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簡単に説いた仏教 目次
第1章 ブッダ
第2章 ダンマ―それは哲学だろうか?
第3章 仏教は宗教だろうか?第4章、第5章 未翻訳
第6章 カルマ―道徳性の因果法則
第7章 再生
第8章 縁起
第9章 無我
第10章 涅槃
第11章 涅槃へ至る道

簡単に説いた仏教  ナラーダ長老


第6章
カルマ-道徳性の因果法則-


 私たちはまったくバランスの崩れた世界に直面しています。人間の多種多様な運命と、不平等と、世界に存在するさまざまな段階の生命が見られます。ある者は恵まれた環境に生まれ、健全な精神、道徳性、身体能力を授かりますが、ある者はみじめな貧困や悲惨さの中に生まれます。ここに徳高く清らかな人がいたとしても、彼の期待に反して、不運はいつでも彼を待ち構えているかも知れません。

 意地悪なこの世界は彼の大志と望みとは反対の方向に展開していくかも知れません。彼はその正直な振る舞いと敬虔さにもかかわらず、貧しく悲惨になります。ここにもう一人、人格悪しく、愚かな者だが、幸運の女神のお気に入りがいたとしましょう。その数々の短所や悪い生活の方法にもかかわらず、彼はあらゆる支持や好意を受けます・・・。

 きっと問いが浮上してくることでしょう。なぜある者は劣り、ある者は優れているのか。なぜ数年も生きないうちに優しい母親の手から取り上げられる者がおり、壮年期の花盛りの時に非業の死を遂げるものがおり、また80や100といった高齢まで生きるものがいるのか。なぜある者は病み、虚弱で、ある者は強靭で健康なのか。なぜある者はハンサムで、ある者は醜くひどく、みんなに嫌われるようであるのか。

 なぜある者は贅沢な環境に育ち、ある者は完全な貧困や、悲惨の中に育つのか。なぜある者は億万長者に生まれ、ある者は乞食に生まれるのか。なぜある者は聖者のような人格に生まれ、ある者は罪を犯す性向をもつのか。なぜある者は生まれつきの言語学者や芸術家、数学者、音楽家になるのか。なぜある者は体の機能が不十分で生まれるのか。なぜある者は誕生時から祝福を受けており、ある者は疎まれているのか。

 これらは思考する全ての人間を悩ます問題です。私たちはどのようにしてこれら世界の不平等や、人間同士の不公平を説明したら良いのでしょうか。
これらは行き当たりばったりの出来事か偶然によるものなのでしょうか。

 行き当たりばったりの出来事や偶然によって起こることはこの世にはありません。何もかも偶然で起こると言うことは、この文章がひとりでにここにやってきたと言うくらい真実でないことです。厳密に言って、その人の行いに何らかの理由がないかぎり、その人に何かが起きることはあり得ません。
ではこれらは無責任な創造者の命令なのでしょうか。

 ハクスリーは書いています。
「もし何者かが作為的にこのすばらしい世界の展開の仕方を設定したと考えるとしたら、彼はいかなる分かりやすい言葉の意味においても、もはや慈悲深く、公正であるなどということはなく、悪意に満ちて不正なものであるということは完全に明らかである」

 アインシュタインによると、
「もしこの存在(神)が全能であるとするなら、すべての人間の行為や、思考や、感情や呼吸をも含めたすべての出来事もまた彼の仕事によるということになる。このような完全な生命の前で、人間が自身の行いや思考に責任があると考えることがどうしてできようか」

「(最後の審判で神が)罰や褒賞を与える時に、彼はある程度自分自身に審判を下さなくてはならなくなるだろう。どうしてこれが神について描かれているような善や公正さに結びつくだろうか」

 ルイス・スペンサーは、
「神学の法則によれば、人間は彼の望みに関わりなく神により独断的につくられたものであり、また彼は創造の瞬間から永遠に祝福されているか呪われているかしていると言う。それゆえ善人と悪人とがおり、幸運な者と不幸な者とがおり、高潔な者と堕落した者とがいる。これは個々人の望みや希望や大志や、熱心な祈りをするための苦闘にかかわらず、その人の肉体の創造の時から最後の息をする時まで決められてしまっている。これが神学的運命論である」

 チャールズ・ブラドラフが言うには、
「悪の存在は有神論者にとって恐ろしい障害物であった。永遠なる善を支持する者は、苦痛や悲惨や犯罪、貧困などの悪に直面した。善そのものであり、完全な智慧を持ち、全能である神霊(神)がいるという彼らの宣言は、それらの悪という解答不可能な勢力によって挑戦を受けた」

 ショーペンハウアーの言葉によれば、
「誰であれ自分自身を無から発生してきたものだと考える者は、自分はふたたび無に帰るのだろうと考えるに違いない。彼の目の前で永遠は通り過ぎて行くからである。そこで彼は化け物みたいな考えを作り出し、そのなかで自分が永遠に生きるであろう二つ目の永遠(天国)を創始する」

「もし誕生が究極的な始まりであるとしたら、死は究極的な終わりでなくてはならない。そして、人間が無から創り出されたという考えは、必然的に死が人間の究極的な終わりであるという考えにつながる」

 人間の苦と神について言及する中で、J.B.S.ハルデーン教授は書いています。
「苦が人間としての完全な特質に必要であるか、神が全能でないかのいずれかである。前者は、ある人々がほとんど苦に悩まされることなく、先祖の代から幸福であることと、教育がとても健全な人格を作り上げるということとによって否定される。後者への反対意見は、神というものが存在するという仮定によって埋められる知的なギャップが存在するのは、宇宙との全体的なつながりにおいてのみである、ということだ。創造者は、何でも彼の望むものを前もって創造したのかもしれない」

 ラッセル卿は述べています。
「世界は善にして全能な神によって創られたと我々は聞いた。彼が世界を創造する前に、全能である彼は世界が含むであろうすべての苦と悲惨とを予見した。それゆえ彼はそれらすべてに責任がある。世界における苦痛が我々の罪によるのだなどという議論は無用である。もし神が、人間が罰せられるべき罪の存在を前もって知っていたなら、彼が人間を創造しようと決断したときに、神がそれらの罪の結果すべてに責任を負ったということは明らかである」

 年老いて書いた「絶望」という詩の中で、テニソン卿は次のように大胆にも神を攻撃しています。イザヤ書によれば、神はこう言ったとされています。“私は平和をつくりだし、悪を生みだした。”(Isaiah, xiv. 7.)

「なんと!私は無限の愛が我々にかくも十分に与えられたと言わねばならないのか。むしろ無限の残酷が、永続する地獄をつくり、我々をつくり、前もって我々を知り、前もって我々を支配し、彼が自身で為すであろうことをしたのだ。亡くなった我々の残酷な聖母は一度たりとも我々の悲嘆のうめきを聞いたことなどない」

たしかに、
「全人類には罪があり、アダムの原罪を負っているという教義は、正義と、慈悲と、愛と、全能の公正に対する挑戦である」

 幾人かの昔の文章家は、権威的に、神は人間をその形に似せて創りだしたと宣言しました。近代の思想家は反対に、人間が神を自らの容貌に似せて作りあげたと述べています。文明の発展に伴って、人類の持つ神の観念もまた一層洗練されてきました。しかし、そのような存在は、この世界の内であろうと外であろうと存在していると考えることは不可能です。

 これら、さまざまな世界の不平等や人間同士の不公平は、遺伝や環境によるのでしょうか。これら遺伝や環境のような、科学者によって明らかにされた化学・物理現象は、部分的には疑問を解くのに役立ちますが、単独で個々の生命の間の微妙な違いや大きな差を作り出していることについて答える責任を持っていないと認めざるを得ません。まったく同じような双子で、身体的にそっくりであり、ほぼ同じ遺伝子を受け継ぎ、おなじ生育環境で育った者たちであるにもかかわらず、しばしば気質的に、道徳的に、知的にまったく異なっているのはなぜでしょうか。

 遺伝だけではこれらの大きな違いを説明することは不可能です。厳密に言って、それは大部分の違いを説明するよりは、もっとまことしやかに彼らの共通点を説明できるだけです。両親から受け継がれたごく微細な化学物理における遺伝子は、1インチに約3千万あると言われていますが、人間の身体的基盤という一部分しか説明することができません。

 もっと複雑で微妙な精神的、知的、また道徳的性質の違いを説明するに当たっては、私たちはもっと啓発される必要があります。遺伝の理論は、長い名誉ある家系における犯罪者の誕生や、悪い評判を受けている家系における聖者や高潔な人の誕生や、神童や天才や偉大な宗教的人物の出現に対する、満足のいく説明をすることはできません。

 仏教によれば、これらの違いは遺伝や環境や“天性と教育”だけでなく、私たち自身のカルマ、言い換えれば私たち自身が引き継いだ過去の行いの結果と現在の行いの結果によります。私たち自身が、自からの行いに責任があり、幸福や悲惨に責任があります。私たちが自分で自分の地獄を作ります。自分で自分の天国を作ります。私たちは自身の運命の作り手なのです。短く言えば、私たち自身が自分のカルマだといえます。

 ある時、スバーという名のある若者が、ブッダに近づいて問いました。
「なぜ、どういうわけで人間の中に低い地位の者や高い地位の者がいるのでしょうか」また言いました。
「人間の中には短い生を生きる者がいれば長生きするものもいます。ある者は強健である者は病弱です。見た目の良い者も醜い者もいます。強い者、弱い者がおり、貧しい者、富める者がおり、身分の低い人がいれば高い人がおり、愚かな者がいれば賢い者もいます」

 ブッダは短く答えました。
「すべての生きとし生けるものは自身のものとして、過去生から継承したものとして、自身の原因として、親類として、拠り所としてカルマを持っています。カルマによってすべての生きとし生けるものは低い、あるいは高いものになるのです」

そしてブッダはこれらの違いの原因を、道徳性の因果関係という法則(カルマ)に従って説明されました。このようにして、仏教の視点からいうと、私たちの現在の精神、知性、道徳、そして性質の違いは、主に私たち自身の過去と現在の行為と、その傾向によるものだと言えます。

 カルマの語義は、行動です。しかし、究極的な意味では、価値ある善い意志行為(クサラ・チェータナ)と不善の意志行為(アクサラ・チェータナ)を意味します。カルマが善と悪とを作り出します。善をなせば善を受け、悪をなせば悪を受けます。好意が好意を引き寄せます。これがカルマの法則です。

 幾人かの西洋人はカルマについて“影響をもたらす行為”と言うのを好みます。
私たちは自分でまいた種を刈り取ります。まいた種は、どこかで、いつか刈り取ることになります。ある意味で現在の私たちとは、過去における存在の結果であり、未来の私たちは、現在における存在の結果となります。別の意味では、現在の私たちは完全に過去における存在の結果というわけではなく、未来の私たちが完全に現在における存在の結果であるというわけではありません。たとえば、今日の犯罪者が明日には聖者のようになっているということもあるかも知れません。

 仏教は人間のさまざまな違いをカルマに帰していますが、なにもかもカルマによるのだと断言しているわけではありません。もしすべてがカルマによるのであるとしたら、人間が悪になるのはカルマによるのであるから、彼は永遠に悪でなくてはなりません。病気を治すために医者に通う必要もなくなります。カルマがよい場合に限って人は治ることになりますから。

 仏教によれば、物質と精神の領域をつかさどる五つのプロセス(Niyamasニヤーマ)が存在しているといいます。

1、カンマ・ニヤーマ:行為と結果の道理。たとえば、望ましい行いはそれに対応する良い結果を生み出し、望ましくない行いはそれに対応する悪い結果を生み出す。
2、ウトゥ・ニヤーマ:物質的(無生物的)な道理。たとえば、季節による現象や風や雨など。
3、ビジャ・ニヤーマ:胚や種の(肉体的、生物的)道理。たとえば、米が米の種子から作られ、甘味がサトウキビや蜂蜜からもたらされるなど。細胞と遺伝子の科学的理論や、双子の身体的相似もこの道理に含まれる。
4、チッタ・ニヤーマ:精神や心理的法則の道理。たとえば意識の過程(チッタ・ヴィティ)、心の力の道理。
5、ダンマ・ニヤーマ:基準の道理。たとえば菩薩が最後の誕生をして到来したときに起こった自然現象や、重力など。

 すべての精神的、物質的現象はこれらの包括的な、それ自体が法則である五つの道理あるいはプロセスによって説明できます。それゆえ、カルマはこの世界に働いているこれら五つの道理のうちのたった一つにすぎないといえます。カルマはそれ自体法則ですが、だからといって法則を与える者が存在する必要はありません。普通、自然の法は、重力のように法則を与える者を必要としていません。カルマの法則は、外部の独立した作用に妨げられることなく、それ自身の作用する場において働きます。

 たとえば誰も、「炎は燃えなくてはならない」と命じることはできませんし、「水は水平を保つべきだ」と命じた者もおりません。水がH2Oで構成され、冷たさをその特徴に持つように定めた科学者もいません。これらの特徴はそれらに本質的に備わったものです。

 カルマは、我々が無力にも従わねばならないある神秘的な不可知の力によって、私たちに押し付けられた運命や宿命ではありません。それは自分自身に返ってくるその人自身による行為なので、人はカルマの流れをある程度方向転換することができるのです。どれほどある者が方向転換するかは、その人自身によります。

 もう一つ言うべきことは、報酬や罰といった言葉は、カルマの問題に関わる議論には使うべきではないということです。仏教は、服従者を支配し、ふさわしい報酬や罰を与えるような全知全能の存在などというものを認めていないからです。
 仏教者は反対に、ある人が経験する悲しみや幸福は、その人自身の善なる行いと悪い行いの自然な成果だと信じています。カルマは連続的な原理と、応報的な原理とを持っていると言うべきでしょう。

 カルマに内在しているものは、それにふさわしい結果を生み出す潜在的な力です。原因が結果を生み出します。結果は原因を説明します。種が果実を作りだし、果実が種の存在を説明します。このようにお互いに相互に関係しています。そのように、カルマもその結果と相互に関係しています。“結果はすでに原因の中に花開いている”のです。

 完全にカルマの教義を確信している仏教徒は、他者の救済を祈ることはしませんが、自己の浄化を自信を持って自からに頼っています。カルマの法則は、個々人の責任を教えてくれるからです。

 このカルマの教義によって、彼は慰めを得、希望と自己への信頼を得て、善をなす勇気を得るのです。このカルマへの信が、“彼の努力が正しいことを証明し、彼の熱意に火をつけ、”彼をいつでも親切に、寛大に、慈悲深くするのです。またこのカルマへの堅い確信によって、どんな罰に脅かされることもなく彼は悪を避けるよう促され、どんな報酬に誘惑されることもなく彼は善を為し、善くあるよう促されるのです。

 このカルマの教義は苦の問題を説明し、他の宗教が言ういわゆる運命や宿命といった神秘を説明し、何よりも人類の不平等性を説明します。
カルマと再生は、公理として受け入れられています。


第7章、再生

 カルマの力がある限り、再生があります。生命は、目に見えないカルマの力が、単に目に見えるものとして現れたものに過ぎないからです。死は、この一時的な現象の一時的な終りに過ぎません。死は、いわゆる生命の完全な消滅ではありません。有機的な生命活動が止んでも、それを今まで実現させていたカルマの力は滅びていません。カルマの力は、はかない体の崩壊に邪魔されることなく完全に持続しているので、現在の、死につつある思いの瞬間は、次の誕生における新しい意識を条件付けます。

 再生を条件付けるのは、無知と渇愛に基づいたカルマです。過去のカルマが現在の生の誕生を条件付け、現在のカルマが、過去のカルマと組み合わさって未来を条件付けます。現在は過去の子供であり、次に、未来の親になります。 過去生、現在の生、未来の生があると仮定すると、すぐさま次の神秘的な問題が起こるのに直面します。
「生命の究極的な始まりとは一体何だろうか」
生命の始原は、あるのでしょうか、ないのでしょうか。

 ある人々は、この問題を解決しようとして、最初の生命の原因として神を仮定しました。神は力そのものとして、あるいは全能の存在として描かれました。またある人々は、生命の最初の原因を否定しました。誰でも経験しているように、原因は必ず結果となり、結果は必ず原因となるからです。原因と結果のサイクルの中では、最初の原因などは想像も付かないからです。前者の意見に従えば、生命は始まりを持つということになり、後者によれば、生命は始まりをもたないということになります。

 科学的視点でみれば、私たちは両親により提供された精子と卵細胞の直接の産物という事になります。このようにして、生命が生命に先立ちます。では原形質、あるいはコロイド状物質の始原についてはどうかと言うと、科学者たちは分からないと言います。

 仏教においては、私たちは、行為という母体(カンマヨーニ)から生まれたと説明します。両親は単にごく微細な細胞を提供したに過ぎません。このようにして、生命が生命に先立ちます。妊娠〔受精〕の瞬間に、胎児に生命を与える最初の意識が、過去のカルマによって条件付けられます。過去の生で作り出された目に見えないカルマの力が、あらかじめ定められた一定の範囲の身体現象の内部において、精神現象と生命の現象とをつくりだし、これら三つのものがまとまって人間を作ります。

 ここで生まれた生きものは、どこかで死ななくてはなりません。ある生命の誕生、それは厳密に言えば、この現在の生における五つの集合体(五蘊)、あるいは精神と肉体との現象の発生ですが、それは過去のある生命の死に対応しています。それは、日常的な言い方をすれば、太陽がある場所で昇れば、別のある場所では沈むのと同じことです。 

 この謎めいた言い回しは、生命を直線としてではなく、波のようなものとしてイメージしてみるとわかりやすくなるでしょう。誕生と死とは、同じプロセスの二つの局面に過ぎないのです。誕生が死に先立ち、他方で、死が誕生に先立ちます。絶え間ない誕生と死の連鎖が、それぞれの個々の生命の流れと結びき、仏教用語では輪廻(サンサーラ)として知られている何度でも起こる放浪の旅を作りあげています。

 それでは生命の究極の始原とは何なのでしょうか。
ブッダは明らかにされました。
「輪廻には認識できる終わりが無い。無知によってさえぎられ、渇愛に縛られてさまよい、生きている、生命の最初の始まりは、知ることができない」

 この生命の流れは、無知と渇愛の泥水で養われている限り、無限にいつまでも流れ続けます。ブッダと阿羅漢たちのように、これらの二つのものが完全に切り捨てられた場合に限り、彼がそう望めばこの生の流れは止まり、再生は終わります。この生命の力が無知と渇愛を伴っていない時、輪廻という舞台はもはや知覚することができず、この生命の流れにおいて究極的な始まりを決定することができなくなるからです。

 ブッダはここで、単に生きものの生命の流れの起源について言及されただけです。この世界の起源と、その発展についての推測は、科学者たちにゆだねています。ブッダは、人類を悩ませる倫理的、あるいは道徳的な問題をすべて解決しようとはしません。また彼は、道徳的向上や悟りにつながらないような理論や推測もしようとはしません。

 また、彼はその信徒から盲目的な信仰を得ようともしませんでした。ブッダの関心事はいつも、苦しみとその終滅とにかかわる問題でした。この実践的ではっきりした一つの目的を視野に入れて、彼はどうでもよい他の問題をすべて完全に無視しました。

 しかし、過去生が実在したということを、私たちはどうやって信じればいいのでしょうか。仏教者が再生の実在を信じるため引用する、もっとも価値ある証拠は、ブッダその人です。彼は過去生と未来の生を読み解くことを可能にする知識を発展させていたからです。
 彼の指導を受けて、彼の弟子たちもまた、この種の知識を発展させ、みずからの過去生をとてもよく読み解くことができました。

 インドのある仙人たちは、ブッダが出現する前すでに、尋常でない聴力や、千里眼、他者の心を読む力、過去の生を思い出す力といった超能力のような力に優れていました。
 またある人たちは、たぶん連想の原理によって、自然に無意識に自分の過去の誕生の記憶を思い起こしたり、過去生の断片を思い出したりします。このようなケースは非常にまれですが、これら少数の、しっかりと証明された、信用おける事例は過去生の存在という考えにいくらかの光を投げかけてくれます。このようなものとしては、現代の信頼できる超能力者があり、二重人格や多重人格といった不思議なものがあげられます。

 催眠状態において、あるものは過去生の経験を話します。一方ごく一部の人々は、他者の過去生を読み解き、病を治したりすることがあります。
時々、私たちは再生ということなしには説明のつかないような奇妙な経験をすることがあります。

 私たちは、一度も会ったことがないのに本能的にとても親しく感じ、見覚えのあるような人とどれほど会っていることでしょう。はじめて訪れた場所なのに、完全にこの場所は熟知しているという印象を受けたことが、どれほどあることでしょう。

 ブッダはおっしゃいました。
「以前からの交際を通じ、あるいは現在の良き関係を通じて、昔の友愛が突然浮かび上がることがある。水中から蓮の花が姿を現すように」
 心霊現象や、霊的交流や、奇妙な二重、多重人格といった信用できる現代の超常現象などは、輪廻転生の観念にいくらかの光を投げ掛けています。

 ブッダや、とても進歩した人格を持つ人物といった、完成された人物がこの世界に出現することがあります。彼らは突然進歩したというのでしょうか。彼らが、一回だけの生命の所産であると言うことがありえるでしょうか。

 私たちは、どのようにしてブッダゴーサやパニーニ、カーリダーサやホメロスやプラトンのような偉大な人格、またシェイクスピアのような天才、パスカルやモーツァルト、ベートーヴェンやラファエルやラマヌヤンのような神童たちの誕生を説明すればいいのでしょうか。

 遺伝だけではこれら天才たちの誕生を説明することはできません。彼らの先祖は、その子孫が、自分たちより偉大であったということにおいて、それを証明しています。
 これら天才たちが過去生に高潔な人生を送り、似たような経験をして来なかったとしたら、このようなそびえ立つ高みに登りつめることが果たしてできたでしょうか。彼らが特別な両親の間に生まれ、とても好都合な環境に置かれたということは、単なる偶然なのでしょうか。

 私たちが人間として過ごせるよう恩典を与えられたわずかな年月、あるいは最大百年間は、不十分ではあるけれど確かに永遠へ準備期間であるに違いありません。もしある者が現在と未来の存在を信じるなら、過去の存在を信じるのはもっともなことではないでしょうか。現在は過去の子孫であり、次に未来の親としての役割をはたします。

 私たちが過去にも存在していたことを信じる理由があるとしたら、現在の生が外見上終わった後にも、私たちが存在を続けるということを否定する理由はありません。
“この世界では、徳の高い人が往々にして不運であることがあり、悪徳の人が栄えることがある。”という主張は、過去生と未来の生の存在を信じるのに確かに説得力のあるものです。

 西洋の文筆家は言っています。
「過去生の存在を信じる、信じないは関係ない。日常のある出来事に関する人間の知識における切れ目に、橋をかけることのできるもっともな仮説は、その存在によってのみ形作られる。私たちの理性は、この過去生とカルマの観念のみが、以下のことを説明できる。

 すなわち双子の間に存在する違いの程度や、例えばシェイクスピアのようなとても限られた経験しか持ち得ない人間が、どうして驚くべき正確さをもって、たくさんの異なった人間の性格や、情景、実際に知っていたとは思えないその他のことを描くことができるのかということ。なぜ天才の作品は決まって彼の経験を超越したものであるのかということ。早熟な幼児の存在や世界中にみられる、精神と道徳性、頭脳と身体、境遇や生活状況や環境における多様性など」

 この再生の教義を、体験的に証明したり、誤りであるとすることはできないと言うべきでしょう。しかしこの教義は、証拠立てられた明白なものとして受け入れられます。
ブッダは続けます。
「このカルマの原因は、四つの聖なる真理に対する無明(アヴィッジャー)です。無明はそれゆえに、誕生と死の原因です。そしてそれを明(ヴィッジャー:智慧)へと変えることが、結果的に誕生と死の終滅となります」

 この分析的方法の結果は、縁起(パティッチャ・サムッパダ)のなかにまとめられています。


第8章 縁起 (PaticcaSamuppadaパティッチャ・サムッパダ)

 パティッチャとは、“~に縁って”とか“~にもとづいて”という意味で、サムッパダとは、“起こる”、“発生する”という意味です。それゆえ、パティッチャ・サムッパダが語義どおりに意味することは、“~に縁って起こること”、“~により発生すること”となります。

 覚えておかなくてはならないことは、パティッチャ・サムッパダは単に誕生と死のプロセスに関する教説なのであって、生命の究極的根源に関する理論ではないということです。パティッチャ・サムッパダは再生と苦しみの原因を扱ったものですが、この世界が始原の物質から発展してくる様子を表そうとする意図はまったくないのです。

 無明(Avijjaアヴィジャー)が、生命の輪転における最初の結節点、あるいは原因です。それは正しい見解をすべて曇らせてしまいます。四つの聖なる真理に対する無知に縁って、善と不善の行為(行:Sankharaサンカーラ)が起きます。善と悪との行為は無明に基づいていますが、この無明こそは必ず相応の影響を起こすものであり、ただ生命のさまよう旅を長引かせるものです。しかし、善の反応、行動は生命の非合理性、病んだ側面を取り除くために必要不可欠なものです。

 行為に縁って、再生の意識(Vinnanaヴィンニャーナ)が起きます。これが過去と現在とを結びつけます。再生の意識の発生と同時に、心と体(名色:Nama,Rupaナーマとルーパ)が起こってきます。心と体の発生の避けられない結果として、六つの感覚器官(六処:Sarayatanaサラヤタナ)が起こります。

 六つの感覚器官によって、接触(Pssaパッサー)が起こります。接触は、感受(ヴェーダナ)を導きます。意識、心と体、六つの感覚器官、接触と感受の五つは、過去の行為の結果として起こるので、生の受動的な側面と呼ばれます。

 感受に縁って渇愛(Tanhaタンハー)が起こります。渇愛は執着(Upadanaウパダーナ)を引き起こします。執着はカルマ(Bhavaバーヴァ*訳註)の原因となります。つぎに、カルマが未来の誕生(Jatiジャーティ)を条件付けます。誕生は、老いと死(JaraMaranaジャーラとマラーナ)との避けられない原因となります。

 原因によって結果が生じるとすれば、もし原因が消滅するならば、結果もまた消滅しなければなりません。逆の順序になった縁起(パティッチャ・サムッパダ)が、このことをはっきりさせてくれるでしょう。

 老いと死は、精神と肉体をもった生命があってこそ存在します。このような生命は誕生を持つ必要がありますから、誕生を前提とするものです。ところで誕生は、過去の行為、カルマの避けられない結果です。カルマは執着により条件付けられますが、執着は渇愛にもとづいているものです。

 このような渇愛は、感受が存在する場合にのみ現れます。感受は、感覚器官と対象物との接触の結果です。ですから感受は、感覚器官の存在を前提とします。感覚器官は心と体とがなくては存在しようがありません。心があるところには必ず意識があります。意識は過去の善と不善との結果です。善と不善との獲得は、ものごとのありのままの姿に対する無明の結果です。

 公式の全体は、次のようにまとめられるでしょう。
無明に縁って、(善と不善の)行為が起こる。
行為に縁って、意識(再生の意識)が起こる。
意識に縁って、心と体とが起こる。
心と体とに縁って、六つの感覚器官が起こる。
六つの感覚器官に縁って、接触が起こる。
接触に縁って、感受が起こる。
感受に縁って、渇愛が起こる。
渇愛に縁って、執着が起こる。
執着に縁って、カルマによる行動が起こる。
カルマによる行動に縁って、誕生が起こる。
誕生に縁って、老衰、死、悲しみ、嘆き、苦痛、悲嘆、そして絶望が起こる。

 このようにして、苦しみの集まり全体が起こる。この十二の部分のうち、最初の二つは過去に関係し、次の八つは現在に関係する。最後の二つは未来に関係するものである。

無明の完全な止滅により、行為が止滅する。
行為が止滅すれば、意識が止滅する。
意識が止滅すれば、心と体が止滅する。
心と体が止滅すれば、六つの感覚器官が止滅する。
六つの感覚器官が止滅すれば、接触が止滅する。
接触が止滅すれば、感受が止滅する。
感受が止滅すれば、渇愛が止滅する。
渇愛が止滅すれば、執着が止滅する。
執着が止滅すれば、カルマによる行動が止滅する。
カルマによる行動が止滅すれば、再生、誕生が止滅する。
再生、誕生が止滅すれば、老衰、死、悲しみ、嘆き、苦痛、悲嘆、そして絶望が止滅する。
このような結果として、苦しみの集まり全体が止滅する。

 この原因と結果との過程は無限に続いて行くものです。なぜこの生命の流れが無明によって取り巻かれているのかを知ることが不可能なのと同じように、この過程の始まりもまた知ることはできません。ですが、この無明が智慧へと変わり、生命の流れが涅槃界(ニッバーナダトゥ)へと方向転換すれば、輪廻という生命の過程が終滅するのです。

*訳注:Bhavaは本来「存在、有」と言う意味だが、ここでは、Kamma Bhavaすなわちカルマによって存在がもたらされる(業有)、という意味で使われている。



翻訳:Y.O 

 



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