明がなされており、私たちが物事のあるがままの状態を理解する手助けを提供してくれます。そして、それにもとづいた哲学が展開されています。この哲学を基礎として、仏教の究極の目的であるニッバーナを悟るための倫理体系が作り上げられています。 論蔵は7つの集成を含みます。 1、ダンマサンガーニDhammasangani:ダンマの分類 2、ヴィバンガVibhanga:色々な部門についての集成 3、カータ・ヴァットゥKathavatthu:議論の要点 4、プッガラ・パンニャッティPuggalapannatti:個々人の描写 5、ダートゥ・カータDhatukatha:要素への言及についての議論 6、ヤマーカYamaka:二つ一組の論の集成 7、パッターナPatthana:関連することについての集成 ブッダは教義を大衆のためと智慧ある者のためとの両方の目的で説かれました。読者は三蔵の中に、赤ちゃんのためのミルクと強者のための肉を発見したかのような気分になることでしょう。これらの聖典に秘められている崇高なダンマは、不変の真理と事実のみを扱っています。いま深遠な真実として受け入れられていても、近い将来につまらない教えとして捨てられてしまうような理論や哲学は扱っていません。 ブッダは、新奇で人をびっくりさせるような哲学理論を我々に示すこともなければ、新しい物質科学を作り出そうとすることもありません。ブッダは、完全に解説された悟りへの道筋に従って教えを説かれます。私たちが苦から解放されるためには何が必要で、何が必要でないかを明確に解き明かしてくれます。このような説き方はブッダに独特なものです。ところで、ブッダはたくさんの近現代の科学者や哲学者の教説を2500年前に発見しています。 ショーペンハウアーは、その主著“意志と表象としての世界”のなかで、苦の真理とその原因を西洋の仕方で説明しています。スピノザは、永遠に存在するものの実在を肯定しているにもかかわらず、あらゆる現象的存在は一時的なものにすぎないと主張しています。彼は、「一時的でなく、短命でない、不変で永続する知的対象を見つけること」によって悲しみが克服されると言っています。 バークリーは、分割できない最小の物質である原子が、抽象的な虚構に過ぎないということを明らかにしました。ヒュームは、精神構造に対する厳しい分析の後に、意識が一瞬の精神の状態から成り立つと結論しました。ベルグソンは変化することの学説を主張しましたし、ジェームズは意識の流れについて言及しています。 2500年も前、ガンジス川流域にいた時、ブッダは無常(アニッチャ)、苦(ドゥッカ)、そして無我(アナッター)についてのこのような学説を、くわしく説き明かしていたのです。 ブッダは、知っていた全てのことを話したわけではありません。あるとき、ブッダは森を通っていました。彼は手のひら一杯に葉を取って、おっしゃいました。 「ああ、僧たちよ。私が教えたことはこの私の手の中の葉のようなものだ。私が教えていないことは、森の全ての葉のようなものだ」 ブッダは、深遠なものと平易なものとにかかわらず、人間の浄化に決定的に必要であると考えたことのみを説かれました。ブッダは、彼の神聖な仕事を理解していないようなつまらない質問をされた時には、特徴的な沈黙を守りました。 仏教は、確かに科学と相通ずるところがあります。しかし、両者は交わることのない教えとして扱われるべきです。科学は主に物質的な真実を扱うのに対し、仏教はその内容を道徳的、精神的な真理に制限しているからです。それぞれの主題は異なっています。 ブッダの説かれたダンマは、単に書物の中にとどめられているものではなく、また歴史的観点や文学的視点から学ばれるテーマでもありません。反対に、ダンマは個々人が日常生活の中で学び、実践するべきものです。実践なくして真理を悟ることはありえません。 ダンマは学ばれるべきものであり、それ以上に実践されるべきものであり、そしてなにより悟られるべきものです。瞬間的な悟りが究極のゴールです。ダンマはしばしば、筏にたとえられます。それは、ダンマが生と死の大海(サンサーラ:輪廻)から抜け出すと言うたった一つの目的のためにあるからです。 それゆえ、厳密に言うと、仏教は単なる哲学(philosophy)と呼ぶことはできません。仏教は単なる「知的探求をうながす、知恵(sophia)への愛(philein)」ではないからです。仏教は哲学とよく似ているかもしれませんが、それよりずっと包括的なものです。 哲学は知識のみを扱い、実践を考慮しません。一方仏教は、実践と悟りに特別な強調を置いています。 翻訳:Y.O |
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