ホームへ



 
         チャイヤ長老の経歴

1947年3月25日、ミヤンマー、シャン州のシ・ポー町に生まれる。
1965年沙弥として出家、67年に僧となる。77年に卒業し、ダンマチャリアの学位をとる。学業中、毎年の夏休みを利用し、いろいろな瞑想センターを訪ねる。ラングーンや、マンダレーの著名なセヤドーの元で学び、深い精神的体験をする。

1988年。タイのペチャブリ県バン・ラーメ、ワット・コウ・タクロウのパルク・バチラキツォポーン師よりタイへ招待される。5ヶ月にわたりタイ語を学習後、タイの比丘や比丘尼にアビダンマを教える。

その後更に学ぶため、スリランカへ渡る。1990年アチャン・チャイヤはネバダ州、ラスベガスのワット・ブッダバーバナのパンニャバーロ師に招かれて、仏教伝道のためアメリカへ向かう。92年パンニャバーロ師が逝去された時、コミュニッティの要請を受けてワット・ブッダバーバナの僧院長になる。その後三年に渡り、瞑想および仏教哲学を教える。

95年、静かなところでの集中的リトリートへの望みから僧院長を辞す決心をする。しかし弟子たちは、ラスベガスに留まるよう願い、静かな瞑想用の土地を寄進する。7ヶ月の集中瞑想の後弟子たちはアチャン・チャイヤにダンマを教えてくれるよう要請する。弟子達に答え、雨安居のときに一人離れて集中瞑想をすることにする。95年弟子達の協力を得て、アチャン・チャイヤはチャイヤ瞑想僧院を設立する。

現在、アチャン・チャイヤにはタイ語、英語、ビルマ語によるCDやテープのダンマの教えが600本ある。僧院は5万のカセットを無料で世界中に分配している。また、タイ語によるダンマの本が7冊ある。http://www.chaiyacmm.org/index.html




日常生活における気づき(マインドフルネス)  チャイヤ長老

煩悩の生起

 私たちは目とか口とか鼻とか体とかを持っています。もし、日常生活において気づきがなければ、欲とか怒りが起こってきます。目を開いて何かを見て、それを欲しいと思うのは貪欲で、それが嫌だ嫌いだと思うのは怒りです。私たちは貪欲や怒りをよく見るために、気付いている必要があります。貪欲や怒りというのは不善の心(akusala)であり煩悩なので、それが原因となって後に結果が出てきます。ですから、それをなるべく止めるようにしなくてはなりません。

 何か見たときに欲望だとか怒りだとかが起こるのは、こっているわけです。それがなぜ起こるかというと、私達がそれをコントロールすることが分からないからです。それをコントロールするには、マインドフル(気付き)でいることが大事です。いろいろなものを見たときに、これは良いとか、これは嫌だとかいうふうに掴んでしまうから、そこで貪欲や怒りが起こります。それは、ただ現れては消えて行き、生じては滅して行きます。現れては消えて行くものだから、それをただ「見ている、見ている」と観て、掴まないようにすることが大事です。

 貪欲や嫌悪というのは、ものすごいスピードで起こってきます。家の中でもこの人は好きだとか嫌いだとかいう執着は、すごいスピードで起こってきます。何かを見たときに嫌だなと思っていると、家に帰ってきても、あれが嫌だこれが嫌だとそれを思い出してしまいます。そのために苦しんでしまいます。それをしないためには、いつも気付いていて、ただこれがこういうふうになっていると観るだけで、掴まないことです。こういう訓練をするのが、マインドフルネス(サティ)です。見たときに見ただけにして掴まないという訓練を常に行うことが大事です。

心のカルマ

 心の中で闘いが起こっています。貪欲や怒りなどの煩悩というものはいつも起こるから、それに対していつも闘っています。例えば、見たら見ただけというマインドフルネスの闘いをしましょう。
 私たちは、最初に心でいろいろなことを考えます。あれが嫌だとかこうだとか考えると、それは心のカルマなのですが、その心のカルマというのは行いのカルマとか言葉のカルマとかで、必ず後で出てきます。心だけに留まらず、それが実際に行動に結びつき、結果が出てきます。貪欲、怒り、無知をなくしていくのは瞑想だけでは足りません。戒が必要です。

 例えば、敵や仇を見て殺したいと思うのは、心のカルマです。そのときに五戒がちゃんと分かっていたら、殺すということは戒律に反するから良くないと思って、そういう考えを行為に移すことを止められます。また、心のカルマから来た悪い言葉を発したり、悪い行為をしないですむようになります。

 戒を守っている人は、心のカルマがあったとしても、悪い行為をしたり、悪い言葉を発したりしませんが、それだけでは足りなくて、それをするためには集中力が必要です。心の中に怒りの煩悩があっても、サマーディがあれば心を静めることができるので、怒りを静めることができます。誰か嫌いな人がいても、瞑想をすると怒りはなくなってしまいます。嫌うのは怒りですが、集中力があると、心が落ち着いてきます。怒りがあるときに平和はありません。怒りだけではなくて、何か欲しいという気持ちがあると、よく寝られなくなったりしますが、それは貪欲です。それが私たちの本性です。

 ブッダは私たちに真理を教えてくれました。ブッダは偉大な先生です。ブッダがいなかったら、私たちは貪瞋痴についてどうしたらいいか分からなかったでしょう。私たちは、どのようにして目を開くか良くわかりません。これが好きだというのは貪欲で、これが嫌いだというのは怒りです。これが好きだ、これが嫌いだというように偏らないように中道を行きなさい。マインドフルでないと、非常に危ないことになります。

敵は6つの門から入ってくる

 マインドフルネスは、安全保障みたいなものです。危ない人が入ってくるのを防ぐのがマインドフルネスです。敵は6つの門から入ってきます。たとえ、眼、耳、鼻、舌、身を全て塞いでも、心の方から敵は入ってきます。だから、私たちはマインドフルでなければいけません。見たときは、ただ見ることです。そうしていると、物事がただ現れて消えているだけだと分かってきます。眼についてそういうことが分かると、耳についても現れては消えていくということが分かってきます。それが眼について、いかにして眼を開けるかということが、ブッダがおっしゃったことで、目について言っていることは耳についても同じことです。聞いている時にも、これは良いと思うのは欲だし、嫌だと思うのは怒りです。

 誰かに何か一言言われたりすると、それに対して2つも3つも返したがる。だけど、その時にマインドフルであれば、ただ聞くだけ、それで終わってしまう。マインドフルの瞑想というのは、私達の日常において、大変有効です。だから、「ずいぶん長く瞑想していますね、ずいぶんサマーディが得られましたか」と言うよりも、常に嫌悪とか欲とかが起こっていないかチェックするマインドフルの瞑想が、日常生活で有効です。

 普段の生活では、目を閉じることもできないし、耳を塞ぐこともできないから、いろいろ入ってきます。でも、それは非常に危険だから、マインドフルネスを育てることは大事なことです。鼻については、目や耳ほど問題を起こさないのだけれど、電車などに乗ったときに何か変な臭いがしたりすると、「何だこれは」という感じで怒りが発生したりします。だから、毎日マインドフルの瞑想をしていると、嫌な臭いがしてもそれを瞑想の対象にして、「ただの臭いだ」ということで瞑想をしていると、その嫌な臭いがニッバーナに導くものになっていきます。

 目の前の人がカラフルで奇抜な服を着ていたとしても、ただ見ているだけ、ただこれは現れては消えていくという、マインドフルの訓練をしていれば、別に何ということはないのです。例えば、瞑想をしている人に「どのくらい瞑想をしていますか」と質問したら「30分くらいです」と答えるかもしれませんが、その30分だけではなくて、いつでも瞑想をしてください。

心の平安とマインドフルネス

 心の平安がいつもあれば、怒ることはありません。心の平安とマインドフルネスがあれば、怒りというものを防ぐことができます。瞑想を始める前と瞑想を訓練した後を比べてみると、心がだんだん成長していくのが分かります。時間が大変重要です。時間を有意義に使うと、自分の人生を有効に使うことができます。私たちはテレビを見たり、音楽を聴いたり、踊りを見たりして、見ることや聞くことに執着しています。「時間がない、24時間では足りない」と言います。

 座って目を閉じて瞑想をすると、電車に乗っても見ているときに、「見ている、見ている」と、ただ見ていると、これは瞑想になります。全てが瞑想の時間になります。眼にしても、耳にしても、鼻にしても、食べているときに、「これは美味しい」というのは貪欲であり、「これは不味い」というのは怒りです。マインドフルであれば、ただ噛んで、ただ飲み込んでいると観ることにより、食事の時も瞑想の時間になります。食べて、胃袋がいっぱいになると、集中力もいっぱいになって、智恵が生まれてきます。

 どれくらいの人が、どれくらい食べたらいいか知っているでしょうか。ほとんどの人が知りません。食べるときも貪欲とか嫌悪とかが起こっています。私達は幸運です。というのは、マインドフルネスで食事をすると、心が乱れません。朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯を食べている20分から30分の間が瞑想の時間になります。貪欲も怒りも起こりません。ブッダは、私たちにいかにして食べるかということを教えてくれました。私たちは非常に幸運であって、どういうふうにして食べたらいいか、すなわちマインドフルに食べるということを知っています。

 また、例えば、電車に乗って、どこかに旅しているときに、次はどこだどこだといつも心配になるのですが、座っているときに、触れているところに「触れている、触れている」と気付いていることです。それで10分間瞑想ができます。それで、眼を開けて、人がどうやって動いているかを観ます。人々が動いて、現れては消えて行くのと同じように、眼に映る意識も現れては消えて行きます。

 耳で聞くときに、聞いている対象が聞こえては消えて行く、それは、単に音という波動が現れては消えて行くだけです。心と物質というのは、同じように一緒に現れては消えて行きます。音というのは物質です。音を聞いているのは心です。だから音という物質と、それを聞いている心というのは、同時に起こって同時に消えて行きます。

 私たちは、眼にしても、耳にしても、鼻にしても、舌にしても、身体にしても、心にしても、今起こっていることをノーティングするのが大事です。音が聞こえたときに、「音」、「聞いている」とノーティングしていると、それが単にバイブレーションであることが分かって、消えて行きます。聞いたり、見たりしているとき、貪欲や怒りが起こるのを抑えることができます。私たちはいつも心を洗濯していなければなりません。瞑想をしているときに、お腹が膨らんで縮んでいるのを見ているだけでは十分ではなく、心をいつも洗っていることが大事です。そうでないと、心がどこかに行ってしまいます。

心をいかにして洗濯するか

 いつも心は「どうしているか」ということをチェックしてください。それが心を洗うことです。心を観るということは、心をチェックすることと同じです。心をチェックしていないと、心がどこかに行ってしまいます。心はとても大事です。幸福なときでも、幸福でないときでも、その心に対して気付いていることが大事です。家族や学校や仕事などで、「良かった、良かった」と思うと、心はどこかに行ってしまうので、たえず心をチェックしてください。何をしていても、今の心に気付いていくことが大事です。それから、お腹ならお腹に、主要な対象に戻ります。

 アーナパーナ(呼吸)ならアーナパーナ、お腹ならお腹を第一の対象にしていても、そのときに見たり、聞いたり、臭ったりしたときには、それを第二の対象として気付いて、それらがないときには第一の対象に戻ってください。私たちには、集中すべき対象がいろいろあります。今という時が大事で、お腹の膨らみを見ているときには、いまの心と膨らみを観ることが大事です。

 例えば、お腹の膨らみ縮みを観ているときには、心の目をここ(お腹)に置いておいて、一緒にやっていくことが大事です。心だけではなくて、眼をここ(お腹)に置きましょう。それが、有効な瞑想の仕方です。眼をいつもここ(お腹)のところに置いておく気持ちでやっていけば、心はそれほど飛んでいきません。5分くらいやると、それがいかに有効であるかが分かります。他のことには気を使わないで、ここのところに心を集中するように。

 また、座っているときの姿勢が大事です。たえず同じ姿勢でやってください。2時間、3時間座っても問題ありません。2時間、3時間やるときには、これの方がいいです。
 痒みがあったら、ただ「痒み」と観てください。「痒みがなくなったらいいな」と考えないでください。「痒みがなくなればいい」と思うのは一つの貪欲です。「何で痒みがなくならないのか」と思うのは怒りです。

 何が起こっても、静かに忍耐をもって、起こったままにしておいてください。忍耐の心を作ることは大切です。忍耐がないと、掻き出したりします。怒りを出すよりは、掻く方が良いのです。インテンションといいますが、掻くときに「掻きたがっている」ということに気付いてください。すぐに掻くのではなくて、ゆっくり手を挙げていって、「触れた」「掻いています」、そしてゆっくり手を下ろすという感じで、掻くときも気付いて掻くようにしてください。

 座って瞑想しているときは、眼を閉じたままの方が良いです。眼を開けると集中力が飛んでいってしまいます。
 いろいろなことが起こっても、忍耐が大事です。初心者は大変でしょうが、瞑想者にとっては、忍耐が非常に大事です。忍耐によって、大きな苦しみも小さな苦しみにすることができます。嫌な感覚が起こったとしても、それを瞑想の対象にします。快適な感覚にしても、不愉快な感覚にしても、それを瞑想の対象にして流してしまいます。

 痛みが出た場合には、心も痛みと一緒にあるようにします。痛みというのは非常に仲が良い友達です。痛みに対して怒ってはいけません。痛みに耐えられないときには、姿勢を変えてもいいでしょう。姿勢を変えたりするのは、それは自然であって、怒りや貪欲ではありません。痛みに対して怒ったりするのは良くありません。身体に起こる痛みは一時的なことです。

 座っていると最初は快適な感覚なのですが、15分もすると、不快な感覚が起こってきます。そのときに快適なものはどこかに行ってしまって、嫌だなと思ってしまいます。快適な感覚にしても、不愉快な感覚にしても、それが一時的なものだと分かります。そのようにして忍耐を持っていると、大きな痛みというものは起こってこなくなります。

 2年、3年と瞑想をしていると、心が安定してきて、たとえ痛みが起こっても、痛みに心を集中していると、それが鎮まってきます。30分ずっと動かないぞというような強力な決意が必要です。これは、心のトレーニングです。心においては、幸福感や不幸な感じなど、いろんなことが生じては消えていきます。それに対して、気付いているようにしてください。そういうものがないときは、主要な対象であるお腹や鼻なりに集中します。 

 横になっているときも、手を当ててお腹が膨らんでいるとか縮んでいるとかというふうに感覚を観てください。今の人は、どうやって寝たらいいかが良く分かっていません。寝るときに、「今朝からどういうことが起こったか」ということを思い出したりしますが、それは終わってしまった過去のことです。もう1日過ぎてしまったから、それで十分で、考えるときではありません。だから、心をリラックスさせることが大事です。

 手をここ(お腹)に置いて、お腹の膨らみ縮みを5分、10分感じていると眠くなってきます。睡眠薬なんかいりません。1日とてもよく働いていたのだから、思い切りリラックスしてください。心に集中して、5分、10分、30分とします。それで寝られなくても、それはそれで結構です。精神的なエネルギーを得ています。寝られなくても、そのように瞑想している場合には、次の日に眠くなりません。瞑想の力があると、それほど寝なくても大丈夫です。これが横になるときの瞑想です。

 座っていると、ここが痛いとか言い訳をするのですが、寝ているときには言い訳は出ません。毎晩やっていると、1日10分間として、どのくらいになるでしょうか。子供が貯金箱にお金を貯めているようなもので、少しずつやっていると一杯になります。そんなふうにして、横になる瞑想を少しずつやっていくということが大事です。 

私達の時間を有効に使う

 だから、日常的にマインドフルで見たり聞いたりするのと同時に、寝る前の瞑想をすればそれで十分ではないでしょうか。私達は、この時間を大事にして、自分たちの時間を有益に使うことが大切です。歩いているときも、「歩いている、歩いている」とマインドフルでいることが必要です。いつの時間でも瞑想の時間になります。簡単でしょう。私たちは自分たちの心を鍛えないといけません。最初は大変だと思いますが、後は非常に易しくなります。文字を書くのも最初はよく分からなくて学ぶのが大変だったけれど、今ではスラスラ書けるようになります。瞑想も同じで後では楽にできるようになります。毎日心を訓練することが大事です。

 食べるときも2分間だけマインドフルでいることを毎日やるようにします。スプーンで食事を運んで、噛んでいることに心を集中して、20回、30回噛むことに心を集中します。無理であれば、5回でもいいです。1回噛むのを気付くだけでも何にもしないより良いのです。朝、昼、晩と1日3回やれば、1年でどのくらいになるでしょう。

 皆さんまだ若いでしょうから、80才までにどれだけ時間があるでしょうか、回数を重ねていけばとても練習になります。だから、今からやることが大事です。1日に10歩マインドフルネスをできるとすれば、マインドフルネスの心がだんだん進んでいきます。集中とマインドフルと智恵が増えて行き、だんだんゴールに近づいて行きます。だから、毎日やることが必要です。お金なんかいりません。自分たちの心と体があればできます。私達には、眼、耳、鼻、口、体と瞑想の対象があります。それに、良きカルマも皆さん持っているわけだから。

 皆さんは生まれてきてからどれだけ食べたり飲んだりしてきたでしょうか。何百万何十万回とそれが胃の中に入ってきたわけで、非常にお金がかかっています。今までお腹にたくさんのお金を使っているわけだから、いまは瞑想の方に使いましょう。だから、お腹を観るということは、心に幸福をもたらします。お腹を観ているときに、1分間でも貪瞋痴が起こらなかったら、それはクサラ(善行)であったということです。

 普通の人にとって1日はクサラとアクサラとどちらが多いでしょう。だいたい貪瞋痴が多いでしょう。瞑想者にとっては、貪瞋痴に打ち克つようにすることが毎日やることです。それが、私達の時間を有効に使うことです。だから、集中が得られないとか、ニッバーナがどうであるとか、そういうことを心配する必要はなくて、今やることをやっていけば良いのです。
 私たちは、日常生活において、6つの門から入ってくることに対して気付いていることが非常に大切です。その中で、貪欲や怒りを乗り越えていくことが大切です。



  質疑応答

質問:
 瞑想中に痛みが発生したら、どうすればいいのでしょうか。

答:
 ここ(足)に痛みがあったら、お腹ではなくて、「痛み、痛み」と痛みに集中しなければいけません。痛みに集中すると、たぶん痛みがきつくなってきます。そうしたら、それを無視して、主要な対象、お腹ならお腹に戻ってください。主要な対象(お腹とか鼻)への集中が高まれば、痛みがなくなってしまいます。もし、痛みがなくならなければ、また痛みに集中してください。痛みは自然なことです。痛みを見たり、主要な対象を見たりすることを2、3回繰り返してもなくならなければ、姿勢を変えてみなさい。姿勢を変えるときも、ゆっくりと優しくマインドフルに行ってください。目を開かないでください。

質問:
 痛みがどうしようもなくなって、目を開けたとき、たまたま前にガラスがあって、鏡みたいになっていました。そして、自分の姿を見ると、心ではすごく痛みを感じていたのですが、全然痛い顔をしていないのです。そのときに、心と体とは反応が違うと理解ではなく実感として一瞬分かったのですが、それが長続きしないわけです。それは結局忍耐するしかないのでしょうか。

答:
 その鏡というのは本当の鏡ではありません。イメージなのです。幻想(Concept)です。心がそれを創り出しています。主要な対象に集中していれば、そういうものがなくなってしまいます。だから、我々は忍耐が必要です。

質問:
忍耐というのは、闘うという印象があるのですが、そうすると、闘わないとか怒らないとかいうことと噛み合わないような気がするのですが。

答:
 忍耐は全然怒りではありません。痛みを消そうと思っているのが怒りです。怒りで痛みを消そうとするのではなく、智慧で怒りを消してください。痛みというのはいつも現れるわけではありません。これは自然なことです。長く瞑想していれば必ず現れてきます。自然というものについて理解するのが智慧です。仏教徒にとって瞑想するときに、私たちの心も体もブッダに捧げますと最初に言ってください。いつも有身見で、私が痛い私が痛いと思ってしまいます。全て心と体をブッダにあげていれば、私というのはなくなって、ただ痛みだけです。4時間半ぐらい座っていても全然痛みはありません。

質問:
 先ほどの話のですが、たまたま目を開けて見えたと。やっぱり幻影なのでしょうか。自分は痛いと思っているのだけれど、自分を虚像として見た時には全然痛がっていないと。やっぱり、それは心と体とが違うということだと思うのですが、違うのでしょうか。

答:
 普通より集中力が高まったからそういうのが見えたのです。集中力が高まると心が創り出します。皆さんもそういうことが起こりますよ。ちょっと集中力が高まると、そういうふうになります。ジャングルで瞑想をしていると、虎が側に来たようなイメージが現れます。普通はそういうことは分かりませんが、ちょっと集中が高まると何か来たというようなイメージが現れます。

 体に執着しないようにするというのが大事です。体に執着していると、もっと痛みが出てきます。だから、お腹ならお腹の主要な対象に意識を集中するようにしなさい。テレビを見ているときには、体の痛みを忘れています。立ち上がったときに足が痛かったりします。2時間、3時間と痛みを忘れてテレビに集中していたということです。それと同じようなことです。ある程度集中力が高まると痛みを忘れてしまいます。

質問:
 何度もありませんが、3時間くらい座ると、さっと立って痛みが何ともなくなるという経験はあります。

答:
 集中力が高まると座っていることさえ忘れてしまいます。ピティ(喜)が現れて、非常に気持ちが楽になります。瞑想をしていると、いろんな経験が起こってきます。

質問:
 マインドフルに普段から瞑想をするというのは分かったのですが、毎日座って集中して瞑想をすることも必要だと思うのですけれど、1日どのくらいすればいいのでしょうか。

答:
 標準は1時間くらいでしょう。最初20分から始めたら、次は25分やるように。だんだん延ばしていって1時間くらいできればいいのではないでしょうか。それで集中力が高まればもっとやりたくなります。


質問:
 瞑想をしていて一番問題になるのは、瞑想に対して情熱が冷めていって、マンネリ化していってしまうことです。ある一定の期間リトリートに入って一生懸命やっても、それが終わると、反動ですごくやりたくなくなってしまう時期が来てしまいます。気持ちをやる気にさせるのが大変になってしまって、瞑想をしていても妄想がすごくなって、サティを入れていても、それも嫌だし、やれることはやれるのですが、すごく辛くなってしまうことがあります。

答:
 信(saddha)が少し弱いです。それは友達のためでなく、自分のためにやっているのです。もし自分のことが好きならば、その瞑想をしなさい。覚えておいてください。悟りを目指す瞑想をしていれば、地獄とか、餓鬼だとか、動物とかの三悪趣に行かなくてすみます。前世のことはさておき、今生において、小さな動物たちを殺していることがあったとします。そのカルマが結実すると、死んだ後に動物に生まれることがあります。

 瞑想をしていれば、最初の悟り預流道果を得れば、動物になることはなくなります。過去において、いろんなことをしてきたので、いろんな悪業があるのですが、それは瞑想によってしか乗り越えることができません。瞑想をしていて、退屈になったり、嫌になってきたりしたら、退屈しているということに気付くことが大切です。
 我々は心の中に動物を持っています。悪いことをするときに「もっとやれ、もっとやれ」みたいな。好きなことをやるときには「もっと行こう」と思うのですが、瞑想をやろうと思うと「嫌だ、時間がない」と思ってしまいます。これは、心の中の敵みたいなものです。座って瞑想をすると、家に帰りたいなと思うのは、自分の中に敵が出てきたみたいなものです。15分経つと眠くなってきたりします。でもテレビを見ていると、全然眠気は起こったりしません。だから、昏沈睡眠がやってきて邪魔しているのです。

 我々は自分の心の中の本性を知らなければいけません。我々は心の中の敵にはとても耳を傾けたがります。良いことと悪いことと、どちらがやりやすいでしょうか?悪いことの方がやりやすいのです。心の中には、貪欲とか怒りとか渇愛とかがあります。我々はそういう貪瞋痴が友達ではないと知っているのですが、普通の人はそうではありません。それが分かっていません。

 良いことをして、お寺に行こうと考えたとしても、自分は忙しいとかそういうような考えが起こってきてしまいます。行かない方が良いよという心が起こってしまいます。それを渇愛と言っています。それで、我々はずっと渇愛というものを聞いて、従ってきました。だから、我々は渇愛のためにいつもいろいろ言い訳を考えてしまいます。それが友達のように感じられますが、そうではありません。

質問:
 瞑想を始めて段々自分の心が見えるようになってくると、もっと細部に汚れが見えてくるのですね。それで日常生活でも、前は気付かなかった自分の中の嫌な心とかを段々気付いてきて、例えば、雑誌とかで戦争の怖い事件のことを見ても、自分もそういうことをするだろう怖い心があることがすごく分かるのですね。そういうわけで、ただ見つめるだけでいいのでしょうか。

答:
 心を観る瞑想、怒りが起こったら「怒り、怒り」と、それと闘わないで、ただそれを見ている。そういうふうにして、ただ見ている。ただ気付いていることによって、怒りは消えていく。そんなふうにして心を奇麗にしていく。怒りとか心配事は毒です。そういうものを心に留めないで放しなさい。だから、こういうふうな瞑想のやり方をしなさい。ハイテクを持っても、心の怒りの中を消すことはできません。瞑想によって消すしかない。

質問:
 瞑想をしていて自分にサディスティックな思いとかがいっぱいあって、慈悲とかそういう思いが本当にないのだなとつくづく思います。前はそんなに悪くないと思っていたのですが。本当に頑張らないと慈悲とか出てこないのだなと。

答:
 慈悲というのは、いちばん大事な武器です。慈悲の瞑想をどういうふうにやるか分かっていますか。最初に心を鎮めて「私が幸福で平安でありますように」。それから、「家族が幸福で平安でありますように」。「全ての友達が幸福で平安でありますように」と。「側にいる人たちが幸福で平安でありますように」。だんだん広げていって、「この町や市にいる人々が幸福で平安でありますように」。さらに広げて「この県にいる人々が幸福で平安でありますように」。「この国にいる人々が幸福で平安でありますように」。「この世界にいる人々が幸福で平安でありますように」と段々広げていく。

 人間だけではなく「この宇宙にいる生きとし生けるものが幸福で平安でありますように」と、だんだん広げていく。これはサマタ瞑想です。個人でいうと、まず私についてやって、それから両親や友人と個人的にだんだん広げていきます。そのときに、見返りを求めてはいけません。それは貪欲です。

質問:
 だれかが病気になって、それが治って欲しいと思うのも見返りになるのですか。

答:
 それは貪欲ではありません。病気が治るようにというのは純粋な心でやっているわけで、友達から何か返ってこないかなというのは見返りです。それは自分の幸福のためではなく、その友達の幸福のためにということでやっているので、それは見返りということではありません。


質問:
 ここ(セヤドーの経歴書)に書いてあるのですけれど、沙弥を2年やって僧になったとあります。こういう分岐点のときは、どういう心が働いているのでしょうか。

答:
 若いときに私はタバコもお酒も飲んだことはありません。小さいときに母とお祈りをしていました。200人いる大家族でした。そのときにお寺に行って座る瞑想をするのがすごく好きでした。17才のときにベジタリアンになりたいと思いました。何が起こったか自分でも分かりません。その時にお寺に行きたくなりました。他の人は、少しおかしくなったのではないかと言う人もいました。ガールフレンドがいたわけではないし、お酒もタバコも飲まないし、ただ座って瞑想をしたかったのです。

 お寺に行って一晩泊まって、非常に奇妙なことですが、そのときに、そこの住職が「どうもあなたは他の人と違っているね。お坊さんになった方がいいよ」とおっしゃいました。最初は、お坊さんになろうという気もありませんでした。19才の時に頭を剃りました。髪の毛には執着がありました。お坊さんになっちゃったら、髪の毛を剃らなければならなくなる。そのような執着はすぐになくなりました。

 幸いなことに21才のときから、マハーシセヤドーのところで学ぶ事になりました。学校に行っていた時は試験があって、試験が終わると瞑想センターに行って、全然話をしないで3ヶ月くらい瞑想をやって、それが終わるとまた学校に戻ってと、7年間そういうことをやりました。

 普通試験が終わると両親や親戚の家に行くのですが、私は夏休みとかはほとんど瞑想センターに行っていました。学位を得て卒業するのに最低で15年かかるところ、11年で卒業しました。それは瞑想していたからです。まだ若かったので、卒業したことを誰も信じてくれませんでした。私はその時に既にラングーンで教えていました。20時間瞑想をしていて本を読むと、その言葉をサッと覚えてしまうのです。集中力が深くなります。瞑想センターでは話すことは許されていません。少なくとも20時間は座っています。23時くらいまで瞑想して、眠くなったら瞑想ホールで寝て、2時半くらいに起きてまた瞑想しました。

質問:
 学校に戻ると、周囲とギャップがなかったですか。

答:
 学校は全く違う世界に感じました。50人の小僧さんたちがバタバタしているのですから。しばらくすると段々慣れてきましたが。集中瞑想をやっていて、1時間、2時間と瞑想します。だから、集中的な瞑想で、喋らないで一月とか二月とかやるというのは、とても効果的です。インタビューがあると、いろいろな経験が出てきます。そのときは、7時間歩行瞑想をして、7時間は座禅瞑想をしていました。

質問:
 アメリカでもそうだと思いますが、日本ではみんな時間に追われていて、時間がありません。どうやって時間を作り出したら良いでしょう。

答:
 まず、スケジュールを立ててください。瞑想をすることは忘れても、ご飯を食べるのは忘れることがありません。1日3回食べるでしょう。第一に我々はお金を稼がなければなりません。第二に知識を得なければなりません。第三にクサラをしましょう。お金を稼ぐのはいいでしょう。知識を得るのもいいでしょう。三つ目のクサラをして徳を積むのがいちばん大事です。お金を銀行にどんどん貯めるのは毎日やっています。

 知識についても、本を読んだり、勉強したり、ディスカッションしたりして、見たところから学んでいきます。知識を得ます。そして瞑想することによって、智慧を得ます。この三つをやることが必要です。我々の人生は、どんどん短くなっています。瞑想は、お金を無駄遣いすることもありません。お金というのは一時的なもので無くなってしまうかもしれない。知識というのは少なくとも自分の今生では役に立つ。しかし、瞑想で積んだものは、今生だけでなく来生でも役に立ちます。



ホームへ