今までここで育んできた善を忘れないでください。それは果実を生むことに間違いありません。私たちがここ(僧院)でしてきた小さなことは、たくさんの果実を生むことがないだろうと思って、過小評価しないでください。ほんとうに、それを過小評価してはいけません。
仏陀の時代にこんな話があります。
ある僧侶と沙弥たちは、出家した後に煩悩を完全に断ち切ることができませんでした。少しだけ煩悩を減らすことが出来ただけでした。それで彼らは落胆し、還俗してしまいました。還俗した後に、生計を立てねばなりません。時には正直な仕事に就き、時には不正な仕事に就きました。不正な仕事に関係した人たちは役人によって捕えられ、監獄に入れられました。
一つの例はサーリプッタ尊者のある弟子でした。彼は善を育てるために出家しましたが、望んだ結果を得られなかったので還俗し、泥棒になりました。やがて彼は捕えられ、死刑を宣告されました。当局は人々に法律を破らせないよう、見せしめとして処刑前に7日間拷問にかけることを決めました。
国王は執行人に命じ、木と鉄で作った槍を列に並べ、穂先を針のように尖らせて泥棒をその上に寝かせて身体を突き刺し、血まみれにして耐え難い痛みを与えるようにしました。
泥棒が苦しむ様子を見せるため、街の人々を呼び集め、朝、昼、晩と3回行うことにしました。
泥棒を7日間拷問にかけ、次に首を切るという予定でした。しかし泥棒にはまだ サーリプッタ尊者と共に修行していた時の善いカルマが残っていました。サーリプッタ尊者は、修行僧のための修行法や瞑想を教え、彼は初禅の段階まで心を成長させていました。
しかし初禅は彼の煩悩と渇愛に立ち向かうには十分ではありませんでした。それで還俗したわけです。
6日目に、サーリプッタ尊者が、大いなる悲心から――つまり尊者は、仏陀に代わってダンマの実践を僧侶たちに教えることがありましたが――瞑想の力を使って出家している弟子や、還俗して在家に戻っている人たちがどこにいて、何をしているかを調べていました。
泥棒がサーリプッタ尊者の弟子であったときに培った善のために、尊者に光が現れ、かつての弟子が拷問にかけられ、次の日に首を刎ねられることになっているのが見えました。
それを見ると、サーリプッタ尊者は、弟子の善の蓄えについて熟慮しました。まだいくらかの潜在的な力はあるけれども、それは弱っていました。そうではあっても、身につけたいくらかの善は彼の中にまだ埋まっていました。煩悩が彼の心を覆っているとはいえ、まだ幾許かの善がありました。
これを見て取ると、早朝で混み合う中、サーリプッタ尊者は托鉢の鉢を持って弟子がが拷問にかけられていた地区に向かいました。尊者が近づくと、弟子は槍のベッドの上に横たわっていました。その場所は興奮で走り回っている人々で、混乱していました。サーリプッタ尊者を見て興奮している者がいました。泥棒が拷問にかけられているのを見て興奮している者もいました。
師の衣が弟子に見えるよう、群衆はさっと分かれました。弟子に伝わるように、そして彼が生き永らえることができるように、サーリプッタ尊者は慈しみの思いを広めました。しかしそれは彼が得られたのと同じように近かった。
サーリプッタ尊者を見ると弟子は大いに喜び、「明日は師に暇乞いをしなければならない。私は処刑されるのだ」と思いました。師に礼拝しようと考えて、彼はサーリプッタ尊者の瞑想指導を思い出し、禅定を実践し始め、集中によって心を静かにさせました。心が静まると、死について思案し、「明日彼らは確実に私を処刑するだろう。それについては疑う余地がない」と思いました。さらに、「死はどこにあるのか。死はどこで起きるのか」と思案しました。
そして死はこの鼻の先にあるという認識に達しました。呼吸が止まるなら、それは死です。しかしまだ呼吸している限り、残酷に拷問にかけられているとしても、死んではいません。
それで彼は気付きの呼吸を実践し始めました。呼吸に集中するとすぐに、呼吸は完全に静まり、そして傷口からの出血が止まりました。出血が止まると、傷口はふさがり、そして治りました。傷が治ると、瞑想がどれほど痛みを克服することができたかを知り、無上の喜びと喜悦を感じました。
そして、体の部分を調べました。頭髪、体毛、爪、歯、皮膚 ―― 行ったり戻ったりして、体の部分が再び全体にまとまるまで、繰り返し、調べました。体の部分がこのようにして力を得たとき、彼は槍の先端の上で蓮華座を組み禅定に入ることができました。第一禅定、第二禅定、第三禅定に入り、第四禅定に達すると、体は綿毛と同じぐらい軽く、木と鉄の槍より強くなりました。槍の先はもう体を突き刺すことができませんでした。
最終的に、心には洞察力が確立され、彼は誓約をしました。「この境遇から脱することができるなら、師とともに生きるために戻ろう」。彼は第四禅定の二つの要素に心の焦点を合わせました。第一の要素は心を一つにすることです。他の何ものにもまったく巻き込まれないことです。処刑されるという考えは全く消えてしまいました。第二の要素は明るく、まぶしいほどの気付きです。気付きの光によって、師を見ることができました。そして「師とともに生きよう」ともう一度決意しました。
この決意をするやいなや、体は空中に浮き上がり、サーリプッタ尊者のいるところへ行きました。師に再会した後、彼は決して再びいかなる悪もしないことを誓いました。
彼は瞑想を実践し、この事件から生きて帰ってきました。阿羅漢や他のものにはなりませんでしたが、生きのびることができました。
このことは、私たちが成長させる善がすぐに期待するものにならなくとも、それを過小評価すべきではないことを示しています。善は火のようなものです。火を過小評価すべきではありません、一本のマッチで都市すべてを焼失させることができます。善は同じような力を持っています。
これは仏陀が、身につける善を過小評価しないことを教えた理由です。善がほんの少しだけでしかないように思われても、それは、不幸な出来事を避け、重いものを軽くし、危険をなくし、安全を作る力を持っています。これは覚えておくべき一つの要点です。
もう一つの要点は、ある人たちが植物のようであるということです。土地に柑橘類の種を植えたとしましょう。種が成長すると、すぐに果汁になることを望みます、しかしそうはなりません。植えたものの本性でほんの少しずつ成長していくでしょう。そしてしばらくして後、望む果汁を得ることができるでしょう。
しかしそこに座って、木が1日、1時間、1分にどれくらい成長するか、新芽が何センチになるかを見ようとして、測ることができますか?もちろんできません。
でも木は毎日成長していると信じることができますか?もちろんです。
もし成長していなかったら、木はどのようにして大きくなるのでしょうか。このことは多かれ少なかれ、私たちが成長させる善においても真実です。すぐに結果は見えないけれども、それは確実に来ます。
一日にどれぐらいの善をしたか、あるいはかつての行いがどれくらい善として現れたかを測ることはできません。しかし結果として現れたかどうかと尋ねるなら、それはそのとおりであると答えなければなりません。それは柑橘類の木のようなものです。成長しているのを見ることはできません、しかし成長することは分かっています。
今までしてきた善が成長しているように思えなくても、それを過小評価すべきではありません。
もう一つの要点は、ある人々がバナナの木のようであるということです。バナナの幹を切って、1時間後に戻って来るなら、木の本性で新芽が先端から1インチ(2.5センチ)成長しています。2、3日で、新芽は1、2フィート(30~60センチ)成長するでしょう。
同様の人たちがいます。彼らは速やかに、並外れた結果を得て、あらゆる種類の能力を身につけます。例えば、速く禅定に入り、そして他の人々に経験したことをはっきり説明することができます。
同じようなことは仏陀の時代にもありました。
例えば、チューラパンタカの例があります。彼は長い間善を身につけるために努力してきました。しかし、修行において友人たちに軽べつされ、誇りを傷つけられながら、最終的に瞑想のこつを飲みこんだとき、彼はすぐに結果を得ました。
そのお話は次のようなものです。かつて、仏陀に導かれた500人の僧侶とともにチューラパンタカが滞在していたとき、金貸しが食事供養のために僧侶全員を彼の家に招待しました。チューラパンタカの兄、マハーパンタカは食事の係でした。誰かが招待を持って来たら、他の僧侶に知らせることがマハーパンタカの仕事でした。
マハーパンタカは、いつも居眠りをし、瞑想になると怠惰で、ぼんやりであった弟を恥じていました。それで、弟はどこの家の食事供養にも値しないと思って、招待に彼を含めないことに決めました。マハーパンタカは、仏陀に導かれた499人の僧侶だけに金貸しの食事に行くよう招きました。
僧団が金貸しの家に到着し、すべての僧侶が配膳を受けたとき、一つのお盆が残されていました。金貸しは、なぜ約束した500人の僧侶にならなかったのか尋ねました。マハーパンタカは、チューラパンタカが招待に含まれていないということを話しました。
それで金貸しは仏陀のところに行きました。仏陀は、チューラパンタカが僧院に戻って瞑想していたことを知っていて、金貸しに、彼は重要な僧侶であるから招くために使用人を遣わすよう言いました。
しかし仏陀は、チューラパンタカが培った力を、金貸しに見せたかったので、どのようにして連れて来るかについて説明せず、金貸しの使用人に会いに行かせました。その後で説明するつもりでした。
チューラパンタカの誇りは大変に傷ついていたので、食物無しで済ませ、その日は瞑想して座ることに決めました。彼はそのときに第四禅定に入りました。生まれてからこの方このように早く瞑想が進んだことはありません。
第四禅定に入るや否や、心を明瞭に、輝かしく、花咲かせ、超越的な強靭さを体と心に与えて、第五禅定に入りました。
金貸しの使用人が僧院に到着したのはその時でした。チューラパンタカは彼を見ると心に決意をしました。彼自身のイメージで僧侶をつくり僧院を一杯にしました。あるものは座って瞑想していました。あるものは歩行禅をしていました。あるものは衣を洗っていました。
使用人は僧侶の一人に、チューラパンタカはどこにいるのか尋ねに行きました。僧侶はもう一つの棟を指し示しました。彼は別の棟に行って、そこで僧侶に尋ねました。僧侶はやはりもう一つの棟を指し示しました。使用人は別の棟に行って、そこでまた僧侶に尋ねました。僧侶はやはりもう一つの棟を指し示しました。
こんなことが繰り返されるうちに食事の時間はほとんど終わってしまいましたが、それでも使用人はチューラパンタカの居場所をまったく突き止める事ができませんでした。それで彼は金貸しの家に走り戻りました。
仏陀はこの時に、チューラパンタカが超能力を身につけ、これからは友人たちによって軽べつされることがないことを知りました。それで使用人に、僧院へ戻って再び招待するように言いました。しかし今回は、どのようにしたら良いかを教えました。それはどのようなものだったでしょう。
使用人が僧侶に、チューラパンタカがどこにいるかを尋ねるとき、僧侶が口を開こうとしたら、話をする機会を与えずに、僧侶の腕をつかみなさいというものです。それで使用人は言われたようにしました。
彼は僧侶で一杯の僧院に戻り、僧侶の一人にチューラパンタカはどこにいるか尋ねました。僧侶がもう一つの棟を指し示そうとした時、使用人は彼の腕をぎゅっとつかみました。
その瞬間、僧院内のすべての僧侶は、つかんでいる僧侶だけを残して、姿を消しました。それで彼は金貸しの家の食事にその僧侶を招きました。
その時からずっとチューラパンタカは、あらゆる種類の驚くべき超能力でサンガの卓越した僧院の一人になりました。彼は太陽に当たっても、暑くなることがありません。雨の中を歩いても濡れることがありません。はるかな距離を旅行しても、たちまち着くことができました。
彼は多くの場所にたちまち現われることができました。森や墓地や他の場所でも同様に。
そして、あらゆる種類の力を成長させました。その結果、彼は友人たちによって軽べつされたことで傷ついた誇りをを乗り越えることができ、仏陀の卓越した弟子たちの中でも、より特筆すべき一人になりました。
これが善の力です。ある人々は驚くべき力と広範囲な能力を得ます。まさにこの生で涅槃に達することができるような、成熟した集中力、成熟した洞察力を得ます。これらすべては善、すなわち育んだ波羅蜜から来ます。ですから、私たちも育ててきた善を誇りにすべきです。
もう一つのお話があります。
あるお年寄りのご婦人が僧院へ行くと、歩行瞑想の道が汚れているのを見つけました。僧侶が歩きやすいように、彼女は泥とごみを掃きました。彼女はそれをただ一度しただけですが、愛をこめて、信念を持って、尊敬の念を持って、純粋な心から行いました。泥とごみは彼女の気持ちを落胆させるので、すべてを掃き出し、足を洗うために、水を用意しました。その結果、彼女の心はきれいになり、気分が爽快になっている感じがしました。
彼女は家に帰ったすぐあとに、心臓発作を起こしました。彼女が亡くなった後、天人として再生し、多くの者を従え、宮殿や聖なる食物とあらゆる種類の豊かな富を得ました。
宮殿に住んで、彼女は以前の生活を思い出し、考えました。「もし私がたくさんの善をしていたなら、今よりさらに豊かになっただろう。もう少しだけ長く善をするために戻れたらどんなに良いだろう。そうすれば今よりもっと多くの豊かな結果を得ることができるだろう。昔は善がこのような結果を生むとは考えなかった」。
それで彼女は天界から降りて、地上に戻り、森や荒れ地に僧侶を探してうろつきました。
そして、集中に入ろうとしていた一人の僧侶を見つけました。それで彼女は、何か奉仕することはないかと、彼をじっと見つめてそこに立ちました。
しかし、僧侶は彼女を見ると、追い払いました。「人間の善行為に割り込もうとするとは、何という天人でしょうか。以前、あなたは善を過小評価しました。しかし良い結果を受けた今、さらに多くを求めています。どれだけ貪欲になればよいのでしょうか。立ち去ってください。あなたにしてもらうことは何もありません。人間に善を行う機会を与えてください。あなたのするような善を何も身につけていないたくさんの人々がいます。善をする機会に割り込まないでください」。
天人は悔しがり、天界へ逃げ帰りました。そしてすでに得ていた結果で満足しなければなりませんでした。彼女はもっと多くの善を作ることを望んでいました。しかしそうはさせてくれません。それはなぜでしょうか。
私たち人間は小さい善行為を過小評価しがちです。しかし死んだ後に、それ以上のいかなる善をしようと思っても難しいことです。なぜ難しいのでしょう。体はもはや人間の体ではありません。人間と話をすることは全くできません。僧侶の鉢に食物を入れることさえできません。できる最良のことは、ただ他のものがした善について喜ぶことだけです。ただ良い目(まなこ)を持った人間だけに、天人を見ることができます。そういう目を持たない人たちはまったく見つけることができないでしょう。
もし正しい心の力を持った人間に出会ったら、教えてくれることがあるでしょう。
しかし、天人がそのような人間に出会わないなら、それ以上いかなる善も身につける術がありません。
ですから善の力を過小評価すべきではありません。時と機会があり、自分ができる善をする機会に気付いたなら、いつでも急いで努力し、できるだけ早く善を育てることに努めるべきです。
もし今、死がやって来るとしたら、何が残るでしょうか?何もありません。
できることのすべては、残してきた足跡―― 言い換えれば、過去にしてきた善を荷造りし、まとめることです。してきた善を覚えているとき、それは、天界で良い目的地に着くのを助け、心を育むことでしょう。もし心に強い集中を成長させていたら、世俗世界からの解放を得て、心を超越的なものにすることができるでしょう。
望んだような善をまだ育てていない人たちは、してきたことを過小評価しないでください。今までしてきたことを財産と見なしてください。その財産は人生が悪所に落ちることを防いでくれるものです。この世界に留まるなら、人生の道を決めるに当たって、今までしてきた善を頼りにすることができます。この世界を去るなら、善は影のようにいつも後に付き従うでしょう。
私たちがここで心を一つにして、成長させてきた善についての話をしました。私の話をダンマ(理法)の記憶の一つとして覚えておいてください。
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