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ブッダが覚醒したことの意味 タニッサロ・ビク


 ブッダにおける覚醒の重要な点は、「何」と「いかに」という二つのことです。つまり、「何についてブッダは目覚めたのか」と「いかにしてブッダは目覚めたのか」という事です。ブッダの覚醒は、これら二つの事が一緒に起こっている点で特別です。ブッダは不滅の幸福というものがあり、人間の努力によって到達することができる、という事実に目覚めました。
 
 悟りに至る過程での人間の努力は、まさに「人間の努力」についての本性を理解することに究極的な焦点を当てます。すなわち、「善いカルマと縁起」が持つ力と限界とは何であるか、そして、いかなる努力(正精進)によって、その限界を越え、不死の入り口に到達するか、という点についてです。

 ブッダが説法の中で覚醒の体験を詳しく述べているように、最初にダンマ(法)の規則性に関する知見があり(この文脈では“縁起”を意味します)、そして次に涅槃の知見がありました。他の文脈でブッダは、縁起の洞察へと導く三つの段階について述べています。
(1)ブッダ自身の前世への知見
(2)すべて生あるものの消滅と再生の知見
(3)最後に、聖なる四つの真理への知見

 最初の二つはブッダにとって特に新しいものではありませんでした。それらは歴史上、すでに他の発見者による報告がなされています。しかし第二の知見に対するブッダの洞察は、特別に進展したものでした。彼は、生ある物たちが、「思い、言葉、行い」による道徳的な質に従って再生するのを観察しました。そしてこの道徳的な質は、心が本来的な要因になっていました。

 人間の持つ「見解と意図」における質が、その行動の結果である経験を決定します。この洞察は、ブッダの心に二つの影響を与えました。一つは、彼に再生による循環の虚しさを認識させたことです。快楽に打ち勝ち、再生の循環の中で人生を成就しようする最善の努力さえ一時的な効果しかもちません。他方、再生の循環を決定する上で心が重要であるという認識によりブッダは、「いかにして輪廻を推進させている心の過程を解体できるか」を観ようとしました。そして今度は直接に、自らの心に焦点を当てました。これが「いかにしてブッダは四聖諦と縁起への洞察を得たか」です。
すなわち、「ブッダという人間を作っている集合体(五蘊)が、同時に経験と全体としての世界の循環において、それを駆り立てている要因になっている」ことを理解し、いかにしてこれらの出来事全体を停止させる事ができるか、を理解することです。

 その停止により、「条件付けられていない経験」が残りました。彼はそれをニッバーナ(束縛のないもの)あるいは外見や形のない意識、不死のものと名づけました。
 ブッダの悟りに関して、歴史の中で他の悟り体験はいかに記録されているかという疑問を提出する時、私たちはブッダ自身の見解を念頭におく必要があります。すなわち、最初に縁起の知見があり、その後に涅槃の知見がありました。

 縁起の法則――それは、カルマの理解だけでなく、カルマがどのようにして理解そのものを導くかということも含みます――への理解なくしては、それがいかに静寂で、束縛のないものであったとしても、仏教的感覚からすれば、覚醒とするわけには行きません。

 真実の悟りは、「道徳と因果関係への洞察」という二つを含むことを必要としています。今、私たちにとってブッダの悟りが何を意味するかということについて、四つの点が上げられます。

(1)覚醒においてカルマの果たす役割は大きなものです。それは、私たちそれぞれが、「行い、語り、思う」ことが重要であることを意味します。

 覚醒により私たちは、人生のそれぞれの瞬間で行なう選択が、結果になって現れることを理解するようになります。私たちは、異国にいる異邦人ではありません。私たちは経験する世界を作ってきたし、作り続けています。
 私たちがカルマの影響を受けるという事実はまた、自らの経験に責任があるということを意味しています。このことは、私たちの人生で出合う物事に対し、いっそうの平静さで対処するのを助けます。なぜなら経験を作る技量を持っていることを私たちは知っているし、同時に心を無力化させるような罪の感覚を避けることが出来るからです。というのは、新しい選択をするごとに、常に新たな出発をすることが出来るからです。

(2)覚醒は私たちに、善悪が単なる社会的習慣ではなく、世界を構成している仕組みに組み込まれていることも教えます。私たちは人生を設計することにおいて自由であるかもしれません。しかし私たちは、「何が良くて何が悪い行為であるかについて、あるいはカルマの過程がいかにして働くかを決定する基礎的な法則」を自由に変えることはできません。
 このようにして(善と悪のような)文化的な相対論は、――私たちの多くが、以前の宗教的志向を離れ、仏教という集団に入っていくために道を開いたかもしれないけれども――ひとたび私たちが仏教の中に入ってしまえば、存在する余地がありません。

 本来的に不善な行ないをする、確かな道があります。そういう道に入り不善を行う権利を主張するとすれば、私たちは愚か者でしょう。

(3)ブッダがその覚醒を記述するときに一つの要点として、「注意深く、熱心で、決心が堅い人において、無明は打ち砕かれ、智慧が生じた。闇は打ち砕かれ、光明が生じた」と語りました。言い換えれば、ブッダは私たちすべてが発展させることができる、「注意深さ、熱心さ、決意」という質を通して心の解放への知見を得ました。

 私たちが、この事実の意味に直面することをいとわないなら、ブッダの悟りが私たちの価値観全体に対する挑戦であることを知ります。条件付けられないもの(涅槃)を得ることができるという事実は、たとえ人生において私たちがどんな世界を作ろうと望んでいるかにせよ、自らのために設定した目的について、評価し直すことを促します。
 
 それは富や地位、あるいは感覚的満足の追求に専念した結果である、精神生活における貧困を明白に指摘します。それはまた私たちに、「社会的な受容とか、意味のある関係とか、地球のお世話係(環境問題)」と言った、文化とその下位文化(サブカルチャー)が賞賛する他の“価値ある”目的に対して、厳しく見つめることを強います。これもまた必然的に苦につながるでしょう。

 すべての物事の相互依存性は、真に鋭敏な心にとって、安全や快適さの源になることはできません。もし条件付けられていないもの(涅槃)が獲得可能であり、そしてそれが唯一の信頼できる幸福であるなら、その方向に向かって私たちが努力を傾け、心や精神的な資質を専心させることのみが意味を持つでしょう。

(4) そういった専心をする心構えができていない人たちにとっても、「幸福は、私たち自身の中に誇りにすることができる、親切、敏感さ、冷静、気づき 、確信、決意、識別力、といった資質を発展させることによって得られること」を覚醒が確かなものにします。
 それは、幸福を得るためには、「攻撃性、自己権力の強化、不誠実」など私たちが真に誇りとすることができない資質を身につけなければならないと言うこの世界から拾い上げる、まったく異なるメッセージです。
 これは、私たちがどういう価値に対して時間や努力を傾けるべきかという、人生や考え方に、まったく新しい方向付けを与えることができます。

 ブッダが悟ったという福音は、私たちが育てられた文化について、他のものに変えるのではなく、判断する基準を設定します。これはアメリカ文化を越えてアジア文化を選ぶという問題ではありません。
 ブッダの悟りは、同時代のインド文化の前提条件に対して挑戦しています。そしていわゆる仏教国でさえ、ブッダの教えを本当に実践することは常に反文化的です。それは、時間、空間により条件付けられ、老いと病と死に限界付けられた、私たちの一般的な関心事――時間と、空間のない、制限のない幸福への可能性とは反対方向の関心事について検討すべき問題です。

 すべての文化には限界があり、物質的側面において条件付けられています。他方ブッダの悟りはすべての文化を越える地点にいます。それは、彼の同時代人の見出した解放、すなわち不死への挑戦の提案です。もしその挑戦を進んで受け入れようとするなら、私たちは自らの解放を見出すことができるでしょう。



 



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