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簡単に説いた仏教 目次
第1章 ブッダ
第2章 ダンマ―それは哲学だろうか?
第3章 仏教は宗教だろうか?第4章仏教は倫理体系だろうか?第5章 未翻訳
第6章 カルマ―道徳性の因果法則
第7章 再生
第8章 縁起
第9章 無我
第10章 涅槃
第11章 涅槃へ至る道


 簡単に説いた仏教   ナラーダ長老

第3章仏教は宗教だろうか?

 仏教は、一般に「宗教」という言葉で考えられているものとは違います。「何か超自然的な存在に忠誠を負う信仰・崇拝の体系」などではないからです。仏教では、信者に頭から信じ込むことを求めません。単なる信心は退けられ、きちんとした理解に基づく確信がそれに換わります。これをパーリ語では「信(Saddha:サッダー)」といいます。信者がブッダに信を置くのは、病人が名医に信を置くのと同じであり、生徒が先生に信を置くのと同じことです。こうして仏教徒はブッダに拠り所を求めます。それは、ブッダこそが解脱への道を発見した人だからです。

  しかし、仏教徒は、個人的な浄化によって救われると考えてブッダに拠り所を求めているわけではありません。ブッダはそのようなことを保障しません。他人の汚れを洗い流すことはブッダにもできることではありません。他人の心を浄化したり、汚したりすることは誰にもできないことです。

 ブッダは、教師として教えを説きますが、自らの浄化について責任があるのは自分自身です。仏教徒はブッダに拠り所を求めますが、自分を明け渡してしまうわけではありません。ブッダに従うことで、考えることの自由まで犠牲にするということはありません。信者は自分の自由意志で智慧を育み、自分がブッダになることをも目指そうとするのです。ですから、仏教の第一歩は、きちんと考え理解すること、つまり、「正見(Samma-ditthi:サンマー・ディッティ)」です。

真理を探し求める者たちに向かって、ブッダはこう言っています。
何事においても、ただ聞いたことがあるというだけで、ずっと長いことそのように聞いてきたのだからと考えて、信用してはならない。
ただ言い伝えられているからというだけで、何代も受け継がれてきたのだからと考えて、信用してはならない。
ただそう噂されているというだけで、自分で調べることなしに他の人が言っているからと、信用してはならない。
ただ経典に書いてあることと合っているからというだけで、信用してはならない。
ただの憶測で信用してはならない。
ただ頭で推し量っただけで信用してはならない。
ただ根拠を考えただけで信用してはならない。
ただ先入観に合っているからというだけで信用してはならない。
ただ受け容れてもよさそうだというだけで、「この人はよさそうな人だから言っていることも信用して良いだろう」と思って、信用してはならない。
苦行者は敬われているからと言って、苦行者の言葉を受け容れるべきだと思って、信用してはならない。

 しかし、『これは道徳的ではない』、『これは非難に値する』、『これは賢者によって咎められるだろう』、『これを実際行って経験すれば、身を滅ぼし苦しみをもたらすだろう』と自分自身ではっきりと理解したならば、その考えは退けるべきである。

 また、『これは道徳的である』、『これは非難されるところがない』、『これは賢者によって褒められるだろう』、『これを実際行って経験すれば、喜びと幸せをもたらすだろう』と自分自身ではっきりと理解したならば、それにしたがって行動すべきである。

 ブッダのこの言葉は、語られた当時と変わらない強さとみずみずしさで力を与えてくれます。妄信は求めていないにしても、仏像などを礼拝するかどうかについて議論があるかもしれません。仏教徒が仏像などを礼拝するのは、世俗のことであれそれを超えたことであれ、何かを得ようと期待するからではありません。像として表されたものに敬意を示すためです。理解ある仏教徒は、お花やお香をブッダ像に捧げることで、自ら生きたブッダと一緒にいるように感じ、その貴い人格を思って心励まされ、限りない憐れみを受け取ります。この貴い手本に自らも従っていこうと努めるようになります。

 菩提樹も悟りの象徴です。このような外的な物を崇拝することはどうしても必要というわけではありませんが、心を注ぎやすいという意味で有益です。しかしすぐれた知性の持ち主であれば、外的な物なしに、すぐに心を集中してブッダを思い浮かべることができるでしょう。自分自身のために、そして感謝の気持ちから、そうした外的な物を敬うのですが、ブッダは弟子たちに尊敬よりもむしろ、教えを実際に守ることを期待しました。
ブッダはこう言っています。
「教えを行う者こそ、ブッダを最も敬っている」
「法を見る者はブッダを見る」

 なお、仏像について、ケヴサーリング伯爵はこういうことも言っています。
「この世の中で仏像ほど素晴らしいものを私は知らない。崇高さというものを目に見える形で完璧に表現しているからである」

 さらに、仏教では、何かお願いするために祈ったり、自分との間をとりなしてもらうために祈るようなことはしない、と述べておくべきでしょう。いくらブッダに祈りを捧げても、それで救われるわけではありません。ブッダは自分に祈りを捧げる人の願いを叶えたりはしません。何かを願う祈りではなく、自制、浄化、悟りへと導く瞑想が仏教にはあります。瞑想とは、静かに夢想にふけることではなく、ただ心を空白にすることでもありません。それは積極的に努力することです。知性と感情の両方に力を与えてくれます。

 ブッダは、祈りを捧げることには意味がないばかりか、奴隷のような心のあり方が問題だとしました。ですから、仏教徒は救いを求めて祈りを捧げるべきではありません。自らに依って立ち、自ら自由を勝ち取るべきです。

「祈りというものは、神とこっそり通じ合って自分のためだけの取引をする、という性格を帯びている。浮世の望みを叶えようとして、『私が』という気持ちに火をつける。それに引き替え、瞑想というのは自分を変えることだ」
スリ・ラダクリシュナン

 仏教には、他のほとんどの宗教にあるような「恐れ敬うべき全知全能の神」というものはありません。ブッダは、宇宙を支配する全知・遍在の存在を信じませんでした。仏教には、神のお告げや神の使者というものがありません。ですから、仏教徒は、自分の運命を支配し、好き勝手に飴とムチを与えるような「高次・超自然的な」力に付き従うことはしません。
 仏教徒は神のお告げを信じませんから、仏教は真理を独り占めしているなどとは言いませんし、他の宗教を非難したりもしません。それよりも、仏教では、人間の限りない潜在能力を評価します。そして、神の助けや願いを取り次ぐ牧師の力に頼るのではなく、自らの努力で苦しみから解き放たれるよう教えを説きます。

 そういうわけで、仏教を厳密に宗教と呼ぶことはできません。なぜなら、仏教は信仰や崇拝の体系ではないからです。また、人々の運命を支配する力を持つ神に付き従い、仕え、敬うべきであるというような、うわべの行いや形式でもないからです。

 しかし、宗教というものが、次のような意味だとしたらどうでしょう;
人生をただ表面的にではなく、より深い見方で示す教え。
人生について一瞥するだけでなく、さらに観察する教え。
その観察したことと調和する行動の仕方を示してくれる教え。
教えに耳を傾ける者が、しっかりとした人生を送り、静かに死を迎えることができるような教え。
そして、人生の苦しみを取り除く方法。

「宗教」がこのような意味だとしたら、仏教はまさに宗教の中の宗教と言うことができるでしょう。

第4章 仏教は倫理体系だろうか?

 仏教が、他に類を見ないほど完璧で利他的な、すぐれた道徳律を持っていることは疑いありません。この道徳律では、比丘の生活の仕方と、また一方で、在家の者たちの生活の仕方が述べられています。しかし、仏教はよくある道徳的な教えを大きく超えています。道徳的であることは心を清める道の準備段階にすぎず、最終目標のための手段であって最終目標自体ではありません。道徳的な行いはとても大切ですが、それだけでは自らを苦から解放することはできません。理解すること、智慧 (panna) を伴っていなければならないのです。道徳は仏教の足固めであり、智慧がその頂です。

 仏教徒がその道徳律を守るには、自分一人のことを考えるだけでなく、動物を含めた他の生命のこともよく考えなければなりません。仏教の道徳は、怪しげな神のお告げからできているわけでも、特別な人が特別な才能から作り出したわけでもありません。自分で確かめることのできる事実と一人一人の経験に基づいており、理にかなった、実際の役に立つ規則です。
 仏教徒の人格が作られるのにあたって、何か外部の超自然的な力が働くというようなことは一切ないということを言っておくべきでしょう。仏教では、誰かが褒美や罰を与えるということはありません。それぞれの行いが当然の成り行きとして幸・不幸をもたらすだけです。

 ですから、仏教徒に「神を喜ばせただろうか、怒らせてしまっただろうか」などという考えが起こる余地はありません。見返りがほしいからとか、罰が怖いからという理由で、善いことをしたり悪いことをやめたりすることもありません。
 仏教徒も先々に起こる結果について気をつけてはいますが、仏教徒が悪いことをしないのは悟り (Bodhi、菩提) への妨げになるからだし、善いことをするのも悟りに達する後押しになるからなのです。もちろん、ただそれが善いことだからという理由で善いことをし、悪いことだからという理由で悪いことをしない人もいます。

 信者の理想の姿としてブッダが信者に期待した道徳は、際立って水準の高いものでした。それがどんなものであるかを知ろうと思えば、次のような経典を慎重に読んでみる必要があるでしょう。

Dhammapada (法句経)(*1)、Sigalovada Sutta (シンガーラへの教え)(*2)、Vyagghapajja Sutta(*3)、Mangala Sutta (吉祥経)(*4)、Karaniya Sutta (慈経)(*5)、Parabhava Sutta(*6)、Vasala Sutta(*7)、Dhammika Sutta(*8)、などです。
 
 仏教は、道徳の教えとして見ても他の道徳体系とは比べ物にならないほどすばらしいものですが、仏教では道徳はまだほんの入り口であって、最終地点ではありません。
仏教は哲学ではないという見方もできますし、哲学の中の哲学だという見方もできます。
仏教は宗教ではないという見方もできますし、宗教の中の宗教だという見方もできます。
仏教は形而上学的・抽象的な方法論ではありませんし、儀式ばかりの典礼主義の道でもありません。
仏教は、懐疑論でも教条的な独善論でもありません。
仏教は、自らを苦しめる禁欲主義でも欲におぼれる快楽主義でもありません。
仏教は、悲観主義でも楽観主義でもありません。
仏教は、常見の立場でも断見の立場でもありません。(*9)
仏教は、徹底した現世主義でも来世主義でもありません。
仏教は、他に類を見ない、悟りへの道なのです。

 ブッダの教えは、パーリ語ではもともとDhamma (ダンマ、法)と呼ばれていました。Dhammaとは、文字通りには「支えとなるもの」という意味です。このパーリ語の言葉の意味をぴったり表す言葉が英語にはありません。ダンマとは、ものごとの真の姿のことです。真実についての教えです。苦しみから解き放たれるための方法であり、その解放自体のことでもあります。ブッダが現れようと現れまいと、ダンマはいつもあります。無知な人にはそれが分からず見えないままでいました。しかし、悟った人であるブッダが現れ、ダンマをはっきりと理解し、憐れみの心でもってそれを世に知らしめました。
 このダンマは、一人一人と関わりのないものなどではありません。しっかりと結びついているものです。ブッダはそう説いています。

「自らを島とし、自らを拠り所としなさい。
ダンマを島とし、ダンマを拠り所としなさい。
その他に拠り所となるものはありません」
涅槃経 (Parinibbana Sutta)(*10)

(訳注)
(*1) 中村元・訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫、「真理のことば」部分、5ページ~。
(*2) 長部 31。
(*3) 相応部 8.54。
(*4) スッタニパータ 2.4 (中村元・訳「ブッダのことば」岩波文庫、第2章、4、こよなき幸せ、57ページ~)。
(*5) スッタニパータ 1.8 (同掲書、第1章、8、慈しみ、37ページ~)。
(*6) スッタニパータ 1.6 (同掲書、第1章、6、破滅、28ページ~)。
(*7) スッタニパータ 1.7 (同掲書、第1章、7、賤しい人、32ページ~)。
(*8) スッタニパータ 2.14 (同掲書、第2章、14、ダンミカ、78ページ~)。
(*9)常見とは、「人は死んでも魂は不滅である」という考え。断見とは、「人の命はこの世限りのもので、死後の世界も、因果法則もない」という考え。
(*10)長部 16 (中村元・訳「ブッダ最後の旅」岩波文庫、第2章、9、26、63ページ)。

翻訳:H.O 

 



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