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真実における二つの面    アーチャン・チャー

 

(この法話は、1976年雨安居の中、ワット・パー・ポンにおいて、比丘の集会でパーティモッカ[戒律]唱和後になされたものです)

1、真実における二つの面

 人生には二つの可能性があります。世俗世界の楽しみに耽ること。もう一つは、世俗世界を越えて行くことです。仏陀は世俗世界から自分を自由にし、精神的解放を実現しました。
 同じように、二種類の知識があります。世俗世界に属する知識と、精神世界に属する知識、あるいは真の智慧といって良いでしょう。未だ実践をしておらず、自らを訓練していないなら、いかに多くの知識を持っていようと、それは世俗的であり、自らを解放することはできません。

 考え、真に良く見てください。仏陀は、この世界の物事はぐるぐる回っている、と言いました。世俗世界に従えば、心は世俗世界に絡みつき、行ったり来たりして心を汚し、満足することがありません。世俗世界の人々は、いつでも何かを求めています。これで充分ということがありません。世俗の知識とは実のところ無知です。それは、明確な理解を持っていないために回転は終わることがありません。

 それは、世俗世界の目的である、物を貯めこむこと、地位を得ること、賞賛や喜びを求めること――を回りつづけます。私たちをしっかりとこの世界につなぎとめる大いなる迷妄です。
 ひとたび何かを得ると、嫉妬や心配や自己満足が起こります。脅かされていると感じ、物理的に防ぐことができないと、私たちは、ありとあらゆる物を発明することに心を向けます。武器や、核爆弾まで作り出そうとします。それは、ただお互いを吹き飛ばすだけです。なぜこのような問題や困難が起こるのでしょうか。

 それが世俗世界のあり方だからです。世俗世界に従って行くなら、終極点にいたることはないとブッダは語りました。ですから、解放のための修行に参加してください。
 真実の智慧に従って生きることは容易ではありませんが、ひたむきに道果を求め、涅槃を熱望する人は誰でも忍耐して、やりとげることができるでしょう。
 少しのもので満足し、忍耐することに耐え、少しの食事、少しの眠り、少しの話を心がけ、つつましく生きます。そうすることによって、世俗的なものを終わらせることができます。

 もし世俗の種がまだ残っているならば、いつも問題を抱え、終わることのない堂々めぐりで困惑します。出家したとしても、それはあなたを引っ張り、離し続けます。それは見方や意見を作り、すべての考え方に色を付け、飾り立てます。そういうものなのです。

 人々 はそのことをを理解せず、世俗世界でもできるだろうと言います。すべてを達成するのが人々の希望です。熱心な政府の首相が新しい内閣を始めるときと同じです。自分はすべてに対する答を持っていると思い、古い政権のすべてを運び去り、「見ていてください、私はすべてを自分でやります」と言います。
 物事を運び入れ、物事を運び出します。しかし、決して何事も達成されません。それが、することのすべてです。彼らは試みますが、決して完成しません。

 すべての人を喜ばせることはできません。ある人は少ない方が好きで、別の人は多い方が好きです。ある人は短いのが好きで、別の人は長いのが好きです。ある人は塩辛いのが好きで、ある人はスパイシーが好きです。皆をまとめ、一致させることはできません。

 すべての人は人生で何かを達成することを望みます。しかしこの世界は、全体の複雑さゆえに、真に完成させることはほとんど不可能です。仏陀でさえ、あらゆる機会に恵まれた貴族の王子として生まれながら、現世的な生活では完成させることができませんでした。

2、感覚の罠

 仏陀は欲望と、欲望によって満たされようとする六つのことがらについて語りました。すなわち、色形、音、香り、味、感触と心の対象です。幸福、苦痛、善、悪・・・などに対する欲望と渇望。それはすべてに広がります。
 色形― 女性に勝る色形はありません。そうではないでしょうか。本当に魅力的な女性がいたら、見たくなるでしょう。本当に魅力的な姿の人がサクサクと歩いてきたら、見つめないわけにはいきません。

 音はどうでしょう。女性以上にあなたを引きつける音はありません。それは心に穴をあけてしまいます。香りも同じです。女性の芳香はすべてのもののうち最も魅惑的なものです。他に比べられる香りはありません。
味 ― 最もおいしい食物の味さえ、女性のそれには及びもつきません。
感触も同じです。心がくぎ付けにされ、夢中になり、茫然となっている女性に触れるとき。

 古代のインドの タキシラに神秘的な魔法使いの師がいました。彼は弟子にすべての魔法と呪文の知識を教えました。弟子が熟達して独りでやっていけるようになって離れるとき、師は最後の教えを語りました。
「魔法、呪文と護身の言葉について知っていることはすべて教えた。鋭い歯を持った生き物や、角(つの)や枝角や大きな牙を持った生き物でさえ、恐れる必要はない。これらすべてから護られることを保証する。しかし、保証できないものがたった一つある。それは女性の魅力だ。[4]このことについて、私はどうすることもできない。それから身を守る魔法はない。自分で守るしかないのだ」

 精神的対象が心に起こります。それは欲望から起こります。価値あるものを持ちたい欲望、金持ちへの欲望、そして大概の物を絶え間なく求めます。この種の貪欲は、深く強いもののすべてではなく、それだけでは、人を弱々しくしたり、コントロールを失うのに十分な力はありません。しかし、性的欲望が生じるとき、心のバランスが失われ、コントロールを失います。生み育てくれた両親のことさえ、忘れてしまうでしょう。

 ブッダは、感覚の対象は罠―マーラ(悪魔)の罠であると教えています。[5]マーラとは私たちを害するものとして理解すべきです。罠は私たちを束縛するもので、猟師のわなと同じです。
 それはマーラの罠、猟師のわなです。そして猟師はマーラです。もし動物が猟師のわなに捕まるなら、それは痛ましい苦境です。しっかり捕えられ、わなの所有者が来るまで持たれます。

 今までに鳥をわなにかけて捕らえたことがありますか?
 わながはねて、「パチン」です。首のところを掴まれました。強く丈夫なひもがしっかり掴みます。鳥は飛び立とうとしても、逃げることができません。こちらへ、あちらへと飛び立とうとします。しかし、わなの所有者が来るまで捕まったままです。猟師が現われます。それで終わりです。鳥は恐れに打ち負かされ、逃げ出すことができません。

 色形、音、香り、味、感触と心の対象の罠も同じです。私たちを捕え、しっかり縛ります。もし感覚に従うなら、魚が釣り針に引っ掛かったのと同じです。漁師が来たら、気の済むまで格闘します。しかし逃げることはできません。実際には、魚のように捕えられるのではありません。それよりは蛙のようです。蛙は釣り針を腹まで飲みこみます。魚がその口に針を引っ掛けられるのと同じです。

 感覚に捕らえられた人も同じです。肝臓がまだやられていない酔っぱらのようです――もうこれで満足ということを知りません。飲酒にふけり、だらだらと飲み続けます。酒に捕えられ、後に病気と痛みをこうむります。

 ある男が道を歩いて来ます。旅をして非常にのどが渇き、水を飲みたいと渇望しています。水の持ち主が言います、「この水を好きなだけ飲むことができます。良い色をしているし、においも味も良いです。しかし飲むと、病気になります。これはあらかじめ話しておかなくてはなりません。死ぬか、ほとんど死ぬほどの病気になります」
 のどが渇いた男は聞きません。7日間水を絶たれた手術後の人と同じ位のどが渇いています。彼は泣くほど水を求めています。

 それは人が感覚を渇望するのと同じ状態です。ブッダはそれらが有毒であることを教えました 。色形、音、香り、味、感触と心の対象は毒です。それは危険な罠です。
 けれども男はのどが渇いていて、聞きません。渇きのために、「結果がどんなに苦しくても、水をください。飲ませてください」と、叫んで、涙ぐんでいます。
 それで彼はちょっとすくい取り、飲んでみて、とても美味いのを知ります。そして、お腹がいっぱいになるまで飲んで、ほとんど死ぬほどの病気になります。彼は強烈な渇望のために聞きいれませんでした。

 これは感覚の喜びに巻き込まれた人がどんな風になるかです。色形、音、香り、味、感触と心の対象を飲みこみます。それらはすべてとても美味です。それで、止まらずに、飲みます。そして死ぬまで、しっかりと釘付けになり、そこに留まり続けます。

3、世俗的な道と解放

 ある人々は死に、ある人々はほとんど死んだも同然です。 ―― 人が世俗世界にはまりこむとそうなります。世俗的な智慧は、感覚とその対象を探し求めます。どんな智慧であっても、それは世俗的な感覚においての智慧であるだけです。

 どんなに魅力的に見えても、それはただ世俗に訴えているだけです。どれだけ多くの幸福であっても、それはただ世俗的な感覚での幸福に過ぎません。それは解放の幸福ではありません。それは世俗世界からの自由ではないでしょう。

 私たちは真の智慧を洞察し、自身から執着を取り除くために比丘として修行するようになりました。執着から自由になるため実践してください。うんざりするまで、体を調べて、周りのすべてを調べてください。それらすべてにうんざりすると、次に冷静さがやってきます。
 しかし冷静さは簡単には起こらないでしょう、なぜならまだはっきりと見ることができないからです。私たちはここにやってきて、出家しました。学習し、読み、実践し、瞑想します。心を堅固で、確固としたものにさせようと決意します、しかし修行するのは簡単ではありません。

 私たちはある実践をすることを決意します。このように実践しよう、と言います。ほんの1、2日が経って、いや多分数時間が経って、それをすべてを忘れてしまいます。
 それから思い出して、「今度はちゃんとやろう」と再び心にかたく決意します。すぐ後に、一つの感覚によって引き離されます。そして再びすべてばらばらになります。それで私たちは振り出しに戻ってまた始めなければなりません。こんな風です。

 不完全に築かれたダムのように、私たちの修行もしっかりしていません。まだ本当の修行を理解し、従うということができません。本当の智慧に到達するまで、このようなことが続きます。真実を洞察するとき、すべてから解放されます。ただ平和だけが残ります。

 私たちの心は古い習癖のために平安ではありません。過去にした行為のために、これらを相続します。それは、私たちについて回り、いつも悩ませます。私たちは闘い、逃れる道を探します。しかし古い習癖に縛られており、それらによって引き戻されます。
これらの習癖はその古い根拠を忘れません。
 それは古い、親しみあるものをつかみ、使います。それを讃え、使い尽くします。そんな風に私たちは生きています。

 男性と女性の性について――女性は男性に問題を引き起こし、男性は女性に問題を引き起こします。
それがこの世のあり方であり、ちょうど正反対です。
もし男性が男性と一緒に住んでいたら、問題は起こりません。
もし女性が女性と一緒に住んでいたら、問題は起こりません。
男性が女性に会うとき、心臓は脱穀機のように打ちます「ドン、ドン、ドン」。
これは何なのか?この力は何なのか?
それはあなたを引っ張り吸い寄せます。誰も払わなければならない対価があることを知りません。

 すべてにおいて同じです。いかに懸命になって自身を自由にしようとしても、自由の価値と束縛の痛みを見るまで、手放すことはできないでしょう。人々はいつも困難に耐え、戒律を保持し、自由あるいは解放を達成するためにやみくもに形式に従おうとします。それは自由と解放を得るためではありません。
 本当に修行する前に、欲望を手放すことの意義を理解しなくてはなりません。その後に、本当の実践が可能です。すべては明快さと気付き(マインドフル)をもってなされなくてはなりません。はっきりと見たとき、我慢するとか、強いる必要はもうありません。この点について誤解しているから、困難が生まれ、重荷になります。

 体と心全体を使って、完全に物事を成し遂げることから平安が来ます。未完成なままのものは、不満の感覚を残します。これらはどこへいっても悩みとして束縛になります。あなたはすべてを完成することを望みます、しかしすべてをすることは不可能です。

 定期的に私に会いに来る商人たちを例に取りましょう。彼らは「負債をすべて支払い、資産が順調になれば、私は出家します」と、言います。そんな風に言いますが、今までに負債のすべてを終え、順調になったことがあったでしょうか。それには終わりがありません。

 彼らは借金を別の借金で返し、そんな風にして支払い、すべてを繰り返します。商人がもし負債から自身を解放するなら、幸せだろうと思います。しかし支払いには終わりがありません。世俗世界はこんな風にして私たちをだまします。私たちは決して自分の苦境を理解しないので、このように同じところを回り続けます。

4、不断の修行

 私たちの修行ではまさに直接的に心を見ます。修行の力が弱まり始めるときはいつでも、心を見て、強くします。すぐ後に、また進むようになります。そんな風にして引き上げます。
 しかし良い気付き(マインドフル)のある人はしっかり保持し、いつも、自身を立て直し、引き戻し、訓練して、実践して自身を育成します。

 気付き(マインドフル)がしっかりしていない人はすべてをばらばらにしてしまいます。何度も何度も、道からはぐれ、脇へ逸れます。修行の方向において、堅固でなく、確固としていません。それで、あちらこちらへと不断に現世的な欲望に引っ張られます。気まぐれと欲望に従って生き、世俗世界の回転を終わらせることがありません。

 出家することはそれほど容易ではありません。心を強固にしようと決心しなくてはなりません。修行に自信を持つべきです。好きなものも嫌いなものも、両方にうんざりするまで修行し続けて、真実をありのままに理解するまで修行し続けられる、十分な自信を持つべきです。
 普通、ただ嫌いなものだけに不満足です。好きなものがあるなら、それを断念する気はありません。嫌いなものと好きなものと両方うんざりし、苦しみと幸福にうんざりしなければなりません。

 これがまさしくダンマ(理法)の本質であることを理解しません。仏陀の ダンマ は深遠で、微妙です。理解することは容易ではありません。本当の智慧をまだ得ていないなら、理解することができません。
 未来を見ることはできないし、過去を見ることもできません。幸福を経験するとき、これからも幸福だけがただあるだろうと思います。苦しみがあるときはいつでも、これから苦しみだけがあるだろうと思います。

 大があるときはいつも小があることを見ません。小があるときはいつも大があります。
 そんな風には見ません。ただ一つの面を見ます。そしてそれは終わりがありません。

 すべてに二つの面があります。両面を見なくてはなりません。ですから、幸福が生まれるとき、もう一つを見失ってはいけません。苦しみが生まれるとき、もう一つを見失ってはいけません。幸福が生まれるとき、苦しみを忘れてはいけません。なぜなら相互に依存しているからです。

 同じように、食物はすべての生き物にとって体の維持管理に有益です。けれども実際に、例えばそれがいろいろな胃の不調を起こすとき、食物は同じく有害でもあります。
 何かの利点を見るとき、同じく欠点に気付かなくてはなりません。そして逆もまた同様です。
 憎悪と嫌悪を感じるとき、愛と理解について熟慮すべきです。このようにして、いっそう調和ががとれます、そして心はいっそう安定します。


5、感覚の森

 決して終わることのない世界が回転します。そのすべてを理解しようとするなら、それはただ混沌と混乱に導きます。しかし、もしはっきりと世界を熟慮するなら、本当の智慧が生まれるでしょう。
 仏陀はこの世界に精通していた人でした。彼はこの世界に対する豊かな知識のために人々にに影響を与え、導く大きな能力を持っていました。この世界の世俗的な智慧を変換することにより、透徹した見方で、出世間的智慧を得て、真に傑出した人になりました。

 それで、私たちがこの教えを内側に向け省察に使うなら、完全に新しいレベルの理解を達成するでしょう。
 私たちが対象を見ようとするとき、対象がありません。音、を聞くとき、音はありません。臭いを嗅ぐとき、臭いがないと言うことができます。すべての感覚は明白です、しかしそれらは安定したものを欠いています。それらはただ生じて、次に消滅する感覚です。

 私たちがこの真実に従って理解するなら、感覚は実体であることをやめます。それらはただ来て、去って行く感覚です。実際に、いかなる「もの」もありません。いかなる「もの」もないなら、「私たち」もなく、「彼ら」もありません。
 もし人としての「私たち」がいないなら、「私たち」に属している何ものもありません。苦しみが消滅するのはこのようにしてです。苦しみを得る誰もいないとき、苦しむ者とは誰ですか?

 苦しみが生じるとき、私たちは苦しみに執着して、それによって本当に苦しまなくてはなりません。同じように、幸福が生じるとき、私たちは幸福に執着して、その結果、喜びを経験します。
 これらの感覚への執着が「自己」や「自我」という考えを作ります。そして、「私たち」や「彼ら」という考えが絶えずあらわれます。

 まさに、ここのところが、すべてが始まり、私たちを終わりのない回転へと連れて行くところです。それで、私たちは修行をして、そして ダンマ に従って生きるようになります。家を離れ、森に住むことによって、そこから来る心の平和に同化します。
 私たちは自分身と戦うために逃がれてきました。それは恐れあるいは現実逃避のためではありません。しかし、都市に住む人が、都市に執着するのと同じように、森に来て住む人は、そこに住むことに、愛着を感じます。森にいて道に迷い、都市にいて道に迷います。

 それによって得られる身体的、精神的孤独が解放のための修行に貢献するので、仏陀は森に住むことを讃えました。しかし、仏陀は私たちが森に住むことに依存し、あるいはその平安と静寂に固執するようになることを望みませんでした。私たちは智を得るために修行に来ます。

 ここ、森で私たちは智慧の種をまいて、育てることができます。混沌と混乱の中にあっては、これらの種は成長するのが困難です。しかしひとたび森に住むことを学ぶと、私たちは翻って、都市と、それがもたらす感覚のすべての刺激と戦うことができます。
 森に住むことを学ぶのは智慧が成長し、発展することを可能にすることです。それから、どんな所であっても、この智慧を応用することができます。

 感覚が刺激されるとき、心は動揺し、感覚は敵対者になります。私たちが愚かであり、それらを扱う智慧を持っていないために、感覚は敵意を抱かせます。
 実際のところ、感覚は教師です、しかし無知のために、そうは見ません。

 都市に住んでいたときは、決して感覚が何かを教えてくれるとは思いませんでした。本当の智慧がまだあらわれない限り、感覚とその対象を敵として見続けます。本当の智慧が生まれた途端に、感覚はもう私たちの敵ではありません。洞察と明確な理解の入り口になります。

 良い例はここ、森にいる野生のニワトリです。彼らがどれだけ人を恐れているか知っています。しかし、私はここの森に住んでいたので、彼らに教え、同じように彼らから学ぶことができました。
 かつて私は餌になる米を投げ与えました。最初彼らはとても怯えていて、米の近くには来ませんでした。しかし、長い時間の後に慣れてきて、餌を待ち望むようにさえなりました。

 いいですか、ここに学ぶべきものがあります。彼らは始め、米は危険であり、敵であると思いました。実際には米は危険なものではありませんが、しかし彼らは米が食物であることを知らなかったので怖れたのです。
 彼らが最終的に、べつに恐れる必要はない事を知ったとき、彼らは来て、危険を感じることなく食べることができました。ニワトリは自然にこのようにして学びます。

 この森に住んで、私たちは同じような方法で学びます。以前は、感覚が問題であると考えました。そして感覚を適正に使うことにおいて無知のために、それらは大きな問題をもたらしました。
 しかし、修行の経験により、真実のとおりに感覚を見ることを学びます。ニワトリが米を利用したのと同じように、私たちは感覚を利用することを学びます。それで感覚はもう私たちを妨害するものではありません、そして問題が消滅します。

 私たちが悪く考え、調査し、理解する限り、感覚は私たちを妨害するでしょう。しかし適切に調査し始めるとすぐに、ニワトリが理解したのと同じように、経験したものは智慧と明確な理解をもたらすでしょう。
 このようにして、ニワトリが「ヴィパッサナー」を実践したと言うことができます。彼らは真実に従うことを知っています、それは彼らの洞察です。

 修行において、感覚は、適正に使われると、ダンマへの悟りを開かせる手段となります。これはすべての瞑想者が熟慮すべきことです。これがはっきり分からないとき、絶え間ない対立のままにおかれます。
 それで、森の静寂に住んでいるとき、微妙な感覚を成長させ、、智慧を育てる基礎を準備し続けます。ここで静かな森に住んで、少しばかりの心の平和を得たとしても、それで十分だと思わないでください。ただそれだけでよしとしないでください。智慧の種を耕して育成しなければならないことを思い起こしてください。

 智慧が成熟し、真実に従って理解し始めるとき、もはやあちこちに引きずられることがないでしょう。普通、愉快な気分のときは、そのように振る舞います。不愉快な気分のときは、また別のように振舞います。

 何かが好きだと、調子が良く、何かが嫌いだと、元気がありません。このようにして、いまだ敵と戦っています。これらのものが自分と対立しないとき、静まり、調和します。もう調子の良いとき、悪いとき、あるいは、最高、最低がありません。世俗世界におけるこれらのことを理解し、それがただあるがままであることを知ります。それはまさに「世俗世界のダンマ」です。

「世俗世界のダンマ」[6]は変化して「道」になります。[7]「世俗世界のダンマ」には八つのあり方があります。「道」には八つの要素があります。「世俗世界のダンマ」があればそこには必ず、「道」もあります。

 明晰さを持って生きるとき、この世界のすべて経験は「八つの道(八正道)」を実践することになります。明晰さがないとき、「世俗世界のダンマ」が支配し、「道」からそれてしまいます。正しい理解が起こるとき、苦しみからの解放はまさに目の前ににあります。他を見て走り回っても、解放は見いだせないでしょう。

 修行において急いだり、せきたてたり、突進したりしないでください。一歩一歩少しずつ進み、穏やかに瞑想してください。平和に関しては、あなたが平和になることを望むなら、それを受け入れてください。もし平和になりたくないのなら、同じくそれを受け入れてください。それは心の本性です。自身の修行を見いだして、根気強くそれを続けてください。

 多分智慧は起こるものではありません。私は修行において、智慧がなければ、自分に強いてそれを持つことができると考えたものでした。
 けれどもそれはうまくいきませんでした。物事は同じままでした。それから、よくよく思案した後に、自分が持っていないものについて熟慮することはできない、と言うことが分かりました。では何をするのが最も良いでしょう?
 まさに平静に修行することがもっとも良いのです。

 心配をもたらすものがないなら、直すものもありません。問題がないなら、解決することもありません。問題があるときが、まさにそこで解決しなくてはならない時です。
 何か特別なものを探す必要はありません。普通に生きればよいのです。しかし、心が何であるか知ってください。

 気付き(マインドフル)を持って生き、明瞭に理解してください。智慧を案内役にしてください。気分のままに生きないでください。注意深く 、油断のないようにしてください。何もなければ、結構なことです。何かが起こったら、調査して、それについて熟慮してください。


6、中心に来る

 クモを観察してみてください。クモはどこでも都合が良い場所に巣を張って、その中心で、静かにじっとしています。やがて、蝿がやってきて、巣の上にとまります。巣に触れ、揺れるや否や、「 ブーッ!」クモは飛びつき、糸で絡め取ります。クモは虫を蓄え、巣の中心に帰り、また静かに収集に戻ります。

 このようなクモを見ていると智慧を得ることができます。私たちの六つの感覚は、眼、耳、鼻、舌、身体とそれらに囲まれた中心に心を持っています。感覚の一つが刺激されるとき、例えば、色形と眼とが接触することにより、揺さ振られ、心に達します。
 心とは「知るもの」です、形を知ります。ただこれだけで智慧を起こすのに十分です。それほど単純です。

 クモのように巣の上で、私たちは自分を守って生きるべきです。虫が巣と接触するのを感じるとすぐに、クモは素早くつかんで、それを括り付けて、再び中心に戻ります。これは私たちの心とすこしも違いません。
「中心に来る」とは、明確な理解を持ち、常に油断なく、何事も正確にきっちりとし、気付き(マインドフル)を持って生きることを意味します。それが私たちの中心です。

 本当に私たちがすべきことは多くありません。私たちはこのように慎重に生きます。
 しかしそれは「座ったり、歩いたりの瞑想はする必要がない」と考え、修行をすべて忘れ、不注意に生きることではありません。私たちが不注意であるはずがありません。
 クモが餌の虫を捕らえるのを待つのと同じように、私たちは油断のないようにしなくてはなりません。

 これが知るべきことのすべてです 。 座って、クモについて熟慮します。ただそれだけで智慧は自然に起こります。心はクモに相当します、気分と心の印象はいろいろな虫に相当します。それがすべてです。
 感覚は心を覆って、いつも刺激します。何かと接触すると、すぐに心に達します。そして心は徹底的にそれを調査、吟味し、その後に中心に戻ります。注意深く、正確に行動し、いつも気付いていて、智慧を持って理解する。それが私たちの生き方です。ただこれだけで修行は完璧です。

 この点は非常に重要です。それは昼夜を通じて座禅の修行をしなければならないとか、1日中、一晩中歩く瞑想をしなければならないということではありません。それが修行に対する見解なら、本当に自分を困難にします。

 自分の力量とエネルギーに従い、肉体的能力の適切な量で可能なことをすべきです。心と他の感覚をよく知ることは非常に重要です。それらがどのように来て、去って行くか、それらがどのように生じて滅するかについて知ってください。徹底的にそれを理解してください。

 クモがいろいろな虫を罠にかけて捕まえるのと同じように、ダンマの言葉で、心は Anicca - Dukkha - Anatta (無常・苦・無我)で感覚を包みこむと言うことができます。
 ではそれらはどこへ行くでしょう?
 それらは食物として保存されます。滋養物としてしまっておかれます。[8]それで十分です。ただこれだけで、それ以上すべきことは何もありません。それは心のための滋養物、気付いて、理解している人の滋養物です。

 物事が無常で、苦しみと堅く結びついていて、自分自身ではないことを知っているなら、その後について行くはずがありません。このようにはっきり見えないなら、苦しまなくてはなりません。
 よく見てみると、これらに付いて行く価値があるように思われるけれども、本当はそうではなく、まったく無常であることが分かります。その本性が痛みと苦しみであるとき、どうして、欲しいと思うでしょうか?

 それは私たちのものではありません、自己がありません、私たちに属している何ものもありません。それでも、それらを探し求めるのはなぜですか?
すべての問題はまさにここで終わります。他のどこで終わらせるというのでしょうか?

 クモをよく見て、そして内に戻り、自らをふり返ってください。それらはまったく同じであることを理解するでしょう。心が Anicca ? Dukkha - Anatta(無常・苦・無我)を見たとき、手放し、自からも解かれます。もう苦しむことや、幸福に執着しません。これは修行して、真に自らを訓練する人のためにある心の滋養物です。

 それがすべてです。それほど単純なものです。どこへも探しに行く必要がありません。
 何をしていようと、あなたは、そこに在り、一切の大騒ぎや面倒の必要がありません。
 このように修行の勢いとエネルギーは継続的に成長し、成熟するでしょう。

7、脱出

 修行の勢いは生と死の輪廻からの解放に導きます。私たちがまだ輪廻から逃れられないのは、強く切望し、強く願うからです。私たちは不善な、不道徳な行為を犯しません。しかしそれはただ道徳のダンマ(法)に従って生きているにすぎません。例えば、生きとし生けるものが、愛するものや好ましいものから別れませんように、と唱えます。
 もしそう考えているなら、とても子供っぽいことです。それはまだ手放すことができない人々のすることです。

 それが人間の欲望の本性です。身の丈以上のことを願います。長寿を願い、病気や死がこないことを願います。そんな風に人々は望み、願います。もし、「満たされない願望はすべて、苦の原因である」と言ってやったら、頭は大打撃を受けます。
 それに対して何かを言うことができますか?何もないでしょう。それが真実なのですから。欲望をはっきり指摘したのです。

 欲望について話をすると、誰もがそれを持っていて、満たされることを望んでいます。しかし、誰も止めようとは思わず、そこから本当に逃れようとは思いません。それゆえに私たちの修行は根気よく、細心でなくてはなりません。

 逸れることなく、たるむことなく、穏やかで、自制力を持ち、不変の忍耐を持ち、着実に修行する人は、智を得ることができます。どんなことが起きようとも、堅固で、揺らぐことがないでしょう。

Bodhinyana(悟りの智慧)より





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