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十二縁起    ビク・ボディ



 仏陀は、「縁起を見る者はダンマを見る。ダンマを見る者は縁起を見る」と述べています。ダンマとは仏陀が見出した真理です。仏陀は説法の中で、自らが悟った深い真理と縁起とを明らかに同じものと見ています。また、解脱の探求について説明する中で、「解脱の直前、座って瞑想していたときに、苦の根本原因を探し、条件のつながりを追究し始めた。その探求により、縁起を発見した」と述べています。ですからある意味、縁起の発見は解脱の成就そのものに等しいと言うことができます。

 縁起は、真理としても、その現れ方においても深遠であると、仏陀は語ります。衆生は、縁起の真理を理解せず見抜けないために、もつれた糸球やイグサのようにからまり、いたましい生存状態を超えることが出来ず、生存の循環である輪廻(サンサーラ)から逃れることができません。このように、縁起とは解脱の内容であり哲学的教義であるだけでなく、苦からの解放を得るために理解すべき真理でもあります。縁起はダンマ(理法)を知的に理解する鍵であるのみならず、解脱に到るための鍵でもあります。

条件依存の法則(conditionality)

 縁起の教えには二つの面があります。一つ目は抽象的原理、あるいは構造原理と言っても良いでしょう。二つ目はその原理を苦の問題へ適用することです。縁起は、あらゆる過程とすべての現象の基礎となります。それは、構造原理として抽象的な形で存在する、最も基本的な法則です。この法則には始まりがなく、終わりもありません。すべての現象の基礎となるこの構造原理が、条件依存の法則です。それは、「生じるものはすべて条件に縁(よ)って生じ、存在するものはすべて条件に縁って存在する」という法則です。そして、適切な条件の支えがなければ、与えられた現象は存在し続けることが出来ません。

 このことは次の公式によって示されます。
「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これが無いとき、かれが無い。これが滅するとき、かれが滅する」

 この文の前半、肯定的な部分では、条件によって現象が生まれることを説明しています。後半では、条件によって現象が消滅することを説明しています。
 どんな要因でも、存在するようになるためには、そのための条件Aが存在するか機能していなければなりません。つまり、現象Bは条件Aに縁(よ)って起こります。たとえば、りんごの木はりんごの種に縁って存在しています。りんごの種が存在すれば、りんごの木は存在することができます。りんごの種が生じることで、そのりんごの木も生じることができます。

 Bが生じるための条件であるAが存在しなければ、現象Bは存在しません。Aに縁ることでBは存在しています。ですから、Aが存在しなくなるとBは生じなくなり、Aが滅すればBも滅します。
 りんごの木に戻ると、りんごの種が存在しなければ、りんごの木は存在しません。その種を潰してしまえばそこからりんごの木が育つということはありません。なぜなら、木はその種に縁っているからです。

宇宙最初の原因

 この条件依存の法則は存在するすべての現象を包み込む法則です。一粒の塵から世界的なシステムまで、一瞬の思考から大帝国全体まで、組み立てられたもの、合成されたものすべては、適切な条件がそろったときにだけ生じます。もし条件が存在しなければ現象も存在しません。
 この条件依存の法則は仏陀が創り出したものではありません。常に機能している法則です。仏陀は、覚者が現れても現れなくてもこの法則は存在し続ける、と語っています。

 条件依存の法則とは、条件や事象が蜘蛛の巣の糸ように繋がった、複雑で相互に関係するネットワークのようなものだと仏教では考えます。条件や事象とは直線上の点ではなく、ネットワーク上の結節点のようなものです。仏教の条件依存の考え方では、一つの原因から生じる現象はありません。

 いかなる現象であれ、生じるためには多くの条件がなければなりません。中心的な多くの要因が機能的にまとまって一緒に働かなければなりません。さらに、これら多くの条件によって生じた現象はいずれも、それ自体が他の多くの現象を生じさせる条件としての役割を果たします。このように、個々の原因となる要因は、一つの結果ではなく多くの結果を作ります。

 たとえば、りんごの木は種だけから生じるわけではありません。確かに種は最も主要な条件です。しかし他にも、土、水、日光、肥料などが必要です。木に成長すると、今度は多くのものの原因となります。多くのりんごの実がなり、それぞれのりんごの実には多くの種があり、それぞれの種は別のりんごの木の原因となり、その別の木はまた多くのりんごを生み出します。

 ですから、この複雑に連鎖する事象の網目全体には最初の原因というものがありません。これは仏教の条件依存の考え方と西洋の思考法の大きな違いです。通常、西洋人は因果の連鎖には最初の原因があるはずだと考えますが、仏教では出発点となるような始まりは存在しません。考えられるような始まりもなく、境界や限界もなく、原因と条件が連鎖し続けているのです。

存在の車輪におけるスポーク

 仏陀は縁起を単なる理論として説いたのではありません。縁起がダンマの目的である苦からの解放にとって中核となるからです。そして仏陀はこの輪廻(サンサーラ)の起点を見つけることは出来ないと言っています。どれほど時を遡っても、更に遡れる可能性が必ず出てきます。ただし、輪廻が時間的に明確な起点を持たないとはいっても、明確な因果構造は存在します。
 この因果構造は厳密にいくつかの条件の集まりによって支えられ、動き続けています。仏陀
はこの条件を「十二の要因」(十二縁起)で示しました。そして、これらの要因は縁起という教えの実践的な側面を作り上げています。

「十二の要因」とは、次にあげるものです。

無明・意志的な形成作用・意識・精神と物質・六つの感覚器官・接触・感受・渇愛・執着・生存・誕生・老死

 これら十二の要因は存在の車輪におけるスポークで、そのすべてを私たち自身の中に見ることが出来ます。輪廻の中を繰り返し流転し、様々な苦と出会うのは、これらの要因に縁っています。これらの要因のことを知らないために、束縛の中に捕われ続けます。この真理、すなわち縁起の真理を見出すことによって、繰り返される生と死のプロセスを止めることができるようになります。

これが苦の生起である

 仏陀はこのように指摘しました。[*訳註( )内は伝統的な訳語]

無明に縁って意志的な形成作用(行)が起こる。
意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が起こる。
意識(識)に縁って精神と物質(名色)が起こる。
精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が起こる。
六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が起こる。
接触(触)に縁って感受(受)が起こる。
感受(受)に縁って渇愛(愛)が起こる。
渇愛(愛)に縁って執着(取)が起こる。
執着(取)に縁って存在(有)が起こる。
存在(有)に縁って誕生(生)が起こる。
誕生(生)に縁って老、死、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望が起こる。
すべての苦はこのようにして起こるのである。

現世は過去世の結果

 この「十二の要因」の働きを分かりやすくするために、仏陀はこれらの要因が過去・現在・未来の三世に配分されると説明しています。十二の要因は、連続するどんな三世にも当てはめることができます。
 仮に、「意識」から「生存」(三番目から十番目)までの要因を現世に当てはめたとすると、最初の二つの要因は過去世、つまり直前の生に相当し、最後の二つの要因である生と老死は来世、すなわち未来の存在を表します。

 この区分は十二の要因の働きを分かりやすく説明するための単なる便宜的な手段としてなされたものです。これを文字通り受け取って、「無明と〔意志的な形成作用(行)〕は過去にだけ起こるもので、現在には起こらない」と思ったり、「生と死は未来にしか起こらない」と思ったりしてはいけません。後で説明しますが、十二の要因は互いに連動しているので、十二の要因すべてを実際に各世で見出すことが出来ます。

 では、現在生きている現世から説明を始めましょう。現世は三番目の要素である「意識(識)」から始まります。人生は意識を基本的な要因とする経験の流れです。生命は受胎時、意識発生の瞬間とともに始まり、意識は死の瞬間まで、生きている間ずっと続きます。

 すると、疑問が浮かびます。
どのような条件によって私たちはこの現世に生まれたのでしょうか?
意識はどこから生じるのでしょうか?
私たちはどこから来たのでしょうか?
生まれたのは単なる偶然なのでしょうか?
それは創造主である神の意思によってなのでしょうか?

 こうしたことは十二縁起の教えによって明らかになります。現世は過去世の結果であると仏陀は説明しています。過去世における「無明」と「意志的な形成作用(行)」のために、私たちは生まれました。その後、現世においては、渇愛(愛)と執着(取)によって、また行為、即ちカルマによって、将来に新たな生を生じさせる力が動き始めます。そして、老いと死に続いて新たな誕生が起こります。このようにして、生成のプロセスが何回となく繰り返されます。

悟りにおける驚くべき発見 

 この輪廻のプロセスをいつまでも繰り返す必要はありません。繰り返し続けるかどうかは、その根元にあるたった一つの原因が鍵を握っています。その原因とは無明です。仏陀の悟りにおける最も驚くべき発見は、その無明を根こそぎにできるということです。現象の本質を正しく認識し理解すること、すなわち現象を実際あるがままに捉える認識を、生み出すことができます。この智慧による認識を呼び起こすことによって、無明は根絶することができます。

 無明の消滅によって、意志的な形成作用(行)はもう生じません。そして意識(識)が消滅します。意識(識)の消滅によって精神と物質(名色)は存在しなくなり、精神と物質(名色)の消滅によって、六つの感覚器官(六処)、接触(触)、感受(受)はもう存在しなくなります。感受(受)がなければ、渇愛(愛)と執着(取)は存在せず、カルマの蓄積もなく、誕生(生)もありません。誕生(生)がなくなるので、老と死はもう存在しません。つまり、苦の消滅ということです。

 縁起の理論の実践 

 さてこの教えの実践について考えてみましょう。すでに見たように、最も重要な点は感受と渇愛をつなぐ連鎖にあります。それは、仏陀が四聖諦の中で苦の起源として渇愛を選び出した理由です。ですから私たちが自らの実践の中でしなければならないことは、感受が渇愛を引き起こすのを防ぐことです。

 生じてくる感覚に注意深くし、はっきりと気づかなくてはなりません。感受を喜ばず、しがみつかず、執着しないことです。もし楽の感受が生じた時に気付きを欠いているならば、渇愛が生まれる結果となります。対象を楽しみ、それに執着するようになり、与えてくれる楽しみをもっと望むようになります。

 しかし気付きがあり、「楽の感受が生じた」と知るようになれば、それに屈服せず、気付いて立ち止まることができます。智慧をもって見ることで、その感受を、「無常、苦、無我」として理解します。こうすることによって感受から渇愛が生まれるのを防ぎます。智慧をみがき続けるにつれ、根本にある無知を断つまで、智慧はより鋭くより深く成長します。智慧は無知の積み重なりを一つ一つ断ってゆき、すべての無知が削除された時に、苦からの解放が達成されます。

 無明―avijja

 仏陀は無明(avijja)をもって要因の連鎖を説き始めました。過去世において心は根本にある無明により、ものごとがよく見えません。無明は、いつから始まったのかを見つけることはできません。過去世をどこまで遡っても、心はいつも無明によって、ものごとがよく見えていなかったことが分かります。

 無明とは何でしょうか。仏陀は無明を、「四聖諦を知らず、理解しないこと」として定義しています。四聖諦とは「苦、苦の原因、苦の消滅、苦の消滅に至る道」という真理です。無明とはこれら四聖諦について単にその考え方を理解していないというだけではなく、十分な深さと広さにおいて理解していない精神的な無知のことを指します。

 いつから始まるとも知れぬ遥か昔から、無知によって物事を「永遠で、楽しく、魅力があり、私自身である」として見るようになり、「無常、苦、無我」という真実の性質を見ることができません。
 この無明から貪欲、嫌悪、慢、間違った見解、嫉妬、わがままなど、すべての煩悩が出て来ます。「無明は、それ自体他に原因を持たないような、物事の最初の原因ではない」と強調すべきです。無明もまた条件によって生じます。心の要素(心所)として、無明は生き物たちの心と身体に依存しています。無明は条件によって生じますが、最も根本的な条件なのです。

 それゆえに、仏陀は説明のための最初の要因として無明を取り上げました。完全な解脱に至るまで無明は心を支配し、行為に導き、その行為が将来また新たな誕生を引き起こします。こうして、最初の二つの要因をつなぐ第一の縁起に至ります。「無明を縁として意志的な形成作用(行)が起こる」です。

 意志的な形成作用(行)―Sankhara

 精神の無知である無明により、行動に携わり、意志を活動させます。サンカーラ(Sankhara:行)は「形成する、建設する、創造する、組み立てる」ことを意味し、ここでは特に心的な形成作用のことを言います。サンカーラという要因はカルマ(業)と同じものです。カルマは「意志的な形成作用」や「意志的な行為」を意味し、それは身体や言葉によって外の世界へ表現されます。

 無明の心から生まれる意志的な行為は、いつも心の中にその跡を残します。つまり、それが熟し、将来に実を結ぶ力を持った形成作用を残します。それは潜在力のある種子、つまり将来に発芽し結果を生む力のある種子として心にまかれます。
 縁起の中で、意志的な形成作用(行)の最も重要なところは、将来に新しい存在を発生させる力、つまり再生をもたらす力です。この意志的な形成作用はそれが善なる意志作用か不善なる意志作用かにより、善い再生か悪い再生をもたらします。こうして次の連鎖へやってきます。「意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる」です。

 意識(識)―Vinnana

 もし、意志的な形成作用(サンカーラ)が心に蓄積され、無明がまだ存在するならば、死が起きた時、引き続き新しい意識の瞬間が生じるでしょう。これは新しい生の、最初の意識の瞬間です。仏教徒の見解によると、意識は「永続性のあるひとつの実体、あるいは自我や不変に続く魂」とは見なされません。
 意識とはむしろ「意識の出現の連なり」であり、海の波のように生じては滅して行くものです。死が起きた時、この生涯で最後の意識が出現し、そして滅します。しかし、無明と意志的形成作用(行)によって、最後の意識の出現(死心)から新しい意識の出現が生まれます。それは母の子宮の中で生まれ、未受精卵と結びつき、新しい生存が始まります。

 妊娠と同時に起こる最初の意識の出現は「Patisandhicitta」、すなわち「再結合する意識(再生識)」と呼ばれています。それは現世と過去世とを、つまり新しい存在とすべての過去とを結びつけているからです。再生の意識が生じると、それは短い瞬間続き、そして滅します。しかし、再生の意識のあと即座に、同じ基本的な形をもつ意識が、全生涯を通じて一連の心的活動として流れ始めます。それは心のすべての活動状態の基礎にあって、死までずっと続く意識の受動的な流れとなります。この受動的な意識の流れはbhavanga(ババンガ:有分心)、「存在の流れ」と呼ばれています。

 精神と物質(名色)―Nama-Rupa

「意識(識)に縁って精神と物質(名色)が起こる」
「精神と物質」は心と身体からなる生命のための用語です。再生の意識が妊娠と同時に生じる時、それは単独では発生しません。心と身体からなる生命の全体とかかわって生じ、その生き物もまた妊娠と同時に現れます。生命は五つの集まり(五蘊)からなります。つまり、形態である物質的要素(色)と、感受(受)、知覚(想)、心的形成作用(行)、意識(識)の四つの心的要素です。

 人間の再生の場合には、物質的要素、つまり形態とは、新しく生まれる生命の身体、つまり1つの受精卵です。一方心的要素の方は、その再生の意識の他に、感受、知覚、心的形成作用の三つの要素があります。これらの五つの集まりは互いに依存しながら死までずっと存続します。

 六つの感覚器官(六処)―Salayatana

「精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が起こる」
 心と身体からなる生命が成長し発展するにつれて、五つの身体の感覚器官が生じます。つまり眼、耳、鼻、舌、身です。心的器官、つまり思考の器官もあります。それは他の感覚の情報を調整し、思考、イメージ、概念など心独自の対象も認識します。

 六つの感覚器官は世界についての情報を集めるための手段という役割を持ちます。各々の器官はそれぞれにふさわしい種類の感覚情報を受け取ります。眼は形を、耳は音を、鼻は臭いを受け取る、といった具合です。このようにして次の連鎖に到ります。

 接触(触)―Phassa

「六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が起こる」
 接触は、たとえば眼識が眼を通して形に接触するように、感覚器官を通して感覚の対象と意識が一緒に現れることを意味します。

 感受(受)―Vedana

「接触(触)に縁って感受(受)が起こる」
 感受は、心がその対象を経験する時の「感覚の音色」です。感受が生じる時に係わる器官によって、六種類の感受に分けられます。たとえば、眼の接触から生まれた感受や耳の接触から生まれた感受などです。またその「感覚の質」によって、感受は「楽、苦、中立(不苦不楽)」の三つの型に分けられます。過去のカルマ(業)はこれらの感受を通して働き、その結果としての実を結びます。

 渇愛(愛)―Tanha

「感受(受)に縁って渇愛(愛)が起こる」
 この連鎖において、生存の車輪の動きの中で重要な一歩が踏み出されます。これまで述べてきた要素――意識、精神と物質、六つの感覚器官、接触、感受――はすべて過去のカルマ(業)の結果を表します。それらは、過去からのカルマ、意志的な形成作用によるカルマの成熟によって生じます。

 しかし今や渇愛の発生によって、経験は過去のものから今現在働き始めた原因へと移ってきました。この原因によって、将来新しい存在が生み出されることになります。楽の感受を経験すれば、それに執着するようになります。感受を楽しみ、喜び、それがずっと存続することを切望します。このようにして渇愛が生まれます。苦の感受を経験すれば、それによって嫌悪を催し、その源を根こそぎにしたいという欲望、あるいはそこから逃げたいという欲望が生まれます。

 しかし、必ずしも型どおり感受から渇愛へと至るより他ないというわけではありません。ここは非常に重要な点で、感受と渇愛の間には、存在の循環を終わらせる戦いの場になりうる空間、隙間があります。この戦いによって、束縛が将来にわたり無期限に続くか、あるいはそれが悟りと解脱に取って代わられるかが決まります。
 というのは、もし渇愛に従う代わりに、注意深く気付くことによって感受を観察し、それをあるがままに理解するならば、渇愛が生じて将来に新しい存在を生み出すのを防ぐことができるからです。

 執着(取)―Upadana

「渇愛(愛)に縁って執着(取)が起こる」
 では次の動きを見てみましょう。執着は渇愛の強化されたもので、四つの型があります。

 (a)感覚の喜びに対する執着
 (b)見解、理論、信念に対する執着
 (c)しきたり、規則、儀式に対する執着
 (d)五つの集まり(五蘊)を自己と見る観念に対する執着

 渇愛と執着の違いは次の例えによって説明されます。「渇愛とは泥棒が盗もうとして、対象をつかむために手を伸ばしているようなものであり、執着とはその対象をつかんで自分の物にしているようなものである」

 存在(有)―Bhava

「執着(取)に縁って存在(有)が起こる」
 Bhavaは存在におけるカルマ(業)の蓄積という側面です。つまり、行動してカルマを蓄積し、さらに意志的な形成作用(行)を発生させ、それを強め、意識の流れの中に蓄積していく、そうした人生の側面のことです。これらのカルマが蓄積されると、死の後に新しい存在がもたらされます。

 誕生と老死―Jara,marana

「誕生に縁って老、死が起こる」
 未来において生を受けることにより、老と死、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望という避けられない対価を支払うことになります。

 



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