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見方から展望へ    ビク・ボディ



 ブッダの教えは、執着することの危険について、くり返し注意を促しています。すなわち、所有について、喜びについて、人々について、見方について執着するという危険です。ブッダが警告の言葉を発したのは、執着の中に苦の原因となる可能性を見たからでした。そして、苦からの解放という彼岸に到着するために支払わなくてはならない対価は、「あらゆる形の執着の放棄である」と忠告しています。

 一見すると、宗教的創設者としての一部を破壊するようにも見える仕方で、ブッダは彼の教えにさえ執着すべきではない、と語りました。川の向こう岸に人を運んだ、その時限りの筏(いかだ)を捨てるように、真理(ダンマ)における善なる原則でさえ、執着すべきではないと語りました。

 このように辛らつな忠告の言葉は誤解され易いし、誤解した結果は、それらを無視するよりもさらにいっそう苦いものになるでしょう。真理(ダンマ)への初心者が、(多少の経験者にとっても)陥りがちなある特別な誤解は、「すべての見方を越えていく」というブッダの助言を、「仏教の教義さえ最終的には根本的な重要性を持っていない」という意味に受け取ることです。なぜなら、これらの教義もまた単なる見方、知的な構成物、考えの細い糸にすぎず、ただ古代インドの宇宙観という環境では有意義であったかもしれないけれど、現代においては力を持たないものだから、というわけです。

 結局のところ、仏教経典の言葉や語句は、単なる言葉と語句にすぎないのではないか?
そして私たちは、本当に唯一重要なことである直接の経験に到達するために、言葉と語句の底にあるものをつかむように注意すべきではないだろうか?
そしてブッダは、私たち自身で物事を判断するようにと、そして自からの経験を私たちが受け入れるものを決定する基準にするようにと、カーラーマ・スッタで語ってはいないだろうか?・・・

 このような真理(ダンマ) への接近は口に甘く、そして消化しやすいものですが、精神組織にとって総合的に持つ効果にも気づく必要があります。往々にしてこれらのあてにならない推論は、微妙な心の段階において、基本的に真理(ダンマ) と対立する考えに固執するための、都合の良い弁解を提供しているだけなのです。私たちは、それらが本当に啓発的であるからではなく、ブッダの言葉が直面させる根源的な挑戦から自らを防衛するために、このような考えを保持します。

 結果においてこのような主張は明らかに、生きた経験を退屈な知識主義の侵害から保護することを目的としてはいますが、実際には私たちが抱いている「思い」について点検することを拒否するための、巧妙で知的な策略であるでしょう。私たちは、根深い欲望をかばうために、何よりも大切にしている「思い」を、真理(ダンマ) という叱咤激励の影響にさらすことを望みません。

 私たちがブッダの教えに近づく時、教義の膨大な数々は哲学的な手品のための巧みな実習法として考えられたのではないことを、心に留めるべきです。それらは正見を構成するために提案されました。そして正見は、「智慧の光が私たちの心から輝きだすのを妨げる、邪見や混乱した考えを断つための刃先」として、聖なる八正道の先頭に立ちます。

 現代の世界では、古代のガンジス流域よりはるかに広い範囲おいて邪見が流布し、かつて想像しえた初期の時代に較べ、より有害な形になっていると思われます。今日の世界は、もう少数の風変わりな哲学者とその一派たちの一地方ではありません。邪見はむしろ、文化における、そして社会的態度における主要な決定要因になり、時代の道徳的な精神の形成者、経済的帝国や国際関係の影の推進力になりました。

 このような状況下で、正見は暗闇の中の灯火、砂漠の中の羅針盤、洪水における川の中州のようなものです。正見による明確な真実の理解なくしては、そしてこれらの真理が通俗的な意見と衝突する場における鋭い気づきなくしては、暗闇の中でつまずいたり、砂丘の間で立ち往生したり、大洪水に遭い自分の居場所から押し流されることが容易に起こります。

 正見と邪見は共にその性格において認識を司るものでありますが、純粋な認識空間に固定されたままではありません。私たちの見方は人生のすべての領域において、きわめて力ある影響を及ぼします。そしてブッダは、正見と邪見とをそれぞれ「人生における善と悪の道」の始まりに置いたとき、その天才によってこのことを認識していました。

 見方が働くとき多様な段階において、人生の実用的な要素を組み合わせます。見方は私たちの価値観を決定し、目的と熱望を産み出します。見方は道徳的に難しい板ばさみの状況で、私たちの選択を指導します。

 間違った見方は間違った意図を生み、行為における間違った方法を助長し、「人をあざむくような種類の自由」を追求することへと私たちを導きます。そして一時的な満足と有害な刺激を求めて、道徳的な抑制の放棄を正当化する、「許可の自由」に向かって私たちを引きずります。

 私たちは自発的であること、創造的であることを誇りにしているかもしれません。また、本当の個性を見いだしたことを確信しているかもしれません。しかし、開けた視界を持っている人は、こういった自由は単に、「欲望と迷妄という鎖にいっそう微妙なところで束縛されるに過ぎない」ことを理解するでしょう。

 正見はその基本的な形において、「カルマにおける道徳的な法則の認識や、私たちの行いが結果となって現れる可能性の認識」として、真実の自由へ向かうための良き案内になります。

 正見が成熟し、四聖諦、縁起、存在の三つのあり方(無常・苦・無我)を正確に把握できるようになると、最終的解放に向けて山を登る私たちの案内人になります。それは私たちを正思惟に、徳の行いに、精神の清浄化に導き、雲ひとつない開けた眺望を持つ山頂へと導くでしょう。私たちは、自信を持って自らの足で立つために、最終的に案内を手放すことを学ばなくてはならないのですが、「明敏な目と、進んで事にあたろうとする技量」なくしては、頂上が分らずただ山麓の丘をあてもなくさまようだけでしょう。

 正見の達成はただ、神秘的なパーリ語という印象的な言葉を扱う技術や、教義上の決まり文句が載った特別な記録帳に賛同するという問題だけではありません。正見の達成はその中心において本質的に理解の問題です。すなわち、深く個人的な方法で、私たちの生が負っている、存在の重要な真実を理解することです。

 正見は、大きな展望図を目標とします。それは物事の全体的な構成において、私達の位置付けを理解します。そして、人生をより良き方向か、あるいはさらに悪い方向へと展開させる法則を見出すよう努めます。

 正見の基礎はブッダの完全な悟りにあります。私たちの、見方を改めようとする努力は、自らの存在の本性に対する理解と、ブッダの悟りに対する理解とを結び付けようとする努力に他なりません。  

 正見は、考え方と提案された知識から始まるかもしれませんが、それだけでは終わりません。学習と、深い内省と、瞑想の成長を通してそれは次第に、始源の無い心の束縛を、ばらばらに断ち切ることができる「洞察の智慧」に変えていきます。




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