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簡単に説いた仏教 目次
第1章 ブッダ
第2章 ダンマ―それは哲学だろうか?
第3章 仏教は宗教だろうか?第4章、第5章 未翻訳
第6章 カルマ―道徳性の因果法則
第7章 再生
第8章 縁起
第9章 無我
第10章 涅槃
第11章 涅槃へ至る道


簡単に説いた仏教  ナラーダ長老


第9章 無我(アナッター)

 仏教における輪廻転生の教義は、魂の転生とか、その不変の物質的な再生といった、復活の理論とは区別されなくてはなりません。仏教では神によって創られたとか、聖なる本質(パラマトマ)から発生したとかいった不変もしくは永遠の魂などというものの存在は否定されています。

 もし人間の本質と考えられている不死の魂が、永遠のものであるとしたら、生じること(誕生)も滅すること(死)もないでしょう。また、「それぞれの魂がそもそもの初めからこうも多様につくられている」ことを誰も理解することができないでしょう。

 永遠の天国におけるつきることない至福や、永遠の地獄における終わりのない拷問の存在を証明するためには、どうしても不死なる魂が必要です。さもなくば、地獄で罰せられあるいは天国で報いられているものは一体何者かということになるでしょう。

 バートランド・ラッセルは書いています。
「精神と肉体との間にある古い区別はほとんど消えうせてしまったと言うべきだ。なぜなら‘物質’はその堅固さを失い、心はその精神性を失ってしまったからだ。心理学はようやく科学的になりはじめた。現在の心理学の主張するところによれば、不滅の信仰などは科学による裏づけをまったく得られない」

 仏教徒はラッセルが次のように語ることに強く同意します。
「私が昨日の私と同じ人間であるということには、明らかに何か理由がある。もっとはっきりした例を挙げよう。私がある人を見、同時に彼が話すのを聞いている。その時、見ている‘私’と、聞いている‘私’とが、同一であるというある感覚が生まれてくる」

 最近まで科学者たちは、分割できず、破壊もできない原子を信じていました。
「満足のいく理由のもと、物理学者はこの原子を出来事の一連の流れに置き換えた。同じように満足のいく理由で、心理学者は、心が一貫して続く一定のものではなく、ある密接な関係を持って互いに結びついた一連の現象にすぎないということを発見した。それゆえ不滅に関する問題は、これらの密接な関係が、生きた肉体と結びついた現象の中に存在し、その肉体が死んだ後に現れる他の現象の中にも存在するのかどうか、という問題となった」

「人生の意味」の中でC.E.M.ヨードが言うように、物質はまさに我々自身の目の前で崩壊しました。それはもはや固定的なものではありません。永続するものでも、原因となる拘束力のある法則をもつものでもありません。さらに何よりも重要なことは、それがもはや周知のものとは異なっているということです。

 いわゆる原子は、どうやら“分割でき、破壊もできる”もののようです。原子を構成する電子と陽子は、存続している間は、相互に結合し、また消滅します。それは、固定した境界線を欠いた波動のようであるといっても良いでしょう。そして絶えることなき変化の過程において、両者は固定した「もの」というよりは、状態や位置として認識されています。”

 バークリー司教は、このいわゆる原子というものは、魂と呼ばれる霊的実在が存在することを語る、形而上学的な作り話であることを示しました。

 たとえばヒュームは意識をよく観察し、そこには流れ続ける心のさまざまな状態以外には何もないということを発見し、“永遠の自我”と思われていたものなどは存在しないという結論に達しました。彼は言います。
「次のように考えている哲学者たちがいる。―“我々は、常にいわゆる自己なるものを意識している。我々はその実在を感じ、それが絶えず存在していると感じる。それゆえに完全な自己同一性と単一性は共に確実なものである。”
私の場合はこうである。私が非常に深く、いわゆる‘自己’の中に入っていく時、私はいつもある特殊な感覚か何かに出会い、つまずくのである。熱感や冷感、明るさ、暗さ、愛と憎しみ、苦痛と楽しみといった感覚に。私はいまだ、自己なるものをつかまえたことがない。さまざまな感覚以外の何ものも今まで確認できたことがない。また私というものが完全に‘非存在’であるとする、さらなる必要条件を見つけたことは一度もない」

 ベルグソンは言います。
「すべての意識というものは一時的な存在である。そして意識の状態というものは、変化を免れて持続するものではない。それは止むことのない変化であるから、もし変化が止めば、それも止む。意識はそれ自身変化以外の何ものでもない」

 この魂についての問題を扱って、ジェームズ教授は述べました。
「魂についての理論は、意識的な経験の、実際に実証された事実を説明するものであるから、完全に余計なものだといえる。これまでのところ、明確な科学的理由を持って、それを支持するよう強いることは誰もできない」
 興味深い魂についての章の結論で、彼は言います。
「この本においては、我々が達した用意された結論が最後の言葉になるだろう。思考する者達は、思考そのものに過ぎないのである」

 熟練した心理学者であるワトソンは、述べています。
「誰も、魂に触れたことのある者はいないし、試験管の中にそれを見つけた者もいない。また、日常生活の経験で他の対象と関係を持つように、魂となんらかの関係を持つことができた人間もいない。にもかかわらず、その実在を疑うことは、異端者となることと見なされ、一時は、自らの首を失う事態すら引き起こしかねないことであった。今日においてさえ、公共に高い地位を持つ人はあえてそれを疑おうとはしない」

 ブッダは、これらの事実を約2500年も前に先にご存知でした。

 仏教によれば心とは、複数の要素によって合成された、流れつづける精神の状態以外の何ものでもありません。一つの意識の単位は、三つの局面によって構成されています。生起、発生の局面(uppada)。静的状態もしくは発展している状態(thiti)。そして、終焉もしくは崩壊していく局面です(bhanga)。
 思考意識の終焉の局面の直後に、後続する意識の発生局面が開始します。この変化しつづける生の過程において、それぞれの瞬間瞬間に生滅する意識は、消滅する瞬間に記憶した永久に消えない印象を、すべてエネルギーとして後に続く意識に伝達します。

 すべて新しい意識は、その前の意識が持っていた潜在的エネルギーと、さらに加わったものとで構成されています。それゆえに、流れを妨げられることのない小川のような、意識の尽きることのない流れが出現してくるのです。後続する瞬間意識は、前のものと違った意識を形成するので、完全に前の意識と同じではありません。また、同じカルマの力を受け継いでいるので、前の意識と全く違ったものにもなりません。ですから、まったく同じ意識は存在しませんが、その過程における同一性はあります。

 すべての瞬間に誕生があり、すべての瞬間に死があります。ある瞬間の意識の発生は、またある瞬間の意識の消滅を意味し、また、その逆もしかりというわけです。ひとつの生命の生きる間には、魂を介さない瞬間瞬間の死と再生があるのです。

 誤解すべきでないのは、意識について言うと、それは電車や鎖のように、細かくぶつ切りにされたものをたがいに結びつけたものではないということです。それとは反対に、「意識は絶えることなく川のように流れ、常に感覚という支流と合流し、不断の増大によって洪水をもたらし、道すがら集めた思考の材料なしに、世界に対しいつも分配しています」それは誕生という水源と、死という河口とを持っています。
 その流れの速さがあまりにも速いので、おおよそに計測する基準さえもありません。しかし以下のように言うことが注釈者の意にかなっているでしょう。すなわち、思いの瞬間とは、一瞬の光の閃きの占める時間の十億分の一にも満たないのです。

 ここにおいて、私たちはそのような意識における流れる心の状態が、ある人たちがそう信じているように積み重なるのではなく、並列していることを見出します。どんな精神の状態も一度消え去れば再び現れることはなく、またどんな状態も前に起こったことのあるものと完全に同じではありえないということです。しかし私たち凡俗の者たちは、まやかしの網に覆われて、この見かけの継続状態をなにか永遠なるものであると見て過ち、この変化しつづける意識のすべての行為を為し、貯蔵していると想像される不変の魂(Atta)の存在を公言するに至るのです。

「このいわゆる生命というものは、光の瞬きのようなものである。それはあまりにも速く次々にひらめき続ける閃光の連続に溶け込んでいるので、人間の網膜はそれらを分離して見ることができないし、また、修行を積んでいないものはそのような分離している閃光の連続を認識することができない」

 荷車の車輪が一点で地面に接しているように、生命はたった一つの思いの瞬間において生きているのです。それは常に現在に属していますが、たえず呼び戻せない過去へとすり抜けていきます。私たちがこれからどうなるのかは、現在の思いの瞬間によって決定されます。

 魂が存在しないのなら、死と再生を繰り返しているものは一体何なのか、と疑問が生まれるかも知れません。実は、再生しているものは何もないのです。生命が死を迎えた瞬間、カルマの力がそれを違った形で再び物質化させます。比丘シーラチャーラは語ります。 

「人目につかずにそれは変化し、条件が整った所ならどこでも、目に見える形となって現れます。ここで小さな蚊とか虫の姿をしているものが、つぎに別の場所で、きらめく偉大な天神あるいは大天使として知られるものとしての存在を現します。その生命のある現れた形態が死ぬとき、それは単に次へと移るだけで、適切な環境が提供されるところにおいて、違った名と形とをとって新しく再び出現するのです」

 誕生は、精神と物質の現象の発生です。死は単に一時的な現象の一時的な終焉に過ぎません。

 物質の発生が先行する状態によって条件付けられるのと同じように、精神と物質の現象の見かけもまた、誕生に先立つ原因によって決められます。ある生命の一生が、瞬間瞬間の意識を渡って行く永遠なる実在がなくても存在するように、いくつもの生涯の連なりもまた、ある存在から別の存在へと転生する不死なる魂がなくても成立します。

 仏教は、経験的に言って個性というものが存在していることを完全に否定してはいません。単に、究極的意味においては何ものも存在していないということを主張しようとしているだけです。“個人”を意味する仏教哲学用語は、Santanaといいます。流れるもの、継続するものという意味です。
 それは精神の要素と物質の要素を含んでいます。それぞれの個人の持つカルマの力が二つの要素を結び付けています。そして現在の生に限らず、その源流を無始なる過去にも持ち、未来へと続いていきます。この言葉は、仏教において、他の宗教が使っている、「不滅の自我」や「不死なる魂」の代わりをしています。

第10章 涅槃(ニッバーナ)

 この誕生と死の過程は、生命の流れが、いわば仏教徒の究極の目的である涅槃界(ニッバーナダトゥ)へと昇華されるまで、無限に続きます。パーリ語のNibbanaという単語は、NiとVanaという部分から成っています。Niとは否定の接頭辞で、Vanaは欲望や執着を意味します。
「それはNibbanaと呼ばれる。それはVanaと呼ばれる欲望への執着から離れることである」

 字義どおりに言うと、Nibbanaとは無執着ということです。それはまた、欲望、怒り、無知の根絶とも定義されます。ブッダは、「世界はすべて燃えている」とおっしゃいました。
「一体どんな火種がそれを燃え上がらせたのか。欲望、怒り、そして無知の火によるのである。誕生と、老いと、死と苦しみと、嘆きと悲しみと、悲嘆と絶望の火によるのである」

 ニッバーナは、無の境地とか、消滅の状態といったものとして理解すべきではありません。それは私たちの持っている、この世的な知識からは理解することができないものだからです。それは例えば、こんな風に良く知られた話のようなものです。魚が友人の亀と議論し、勝ち誇って結論づけます。「この世に陸地など存在しない」

 仏教徒のニッバーナとは、単なる無でもないし、消滅の境地でもありません。しかし、それが何であるかを適切に説明することはできないのです。ニッバーナとは、「生まれることなく、発生することなく、形成されることのない」法(ダンマ)であり、それゆえそれは永遠(Dhuva)であり、望ましいもの(Subha)であり、幸福(Sukha)なものです。ニッバーナにおいては、何も「永遠化された」ものはなく、「消滅させられた」ものもなく、さらに苦しみもありません。

 書物によれば、ニッバーナを有余依涅槃(ソーパディセーサ)として言及しているものと無余依涅槃(アヌパディセーサ)として言及しているものとがあります。これは実際上、ニッバーナの二つの種類というわけではなく、一つの同じニッバーナなのですが、経験される時期が死の前なのか、後なのかによって違った名前を付けているのです。

 ニッバーナはどこかの場所にあるというものではなく、超越的な自我が居住する天国の一種でもありません。それはこの体自身にもとづいているある状態なのです。それは、すべての者が得ることが可能な到達の境地(Dhamma)です。ニッバーナとは、この今の生においてすら到達可能な、出世間的な状態です。
 仏教では、この究極の目的が、ずっと先の生においてしか到達できないものであるとは説きません。ここに、仏教におけるニッバーナの概念と、他の宗教における、死後にのみ到達できる永遠の天国とか、来世で住むことができる神や聖霊の王国といった概念との大きな違いがあります。
 この現在の生で体が存在している状態でニッバーナが実現された場合、それは有余依涅槃界(ソーパディセーサ・ニッバーナダトゥ)と呼ばれます。阿羅漢が、体の崩壊の後に般涅槃(パリニッバーナ)に到達し、物質的生存を続ける要素を滅したとき、それは無余依涅槃界(アヌパディセーサ・ニッバーナダトゥ)と呼ばれます。

 エドワード・アーノルド卿の言葉によると、
「涅槃とは消滅することであると教える者がいたら、そのように言うことで彼らはうそをついている。
涅槃とは愛することであると教える者がいたら、そのように言うことで彼らは誤りを犯している」

 形而上学的見地から言うと、ニッバーナは苦からの解放です。心理学的見地から言うと、ニッバーナはエゴイズムの根絶です。倫理的見地から言うと、ニッバーナは欲望と、怒りと、無知の絶滅です。

 阿羅漢たちは、死後にも存在するのでしょうか。存在しないのでしょうか。ブッダはお答えになりました。
「五つの集合体(五蘊)から解放された阿羅漢は、広大な海のように深遠で、はかり知れない。彼が死後再生する、と言うことは適当ではない。彼は再生もしないし、再生しないわけではない、と言うことも適当ではない」

 阿羅漢が再生をすると言うことはできません。再生を引き起こすすべての感情は根こそぎにされてしまったからです。また、阿羅漢は消滅すると言うこともできません。消滅するものなどなにもないからです。

 科学者、ロバート・オッペンハイマーは書いています。
「たとえば、‘電子の位置は同じ所に留まっているのか否か’という質問があるとする。我々は、‘否’と答えなくてはならない。‘電子の位置は時と共に移動するのか否か’という質問があるとする。我々は、‘否’と答えなくてはならない。‘電子は静止状態にあるのか否か’に対しては、‘否’と答えなくてはならない。’それは動いているのか否か’に対しては、‘否’と答えなくてはならない」
「ブッダは死後の人間の自我について問われたとき、このような答えを与えた。しかしそれは、17、18世紀の科学的伝統からは、なじみのない答えであった」

第11章 涅槃(ニッバーナ)へ到る道

 ニッバーナはどのようにして獲得されるのでしょうか。聖なる八正道を歩むことでそれは為されます。
 八正道とは、正しい理解(正見:サンマー・ディッティ)、正しい思考(正思惟:サンマー・サンカッパ)、正しい言葉(正語:サンマー・ヴァーチャ)、正しい行い(正業:サンマー・カンマンタ)、正しい生活(正命:サンマー・アージーヴァ)、正しい努力(正精進:サンマー・ヴァヤマ)、正しい気づき(正念:サンマー・サティ)、そして正しい集中(正定:サンマー・サマーディ)です。

1、正しい理解:これは仏教の根本であり、聖なる四つの真理を理解していることとして説明されます。正しく理解することは、ものごとをあるがままに理解することであり、表面的な見かけにだまされないことです。これは最初に、自己に対する正しい理解をいいます。ローヒサッタ・スッタにあるように、「この一尋(約1.8メートル)の体と心はそれ自体」四つの真理の全体であるからです。
 八正道の実践において、正しい理解は最初に位置し、また最後に位置しています。最小限の正しい理解がそもそもの実践の始まりに必要です。それが他の七つの道への正しい動機付けを与え、それらに正しい方向を与えるからです。実践の最高点において、正しい理解は完璧な洞察の智慧(ヴィパッサナー・パンニャー)へと成熟し、聖者の階梯へ直接導いてくれます。

2、正しい理解による明晰なものの見方は、明晰な思考につながります。それゆえ聖なる八正道における第二の要素は、正しい思考(正思惟:サンマー・サンカッパ)です。それは、悪い思考の一掃と、清らかな思考の成長との二つの目的をなし遂げます。正しい思考は、このような特別なつながりを持ち、三つの部分から成ります。それは、

Ⅰ、出離(Nekkhammaネッカンマ): 世俗の快楽を断つこと。自己中心性からの脱却の徳。執着、自己中心性、所有欲の反対。
Ⅱ、無瞋恚(Avyapadaアビャパダ): 慈しみと憐れみ、善意、慈悲心。憎しみ、敵意、嫌悪の反対。
Ⅲ、無害(Avihimsaアヴィヒンサ): 害心の無いこと、思いやり。残酷さと冷淡さとの反対。

3、正しい思考が正しい言葉を導きます。三つめの要素です。嘘、悪口、人を傷つける言葉、くだらない言葉から離れる事です。

4、正しい言葉は正しい行為につながります。殺すこと、盗むこと、性的な過ちを避けることから成ります。

5、外面において思考と言葉と行動とを清らかにして、心の清浄道を旅する者は、世俗の信徒に禁じられた五種の売買から離れることで、その生活を清らかにしようとします。それは武器の売買、人間の売買、食用に殺された動物、人を酔わせる酒や薬物、そして毒の売買です。

 僧の場合、悪い生活には、偽善的行為と、僧の生活に必要なものを獲得するために誤った手段を使うこととが含まれます。

6、正しい努力は四つの部分から成ります。つまり、
Ⅰ、すでに起きてしまった悪い心を捨てるよう努力すること
Ⅱ、まだ起こっていない悪い心が起こるのを防ぐよう努力すること
Ⅲ、まだ起こっていない善い心が起こるように努力すること
Ⅳ、すでに起こった善い心を育てるように努力すること

7、正しい気づきは、体と、感覚と、思考と、心に起こってくる対象とに常に気づいてマインドフルでいることです。

8、正しい努力と正しい気づきとが、正しい集中を導きます。それは精神の一点集中状態で、禅定(ジャーナ)、瞑想における没入状態の最高点です。

 これら八正道の八つの要素の中で、最初の二つは智慧(パンニャー)の項目にくくられます。次の三つは、戒と道徳(シーラ)になります。そして最後の三つは、定(サマーディ)の要素です。発達の順序で並べると、次のような一連の流れになります。

1、戒(シーラ):正しい言葉、正しい行為、正しい生活
2、定(サマーディ):正しい努力、正しい気づき、正しい集中
3、慧(パンニャー):正しい理解、正しい思考

 戒(シーラ)はニッバーナへ到る道の最初の段階です。
どんな生命をも殺さず、傷つける原因を作らず、すべてのものに対して優しく憐れみ深くあらねばなりません。足元で這っているごく小さい生き物に対してさえもです。盗むことから離れて、彼はすべての行為において正しく、正直であらねばなりません。
 もともと高い存在である人間を卑しくする性的な過ちから離れ、彼は清らかであらねばなりません。嘘の言葉からはなれ、彼は正直であらねばなりません。ひどく有害で放逸を促進する飲み物から離れて、彼はしっかり覚めていて勤勉であらねばなりません。

 これらの統制された行いについての基本的行動基準は、ニッバーナへの道を歩く者にとって本質的なことです。これらを破ることは、彼の道徳的成長を妨げる障害物をその道の上に置くことを意味します。これらの遵守は、道に沿った着実で順調な成長を意味します。

 清浄道の旅人はこのようにその言葉と行いを慎み、みずからの感覚を制御するという次の段階へ進みます。

 言葉と行いとを統制し、感覚を抑制して、ゆっくりとしっかりとその進歩を進める一方で、この精進する大望を抱いた人のカルマの力は、彼を世俗の楽しみから遠ざけ、禁欲的生活を採用するようにさせるでしょう。そして彼に、次のような考えが浮かびます。

「在家の生活は争いの巣穴のようである。
 それは骨折りと窮乏とに満ちている。
 しかし、開かれた空のように高く自由なのは、
 家なきものが送る生活である」

 全てのものは、目的地に到達するために比丘としての生活や、独身生活をしなくてはならないのだ、と誤解してはいけません。精神的進歩は、比丘となることで促進されはしますが、世俗の信徒としても、人は阿羅漢に到達することが可能です。聖者の階梯の三段階目に到達して後は、人は独身生活をするようになるでしょう。

 道徳性の大地にしっかりと足を踏みしめて、進歩しつつある旅人は、定(サマーディ)という高いレベルの実践へと乗り出します。この道の第二段階であり、心の制御と訓練を行います。
 定(サマーディ)とは、“心の一点集中状態”です。それはある一つの対象への心の集中状態で、どうでもいい他のすべての事柄を心から完全に締め出した状態です。

 個々人の気質によって、さまざまな瞑想法があります。呼吸への集中は、心の一点集中を獲得する最も容易な方法です。慈悲の瞑想は、精神の平安と幸福との助けになるのでとても有益なものです。
 慈しみ(メッター)、憐れみ(カルナー)、共感的喜び(ムディター)、そして平静さ(ウペッカ)という四つの崇高な心の状態を育てることは、おすすめできるものです。

 集中の対象をしっかりと吟味して、彼はその気質にもっともふさわしい一つの対象を選びます。彼は満足してそこに落ち着き、他の思考が事実上心から締め出され、完全にその対象に没入して行くまで心を集中させる努力を続けます。
 進歩を妨害する五つの要素(五蓋)は、一時的に抑制されます。五蓋とは、感覚的欲望、怒り、怠惰と無気力、落ち着きのなさと後悔、そして疑いです。ついに彼は至福の集中に達し、たとえようのない喜びを得、禅定の状態に包まれます。一点集中した心の平静さと晴朗さとを楽しみます。

 人がこの完璧な心の一点集中状態に達したとき、五つの超自然的力(Abhinnaアビンニャー)を発現させることがあります。聖なる目(ディッバチャック)、聖なる耳(ディバーソータ)、過去生の追憶(プッベニヴァサヌッサティ・ニャーナ)、他者の思考を読む(パラチッタ・ヴィジャニャーナ)、そしてその他の超能力(イッディヴィダ)です。これらの超自然的力が聖者の本質的要素であるなどと誤解してはなりません。

 心は清らかになりましたが、依然として彼の中には欲望に魅かれる傾向が休眠状態で存在しています。集中によって、煩悩は一時的に寝かしつけられているだけです。それらは予期しない瞬間に、表面に浮上してくるかも知れません。

 戒と定とは、道から障害物を取り除くのに役立ってくれますが、ものごとをあるがままに見、サマーディによって抑えられた煩悩を完全に消滅させ、究極のゴールに到るためには、洞察(ヴィパッサナー・パンニャー)によるしかありません。これが涅槃(ニッバーナ)に到るための三番目の、そして最後の階梯です。

 今やよく磨かれた鏡にも似たその一点集中した心をもって、彼は世界をよく見、生の本当のありようを見ます。彼がその目を向けるところはどこでも、三つの特徴を備えています。無常(アニッチャ)、苦(ドゥッカ)、無我(アナッター)が際立って浮き彫りになっているのです。
 彼は、生は常に変化し続けるものであり、すべての条件付けられたものは移り変わっていくと理解します。天国にも、地上にも、彼は純粋な幸福を見つけることはできません。すべての形態の喜びは、苦の前奏曲だからです。無常なものは苦に満ちたものであり、変化と悲しみとに覆われているこの世界には、永遠の不死なる魂は存在しようがありません。

 そこで、これら三つの特徴の中から最も心ひかれる一つを選び、その特別な方向に彼は熱心に洞察をつづけます。彼の人生において初めてニッバーナを悟る栄光の日が訪れるまで。そのとき、彼は三つの執着を断ち切ります。自己という思い込み(有身見:Sakkaya-ditthiサッカーヤ・ディッティ)、疑い(Vicikicchaヴィチキッチャー)、間違った儀式や式典への耽溺(戒禁取見:Silabbataparamasaシーラッバタパラマサ)とです。

 この階梯において、彼は預流者(Sotapannaソータパンナ)と呼ばれます。ニッバーナへ到る流れに入ったものという意味です。彼はまだすべての執着を断っていないので、最大で7回まで再生します。

 このニッバーナの体験の結果として、新しく努力を集中したこの旅人は、急速な進歩を遂げ、深い洞察を育てて、一来者(Sakadagamiサカダガーミ)となります。二つの執着…つまり感覚的欲望(Kamaragaカーマラーガ)と悪意(Patighaパティガー)とが弱められています。彼は、阿羅漢に達しなかった場合、地上にたった一度しか再生しないので、一来者と呼ばれるのです。

 彼が完全に前述の二つの束縛を捨てるのは聖者の三番目の階梯、不還者(アーナガーマ Anagama) においてです。その後、彼はこの地上に戻ることはなく、感覚的な喜びへの欲望を持っていないので、天上界での出生も求めません。死後彼は自らにふさわしい“浄居”(Suddhavasaスッダヴァーサ)と呼ばれる梵天界に生まれ、阿羅漢になるまで留まります。

 今やこの聖なる旅人は、彼の努力の結果である無比の成功に力づけられ、最後の進歩を為し、残りの執着を断ち切ります。つまり、死後の形ある世界への欲望(Ruparagaルーパラーガ)、形なき世界への欲望(Aruparagaアルーパラーガ)、慢心(Manaマーナ)、落ち着きのなさ(Uddhaccaウダッチャ)、そして無明(Avijjaアヴィジャー)とです。そして、完全な聖者、阿羅漢、価値ある者となります。

 即座に彼は悟ります。為されるべきことは為された。悲しみの重荷は下ろされた。あらゆる形式の愛着はすべて消滅してしまった。ニッバーナヘ到る道は歩き終えられた。価値あるその人はいまや天界より高いところに立ち、言うことを聞かない煩悩と、世俗の煩悩からはるかに離れて、ニッバーナの言いようのない至福を悟り、多くの昔の阿羅漢たちのように、喜びの賛歌を口にします。

「善の意志と智慧、そして心は秩序立てて調えられた。
 善き道徳にもとづいた最上の行為が、
 死すべき人間を清めた。地位や富によらずに」

 T.H.ハクスリーが言うように、「仏教は、西洋の意味における神を知らず、人間の魂を否定し、不滅を信仰することを過ちであると説明し、祈祷といけにえの効き目を認めず、解放のためには自分自身の努力によるしかないのだという視点を人に与えた。その原初の純粋さにおいては、服従的な請願というものもなく、宗教的献金を一度も求めたことがない。それは、驚くべき速さで世界のかなりの領域に広まった。そして今も人類の大部分がよりどころにしている信条なのである」


慈悲(Metta)の瞑想

心身を静寂で、平安な状態にしましょう。

3度唱えます。-- ナモー ブッダヤ(Nammo Buddhaya)--(ブッダに敬礼いたします)

3度唱えます。-- アラハン(Araham)--(清浄な者)

唱えます。

ブッダン サラナン ガッチャーミ (私はブッダに帰依いたします)
ダンマン サラナン ガッチャーミ (私はダンマに帰依いたします)
サンガン サラナン ガッチャーミ (私はサンガに帰依いたします)

次のように念じます。
私の心は一時的に清らかになります。すべての汚れからはなれます。欲望、怒り、無知から自由になります。すべての悪い思いから自由になります。
私の心は清浄で明朗です。私の汚れのない心は磨かれた鏡のようです。

きれいな空の器が清らかな水で満たされるように、今や私はこの清らかで純粋な心を、平安で崇高な無限の慈しみと、溢れる思いやりと、共感的な喜びと、完全な平静さの念で満たします。

いまや私は、自らの心と、怒り、悪意、残酷さ、攻撃性と嫉妬心と、妬みと、熱情と嫌悪との感情とを洗い清めます。

10度念じます。
私が善く、幸福でありますように
私が苦しみ、病、嘆き、心配と怒りと自由でありますように
私が堅固で、自信を持ち、健康で平安でありますように

次のように念じます。
いま私は私の心身を構成している、頭から足に到るすべての粒子を、分け隔てのない慈しみと思いやりの念で満たします。私は慈しみと思いやりそのものです。私の全身は慈しみと思いやりとで満たされています。私は慈しみと思いやりとの砦であり、要塞です。私は慈しみ思いやり以外の何ものでもありません。私は自分自身を純化し、高め、聖なるものとしました。

10度念じます。

私が善く、幸福でありますように
私が苦しみ、病、嘆き、心配と怒りとから自由でありますように
私が堅固で、自信を持ち、健康で平安でありますように                                  

念じます。

精神的に、私は慈悲のオーラを私の周囲に作り上げます。このオーラによって、私はすべての否定的思考と、敵意ある波動とを遮断します。私は他者の悪い波動に影響されません。私は悪に報いるに善をもってし、怒りに報いるに慈しみをもってし、残酷さに対するに思いやりをもってし、嫉妬心に対するに共感的な喜びをもってします。私の心は平静で、調和が取れています。今や私は慈悲の要塞であり、道徳性の砦です。
私が得たものをいま私は他者に与えます。

あなたの家で近しく、親しい人たちをみんな思い浮かべます。個人ごとにでも集合したものとしてもかまいません。そして彼らを慈悲の念で満たし、平安と幸福とを祈ります。生きとし生けるものが善く、幸福でありますように!・・・と繰り返します。次に、すべての目に見える生き物たちと、目に見えない生き物たちとを念じ、近くに住むもの、遠くにすむもの、男性、女性、動物と、すべての生きものたちとを念じ、東方にいる、西方にいる、北方、南方にいる、上方と下方にいるすべての生きものたちを念じ、分け隔てのない、敵意と障害のない、階級や、信条や、肌の色や性にかかわらない、生きとし生けるものに対する慈悲の念を放ちます。

生きとし生けるものがあなたの兄弟であり姉妹であると考えましょう。生の大海を生きる仲間だと思いましょう。あなたは生きとし生けるものと一体です。あなたは一切衆生と共にいます。

10度繰り返します。”生きとし生けるものが善く、幸福でありますように。”そして彼らがみな平安で幸福であるように祈ります。

あなたの日常生活の中で、機会があったら、この善き思いを行動に移すようにしましょう。


翻訳:Y.O 



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