象の足跡
記録に残された仏陀の教えは数多くありますが、これらは四聖諦(四つの聖なる真理)という、一つの枠組みの中に入れることができます。仏陀は四聖諦を象の足跡に例えました。虎、ライオン、犬、猫の足跡が象の足跡に入ってしまうように、仏陀のさまざまな教えは、すべて四聖諦という枠組みに入ります。
仏陀は、「四聖諦を理解することは、悟りを得ることと同じである」と明言しています。「仏陀が世に現れるときは、四聖諦の教えもそこにある」と語っています。ダンマ(理法)の目的は四聖諦を世に知らせるためにあり、悟りへの道を行く人たちは、この真理を自から理解するよう目標とすべきです。
四聖諦とは次に挙げるものです。
1. 苦の真理
2. 苦の原因に関する真理
3. 苦の消滅に関する真理
4. 苦からの解脱に至る道、の真理
ドゥッカ(Dukkha)という言葉はしばしば苦難、苦痛、不幸と訳されます。しかし仏陀の使ったドゥッカ(Dukkha)という言葉にはもっと広くて深い意味があり、すべての存在、生命を持つものに根ざした根源的な不満足感を示しています。その不満足感は、命を持つものはすべて変化し、無常であり、内に核となるものや本質的なものを持っていないために生じます。
ドゥッカ(苦)という言葉は完全さの欠如、つまり私たちの基準や期待に決してかなうことのない状態を表しています。四聖諦の一つ一つの言葉が深い意味を持っています。それは医者の処方箋のようなものです。
Ⅰ、第一の真理:苦の真理
仏陀はさまざまな苦の実態を示すことによりこの真理を説明しています。
1)誕生
誕生とは一般的には妊娠から子宮から出てくるまでの期間全体を意味しています。誕生の時、それ自体が苦痛の経験となります。選択の余地なく、何も分からずに子宮から押し出され、この世に投げ出されることは心に傷をもたらす体験です。以後生涯続く苦の始まりですから、誕生は苦です。誕生の後、成長が始まりますが、それもまた苦を伴っています。
2)老い
成長が頂点に達すると老化が始まります。肌にはしわが寄り、歯は抜け始め、感覚器官は鈍くなり、髪には白いものが混じり始め、記憶力は衰え、活気が失われます。
3)病気
肉体的なものであっても精神的なものであっても病気は苦痛です。
4)死
最後には死が来ます。肉体が壊れ、生命力が消えていくことは苦痛です。
5)悲しみ・悲嘆・苦痛・悲痛・絶望
悲しみとは何かの喪失に伴う激しい苦悩、悲嘆は涙を流して泣くこと、苦痛とは肉体的な痛み、悲痛とは精神的に不幸なことすべて、絶望とは、すべての望みを諦め、精神的苦痛が極限に達した状態です。
6)不愉快なこととの出会い
さまざまな不愉快な状況や、本来なら会いたくない不愉快な人たちとの出会いが、自分の意志に反して起こることは、苦です。
7)楽しいものとの別れ
出会いたいと思い、続いてほしいと思う、楽しく快い状態があり、人々がいます。あるいは、持っていたいもの、離したくないもの、ずっと続いてほしい関係があります。これら楽しい状態や、人々と別れることは苦です。
8)望むものが得られないこと
喜び、富、名声、賞賛を望んでも、苦痛、貧困、不名誉、非難を得ることがあります。若さを保ちたいと思っても年老いてゆき、健康でいたいと思っても病気になります。これらすべてが苦です。それで仏陀は簡潔に述べています。「つまり、執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」。
仏陀はこの言葉によって、経験するすべてのことに苦が含まれることを示しました。五つの集まり(五蘊)とは、経験を作り出している基礎的な構成要素で、五種類あります。それは物質的な形をもったもの、感覚、知覚、心の形成力、意識です(色・受・想・行・識)。
「形をもったもの」とは感覚器官を備えた肉体をも含み、他の四つは心の作用に関するものです。これらすべてに苦が含まれるというのは、すべてが無常であり、瞬間、瞬間変化するからです。事実これらはすべて一瞬の出来事で内なる核がありません。「私自身」と言っているものは瞬間、瞬間変化している、要素の組み合わせにすぎません。要素の組み合わさったものが誕生し、老化し、やがて死んでいきます。
深い部分での苦
苦とは一般的に言われている苦難以上の意味があることを明確にするために、仏陀は苦をその深さの程度において三つの段階に分けています。
(1)一般的に言われている苦。身体的、精神的な苦痛。
(2)変化(無常)という苦
これは感覚による苦から一歩深い段階にあるものです。この段階では、心地よい経験もすべて苦であると理解されます。なぜなら、それらも変化を免れ得ないからです。ただし、苦は心地よいものの変化によって生じるという意味ではありません。心地よい経験自体、喜びを与えるものは、たとえ今それを楽しんでいたとしても、すでに苦だという意味です。健康は病気によって蝕まれます。したがって今健康であったとしても、健康という状態は苦です。若さは老いにとって代わらざるを得ないので、若さは苦で、不満足が内在しています。
(3)条件付けられた心の形成力(サンカーラ)という苦
これは、仏陀が「執着を作る五つの集まり(五蘊)は苦である」と述べたときに、語ろうとしていたことです。一人一人の個人は、条件によって左右される現象の組み合わせにすぎず、条件によって左右される現象は、すべて無常であり、常に変化の過程にあります。その結果、私たちにはそれを支配したり制御したりする力はなく、現象は勝手に変化していきます。知恵ある人にはそれが苦として経験されます。
第一の真理において仏陀が説いた教えは、しばしば感情的レベルで反感を買います。そして仏陀は悲観主義者であるとか、否定主義者であるというような誤った非難が起きます。第一の真理の教えで仏陀が言おうとしたことを理解するべきです。仏陀の究極の目的は、私たちをこの苦から解放することにありました。
苦から解放されるためには努力が必要だし、ある種の内的葛藤が生じます。私たちは自分のまわりに感情という幕を張ります。そうすることによって、自分の望む方法で物事を見、理解します。しかしダンマは、このような意向に反します。ダンマは真理ですから、物事をあるがままに見るしかありません。見ること、正しく見ることによってのみ、私たちは自由を得ることができます。ですから、自分が見たいように見ることを止め、客観的に物事を見るようにしなければなりません。
仏陀は物事を完璧に見るためには、三つの視点から見なければならないと述べています。
1) 楽しみ、満足という視点から見る
2) 危険性、不満足という視点から見る
3) 解放、脱出という視点から見る
人生には楽しみや快楽があると仏陀は指摘します。この世に、楽しみや喜びや所有物や人間関係などがなければ、人はこの世に執着しないだろうと述べています。まさしくそのとおりで、喜びがあるから人はこの世に執着するし、喜び全部が不健全というわけではありません。良い家庭、真の愛、上品な楽しみ、宗教的な生活から得られる幸福は本当に満足を与えてくれます。
しかし第二の視点から見ると、これらすべては一時的なものであり、それゆえに不満足が生じることが分かるでしょう。ですから私たちは、執着や欲望を捨て、これらの楽しみが完璧な満足を与えてくれるものかどうかを調べなくてはなりません。
仏陀の教えに照らし合わせて人生を見てみると、「生まれ、死んでゆく世界」の中には真の幸福は見出せないことが明らかになります。そこで仏陀はこの苦から抜け出す方法も示しています。それが涅槃であり、涅槃に到る道です。仏陀自身が到達した所に誰でも行けることが保障されています。ですから仏陀が示した道は、最も楽観的で希望に満ちたものであると言えます。
しかし苦から解放されるには、束縛の原因を見つけなくてはなりません。それが第二の真理に示されています。
II. 第二の真理 : 苦(ドゥッカ)の原因についての真理
―苦は全能の神の意思でしょうか―
第二の聖なる真理は、苦の原因を示しています。「なぜ苦しみがあるのか」という疑問に対する答えは、哲学や宗教によって異なります。苦は単に偶然や運命や宿命によって生じる、と言うものもあれば、苦は全能の神によるものだ、と言うものもあります。仏陀はこれらを信仰と想像の産物として退けます。こういう見方はすべて二つの結果に行き着きます。すなわち、苦を受動的に受け入れることを促すか、苦の症状を治していくことに熱中するかのどちらかです。
一方、仏陀の方法は、問題をその原因、根源まで辿り、苦の原因は渇愛(タンハー)だと明言します。渇愛には三つの種類があると仏陀は認識しました。欲求には、ダンマの修行をしたいとか、布施をしたいなどの健全なものがあります。また、散歩をしたいとか眠りたいなどの、健全でも不健全でもない欲求があります。そして、不健全な欲求があります。渇愛とはこの不健全な欲求、無知に根ざした欲求、個人的な満足を求める衝動のことです。
欲求は苦(ドゥッカ)の原因として挙げられますが、苦を惹き起こす唯一の要因ではありません。確かに欲求は苦の主要な要因であることは確かですが、渇愛は常にさまざまな要因が重なり合うことによって作用します。渇愛は、無知と、「心理的―身体的」組織によって条件付けられており、その対象を必要とします。
三種類の渇愛
1. 感覚への渇愛― カーマ・タンハー(欲愛)
感覚の喜びに対する渇愛。快い光景、音、匂い、味、触覚、楽しい考えに対する渇愛。
2. 存在に対する渇愛― バヴァ・タンハー(有愛)
生存の存続に対する渇愛。存在し続けたい、特別な姿形になりたい、目立ちたい、有名で金持ちになりたい、不死になりたいなどの衝動。
3. 破滅に対する渇愛― ヴィバヴァ・タンハー(非有愛)
非存在に対する渇愛、自己の破滅を望むこと。最も明白な例は自殺ですが、他の自己破壊行為も含まれます。
III. 第三の真理 : 苦(ドゥッカ)の消滅についての真理
―苦は完全に克服することができる。仏陀の偉大なる言葉―
この生起の過程を無限に続ける必要はない、と仏陀は言い、苦(ドゥッカ)の消滅の真理を語ります。この真理によって仏教は悲観主義だという非難は粉砕されます。この真理によって、「苦は完全に克服することができる。完全な平安の境地が開かれている。渇愛を取り除くことによってその境地に達することができる」という偉大な言葉の意味が明らかにされます。
渇愛の終わりとともにやって来る苦(ドゥッカ)の消滅は二つのレベルで理解することができます。心理学的なレベルと哲学的なレベルです。
心理学的なレベルでは、渇愛が断ち切られると心の不幸はすべて終わりを迎えます。心は悲しみ、悩み、恐れ、深い悲しみと苦悩から解放されます。苦(ドゥッカ)の終焉とともに、大いなる平安、至福、完全なる喜びが訪れます。解放された人である阿羅漢は、完全な平安な状態で生きています。常に満足しており、常に落ち着いていて幸福です。肉体の苦痛、老い、病、その他の人生の栄枯盛衰があったとしても、阿羅漢の心には乱れが生まれません。なぜなら、すべての執着から解放されているからです。
死の瞬間に、生起の過程は終了します。渇愛が無いので、新たな生存への種子は存在しません。阿羅漢の肉体の崩壊とともに輪廻(サンサーラ)は終わりを迎えます。阿羅漢は生起の世界から去り、知覚することも量ることもできない境地に渡ります。その境地は言葉や概念の範囲を超えています。それは、涅槃(ニッバーナ)と呼ばれる実在です。
ニッバーナ(涅槃)
「私が説くのは、ドゥッカ(苦)とドゥッカ(苦)の消滅についてだけである」と仏陀は語ります。第一の聖なる真理は苦の問題を扱っていまが、苦の真理は仏陀の教えの最終ではなく、出発点にすぎません。仏陀は苦の教えから始めますが、それは教えがある特定の目的、つまり苦からの解放へ至る道を目指しているからです。
この目的を達成するために仏陀は、なぜ解放を目指すかを私たちに示す必要があります。自分の家が火事だということを知らなければ、人は楽しんだり、遊んだり、笑ったりしながら家に住み続けるでしょう。火事の家から人を連れ出すには、最初に火事だということを理解させなければなりません。同様に、仏陀は「私たちの人生は老病死で燃えている」と教えます。私たちの心は貪瞋痴で燃えています。その危険に気づかなければ、解放への道を求めようとはしません。
第二の聖なる真理で、「苦の主な原因は渇愛、即ち視覚(眼)・音(耳)・臭い(鼻)・味(舌)・触覚(身)・考え(意)の世界に対する欲望である」と仏陀は指摘します。苦(ドゥッカ)の原因は渇愛なので、苦の終焉に至る鍵は渇愛を取り除くことにあります。それで、仏陀は第三の聖なる真理については、「渇愛の除去」であると説明しているのです。
IV 第四の真理:苦(ドゥッカ)の消滅に至る道についての真理
―聖なる 八正道―
仏陀は苦の消滅に導く道として聖なる八正道を定めます。八正道は、大きく三つに分けられ、八つの要素から成っています。
1、智慧の要素 正見・正思惟
2、戒の要素 正語・正業・正命
3、定の要素 正精進・正念・正定
八正道は仏陀の教えの中でもっとも重要な要素であると言えるでしょう。なぜならば、八正道はダンマ(理法)を生きた経験として利用できるものだからです。八正道がなければダンマ(理法)はただのぬけ殻であり、生命のない学説の集まりになるでしょう。八正道がなければ、苦からの完全な救済は単なる夢となるでしょう。
(1)正見
「見方」という役割を担って八正道のすべての要素を案内、指導する正見は、一番目に置かれます。八正道を実践するにあたり、長い道のりを旅して行くための方法として、正見による展望と理解力を必要とします。さらに、目的地に行くために他の要素、つまり行為や実行が必要です。
実際の行動を始める前に、案内人、あるいは内なる指導者として、「どこから始め、どこに向かい、実践において、一つの段階を越えたら次は何か」を示すために、正見による理解力が必要です。そのために、正見は八正道の最初に置かれます。
仏陀は通常、「正見とは、四聖諦への理解である」と定義しています。つまり「苦と、苦の原因、その消滅、そして苦の消滅へ至る道」です。出発点から道を正しく理解するために、人間の状況についての正しい視点が必要です。
人生において、完全な満足は得られないこと、そして、人生は無常であること、苦に支配されていることを理解しなければなりません。苦は、理解によって見抜ぬくべきものであり、克服すべきものです。娯楽、気晴らし、心の鈍化による物忘れといった、「苦痛の除去剤」によって逃れるべきものではないと理解すべきです。
最も深いレベルで、存在を作っているすべての物事は五つの集合体(五蘊)です。それは永続せず、絶えず変化し、それゆえに安全や変わらない幸福のための基礎として維持することができないことを理解すべきです。また、苦の原因は自身の心の中にあることを理解すべきです。誰も私たちに苦を押し付けていません。その責任を自分たちの外部に置くことはできません。私たち自身が苦しみや痛みを生み出しています。それは渇愛や執着を通してです。
「苦の原因は自らの心にある」と知れば、「苦からの解放への鍵も自らの心にある」と理解できます。その鍵は智慧による、無知と渇愛の克服です。そして解放への道に入るためには、「八正道に従って行けば、苦の消滅という目的に達することができる」と言う確信が必要です。
仏陀が、「四聖諦に対する理解」として正見を定義したのには大変重要な理由があります。すなわち、弟子達が教えを単に献身的感情から実践するのでなく、むしろ、自からの理解に基づいて悟りへの道を歩んで行くことを望みました。つまり、人間の生について、その本性を彼ら自身により洞察することです。
あとで次第に分かって来ますが、八正道は正しい理解についての初歩的段階から始まります。実践の中で心が成長するにつれて、理解はしだいに深まり、広がり、そして幅広くなります。そして心が成長するに連れ、何度も正見に立ち返ってきます。
(2)正思惟
八正道の二番目の要素は正思惟です。思惟のパーリ語「Sankappa」は、「目的、意志、決心、熱望、動機」を意味します。正思惟の要素は正見の自然な結果として生まれます。正見によって、生存のほんとうの本質を理解します。この理解により生命の動機や目的や意志と傾向が変わります。その結果、心は邪思惟に対する正思惟によって形作られるようになります。
仏陀は、これらの要素を分析し、三種類の正思惟について説いています。
1) 放棄という 意志
2) 嫌悪のない、慈しみという意志
3) 傷つけない、苦への共感(悲)という意志
これらは三つの不善な意志である、感覚への欲望、怒り、加害や冷酷さという意志に対抗しています。 正思惟は、前にも述べたように、本来正見の結果として生じます。苦という事実を洞察し、正見を得る時はいつでも、快楽や富や権力や名声への執着を放棄する気持ちを起こすようになります。これらの欲望を抑圧する必要はありません。欲望は自然に衰えて行きます。
四聖諦というレンズを通して他の存在を見ると、他者もまた苦の網に捕われていることがわかります。こう認識することにより、他者との深い一体化の感情が生まれ、慈しみや悲心へと導かれます。こういう心構えができるこることによって、心に、嫌悪、憎悪、暴力、冷酷さを放棄しようという気持ちが起きます。正思惟という二番目の要素は、二つの有害な行為の根本にある「貪欲と嫌悪」を中和します。 正語、正業、正命という三つの要素により、正思惟を実践します。
(3)正語
正語には四つの面があります。
1) 偽りの話しをしない。嘘をつかない。真実を話す努力をします。
2) 悪意のある話しをしない。人を仲たがいさせる言葉や、敵意を生む話しをしません。道に従う人は、常に人々の間に友情や調和を作り出すような言葉を話します。
3) 粗野な話しをしない。怒りから出た言葉や、棘のある言葉をやめ、心にナイフで切りつけるような言葉をやめる。柔らかく、優しく、慈愛ある話しをします。
4) 無駄話、うわさ話をしない。意味のある話、重要な、目的を持った話をします。
これは、話すという能力にとても大きな力が秘められていることを表しています。舌は身体に比べれば、とても小さな器官ですが、それをいかに使うかによって、大きな利益や、大きな害を作り出します。もちろん実際に習熟しなければならないのは、舌ではなく、舌を使う心の方です。
(4)正業
この要素は身体的な行為に関係しており、三つの面があります。
1) 生命の破壊をしない。他の生命を殺さない。その中には動物や他の、感覚を持つ生き物すべてが含まれます。狩猟や釣り等もしません。
2) 与えられていないものを取らない。盗みや、騙し、他人からの搾取、不正直、不法な手段による富の獲得をしない。
3) 性的な不道徳をしない。不倫や誘惑や強姦のような不法な性的関係を持たない。そして出家した僧にとっては、独身を守ることです。
正語と正業の原則は否定的な表現で言い表されていますが、少しふりかえってみると、積極的な心の要素は、自制することと共に、大きな力を伴い一緒に進むことを示しています。たとえば、
1)命を取らないとは、他の生命に対する悲心を持ち、尊重する誓いです。
2)盗まないとは、正直さと他者の所有権を尊重する誓いです。
3)嘘をつかないとは、真実を語る誓いです。
(5)正命
仏陀は弟子たちに、生命を害し苦しめるような職業や仕事、自分の精神が堕落するような仕事を避けるようにと説きました。正直に、害のない平和な方法で生計を立てるべきです。
仏陀は具体的に、五つの避けるべき職業を述べています。
1)生きた肉を扱う仕事
2)毒を扱う仕事
3)武器や兵器を扱う仕事
4)奴隷取引や売春を扱う仕事
5)人を酔わせる酒や麻薬を扱う仕事
また、人を騙したり、嘘をついたり、押し売りをしたり、ごまかしたりして収入を増やすどんな不正直な行いも避けるべきであると説いています。
これまで述べてきた三つの要素、正語・正業・正命は、生きる上での行動の指針になるものでした。次の三つの要素は、心を訓練することに関するものです。
(6)正精進
仏陀は正しい努力により心の訓練を始めます。道を実践するには、労力と活力と努力が必要で、特にこの正精進が強調されます。
仏陀は救世主ではありません。「目覚めた人は道を示す。弟子たちは自ら励み努めなさい」と述べ、さらに、「目的地は、励む者のためにあり、怠け者のためにあるのではない」と語ります。
ここに仏教の大きな楽観主義があります。仏教は悲観主義であるという非難はこの楽観主義によって、すべて論破されます。
仏陀は、「正しい努力を通して、人生の全構造を変えることができる」と述べています。私たちは、過去の条件によって作られてしまった、希望のない犠牲者ではなく、遺伝子や環境の犠牲者でもありません。精神的訓練によって、心を智慧と悟りと解放の高みへと引き上げることができます。
正精進は、四つの側面に分けることができます。心に生まれる状態を観察してみると、善い心の状態(善心所)と、不善な心の状態(不善心所)という、二つの基本的状態があることを知ります。不善心所は、煩悩、つまり貪欲、嫌悪、迷妄、とその派生物を根源とする心の状態です。
善心所は、八正道や四念処や七覚支のような、育て高めて行くべき徳の資質から構成されています。これら、善心所と不善心所のそれぞれを見てみると、なすべき仕事が二つずつあります。正精進は、合わせて四つになります。
1) 未だ生じていない不善心所が生じるのを防ぐ努力
心が穏やかな時に、煩悩が生じるきっかけになる何かが起こることがあります。例えば、快いものに対する執着、不快なものに対する嫌悪などです。この感覚を見守り続けていると、煩悩が生じるのを防ぐことができます。貪欲や嫌悪で対象に反応することなく、単に対象に気付いているだけで良いのです。
2)すでに生じた不善心所を手放すための努力
すでに、不善心所が生じていたら、生じた煩悩を消し去ることです。煩悩が生じているのを見つけたら、それを消し去ることに努力を傾けます。これには、いろいろな方法があります。
3)未だ育っていない善心所を育てる努力
心の中にはしまってある、たくさんの美しい潜在的素質があります。これらを心の表に出すべきです。例えば、慈しみや、 他者の苦に対する共感などです。
4) 現にある善心所をさらに強くし育成する努力
自己満足に陥ることを避けるべきです。そして、善心所を保ち、十分に育て完成させるために発達させる努力をすべきです。
正精進についてはさらに注意すべきことがあります。心とはとても精密な器械であり、それを発達させるには、さまざまな精神的要素の正確な調和を必要とします。どのような心所(心の状態)が現れたかを理解する鋭い気付きが必要です。また、極端な方向に脱線することを避け、心の調和を保つために、ある程度の智慧も必要です。それが、中道を歩むということです。
精進では、心を疲れさせないことと、他方で停滞することのないよう、調和をとることが必要です。「美しい音楽を琴で奏でるためには、弦を強すぎず、ゆるすぎず張らなくてはならない」と仏陀は語ります。道の実践も同様に、精進(努力)と静寂(定)とを調和させて、中道を行くものです。
(7)正念
正念(正しい気付き)をもって生きることは、幸福と精神的成長にとっての基礎です。それは、大いなる祝福であり、最も大きな力によって護られることです。人間は概して、ある程度の気付きは持っていますが、多分に散漫なものなので、正確には正念と呼べません。
正念は、簡単に得られるという訳には行きません。良いものは、簡単には手に入りません。正念を成長させ身に付けるには、大きな努力と決意と自己献身が必要です。正念とは、「今の瞬間に心を留めておく」ことです。これは何かの仕事をしている時に、その行為に完全に気付き、マインドフル(*註)であることを意味します。
例えば歯を磨く時は磨いていることに注意を払い、その過程を見守り、考えごとが入り込んでくるのを許しません。食べる時は静かに気付きながら食べます。食事中におしゃべりすれば、それは気付きが抜けているということです。
この二つの単純な例を取って見ても、正念をもって生きることは、そんなに簡単ではないと分かります。同時に二つや、三つのことを行うのは熟達しているとは言えず、未熟なことです。一度に一つのことを行うのが本当の熟達であり、本当の達成です。
正念を成長させるには、決意が必要です。単純な訓練をこつこつと実践していくと、次第に進歩していきます。特に、内面的なものに気付いていることが必要です。ほとんどの人は外面的なものに注意を向けますが、幸福を得たければ心の内側を見るべきです。
内面的なものとは、次のものを意味します。
(1)身体に気付く(身)
(2)感覚に気付く(受)
(3)心の状態に気付く(心)
(4)心の内容に気付く(法)
これらは、気付きにおける四つの基礎です。気付きながら生きる人が頼りとする四つの領域です。これらの能力を入念に発達させ続けると、自分を護る大きな力の源となります。
正念を十分に発達させると、人は何をすべきか、すべきでないか、あるいは、話すべきか話すべきでないかを知るようになります。話す時は、何を話し、何を話すべきでないかが分かってきます。
正念は、知識と智慧と満足を得て最上の幸福へと向かわせます。それは、八正道を成長させるための基礎です。
(8)正定
正精進と正念という要素は、八正道の八番目にある正定(正しい集中)の成長を目的としています。正定は、心を一つの対象に向け、心を統一することと定義されます。集中力を高めるためには、普通一つの対象物から始め、心が他のものに揺れ動くことがないよう、その対象物にしっかりとつなぎ止める訓練をします。
正精進によって心を対象物に集中し続け、正念によって集中の障害となるものに気付きます。そして、障害を除くことに努め、集中力が強くなるのを助けます。繰り返しの訓練により、心は次第に静かに、穏やかになります。さらに訓練を重ねることにより、禅定と呼ばれる深い専心状態に至ります。
静止した心-智慧の入り口
心が静止して落ち着いている時、洞察力が発達します。
正定が成長し心が洞察のための強力な道具を得ると、
静止した心の中に、気づきの四つの基礎である、身体と感覚、心の状態と心の対象を熟視します。
心が身体と、心に起こっている過程の流れを調べていくにつれ、瞬間、瞬間の流れに同調して行きます。そして少しずつ、段階的に洞察が生まれます。洞察は、発達、成熟し深まり、智慧へと変わります。それは、解脱をもたらす智慧、四聖諦を洞察する智慧です。
発達の最高点にあっては、四聖諦を直接に、即時に経験することになります。それは、煩悩の消滅、心の浄化、束縛からの心の解放をもたらします。
その名が示すように、聖なる八正道は八つの要素により構成されています。八つの要素は、順に連続して行う必要はありません。道は同時に働く八つの要素から構成されています。それぞれの要素は独自の働きにより、その独特の方法で苦の終わりを達成することに貢献しています。
*訳注: マインドフル(mindful)はパーリ語、サティ(sati)の英訳です。一般的には「気付き」と訳されますが、三つの意味を含んでいます。(1)気付き(2)注意深さ(3)熱心さ。
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