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ブッダの教え  マハシ・セヤドー


  ブッダはすべての人間、神々、梵天達の幸せを促すために、この世に出現されました。

ブッダがこの世に現れるのは稀なことです。ブッダがこの世に現れる劫(こう、宇宙の循環)よりも、現れることのない劫の方がずっと多いのです。ブッダが現れる劫の中でも、ただ一人のブッダだけが現れる劫もあれば、2、3人あるいは4人のブッダが現れる劫もあります。

今の時代は、最大5人のブッダが現れる劫です。5人のブッダのうちのマイトレーヤブッダは、現在のゴータマブッダの教えが消え去ってしまってから、何百万年も経ってはじめて出現します。

かつてこの世に現れたブッダ達の教えも、般涅槃(生死の輪廻からの最終的解放)へ入られてから、十万年、百万年の時が経ってしまうと、この世から消え去ってしまいました。ブッダの教えが保たれる期間というのは、短くほんの僅かなものです。

 解説によれば、現在のゴータマブッダの教えは、その死後五千年しか保たれません。ブッダが涅槃に入られてから既に2524年が経過しています(1984年現在)。今現在でさえ、世界中でブッダの真の教えを敬い受け入れている人の数は減少しています。2500年後の、教えの消滅の時はもう近づいてきています。
ゴータマブッダは、2569年前にこの世に現れました。それ以前の何百万年もの間、誰もブッダの教えを耳にすることも、知ることも、実践することもできませんでした。当時の人々は、概して良いカルマを欠いており、ほとんどが貴く幸せな、良い生まれを得られなかったのです。

法をよく聞き実践すること

ブッダがこの世に現れて、真の法が説かれました。この教えを聞いて、当時たくさんの人々が、その教えを実践し布施や持戒といった価値ある行為によって豊かになり、天界に再生しました。

 また何百万人もの人々が阿羅漢となり、涅槃を得ました。ひょっとすると、このように善趣において豊かになり、涅槃を得た人々の多くはネパールやインドの出身だったかもしれません。というのも、菩薩であったシッダールタ王子ご自身がネパールに生まれ、インドで法を実践し涅槃を得たのですから。

 長い間ネパールとインドに住み、ブッダは法を説かれました。ネパールやインドに住んでいた人々は、ブッダの教えをよく聞き、広くその教えを実践していました。こういうわけで、当時の人々は天界に生まれ豊かになり、涅槃を得てすべての苦しみから解放されたのです。

ダンマ(法)は今実践しなければなりません

今日でさえ、ブッダの真の教えを聞くことができるのは、幸運であると考えなければなりません。ですから、この真実の法を敬って従い、実践しなければなりません。この真実の法が発生した地であるネパールやインドの人々は、特にそれを敬うべきでしょう。それでは、真実の教えとは一体何なのでしょうか。

ブッダの真の教え

“すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること――これが諸の仏の教えである”

(1) 悪を避けること
(2) 善を行うこと
(3) 自らの心を浄めてゆくこと

この三つの訓戒がブッダの教えの真髄です。

身による行い

悪行とは、
(1)他者を殺したり、傷つけたりすること
(2)不法な手段で他人の物を盗んだり、奪ったりすること
(3)性的に誤った行為 
この三つは悪行であって常に避けなければなりません

 言葉による行い

 次に、
(1)他人を貶めようとして嘘をつくこと
(2)告げ口などによって、親しい人々を仲違いさせること
(3)粗暴な口汚い言葉を用いること
(4)真実でないことを真実であるかのように語ること(このことは異教の教えにも関係します)
 この四つの言葉による行いは、有害なものであり常に避けなければなりません。

 不善な暮らしぶり

 不法に財を得ようとして、行動したり話しをしたりして、正しくない生計を営むことは常に避けなければなりません。五戒を丁寧に守ることは、悪行を控えて正しい生活を送るようにというブッダの教えに従うことです。

 正しい行為

 手短にいうと、善行というのは、布施と持戒と修習(瞑想によって心を育てること)から成ります。これらのうち、布施はほとんどすべての仏教徒から感謝されます。仏教徒はできる限りの善行を施すことによって、他人から非難されるのを免れるのはもちろんのこと、賞賛を得ることもできるのです。施しを受けた人々は、彼らを尊敬して好きになり、できる限りの援助をするようになります。彼らは、貴い良い家に生まれて、すべての面で富み栄えるでしょう。

 道徳的な善

 戒とは、仏教の三つの宝である仏法僧に帰依し、五戒や八斎戒を遵守することを意味します。仏教徒は、この三宝を信じ、拠り所として五戒やその他の戒律を守ることを宣言します。その結果、地獄や餓鬼、畜生、阿修羅といった悪趣に再生することを免れるのです。その代わりに、人間や神々といった善趣に再生し、そこで繁栄し続けるのです。

修習

心を耕し、訓練することによる善行。
仏教における心の訓練には、サマタ瞑想(静寂)とヴィパッサナー瞑想(洞察)の二つの種類があります。それから三つ目に、心の訓練によって出世間へ導く“聖なる道への修習”があります。サマタの修習には、十遍、十不浄、十随念といったものがあり、他の十種とあわせて全部で四十種類があります。

仏随念

これらの修習の中でも、仏随念とはブッダの徳(例えば人間、神々、梵天達の尊敬に値する阿羅漢の徳のような)に思いを凝らして、それを敬うことです。この修習はどのように行えばよいのでしょうか。ブッダは戒、定、慧による聳え立つような気高い徳に満ち満ちているのだから、ブッダを敬えば善趣天界に再生し、そこで幸せになれるだろうと熟考すればよいのです。また、阿羅漢の徳を持っているため、ブッダはそのような尊敬に値するのだと熟考してよいでしょう。

ブッダの持っているもう一つの徳は、――まさにこのことによって、この上ない覚者と言えるのですが――他の助けを借りることなく、自力で四つの貴い真理(四聖諦)を発見したことです。この徳によっても、ブッダは特別な尊敬に値するのです。他によることなくすべてを知り、輪廻の苦しみからの解放のために、あらゆる存在に教えを説いた故に、彼もまた“ブッダ”(覚者)であるという美徳を授けられているのです。この真実にも思いを凝らさなければなりません。仏教徒として、ブッダを尊び敬うたびに、仏随念を実践していることになります。

法随念

次に、ブッダの教えは自らの実践と経験によるものであって、ブッダはそれを忠実に弟子たちに伝授しました。その教えを敬い正しく実践すれば、驚くべき洞察に至ることができます。ブッダの教えの偉大な徳について熟考し、そこに信頼を置くならば、法随念という善行を養っていることになります。

僧随念

次に、ブッダの弟子達の貴い徳に思いを凝らすなら、それは僧随念の修習を行っていることに等しいのです。

慈の修習

自分が苦しみから逃れ安楽であることを願うように、他人も同じことを望みます。慈の修習とは、特定の誰かまたは人間、神々を含む個々人全体の幸せを心から願うことです。

仏随念や慈の修習をできる限り行うことは、功徳を積むようにというブッダの在家への勧告に従って行動していることになります。

ヴィパッサナーによる善行

ヴィパッサナーによる善行とは、自他の心身の現象の“無常性、不満足性、無我性”について常に瞑想することによって、功徳を得ることを言います。この瞑想は、執着の対象となる、“心と体の集合体”のはかない本性を認識するブッダの実践と一致します。この功徳の発達と成熟については、後で説明します。
この功徳が熟してくると、涅槃を知り体験することのできる聖なる修道の善業が現れます。このことも後ほど説明します。

心を浄めること

「自己の心を浄めよ」という教えについて言うなら、四つの聖道を通して涅槃を認識した後、ブッダは四つの聖果の成長を楽しみました。どのようにして、四つの果心が表れた後、心が浄められるのかということも後ほど説明します。

幸せへの実践

私がこれまで述べてきたのは、どのようにしてブッダの教えを敬い実践するかということの概要です。この実践によって、人々は自分の求めている幸せを得ることができます。このようにして、人間、神々という聖なる飛行機は、苦しみの終滅と永続する幸せを成し遂げた涅槃と、大いなる幸福をともなって目的地に到達するでしょう。それはまた、ブッダの教えが末永く保たれることに貢献し、周りの他者の幸せにも貢献するのです。
それ故に、今まで述べてきたことをあなたが実践し、自らの求めている幸せを得て、できる限りの努力をして、速やかに涅槃の至福に至れますように。

三分間のヴィパッサナー瞑想実践

私はこれまでヴィパッサナー瞑想のやり方については、あまり語ってきませんでした。しかし、今日から始まりです。ヴィパッサナー瞑想を実践できるように、これからその方法を手短に述べて行きます。

ヴィパッサナー瞑想とは、私たちの心と体の現象のありのままの姿を知ることができるように、それらが生じては滅することに気づくことです。

私たちが物を見たり、聞いたり、触れたり、考えたりする度にこれらの現象は、常に生じては滅して行きます。そのことに注意して、いつでも気づいていることが大事なのです。しかし始めのうちは、見、聞き、触れ、知ることのすべてに気づくのは無理でしょう。ですから、わずかなことに気づくことから始めればよいのです。私たちが息をするとき、おなかが膨らみ、縮んでいるのがはっきりと分かります。これが風界という動きの要素の現われなのです。このことに気づくことから、始めれば良いのです。適切な姿勢で座って三分間実践してみましょう。

 物を見る必要はないので、目は閉じます。おなかに注意を向けて下さい。おなかが膨らんできたら、「膨らんでいる」とラベリングして下さい。縮んできたら、「縮んでいる」として下さい。「膨らんでいる、縮んでいる」と言葉に出して言う必要はありません。気づきとともに心の中でラベリングすればよいのです。

心が他にさまよったら、さまよっていることに気づきます。そしておなかの膨らみ、縮みに注意することに戻るのです。体の疲れや不快が気になるときは、二、三回そのことをラベリングして、またおなかの膨らみ、縮みに戻ります。物音が聞こえたら、二回ほどラベリングして、またおなかの膨らみ、縮みに戻ります。それでは三分間このように続けてみましょう。

結論

三分間が過ぎました。一分間のうちに5、60回ラベリングすることができます。三分間で150回はラベリングができます。これらの行為の全てが、ブッダの教えに則ったヴィパッサナーの善行の修養なのです。これを継続しているうちにサマーディ(集中力)が高まってくると、心と物をはっきりと知ることができ、その因果関係が分かるようになります。

 それらが常に生じては滅して行くこと――つまり無常ということが自力で分かるようになるのです。その過程で、より進んだヴィパッサナーの洞察を発達させて、やがては道果の智慧を伴なった涅槃を体験するのです。それ故に、できる限り熱心にヴィパッサナー瞑想を行って、速やかに涅槃が得られますように。

サードゥ!サードゥ!サードゥ!

                 翻訳:田中喜美雄

 



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