「喜び」と「清浄」は二つの異なったものです。それは同じものではありません。喜びは物質的な対象から来る、身体的、精神的な安楽であり、清浄ではありません。なぜなら、心にはまだ数々の熱中しているものがあり、浸りきっており、そのことで汚されています。清浄というのは、物質的な対象から独立したある種の喜びです。心の静寂と安心から喜びが生まれます。
喜びは善の低い形です。それは世俗的なものです。
清浄は善の高い形です。それは世俗を超えたものです。
集中の修行において、正精進(正しい努力)はそれを支える要素です。一方正念(正しい気付き)と正定(正しい集中)は監督する,要素です。これら二種類の要素は静寂の基本的な原則です。それらは、間違った集中に陥ることから心を監督し、守る要因になっています。
静寂(サマタ)と洞察(ヴィパッサナー)は二つの別個のものであると言う人がいます。しかし実際には、一つであり、同じものです。静寂は洞察を生じ、洞察は清浄を生じます。そのように清浄は簡素な、いつもの静かな心からやって来ます。
清浄に達するために何をすればよいでしょうか。心が清浄になるためには、訓練しなければなりません。それは容易なことであると言うなら、容易です。それは難しいことであると言うなら、難しいでしょう。なすべきことにおいて誠実であるなら、容易に結果を得られますが、そうでなかったら結果を得るのは難しいでしょう。
静寂は火を点けたろうそくのようなものです。うまく風から守られるなら、炎はまっすぐになり明るい光を発するでしょう。何でもはっきりと見ることができるでしょう。もしろうそくがひっくり返ったら、火は消え、手探りしなければなりません。猫を犬と間違えたり、犬を猫と間違えるかもしれません。なぜならはっきりと見ることができないからです。
同じように、気付き(マインドフル)によって、心を風から守るために努力しなくてはなりません。障害という風に吹かれて、心を克服されないようにしてください。
喜びと“清浄の善”は、同じ一つのものではなく、二つの別々なものです。喜びは通常のものから来る身体的、精神的な安楽です。すなわち、食べる、生きる、気持ちよく眠っている、どんな病気でもない、自由に使える、たくさんの富を持っている等です。
“清浄の善”は、通常のものから離れた喜びから来ます。それは、外部の支えに依存することなく、自身の心から来ます。この種の喜びはダンマ からその支えを受けます。それが生じるとき、安定していて、不変で、永続的です。通常の喜びは、頼りになりません。それは、概して、人を失望させる傾向があります。ダンマの領域で喜びを探すようになったのは、それが失望のない喜びだからです。
ダンマ(理法)は、太陽と雨から護るために屋根の上に敷いた藁や瓦のようなものです。人がこの世に生まれるとき、それは避難する所(*訳註1)なしに置き去りにされているようなものです。太陽と雨と嵐の風で苦しむことが確実です。
ダンマが心の中にしっかりある時だけ、これらの危険から逃れられるでしょう。自らを護るために、心にとっての避難所、すなわちダンマを見いだすことを教えるのはこういう理由からです。ここでいうダンマとは 徳(戒)、集中(定)と洞察力(慧)です。
徳(戒)には四つの種類があります。すなわち、感覚の抑制、戒律(パーティモッカ)による抑制、生活における清浄、必要なものへの熟慮です。これら四種類の徳(戒)は四面にある壁のようなものです。それは嵐の風から守ってくれるでしょう。
集中 ―― 四つの禅定(ジャーナ)―― は太陽と雨から身を守る四方の屋根のようなものです。(*訳註2)
洞察力 ―― すぐれた洞察力 ―― は抜け落ちる危険から身を守る頑丈な床のようなものです。(*訳註3)
これらの三種類の保護が与えられるとき、安全の感覚を持つことができ、この世や次の世で来るかもしれないどんな苦しみも恐れなくてすみます。
戒律は体にとっての避難所です。そして集中は心にとっての避難所です。心の避難所は静寂と洞察で構成されています。静寂は心を静かで強固なものにし、障害から離れさせます。
洞察とは、自身の作られたものについて、すべての原因と結果を調べるために洞察力を使うことです。そうすることによって、一歩一歩煩悩を手放すことができるという点に至るまで、真実を観ることができます。煩悩をすべて手放すことができたとき、心は“清浄の善”に達して、精神的な動揺からの自由を得るでしょう。
静寂と洞察は二つ別個のものであると言う人がいます。しかし実際には一つと同じです。静寂が心を静かにさせます。心が静かであるとき、それは輝きを増します。光がより明るく、さらに明るくなるとき、それは洞察の光に変わります。洞察が生じるとき、“清浄の善”に入ります。そしてこの善、この清浄、は静寂から、すなわち簡素な、いつもの静かな心からやって来ます。
静かでない心は、体と共に留まらない心です。これが起きるとき、出会うのは苦しみと 煩悩に他なりません。それは誰も住んでいない家のようなものです。ほこりにまみれ、散らかっていることに疑いありません。
そんな遠くに例を探さなくても、私たちが座っているこの瞑想ホールを例にとってください。すべての僧や沙弥や在家者が立ち去って、一日そのままにしておきます。帰ってみると、誰も掃除やすす払いをする人がいないので、ほこりとクモの巣で覆われているでしょう。
同じように、心が立ち去って体を離れるとき、体と心の両方がほこりにまみれ、汚されます。そして、体がほこりだらけであるとき、心はどのようにしてそこに留まることができるでしょうか。 それは、ほこりだらけな、汚い家のようなものです。持ち主はそこに住むことができませんし、他の誰も住めません。僧もそこを訪ねたいとは思わないでしょう。
在家の人が私を招待したらどうでしょう。家が取り散らかっていて、鶏やアヒルの糞が一杯落ちていて、不潔であったなら、私は入る気がしないでしょう。私は座る気がしないでしょう。私はほとんど呼吸することができないでしょう。
それでこの比較を念頭においてください。もし心に集中がなく、巧みな資質(訳註)を成長させていないなら、それは不潔な家のようなものです。そのような家を訪問したい僧はどこにいるでしょうか。そして僧が訪問しないとき、どこで祝福を得るでしょうか。
心が体の外にあるとき、それは世間です。心が体の中にあるとき、それはダンマ です。
もしそれが世間であるなら、火と同じぐらい暑いでしょう。もしそれがダンマであるなら、水と同じぐらい涼しいでしょう。
感覚の領域における巧みさは、通常の社会的なレベルでの善です。それは外部にある人や物と関わっています。超越的な巧みさとは、社会的なレベルを越えたところの善です。すなわち、自身に拠ることを学んで、独力で問題を処理することができます。
普通の人の心は前へ進んだり、戻って来たりします。それでは頼りになりません。時折、勝ったとしても、方向が変わり、そして負けます。今日は勝っても、明日は負けます。聖なる弟子の心については、勝っても、負けることがありません。前へ進んで、後に戻りません。前方に徐々に進み続けます。
心が頼りにならず、強固な原則を持っていないなら、それはコミュニストの心です。すなわち、どんな宗教も持っていません。自身に頼ることができるように、宗教を持った心は原則を持たなければなりません。心に依って、その人自身であり得ます。
心がその人のものでないとき、完全な権限を持ちません。心は何に関しても、命令をしたり完全なコントロールを行なうことができません。例えば体に、「行って、法話を聞く」よう命じても、行く気にはならないでしょう。「集中して座る」ことを命じても、坐る気にはならないでしょう。
それは親と子のようなものです。100%、子供の親であるときだけ、子供に対し全面的な権限を持つでしょう。50%が親であり、50%が子供であるなら、自信を持って全面的なコントロールを行使することができません。心は親で、体は子供のようなものです。
体に全面的なコントロールができるように、心をその人自身であるよう訓練しなければならないのはこういう理由からです。心が全面的にコントロールされているとき、体から生じるどんな痛みでも、心から生じるどんな煩悩でも克服することができます。そのとき本当に、あなたはあなた自身であると言うことができます。
私たちはLPレコードのようなものです。善を行えば、その善は私たちの中に記録されます。悪を行えば、その悪は私たちの中に記録されます。 良い音や悪い音が記録されたレコードとまったく同じようなものです。
どんな種類の 行い(カルマ)をするとしても、それは私たちの中に留まり、他のどこにも行きません。善あるいは悪のどちらを望むのか尋ねてみてください。
心は善でも悪でもありません。しかし心は善を知っているし、悪も知っています。心は善を行うものであるし、そして悪を行うものでもあります。そして心は善を手放すものであるし、悪を手放すものでもあります。
体はすり減って、分解して行ってしまうものです。心は分解しないし、死ぬこともありません。ですから私たちは米粒のようなもので、生まれる部分と生まれに関わらない部分とを持っています。生まれに関わらない部分は米の粉(胚乳)の部分です。生まれに関わる部分は、先端にある白い胚芽です。
もし米粒を植物として生じさせたくないなら、小さい白い胚芽を壊してしまうことです、そうすれば芽を出すことができないでしょう。私たちも同じで、体は米の粉(胚乳)のようなものです。心は、芽を出す小さい白い点(胚芽)です。
もし、心が煩悩――善や悪への執着――を含んでいるなら、それらを破壊しないと、新しい存在の世界と誕生の芽を出すでしょう。善悪という執着を手放して、それら両方を下に置くよう教わるのはそういう理由かれらです。心が出すべき芽を持っていないとき、誕生と死からの自由を得ることができます。
消されたろうそくの炎が、身体の眼に見える形を持たなくなるのと同じように、心が死において体を去るとき、それは消えて行きます。しかしそれは炎がこの世界から消滅したことを意味しません。
それは単に、銅線のなかの電気の火のように、その特性の中に拡散したに過ぎません。ただ電線を見ても、その中に火は見えないでしょう。けれども手でそれに触れるなら、すぐに熱を感じるでしょう。
同じように、心が体を去るとき、それはその特性の中に拡散した火とまったく同じように他の場所で再び現われます。体にしがみつくことは古い業(カルマ)にしがみつくことです。体を放すことは古い業(カルマ)を放すことです。 そしてこのように放すことができるとき、体にはもう業(カルマ)がないでしょう。
それは土地(*訳注4)の一部と同じです。もし権利証書と区画された境界線でそれを所有をするなら、権利侵害、詐欺、境界線論争、裁判沙汰といったトラブルを抱えるようになりがちです。しかし資産を所有することなく、ただの公有地にするなら、トラブルや口論は起こらないでしょう。このようにして心は安楽であることができます。
体は舟のようなものです。川は巧みな意図のようなものです。気付き(マインドフル)は舟を運んで行く風です。煩悩は砂洲です。いつも 気付き(マインドフル)を成長させるなら、砂の上に座礁しないで「体の舟」を他の岸に持って行くことが可能でしょう。
煩悩は舟が陸にたどり着くことを阻止する、砂洲あるいは川に浮かぶ切り株のようなものです。換言すれば、熱情は私たちを妨げるものです、怒りは私たちに突き当たるものです、そして迷妄は私たちの向きを変えさせ、沈ませるものです。
川と運河を舟で行き、鋤や鍬、シャベルを売るために雇われた二人の男たちの物語があります。
彼らが舟ですべての商品を売ったら、雇い主は1日につき1カハパナ全額を賃金として与えることにしました。それはおよそ4ドルと等しい額です。 最初の日、雇い主は彼らと一緒に行きました。そして彼らはすべての商品を売りました。その後、雇い主は彼らと同行しませんでした。それで二人は独力で商品を売るために川に出ました。
ある日、舟をこぎながら、「鋤と鍬、シャベル!」と叫んでいました。彼らの心は散漫になり、そして眠くなり始めました。突然、まともに切り株に衝突し、砂洲の上に乗り上げました。
心が動転していたので、舟が自由になった後でさえ、川に沿いながら、「鋤と鍬、シャベル!」と叫ぶのを忘れ、こう叫び始めました。「砂洲と切り株!砂洲と切り株!」。それで、だれも買う人はいませんでした。
晩になって、まだ鋤と鍬、シャベルでいっぱいの舟を雇い主の家へとこぎました。それまで一つも売ることができませんでした。それで雇い主はその日の賃金として、それぞれにただ1ドルしか与えませんでした。男の1人は金を妻に渡すと、いつもの4ドルの代わりに、たった1ドルしかないので妻は驚きました。
「多分別の女に残りの金をやってしまったのだ」、と彼女は考えて、夫を叱りました。
彼がいかに説明しても、彼女は聞こうとしませんでした。それで彼は雇い主に尋ねに行くように言いました。もし彼が言ったことが本当でなかったら、彼女に頭をたたかれても仕方なかったことでしょう。彼女は腹を立て、いらいらして言いました、「いいえ、最初にあなたをぶって、それから尋ねに行きます」そう言いながら、彼女はシャベルの柄に手を伸ばしました、しかし彼女がつかんだのは、犬を家の外に出すために使う杖でした。夫を非難して、頭を3回たたきました。
もちろん、後になって彼女は真実を知りました。しかしそれは遅すぎました。夫はすでに3回頭をたたかれた後でした。
この物語は気付きのないことから来る危害について示しています。もししていることから心をさまよわせたら、自身を困難に陥れることになります。
これをたとえてみると、舟の船首にいる男は僧です。船尾の男は在家信徒です。砂洲が障害であり、切り株は熱情、嫌悪と迷妄です。気付きがなく、注意深さがなく、心が煩悩に巻き込まれ、五つの障害で覆われていたなら、ダンマの修行は成功するのが困難でしょう。
欲界における巧みさとは、道路を走るトラックや川に沿って走る舟のようなものです。しかしどちらの場合も、トラックが倉庫に止まったり、舟が埠頭に停泊するほうが、さらに良いと言えます。
トラックが道路を走るとき、あるいは舟が川を往くとき、そこから得る利益があります。
(1)貨物あるいは乗客を運ぶことができます。
(2)乗客から運賃を集めることができます。あるいは貨物に対して請求することができます。
しかしトラックが倉庫で止まったり、舟が埠頭に停泊するとき、何倍もの利益を得ます。
(1)疲れきった体に、休養する時間を得ます。
(2)古い荷物をすべての降ろし、新しい荷物を手に入れることができます。
(3)同じ埠頭にしばしば停泊することがあれば、埠頭で働く人やその地区の人々といっそう親しくなるでしょう。
しまいには食べ物を分けてくれるようになり、払いなしに夕食をご馳走になったり、夜は料金を取らずに、部屋に泊まらせてくれたりするでしょう。それはいっそう親しく、懇意になるからで、彼らは私たちが好きになります。
最後には、寝泊りを一緒にすることができるほど私たちを信頼するでしょう。こういうことになれば、彼らに家族の秘密を聞いたりすることができるかもしれません。何人の妻と子供を持っているとか、どのように金をもうけているとか、家族の宝をどこに隠しているとか、などです。彼らはすべてを話すでしょう。
同じように、心がその熱中しているものを追いかけるのを止め、埠頭でじっとしているなら、その埠頭(体)で三種類の利益を得るでしょう。
(1)心は休んで、疲労から回復することができるでしょう。
(2)平和、喜びと安楽の感覚を得るでしょう。
(3)四つの特性(地・水・火・風)とより親しく、懇意になるでしょう。
それは土地の人になったかのようです。体と心の働きをすっかり知るようになるでしょう。
地の土地に滞在するとき、地の特性に関して詳しくなるでしょう。(*訳註5)
水の土地に滞在するとき、水の特性に関して詳しくなるでしょう。
火の土地に滞在するとき、火の特性に関して詳しくなるでしょう。
風の土地に滞在するとき、風の特性に関して詳しくなるでしょう。
三つと八つの認識において技量を上達させるでしょう。(*訳註6)
それ以上何の疑いも持たないというところに至るまで、体についてすべての問題を知るでしょう。そのことにより、体を手放すことができるようになります。
本を読むことによって、あるいは人々が言うことを聞いて、あるいは表示にしたがって知ることは、本物ではなく模倣の知識です。それは知ることの影のようなものです。本当に知ることとは、自身の中で生しることを知ることです。それは完く個人的なもので、人に教えることもできず、話すこともできない種類の知識です。
それは自分の中で生じなければなりません。ただそのときにだけ、何が無常で、苦で、無我であるか、そして何が常で、楽で、我であるか、を知るでしょう。
種姓智(gotarabhu-nana:悟り直前の智慧)は両方の面を見て、両方とも手放します。
ダンマの真実は法住(Dhammathiti)、すなわち変化することなしに留まる、心の局面です。心の動きと性格は、ただ智慧の影あるいは模倣です。ダンマを実践すると、本当の智慧を求めます。本当に実践しないなら、ただダンマの影に出会うだけでしょう。それゆえに、本当の智慧が内に現われるように、実践すべきです。
私たちの体には変化する部分と不変の部分があります。そして、楽と苦の部分、自己と呼べるものと無我であるもの両方があります。例えば、地、水、風、火という特性は、他のものに変化しないという点で、不変です。
地の特性は水に変わったことがなく、水の特性は風に変わったことがなく、風の特性は火に変わったことがありません。宇宙の初まりからそのようであったものは、宇宙が粉々になるまでそのようであるでしょう。
水を例にとってみましょう。水を固くなるまで凍らせるか、水に緑や、黄色や、赤い染料を入れたとしても、まだ水でしょう。体の部分にさえも不変の面があります。手は一度も1フィートに変わったことがありません。腕は一度も足に変わったことがありません。目は一度も耳に変わったことがありません。下唇が上がっていって上唇になったことは一度もありません。これらは不変であり、自己であるという面です。変わりやすい部分について言うなら、それは真にそのようなものではなく、ただこれらの性質なのです。
地、水、風、火の特性は四人の人のようなものです。彼らと知り合いになろうと努めれば、やがて彼らは友人になるでしょう。初めのうち彼らとはあまり親しくないので、あなたは信頼されません。それで彼らは最初にあなたをテストしようとするでしょう。
例えば、瞑想して座り始めるとき、彼らは棒をとって、あなたの足が痛むか、あるいは感覚がなくなるように、足と向こうずねを突くでしょう。横たわれば、彼らは背中を突付くでしょう。横向きになれば、彼らは腰を突付くでしょう。起き上がって、再び座るなら、彼らは再びあなたをテストするでしょう。あるいは諦めるようにささやくかもしれません。もし彼らに屈服するなら、死王は頬が裂けるほど、笑うでしょう。
あなたがすべきことは、あらゆる困難に立ち向かって微笑み、最後まですべてに耐えることです。四つの特性すべてと話をし続けてください。最初彼らが返答しなくても、あれこれ尋ねて、彼らと話をし続けなければなりません。やがて、彼らは一言だけ答えてくれるでしょう。それであなたは話をし続けます。彼らの答えはより長くなり始めるでしょう。そして最後には知人になって、真の会話を持つことができるようになります。
その時点から、彼らはあなたの親友になります。彼らはあなたを愛し、手を貸して、あなたに彼らの秘密を話すでしょう。あなたは友人たちと一緒の人になり、孤独ではないでしょう。一緒に食べて、一緒に寢て、どこへ行くにも、一緒に行くでしょう。あなたは安心を感じるでしょう。どれほど長い間座って、痛むことはないでしょう。どれほど長い間歩いても、疲れているようには感じないでしょう。なぜなら、歩くときに話す友人たちを持っているから、楽しんで知らぬ間に目的地に目的地についてしまうからです。
体の中にしっかり染み渡るように、気付きを保つ瞑想の訓練をするよう教わるのはこういう理由からです。
瞑想のテーマ ―― 体、感覚、心、精神的特性(身受心法)―― において、外からくる考えや、夢中になっていることで道にそれ、心をさまよわせることのないように、方向付けられた思考と評価法を使ってください。
快、苦痛、中立の感覚をどこで感じるか、すべて四つの特性がどのようになっているかを知るように、体について瞑想してください。精神的な特質が、静寂で、堅固で、真実になるまで、知っている様々な事柄の中で心がいかに動き回るか気付いてください。
このように、どこへ行くにも、何をするにも友人たちが一緒であるかのようです。言い換えれば、体が歩くとき、心も共に歩きます。体が横たわるとき、心も共に横たわります。体が座るとき、心も共に座ります。体が止まるとき、心も共に止まります。
しかし私たちのほとんどはこのようではありません。体は二歩歩みます。しかし心は四歩、五歩も進みます。それで疲れないでしょうか。体は手すりと七つの厚い壁に囲まれた、蚊帳の中で横になります、しかし心は家の外でまだ走リ回っていることができます。こんな風であるなら、どこに幸福があるでしょうか。
家の中にいないなら、太陽、雨、風とあらゆる種類の危険にさらされて歩き回らなければならないでしょう。なぜなら、屋根や保護するものがないからです。心に避難所の働きをする集中がないなら、常に苦難と痛みに遭遇しなければならないでしょう。
このような理由から、心を訓練して、集中の中にしっかりと留まり、あなたがあなた自身であり得るように、自らの中に全面的な権威を育てるのです。こんな風にして、上に記したように、きっと清浄な善に出会うことでしょう。
訳註1:避難所と帰依との関係については、ビク・ボディの法話「帰依と戒」(http://www.satisati.jp/honyaku1.htm)を参照されると良いでしょう。
訳註2:四つの禅定とは、第一禅定から第四禅定まで。
訳註3:原文はdiscernmentで「識別力、洞察力」の意味。
訳註4、5:原文、propertyには「資産、土地、特性」の意味がある。
訳註6:三つと八つの認識とは、三(無常・苦・無我)、八(地・水・火・風・色・味・香り・栄養素)のことと思われる。
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