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「再生」なしのダンマ ビク・ボディ |
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すなわち、ダンマは、単に”今、ここ”において、成長する自己への気づきと内的な誠実さを通じて、私たちの個人的な悩みを解決する助けになる、ということで関わってくるに過ぎない、というわけです。 私たちが差し当たり自身の好みをしばらく置いて、代わりに直接自らの源を訪ねてみるならば、ブッダ自身が「再生」を教えていたこと、しかも彼の説法の基本的な教義として教えたという明白な事実に出会います。それらを全体的に眺めてみると、ブッダの説法は私たちに、次のことを明らかにします。 仏道の目的は苦からの解放です。ブッダは、私たちが解放されなくてはならないのは、「生と死を繰り返し循環する、輪廻への束縛」の苦であることを豊富な言葉で明らかにしています。確かに、ダンマは直接目に見え、個人的に実証することができるという面を持っています。 ダンマの実践において、この直接目に見える面が重要であることを過小評価することはできません。なぜなら仏道において、苦からの解放が確かであるという信頼性を確認することになるからです。 ブッダ自身は明らかに人間存在の根本的問題は、ただ私たちが悲しみ、恐れ、深い苦悩に脆いという事実だけではなく、利己的な執着を通して、心の苦悩をさらに特別の形で経験する、「生、老、病、死という、絶えざる再生のパターン」に自らを結び付けていることであるのを示しました。 これらの点を慎重に考えるならダンマの実践は、「自己の現在の性格と、この世界の環境との快適な調和を作り出す」ことを提供するのが目的ではなく、「世俗的な存在の循環から私たちの全体的な解放が起こるために、広範囲にわたって内面的な変化を始めること」であるのを知ります。 しかし、私たちがダンマに従い、道を成就することによって、平安とより高い智慧を得るために、その全面的な可能性を利用しようというなら、実践の動機づけとして最初に私たちを道に入るよう導いたものを越えて、成熟して行くことが必要です。 私たちの動機づけは、八正道の最初の要素である、正見を育成することによって、ブッダが説明された、存在の構造にとっての基本である、「カルマと再生の原理」を理解し、必要な成熟を獲得します。 仏道は解放への道具としての智慧の役割を強調します。しかし智慧は瞬間における縦方向の深い所への透徹だけではなく、私たちの現在の存在が展開する過去、未来という横方向の地平への理解も含まなくてはならないことを強調しています。 「再生の原理」の完全な認識を得ることは、より広い文脈と関係における全体的つながりの中で私たちの人生を見渡すことができ、大局的な展望を与えてくれるでしょう。 >訳注:ダンマとはパーリ語で、一般的に「法」と訳されます。しかし、広い言葉で、「真理、正義、現象」の意味も持っています。サンスクリット語ではダルマといいます。
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