ホームへ



賢者との交友   ビク・ボディ



 吉祥経(こよなき幸せについての法話)は、仏教の経典の中でも最も人気のあるものの一つで、パーリ語による信仰的なお経の標準的な種目になっています。 お経は次のように始まります。「ある静かな夜、目の覚めるように美しい天神が地上に降り立ち、ジェータ林におられた世尊に近づき、こよなき幸せへの道につ いて尋ねました」。

 まさに始まりの詩節の中でブッダは、「愚か者を避け、賢者と交際すること。これがこよなき幸せである」(asevana ca balanam, panditanan ca sevana)と語っています。後に続く詩では、世間的な、そして精神的な両方の、人間の至福に関する様々な異なることがらについて説かれています。冒頭に ある、「賢者との交際」という始まりの詩節が重要な鍵として強調されています。すなわち、「真理(ダンマ)の道における成長は、交友関係の正しい選択にか かっている」のです。

 人間の心は、生物としてのあり方と、子供の頃の体験によって形成され、性格は変えることができないという例の心理学の理論とは反対に、心は密封され、封 印されてしまった部屋ではありません。むしろ、心は人生を通じ社会的な相互作用に応えて、絶えず自身を作り直す順応性を持っています。個人的な人間関係は 固定され、性格は変えることができないということでは決してなく、心理的な経験が絶え間なく起こり、その過程が私たちに、成長と変化の貴重な機会を作りま す。

 活動する細胞が、その仲間達と化学的な対話(やり取り)をするように、私たちの心は規則的に膨大な量の伝言や提案を伝達したり、受け取ったりしていま す。それは、気づきにまで至らない段階であっても深い変化をもたらします。特に精神的な成長にとって重要なのは、私たちの友人、同行者の選択です。それ は、私たちの個人的生き方において、決定的な影響力を持ちます。

 私たちの心は、いかに同行者の影響を受けやすいかを知っていたので、ブッダは繰り返し、「精神生活における善き友人(kalyanamitta)の価値 について」強調しました。ブッダは語っています。「人に不善な質を生じさせることにおいて、悪しき友人関係よりも責任あるものはない。人に善なる質を生じ させることにおいて、善き友人関係よりも助けになるものはない」。

 またブッダは、「このように大きな害をもたらすものとして、悪しき友人関係以外の外的原因を知らない。このように大きな利益をもたらすものとして、善き 友人関係以外の外的要因を知らない」、「弟子が聖なる八正道に導かれ、すべての苦から解放されるのは、善き友人達の影響によってである」と語っています。

 ブッダが言う「善き友人関係」とは、受容的な友や、関心を共有する友と交際すると言う以上のものを意味します。実際には、案内や指導を得られる、賢い同 行者を見出すということです。聖なる友人の仕事は、道を歩むことにおいて同行者であるということだけではありません。真に賢く同情的な友とは、「智慧があ り、心よりの共感を持ってその人の欠点を指摘し、批評、忠告する用意があり、勧告し、勇気付けること。そして、こういった友人関係の最終目的は、真理(ダ ンマ)における心の成長であるということを知っている人である」。

 ブッダは、ある弟子に対する、善友についての適切な答えとして、ダンマパダの詩なかで簡潔に表現しています。「自分の欠点を指摘し批判してくれる人を見つけたら、そのような賢い、明敏な相談役に対し、隠された宝への案内人として従うべきである」と。

 賢者との交友は、精神的な成長において大変重要なことです。聖なる心を持った相談役の例え話や忠告は私たちの心にある、まだ利用されていない可能性を目 覚めさせ、育てる上で往々にして決定的な要因になります。耕されていない心は自己本位、利己主義と攻撃性の深さから、賢明さ、自己犠牲や他者の苦への共感 の高さまで揺れ動き、未開発の多様で大きな可能性を持っています。

 私たちの直面する仕事とは、不善な傾向を点検し真理(ダンマ)に従うものとしての悟り、解放、そして清浄へと導く資質である、善の傾向の生育を維持する ことです。しかし私たちの内なる傾向は成熟しておらず、空虚なものに傾きがちです。それは、広範な環境の絶えざる影響を受けます。その影響の中で最も力が あるのは、私たちが師として、助言者として、友として尊敬する同行者です。それらの人々は、私たちの存在の隠れた可能性に静かに語りかけます。私たちの可 能性は、彼らの影響によって開花するか、萎むかのどちらかでしょう。

 真理の道の追求においては、それゆえ、実践を通じ私たちが内面化しようとしている、聖なる資質を少なくとも部分的にであれ、体現している人を案内人とし て、同行者として選ぶことが重要になってきます。これは、精神的発展の初期の段階においては特に必要です。私たちの徳に対する熱意が未だ新鮮であり、成熟 していない時、内部の優柔不断さや、考えの違う知人たちによって勇気をくじかれ、心が掘り崩されるという脆さを持っているからです。

 このような初期の段階において私たちの心は、その背景に従って色を変えるカメレオンに似ています。この注目すべきトカゲの仲間が、草の中にいるときには 緑色に、土の上では茶色に変化するように、私たちも愚か者と共にある時には愚か者に、そして聖者と共にある時には聖者に変化します。
 内的な変化というのは、一般的に急激には起こりません。ゆっくりと、ほんの少しずつしか増えて行かないので、自分たちでもその変化に気づきません。私たちの性質は最後になって劇的であり、重大なものであると分かるような変容を体験します。

 感覚への喜びや、権力や富や名声を追いかけることに中毒になっている人と親しく交際すれば、私たちがこれらの中毒から免かれると考えるのは難しいでしょ う。やがて、私たちの心は徐々に彼らと同じ方向に傾いて行くでしょう。道徳的な向こう見ずを変えようとしない人と親しく交際し、生活の仕方をやりやすいよ うに、世俗的な日常に合わせて生きているような人と交際すれば、私たちもまた、平凡さという轍(わだち)の中にはまり込んでしまうでしょう。

 もし私たちが最上の高みを熱望するなら、また、卓越した智慧と解放の頂きを求めるなら、最高の高さを体現するする人々との交際関係を持たなければなりま せん。もし、不幸にして、最高の人を同行者として見出せなくても、理想を分かち合う友や、その心にダンマにおける聖なる質を育てようと努力している数少な い友人と出合うことができれば、私たちは自らを祝福することができます。

 いかにして善き友を見分けることができるのか、いかにして良い助言と悪い助言を区別できるのか、という疑問が起こった時ブッダは水晶のように明晰に答え ています。「満月の夜の説法」において、ブッダは悪しき人との交際と、善き人との交際の違いについて説いています。

「悪しき人は、友人や同行者として次のような人を選びます。信頼のない人。行いにおいて恥を知らず、怖れを知らない人。精神的な教えに関する理解をもたな い人。怠け者で気づきのない人。智慧の欠けている人」。ブッダの忠告にもあるように,これらの悪しき友人を選んでしまった結果として、悪しき人は、自らを 害することを計画し、行い、他者を害することを計画し、行い、自他を害することを計画し、行い、悲しみと苦しみに出合います。

 ブッダは続けます。「それと対照的に、善き人は、ダンマを良く学び、心を耕すことに努め、気づきがあり、智慧を備えている人を友に選びます。そのような 善友の力を借りることにより、助言者として、案内人として、善き人は、これら善友と同じ資質を自らの理想とし、追い求め、自らの性質の中に吸収します。こ のようにして自らの解放に近づくことにより善き人は、今度は自分が他人にとっての灯台となります。そのような人は、未だに暗闇の中をあてもなくさ迷ってい る人を鼓舞し、見習うべき模範となることができます。そして今度は、自分が助言や案内をする番になります」。



ホームへ