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人生の目的とそれを達成するための手段   グレイム・リオール



(この講演は、1996年5月5日、オーストラリア、アフマディア・ムスリム協会の、宗教創設者の日にちなんで行われました)

 「イスラム教の哲学」出版100年を記念する、この大切な機会を皆様と共に持てましたことは大きな喜びです。私はこの本のテーマの一つでもある、「人生の目的とそれを達成するための手段」について、お話しします。
 
 人生の目的とは何でしょう。この質問に対して人々は様々に答えます。ある人は、お金をたくさん稼ぐことだと言うでしょう。では、人はなぜお金が欲しいのでしょうか。それは、お金が様々の物質的所有をもたらすと信じているからです。それらの物質が幸福をもたらすと思っています。では物質的な所有は幸福をもたらすでしょうか。ある程度においては、可能でしょう。しかし、それは本当に満足をもたらす物でしょうか。一般的に、あなたの持っている物が何であれ、それより良い物か、あるいはより大きい物を持つことを想像できるというときに、満足はあります。これらの所有はまた、それを失うのではないかと言う心配の原因にもなります。

 ブッダの時代のお話があります。ブッダは僧たちと共に道の傍らに坐っていました。とても気落ちした様子の農夫がやってきて、「この道を牛の群れが通らなかったですか」とたずねました。「いいえ」とブッダは答えました。農夫は、「おお、私はすべての牛を失ってしまった。去年は一滴の雨も降らなかったので作物は育たなかった。私はなんと不幸なのだろう。私の人生は破滅だ」と語りました。彼が去った後、ブッダは僧達を振り向き語りました。「比丘たちよ、牛を持っていなくて君たちはなんと幸せなことか」

 渇望と執着はいつも心にあります。物質的なものに対してであれ、友人や家族に対してであれ、この渇望と執着は、幸せの反対である悲しみの原因になります。この悲しみ、不満足はブッダの教えの中で苦(ドゥッカ)と名づけられています。他方多くの人々が求めている幸せはスッカと呼ばれます。ブッダは、「人生の本質は苦(ドゥッカ)である」と教えています。私たちほとんどの人は幸せ(スッカ)の体験が好きです。しかし幸せの状態は長く続かないという事実が、その結果として不満足、あるいは悲しみを作り出します。

 私たち多くの人々にとって、人生の目的とは幸福を、それも継続する幸福を見つけることです。しかし、人生は本質的に悲しみに満ちています。ブッダの教えの真髄は、四聖諦に含まれています。その第一の真理は次のように述べられています。「人生はその本質において苦(ドゥッカ)であり、不満足であり、失望的である」

 「ドゥッカ」はしばしば「苦(suffering)」と訳されますがそれ以上のものです。ドゥッカはたしかに精神的、肉体的苦を意味しますが、それはまた人生は失望に満ちていることを意味します。私たちは、物事が今あるよりも別のものであることを好みます。私たちが歳を取ると、若いままであったらと思います。私たちが貧乏であると、お金があったらと思います。苦(ドゥッカ)は、「生、病、老、痛み、絶望、好きな人と別れること、嫌いな人と一緒にいなければならないこと」です。これらすべては苦(ドゥッカ)の見本であり、四聖諦における第一の真理です。

 人生における物事の本性が何であれ、私たちは常に物事が今あるままより別のものであることを切望します。「人生とは不満足である」という事実に直面したがりません。私たちは、あれやこれやの物をもっと求めることにより、この不満足を和らげようと努めます。

 このことが、四聖諦の第二の真理へと導きます。苦の原因は三毒と呼ばれる、「貪欲あるいは執着、怒りあるいは憎しみ、そして迷妄な心」に根を持ちます。私たちは、人々や物に執着しがちです。そしてそれから引き離されると、落胆に苦しみます。私たちは、それらが永遠に続くように執着し、永続しないという事実を受け入れ難いことに気づきます。私たちは好きでないものに対し怒り、あるいは嫌悪を感じます。

 仏教は、「怒りはそれが向けられている対象よりも、怒っている本人を害する」と教えています。怒りは血液を熱くする原因になり、不快な容貌を作り出します。私たちが誰かに対して怒れば、それだけ相手は反応し、怒りは増大します。怒りは非生産的であり、問題を解決しません。私たちの心は、物事をあるがままに見ないために惑わされています。それは、無常(アニッチャー)、失望(ドゥッカ)、永続する自己や実体がないこと(アナッター)です。物質的なもの、非物質的なものすべてが変化し、無常である主体です。

 皆さんは今、各自の椅子に快適に座っていることでしょう。しかし、この後3時間も動かずに座り続けたら、椅子を快適だと思えるでしょうか。あるいはもし皆さんが1ヶ月も座り続けたら、多分足を壊し、動くことが不可能になっていることに気づくでしょう。あるいは、もし皆さんが100年間その椅子に座り続けたら、おそらく白骨になっているでしょう。そして椅子の方もかなりみすぼらしくなっていることでしょう。

 快適と思われるものから出発しても、すぐに不愉快なものに変化してしまいます。すべては関係しています。私たちが物事を見る仕方は、時間、空間、現在の状況に基づいています。私たち自身は変化の主役です。体の中のすべての細胞は絶えず年を取り、死に、置き換わります。私たちの思い、考えは絶えず変化し修正されます。この美しいモスクへ来てからの皆さんの思いや考えは、来る前のそれとは違っています。それはずいぶんと変わりました。皆さん方の中で変化しないものがあるでしょうか。私はそうは思いません。それゆえにブッダは、究極的な感覚において、あなたというものあるいは変化しない実在は存在しないと語りました。機械の中でボタンを押して動かしている幽霊がいるわけではありません。この変化という概念、そして無我という考え方への理解は、受け入れるのが難しい、それゆえ苦です。

 四聖諦における第三の真理は、「苦を超えること」に関わります。それは苦の原因である、貪欲、怒り、迷妄を越えることです。この「苦を乗り越えること」は「涅槃」と名づけられます。「涅槃」は場所ではなく、「物事をあるがままに見て、迷妄によって曇ることが無い心の状態」と述べられています。それは心の状態以上のもので、推測や詳述することが不可能です。

 ブッダは涅槃について次のように語っています; 比丘たちよ、「いまだ生じていないもの、生成されていないもの、作られていないもの、合成されていないもの」が存在する。もしこの、「いまだ生じていないもの、生成されていないもの、作られていないもの、合成されていないもの」が無ければ、明らかに、「生じ、生成され、作られ、合成されたもの」からの解脱はありえない。しかし比丘たちよ、「いまだ生じていないもの、生成されていないもの、作られていないもの、合成されていないもの」が在るゆえに、あれやこれやの「生じ、生成され、作られ、合成されたもの」からの解脱は明白なのである。

 ある者は「いまだ生じていないもの、生成されていないもの、作られていないもの、合成されていないもの」を神と関連付けます。しかし、仏教徒は神という言葉を使うことに慎重です。神は様々な人にとって異なるものを意味します。ある人々はこの世界を作った私たちのように、人間に似せて神を語るでしょう。また他の人々は、キリスト教の宗教哲学者ポール・ティリッヒのように、「神とは存在の基礎であり、存在の真実である」と語ります。他方で、そういうものは超越的な存在を語るのにふさわしくない、として神を定義したがらない人々もいます。

 仏教徒が神という言葉を避けるのは、その言葉を取り巻く混乱のためです。仏教徒は「いまだ生じていないもの、生成されていないもの、作られていないもの、合成されていないもの」である涅槃について語ります。涅槃は多くの非仏教徒たちが非難する虚無主義ではなく、生成を越えたところにある状態―超越的な状態です。それは私たちの知っている世界のいかなる物事にも比較することが出来ないので、いかに定義すべきか難しいのです。すべての記述は不適当なものです。

 四聖諦の第四番目は、涅槃の状態を得るためにブッダが説いた方法で、聖なる八正道と呼ばれています。なぜ聖なる(アーリア)と言う言葉がこの道に使われるか、不思議に思われるかもしれません。道を歩むものは、聖者あるいは価値有る人と考えられているからです。八正道の八つの段階とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。

 正見は四聖諦によって導かれる、苦を乗り越える知識です。それは真理の全体的理解を含むものではありませんが、真理に対する信頼によって、道に従っていけば涅槃が得られるということです。

 正思惟はいつも思考と行動に気づいていることで、いかなる生き物に対しても害することを避けます。正語は話すことに気づいていることで、聞き手にとって有益なことを話します。正業は行動について気づいていることです。そして、「生命を奪わない。与えられていないものをとらない。性的不道徳をしない。嘘や騙すことをしない。心をゆがめる傾向のあるアルコールや薬物を取らない」という五戒を守ります。自らと他の生命あるものに対して害になるような、いかなる行動も根本的に避けるべきです。

 正命は命あるものへの害や、苦の原因とならないような方法で生きる糧を得ることです。「酔わせるものや、銃あるいは、食料用に殺す動物を売るような仕事は仏教徒としてはふさわしくない」と考えられます。正精進は「未だ生じていない悪を避け、既に生じている悪を拒否すること。未だ得ていない善を得ること。既に得ている善については、これらのよき性質を安定させること」です。正念は、体、言葉、心いずれであれたえず気づいている訓練をすることで、害になる行動を避けます。正定は、集中と瞑想によって心を育てることで、それによって直感的な洞察を得ます。

 瞑想は、仏教徒の修行の中心的部分です。テーラワーダの伝統によると、心の成長を得る本質的実践として、二つの瞑想すなわち、静寂(サマタ)と洞察(ヴィパッサナー)が知られています。心の静寂はある特別な対象への集中と、すべて外部からの思考を排除することにより達成されます。しばしば呼吸や腹部の動きが、好ましい集中の対象として用いられます。他には、色のついた円盤(カシナ)や死(マーラ)の随念や、呼吸を数えることが初心者の訓練において、心を固定させるために用いられます。

 この集中の実践は心を静寂にし、幸福の感覚をもたらします。それは一境性(一つのものへの集中)や全集中(禅定)を得るために必要なものです。ひとたび心が集中によって訓練されると、瞑想者は身体における感覚、感受を省みることができ、生じ、滅するものを観察します。後者の実践は、ヴィパッサナ―として知られているもので、洞察や気づきを成長させる方法です。

 禅(中国ではChan)の伝統においては二つの方法が使われます。一つの方法は呼吸に集中し、何であれ必ずすべての思考を取り去るものです。この方法は心の絶えざるおしゃべりを排除し、目覚め(さとり)をもたらします。もう一つの方法は、公案(中国ではKung-an)と呼ばれるもので、合理的な答えを持たない質問について考えます。典型的な公案とは、「生まれる前の顔はどんなだったか」、「片手で拍手すると、どんな音がするか」、あるいは、「無」という言葉です。これらの方法は心を合理的思考の向こうへ押しやり、究極の目覚めを体験させます。

 大乗仏教の浄土経において用いられる方法は、無量の光を放つ仏(中国ではAmitafo,日本ではアミダ仏)の名を絶えず唱えることで、念仏と呼ばれます。この方法は、心を一つの対象に固定するもので、多くのキリスト教徒によって使われる祈りの暗唱に似てなくはありません。その結果は、心を静め、浄土教によればアミダ仏の話しを聞くことによって悟りが得られるという、浄土に再生することです。

 ほとんどの仏教徒は、肉体が分解する死に際し、過去の行い(カルマ)の結果として、あるいは意識のエネルギーの質と一致した状態において、再生が起こるだろうと信じています。この再生は人間としての姿か、動物、餓鬼、祝福された状態(天神)、地獄でありましょう。それぞれの状態は永続的なものではなく、再生の状態に結果をもたらし、それを支えるカルマのエネルギーに従った期間続きます。

 言い換えるなら、私たちは再生の絶えざる循環をめぐる者であり、それは涅槃まで、あるいは再生からの救済が得られるまで続きます。

 要約すると、仏教徒にとって人生の目的とは、苦あるいは人生の本性としての不満足性を越えることです。苦を越える過程において人は他者の苦に共感し、彼らの苦を自らのものとします。このことにより、私たちはすべての生き物が「苦しみの海」の中にいるのを見るようになり、生きとし生けるものへの憐れみ(カルナー)を育てます。すべてのものが、自らの中に悟りへの種子やブッダの本性への可能性を持っています。それゆえ私たちは、生き物それぞれにブッダの可能性を見出します。ひとたび私たちが、すべての生き物はブッダの本性を持っていることを知るなら、苦の原因である二つの毒である怒りと嫌悪に打ち勝つことができます。
 
 聖なる八正道に従うことにより、私たちは迷妄の心に打ち勝ち、涅槃の祝福を実現する智慧を得るための、すでに試され証明されている手段を得ます。

 すべての人々は健康で、幸せでありますように。




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